2-10


  *


 瑞池の夜は早い。


 農業に携わる住民が陽が昇ると共に仕事を始めるのは当然として、シグレのように大学へと通っている者や若干名集落の外へ働きに出ている者も存在するが、彼らもまた朝が早い。まず瑞池から麓へ降りるのに時間が掛かるからだ。故に、成り行きとして寄るが早くなる。


 仕事柄不規則な生活に慣れているカナメは、瑞池に来て久々に健康的な暮らしを送っていた。案件によっては徹夜や昼夜逆転を強いられる事もあるカナメにとって、日の出と共に起き食事を三食摂り、夜は早々に床へと就く──このような生活はなかなか味わえるものでは無いと、二日目にして早くもその人間らしい時の営みに順応し始めていた。


 ふあ、と大きな欠伸が一つ零れる。


 客間の卓でアガナに持たされた古い帳面を読み進めていると、軽い睡魔がカナメの意識を揺らした。普段ならまだ眠気なぞ訪れる時刻では無いが、昼間の疲れか豪勢な食事かはたまた風呂で癒された所為か、横になりたい衝動がカナメを襲う。


 このまま寝てしまうかそれとも眠気覚ましに何かするべきか、カナメは逡巡しながら煙草に火を点ける。一応、客間にはレコードの再生機やラジオが据えられていたが、あまり大きな音を出すのは何となくはばかられた。居間に行けばテレビもあるようで自由に観ても良いとは言われているものの、今はあまり無闇に出歩きたくはない気分だ。


 悩みながら煙草を吸い終え灰皿で揉み消す。水差しから杯に水を注ぎ呷ると、ふう、と息をついた。軽く尿意を覚え、取り敢えず厠に行こうと立ち上がる。


 屋敷の中は静まり返っていた。昨夜のシズクの声をふと思い出すが、今日は耳を澄ましても物音一つ聞こえない。少し安堵し、用を足して大人しく客間へと戻る。


 集中力の途切れた今の状態で帳面を読む気にはなれず、もう一本煙草を吸うと、諦めて大人しく電灯を落とした。隣の寝室へと移動し、綺麗に敷かれた布団にごろりと横たわる。とは言え直ぐに眠る気にはなれず、ランプだけを灯して考えに耽る。


 ──湖の髑髏、首の無い女の幽霊、妙な気を纏ったイモリ、喋られない呪い、そして結界の施された部屋……。どれを取っても厄介だ。


 髑髏と幽霊に因果関係が有る事は容易に想像が付くが、それがどう謎と関わっているのか。呪いは恐らく、結界の部屋に何かしらの手掛かりが有る筈だが、結界が解けぬ事には探りようが無い。イモリに至ってはそもそも集落の謎と関わりがあるのかすら分からない。


 どうしたものかと状況を整理しながら明日の予定に思いを巡らせていると、──不意に、障子戸の向こうに気配を感じた。


「……シズクさん、ですか?」


 静かに声を掛けると、まだ起きていらっしゃいますか、と遠慮がちの声が囁く。こんな時間に何用だろうか。急な用事でも出来たのかと、カナメは布団の上に身を起こす。


「まだ寝てはいませんが、……どうしたのです、何か御相談でも?」


 すう、と障子が開く。少し緊張した面持ちのシズクが頭を垂れる。夜分失礼致します、と敷居を跨ぎ静かに戸を閉めた。そしてカナメの傍に歩み寄り座り直すと、シズクは床に手を突いて深く、深く頭を下げる。


「──御夜伽に、参じました」


 か細い声で、シズクは確かにそう告げた。


 一瞬意味が分からずにカナメは押し黙る。やがて数秒の後、ようやく声を絞り出す。


「あの、シズクさん。そのようなものは、自分には……不要です」


「カナエ様」


 顔を上げたシズクがカナメの瞳を見据える。長い睫毛は震え、その灰色の瞳が潤んでいるのが薄明かりの中でもはっきりと見て取れた。


「カナエ様は、私の事がお嫌いですか。それともどなたか心に決めた方がいらっしゃるのでしょうか」


「いえ、そのような事は──!」


「でしたら、──抱いて、下さいまし」


 縋るように伸ばされた白い手がカナメの膝に触れる。その手を握ると、カナメは半ば伏した瞳でシズクを見遣った。桜色の唇が微笑んではいないのを見て取ると、もう片方の手でそっと白い頬を包む。


「それは、接待ですか? 対価ですか? 自分はあなたの負担にはなりたくない、そう言った筈です。それとも、指切りをしなかったから約束はしていないと、そう言い張るつもりですか?」


 見下ろして問うと、シズクの瞳からほろり、と一粒涙が零れた。唇を噛んだまま、シズクは緩慢に首を振る。


「違い、ます、違うのです……カナエ様、私、そのようなつもりは」


「違わないでしょう。好いても無い男に義務で抱かれるなど、そのような、自身を粗末にする行為に他ならない──」


「──違います!」


 シズクは涙をほろほろと流しながらカナメの手を払うと、胸許に縋り付く。額を押し当てるように顔を擦り寄せ、カナメの浴衣を掴んで声を上げた。


「カナエ様、お慕いしております、だからそんな、冷たい、寂しい事、仰らないで下さいまし……! お願いです、カナエ様……!」


 突然のシズクの述懐にカナメは驚き、そして怖々と両の腕でシズクの身体をそっと抱き寄せる。その華奢な身体は震えつつもシズクはしっかりとカナメにしがみ付いた。涙で濡れた頬を擦り寄せ、胸許から濡れた瞳でカナメを見上げる。


「本当ですか、シズクさん。出遭ってまだ一日と少ししか経ってはいないのに、こんな自分の事を……」


 戸惑いながらも両腕に力を込める。一目見た時からシズクに惹かれていたのは確かだ、憎からず思っていた相手に好きと言われて悪い気はしない。しかしカナメは、まだシズクの思いを信じ切れずにいた。昨夜の慟哭、そして身体での接待を匂わせる片鱗が、カナメの心に歯止めを掛ける。


 そのようなカナメの心情を察してか、シズクは哀しげな眼で縋る手に力を込めた。銀色めいた瞳は潤んで煌めき、流れた涙が頬を伝う。少し赤らんだ目尻が艶を匂わせ、カナメの拍動が高まってゆく。


「嘘なんてつけません。そんなに私、器用ではありません……。本当です、カナエ様。好きです、お慕いしております」


 シズクが目蓋をそっと閉じる。溢れた涙が雫となって零れ、解いた長い髪に転がる。カナメは胸の内が燻るのを感じ、そして井を決し──桜色の唇に、くちづけを落とした。


  *

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