2:朱い瞳
寝不足のせいで、身体がだるい。
スリッパも履かず、裸足のままペタペタとフローリングを横切ろうとすると、気配に気付いた姉が弾かれたように振り返った。
「うわぉ。
「うん。何となく目が覚めたから」
姉である
「えー? めっずらしい。あなた、ついに彼氏でも出来たの? 恋患い?」
「あのね、朝から何を訳の判らないこと言ってるの」
「だって、いつも起こしても、ぎりぎりまで寝ているくせに」
麟華は楽しげに笑っている。高校二年の朱里より一回り年上の姉だった。知的で格好の良い見た目に似合わず、明るくて可愛らしい気性の持ち主だ。
密かに朱里にとっては、自慢の姉だった。真っ直ぐに伸ばされた黒髪が、麟華が笑うと艶やかに揺れる。
「だけど、私は朱里が彼氏を作るのは反対。朱里にはね、運命的な出会いをしてほしいのよ」
うっとりと、麟華は目を輝かせている。
「麟華、お願いだから、良い年をして恥ずかしいことを堂々と言わないで」
「全然、恥ずかしくないわよ」
麟華の突き抜けた調子は、早朝でも損なわれることがない。
変わらず朗らかで、明るくて元気だった。朝が弱い朱里には驚異的なくらいだ。
「あー、寝不足でだるい」
目をこする妹をきょとんと見つめてから、麟華は首を傾げる。
「どうしたの?」
「くだらないことを考えていたら、眠れなかっただけ」
姉の麟華は朱里の通う学院の高等部で、美術の教師をやっているのだ。そんな麟華に、まさか学級内の企てを話すわけにもいかない。
朱里は寝不足の理由を適当につけて、リビングの大きなソファに沈み込んだ。
「
姿の見えない兄の所在を尋ねると、麟華からは予想通りの返答があった。
「もう大学へ行ったわよ」
麟華の双子の兄である麒一。
彼は学院の大学で助教授を務めている。父親が理事長を勤める学院は、朱里達の住まいの裏手にあった。塀で
朱里は兄姉三人で暮らしていた。物心がついてからの記憶を辿っても、父親の顔を見たのは数えるほどしかない。
母親の顔は全く知らなかった。朱里が生まれてすぐに逝去したと聞かされていたし、双子の兄達と朱里は腹違いになる。異母兄妹だった。
複雑な繋がりであるが、朱里はこれまで両親の不在を寂しいと嘆いたことはない。麒一と麒華が、幼い頃から妹の朱里をとても可愛がってくれたからだ。
「麒一ちゃんって、いつもこんなに早いの?」
「そうよ」
麒華によく似た兄の姿を思い浮かべて、朱里は素直に「すごいね」と感嘆を漏らした。
「朝ごはん、食べるわよね」
「うん。……顔を洗ってくる」
朱里は欠伸をつきながら、洗面所へ向かった。
鏡に映った自分の顔を眺めて、
瞳の色がいつもより明るい。彼女の眼は中心にある瞳孔は真っ黒なのに、虹彩はかなり茶色が強い。それは日本人には稀な明るい色合いで、更に外側の白目との境目などは、角度によっては赤褐色で縁取りを描く。
初対面の人には、よくカラーコンタクトをしているのかと間違われた。
朱里は明るめの瞳の色合いが嫌いだった。自分が慕う兄達との違いを突きつけられるようで嫌なのだ。
幼い頃から、瞳のおかげでどれほど嫌な思いをしてきたのかも数え切れない。
それでも、麒一や麟華が綺麗な眼だと言って褒めてくれるから、その瞬間だけは価値があるような気がしていた。
「何、これ」
けれど、今朝の眼は何事だろうか。
朱里は恐る恐る、洗面台の鏡に映った自分の顔に手を伸ばした。
ひやりとした質感。鏡をこすって見ても、瞳の色は変わらない。
真っ黒な瞳孔を抱くのは、
朱里は強く瞳を閉じて、開く。ゆっくりとした瞬きを数回繰り返した。
少しずつ、色合いが戻っているような気がする。
それとも、単に光線の加減だろうか。
眼が充血するくらいこすっていると、美しい金色が幻のように、いつもの茶色に戻っていた。目の醒めるような朱の色も失われている。いつのまにか、瞳は見慣れた色合いに戻っていた。
朱里は全身に
鏡の中にさっきまでの異変を探しても、もうどこにも見つけられない。きっと、あれは錯覚だったのだ。
無理矢理そう思いこんで顔を洗うと、朱里はいつものように眼鏡をかけた。レンズには度が入っていない。少しでも特異な瞳を紛らわせようという気休めだった。
彼女は続いて手際よく、癖のない長い黒髪を
麟華も綺麗な黒髪なのにと、束ねることを残念がっている。朱里も唯一姉に似た艶やかな黒髪は好きだった。けれど、自慢しようと言う気にはどうしてもなれない。
自分でも地味な格好だと思うが、気に入っている。
朱里はとにかく目立つことが嫌いだった。称賛であっても嫌悪であっても、目立っていると何かと問題に巻き込まれてしまう。
瞳の色合いが違うだけで、幼い頃は同級生にからかわれたものだ。
古くから学院に伝わる鬼の逸話もあって、中には朱里のことを鬼だと囃し立てる少年達もいた。
目立たないように立ち居振る舞う習慣。これまでの経験が叩き込んだ習性なのだろう。全てが平凡で、普通であることに安堵する。自分なりに目立たないように立ち居振舞うのが習慣になっていた。必要以上に普通であることに固執しているのかもしれない。
後ろ向きの意志であることは判っていたが、どうしようもなかった。
「ああ、今夜が憂鬱」
朱里は素直に胸の内を呟いてから、鏡を見て気合いを入れるようにぴしゃりと頬を叩いた。
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