三章:贄の叫びと、黒い影

3-01


  *


 瑞池に来て三日目の空は曇天であった。細かな霧雨が降っているのも集落のいつもの光景だ。音も無く降る雨が朝の陽をぼやかして、風景の彩度と明度を落としている。


 カナメが目を覚ました頃にはもう、シズクと安田さんは布団には居なかった。起き出して洗面所に向かい冷えた水で顔を洗う。物音が聞こえ近くの炊事場を覗くと、シズクが朝食の準備をしている所だった。床では安田さんが何やら木の皿に顔を突っ込んでいる。


「おはようございます、シズクさん。それに安田さんも」


 声を掛けるとシズクが振り返り、笑顔で頭を下げた。安田さんも食べかすだらけの顔を上げぺこりと礼をする。


「カナメ様、おはようございます。朝御飯は準備にもう少し掛かりますので、お部屋でお待ち下さいませ」


 漂って来る良い匂いに促され、客間へと戻り水を一杯、そして煙草に火を点ける。ゆっくりと吸い込むと、カナメはふう、と大きく紫煙を吐き出した。


 正直に言うならば、あまり深く眠れてはいない。それでも怠さを感じないのは、寝の浅さを睡眠時間の長さで補っているからであろう。安田さんを挟んでいるとは言えど、シズクと同じ布団で寝ていると思うとどうしても悶々とする気持ちがあったのは確かだ。


 寝入りばなに見たシズキとシズクの夢も意味深長で、これからのシズクとの関りをどうするべきか、とつい紫煙を目で追う。


 はたと気付き、短くなった煙草を灰皿で揉み消す。いかんな、と気持ちを切り替える。此処へは調査の為に訪れているのだ。今日もやるべき事は山積みで、ゆっくりと色恋に心を悩ませる暇など無いに等しい。


 身支度を整えているとシズクから声が掛かる。卓に並べられた朝食はやはり美味しそうで、カナメはつい口許が緩むのを自覚する。台所で食事を終えて来たらしき安田さんも一緒だ。安田さんは満腹のようで、重そうな腹を抱えストーブの前の特等席で丸まった。


 いただきます、と手を合わせ箸を取る。大豆とじゃこを甘辛く炒ったもの、大根葉の胡麻和え、里芋を煮てすだちを利かせたもの、そしてわかめと豆腐の汁にぬか漬けの胡瓜。申し分の無い朝げに舌鼓を打つ。


「今日はどうされますか? 誰か集落の者に話を聞くのならば、連絡を取っておきますけれど」


 シズクが急須から茶を注ぎながら問う。カナメは味噌汁を啜り、そして箸を少し停めて思案する。


「集落の纏め役だという人に話を伺いたいのですが、やはり昼間は忙しいのですかね」


「井戸さんですか。旦那さんは役場勤めで外に働きに出ていますが、お爺さんの日出男さんならいつも家にいらっしゃると思いますよ、あの方は足がお悪いので」


「それなら後で伺うとしましょう。それから、道子さんの夫……波木光雄さんでしたか、それと水間達夫さんにも会ってみたいのですが」


「水間、というと明恵さんの事ですね。そうですね……お二人とも今は柿の収穫をしている筈ですので、柿畑に行けば捕まえられるかと。何ならお昼時でしたら家に戻っていると思いますが」


「食事時に伺うのも迷惑でしょうし、柿畑に行ってみる事にします。ああそうだ、沢田さんにお話を聞くのならばやはり、お昼の仕事が一段落付いた頃が宜しいですかね?」


 カナメは言葉を吐き出してから里芋を頬張る。薄味の出汁で炊いた芋に、すだちを絞り皮を擦り下ろして漬けた物のようだ。爽やかな香りと仄かな酸味、そして風味のある苦みが出汁の味を引き立てている。


「確かにお昼の片づけを終えた時間が一番余裕がありますので、その頃が良いと思います」


「清水さんもそう言ってました。では沢田さんが来られたら、そう伝えておいて貰えますか」


「分かりました。ではそのように」


「自分はまずは柿畑に行ってみる事にします。その後集落を少し散策してみようかと。遅くともお昼までには帰ります」


 話しながらゆっくりと朝食を堪能し、カナメは茶を啜る。卓を片付け始めたシズクが不意に手を停め、窺うようにカナメを見上げた。


「あの、カナメ様。その、私が付いて行かなくても大丈夫ですか? 迷う事は無いとは思いますけれど……」


 その瞳には僅かな寂しさが見て取れた。カナメはそれに気付かぬ振りをして、軽く頷く。


「ご心配無く。仕事柄、こういった事には慣れているつもりです。それにちゃんと此処に帰って来ますので」


「そう、ですか。……そう、ですよね」


 カナメの返答に、少し目許を緩めてシズクが笑んだ。その儚げな表情に、穏やかだったカナメの鼓動が微かに乱れる。


 失礼します、と食器の盆を持って出て行くシズクの背を見送り、カナメはまた煙草を取り出した。相変わらず安田さんはストーブの前で丸まっている。煙草に火を点けて紫煙を吐き、その行方を追って天井を眺める。


 不器用な自分に少しだけ苛立ちを覚え、また煙草を深く吸い込む。とぐろを巻いた煙はゆっくりと、天井を漂いそして薄れていくのだった。


   *


「行ってらっしゃいませ、お気を付けて」


 門の前でシズクに見送られ、カナメは静宮邸を後にする。曇天の上に風も吹いている所為か今日は寒く、カナメはいつものスーツと帽子に加えてインヴァネスと呼ばれるマントコートを羽織っていた。ステッキも携え、滲む風景の中を軽やかに歩く。


 結局シズクの同行は断ったものの、カナメの傍には随伴者の姿があった。もこもことした毛並み、ふさふさとした縞の尻尾──そう、安田さんだ。散歩にでも付き合っているつもりなのか、カナメが門を出て山へと向かい始めると何処からともなくやって来て、隣をちょこちょこと歩いている。


「安田さん、付いて着てくれるんです? 安田さんが居てくれると心強いですね」


 カナメが話し掛けるとぺこりと安田さんは頭を下げた。頷いているつもりなのだろうか、やはりとても愛嬌があって憎めない。


 それに実際、集落の中で可愛がられているという安田さんを連れている事は、話を聞く上で良い効果をもたらす可能性が大いにあった。あまり排他的ではない集落とは言え、所詮余所者の自分にはやはり口が重くなる筈だ。それが家を出た嫁や失踪者の話題となれば尚更だろう。


 しかし安田さんが居る事で少しは空気が和らぐ筈だ、とカナメは期待する。更に自分が安田さんに懐かれていると認識させる事で余所者感が薄まる可能性もある。打算的だと言われようが、利用出来る物はどんどん利用すべきだ、とカナメは考える。


 住宅区域を抜け、田園地帯を通り過ぎ、やがてカナメ達は北の山の麓へと辿り着く。見上げると収穫はもう半ば以上終わっているのだろう、下の方に植わっている木には実が殆ど付いていない。


 しかし上方へと視線を遣ると、鮮やかな色の実が鈴生りに実っているのが目に付いた。収穫作業をしているらしき人影もちらほら見受けられる。


「あの辺りかな。行ってみますか、安田さん」


 カナメがそう声を掛けると安田さんはぺこりと頭を下げ、まるで先導するかのように山道をひょいひょいと歩き始めたのだった。


  *

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