2-11


  *


 一瞬、触れるだけのくちづけ。


 しかしその唇は想像以上に柔らかで、カナメは自身の内に熱が灯るのを自覚する。拍動は強く、眠らせていた筈の衝動が蠢き始める。ゆっくりと息を吐き、自らを鎮めようと睫毛を伏せるものの、吐息の音頭が既に上がっている事には気付かないで居る。


 カナメはシズクの涙を拭ってやり、そして柔らかに髪を梳いた。長く滑らかな灰髪は驚く程にしなやかに、艶を帯びて指を弄ぶ。お返しとばかりにシズクが手を伸ばし、普段とは違って下ろしたままのカナメの前髪を指でくしけずる。


「いつものカナエ様は髪をきちんと整えてキリッとしていらっしゃるけれど、こうやって前髪を上げないでいると、何だか少年のような雰囲気で新鮮です」


「どちらがシズクさんのお好みですか?」


「どちらのカナエ様も好きです。でも、今のカナエ様はあまり他の人に見せたくはありません……私だけの秘密にしておきたいです」


 ふふ、と悪戯っぽく微笑むシズクに、つられてカナメも笑う。髪を梳き、頬を撫で、もっと深いくちづけを交わしたいとカナメが思い始めた、そんな折──。


 不意に気配が現れ、す、と障子戸が開いた。刹那、二人の視線が同じ一点に集中する。


「あ、安田さん」


 顔を覗かせたのは狸であった。何やら恐縮しているかの如くぺこぺこと頭を下げながら、ふかふかの狸が部屋に入って来た。器用に前脚でぱしんと戸を閉めると、もふもふとした尻尾を揺らしながら二人の傍へと寄って来る。


「これは、……ええと」


 完全に虚を突かれ興の削がれたカナメが、戸惑いながらシズクと安田さんを見比べる。確かにこのふわふわもこもことした物体と一緒に寝ればさぞ温かい事だろう。風呂できちんと洗っておいたのでダニやノミの心配も少なそうだ──とそこまで考え、もしかしてとカナメはシズクに向き直った。


「シズクさん、もしかしてですが、よく安田さんを風呂で洗ってあげていたりします? それからその後、一緒に寝たりなんて……」


「え、ええ。夜お外は寒いですので、安田さんだって中の方が温かくて良いでしょう? でも家に上げるのならば綺麗にしてあげないとと思いまして、よく私がお風呂に入るついでに洗ってあげるのです。それでそのまま、一緒にお布団に……だって安田さん、温かいんですもの」


「ああ、それですよきっと。恐らく、シズクさんの布団で寝ようと思ったら部屋に居なかったので、探しに来たのではないですか、安田さん」


 すると安田さんはその通りと言わんばかりに首を縦に振っている。その姿を見て、まあ、とシズクは眼を丸くして驚き呆れ、カナメはくくっと声を殺して笑い出した。


「それじゃ安田さんは何も悪くありませんね。はは、このまま三人で一緒に寝ませんか? きっととても温かい筈ですよ!」


 ひとしきり笑い終え、カナメは唇を寄せると低くシズクの耳許で囁く。


「肌を合わせるのはまたの機会にしましょう。急ぐ必要はありません。自分はいつまででも待てますので」


「そう……ですね。分かりました、同じお布団で居られるだけでも嬉しいですもの」


 少しだけ寂しげな色を浮かべるシズクに、カナメは堪らずに頬を引き寄せてくちづけを落とした。花が開くように上気するシズクから眼を逸らし、カナメは掛け布団を捲ると安田さんを招き入れる。


 カナメに宛がわれた布団はかなり大判のもので、大人が二人同時に寝ても余裕があった。その中心、一番良い場所に安田さんがぐでんと転がる。それを見てシズクがあっと声を上げた。


「もう、何で安田さんが真ん中なんです!? もう少し向こうに寄って下さいまし!」


 不服そうに安田さんを隅へと転がそうとするシズクを制し、カナメはシズクにも横になるように促した。自身は安田さんを挟んでシズクとは反対の側に横になる。


「安田さんが真ん中ならば一番温かいとは思いませんか、ほかほかの湯たんぽがあるようなものです。それとも、シズクさんはそんなに自分とくっ付いて寝たいのですか?」


 そうカナメにからかわれ、ついでにきゅう、と安田さんにも抗議するように鳴かれ、シズクは顔を赤らめたまま少し拗ねたように布団に潜った。宥めるように安田さんにふかふかの尻尾で擦り寄られ、堪えきれずにふふ、とシズクの口許が綻ぶ。


「もう、安田さんには敵いません。私より先にカナエ様とお風呂に入るし、私を差し置いてカナエ様の隣を陣取るし……。全部先を越されてしまいました」


 そう零しながらふかふかの毛をもふもふと撫でる。きゅうぅー、と安心しきった泣き声を上げてくったり弛緩しながら、安田さんはされるがままだ。負けじとカナメも手を伸ばし、ふかふかの温かさを堪能する。


 二人で安田さんを愛でながら、どちらともなく笑いが漏れる。布団の中に三人分の温もりが行き渡る。触れたシズクの手を自然と握り、カナメは静かな息を吐く。


「シズクさん。……自分の事は、名字では無く名前で、カナメと呼んで頂いて構いません。お好きな方でいいですよ」


「良いのですか?」


「ええ。どちらにせよ、一文字違いでとても似ていますしね」


 しばしの沈黙の後で布団の中から、カナメ様、とくぐもった呟きが聞こえた。重ねた指先は温かく、カナメは安堵しそっと眼を閉じる。


 おやすみなさい、と囁くと、おやすみなさいまし、と囁きが返って来た。安田さんはもう眠っているのか、寝息のようなものを立てている。心地良い闇が、温かな暗闇が、意識をまどろみに鎮めてゆく。


 拍動はもう、穏やかに時を刻んでいた。


  *


 ──いつもとは違う夢だ。


 眩しさの中でカナメはシズキを見詰めていた。まだ寒さの残る三月の初め。柔らかな春の陽射しの中、まだ咲かぬ桜の代わりのようにシズキの着物には桜の花弁が舞い踊っている。


 袴にブーツを合わせたシズキが微笑む。桜の花弁めいた白い肌、結い上げた艶のある灰色の髪は銀めいて、少し潤んだ瞳もまた銀に煌めいていた。シズキは手を伸ばしカナメの制帽の歪みを直すと、真っ直ぐにカナメを見上げてあでやかに微笑む。カナメはシズキの手を取り、温かな指先をそっと握った。


 卒業式、──一番穏やかで、美しかった記憶の光景。


 この後二人は本格的に術士としての仕事を始め、そして数ヶ月後、シズキは帰らぬ人となる。その事を思い、カナメは僅かに琥珀の瞳を細めた。


 不意にシズキが、シズクによく似たその人が、淡く紅を刷いた唇で笑った。


 ──もう、私に囚われないで。カナメさんは、カナメさんの人生を歩んで下さい。


 そしてそっと手を解いた。後ろを向き、シズキはゆっくりと歩み始める。それは、どういう──問おうとしても、手を伸ばしても、どんどんと後ろ姿は遠ざかって。


 やがて遠くにもう一人、着物姿の女性が現れる。よく似た髪、よく似た瞳。姉妹のような二人は顔を見合わせ、同時にカナメを振り返った。


「シズ──」


 口に出そうとした名はどちらのものなのか。


 取り残されたカナメを風が掠う。詰襟の征服の裾が翻る。いつの間にか降り始めた雨が風景を消してゆく。カナメはただ、乱れた髪を掻き上げる事無く立ち竦む。


 ゆっくりとまた、意識が落ちてゆく。


 指先に残ったぬくもりだけが真実めいて──雨の音と共に、夢が散る。引き摺り込まれる。


 眠りの深みに囚われて、カナメはまたひとひらの花弁すら掴めずに、沈んでゆくのだった。


  *

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