2:朱い瞳

 朱里あかりがぼんやりと寝間着のままダイニングに入ると、姉の麟華りんかがキッチンに向かって立っていた。自分なりに早起きしたつもりだが、兄の姿は見えない。食卓には朝食の名残があった。既に邸宅を出た後なのだろう。


 寝不足のせいで、身体がだるい。

 スリッパも履かず、裸足のままペタペタとフローリングを横切ろうとすると、気配に気付いた姉が弾かれたように振り返った。


「うわぉ。朱里あかり、びっくりした。どうしたの? こんな朝早くから」

「うん。何となく目が覚めたから」


 姉である麟華りんかは目を丸くして、まじまじと朱里を見た。


「えー? めっずらしい。あなた、ついに彼氏でも出来たの? 恋患い?」

「あのね、朝から何を訳の判らないこと言ってるの」

「だって、いつも起こしても、ぎりぎりまで寝ているくせに」


 麟華は楽しげに笑っている。高校二年の朱里より一回り年上の姉だった。知的で格好の良い見た目に似合わず、明るくて可愛らしい気性の持ち主だ。

 密かに朱里にとっては、自慢の姉だった。真っ直ぐに伸ばされた黒髪が、麟華が笑うと艶やかに揺れる。


「だけど、私は朱里が彼氏を作るのは反対。朱里にはね、運命的な出会いをしてほしいのよ」


 うっとりと、麟華は目を輝かせている。


「麟華、お願いだから、良い年をして恥ずかしいことを堂々と言わないで」

「全然、恥ずかしくないわよ」


 麟華の突き抜けた調子は、早朝でも損なわれることがない。

 変わらず朗らかで、明るくて元気だった。朝が弱い朱里には驚異的なくらいだ。


「あー、寝不足でだるい」


 目をこする妹をきょとんと見つめてから、麟華は首を傾げる。


「どうしたの?」

「くだらないことを考えていたら、眠れなかっただけ」


 姉の麟華は朱里の通う学院の高等部で、美術の教師をやっているのだ。そんな麟華に、まさか学級内の企てを話すわけにもいかない。

 朱里は寝不足の理由を適当につけて、リビングの大きなソファに沈み込んだ。


麒一きいちちゃんは?」


 姿の見えない兄の所在を尋ねると、麟華からは予想通りの返答があった。


「もう大学へ行ったわよ」


 麟華の双子の兄である麒一。

 彼は学院の大学で助教授を務めている。父親が理事長を勤める学院は、朱里達の住まいの裏手にあった。塀でへだてられているだけで、敷地の一部が背中合わせのようになっている。


 朱里は兄姉三人で暮らしていた。物心がついてからの記憶を辿っても、父親の顔を見たのは数えるほどしかない。

 母親の顔は全く知らなかった。朱里が生まれてすぐに逝去したと聞かされていたし、双子の兄達と朱里は腹違いになる。異母兄妹だった。


 麒一きいち麟華りんかの母親も、朱里が生まれる頃には亡くなっていたという話である。

 複雑な繋がりであるが、朱里はこれまで両親の不在を寂しいと嘆いたことはない。麒一と麒華が、幼い頃から妹の朱里をとても可愛がってくれたからだ。


「麒一ちゃんって、いつもこんなに早いの?」

「そうよ」


 麒華によく似た兄の姿を思い浮かべて、朱里は素直に「すごいね」と感嘆を漏らした。


「朝ごはん、食べるわよね」

「うん。……顔を洗ってくる」


 朱里は欠伸をつきながら、洗面所へ向かった。





 鏡に映った自分の顔を眺めて、朱里あかりはぎくりとする。

 瞳の色がいつもより明るい。彼女の眼は中心にある瞳孔は真っ黒なのに、虹彩はかなり茶色が強い。それは日本人には稀な明るい色合いで、更に外側の白目との境目などは、角度によっては赤褐色で縁取りを描く。


 初対面の人には、よくカラーコンタクトをしているのかと間違われた。

 朱里は明るめの瞳の色合いが嫌いだった。自分が慕う兄達との違いを突きつけられるようで嫌なのだ。

 幼い頃から、瞳のおかげでどれほど嫌な思いをしてきたのかも数え切れない。

 それでも、麒一や麟華が綺麗な眼だと言って褒めてくれるから、その瞬間だけは価値があるような気がしていた。


「何、これ」


 けれど、今朝の眼は何事だろうか。

 朱里は恐る恐る、洗面台の鏡に映った自分の顔に手を伸ばした。

 ひやりとした質感。鏡をこすって見ても、瞳の色は変わらない。

 真っ黒な瞳孔を抱くのは、金色こんじきに輝く虹彩。白目との境界には、夕焼けを思わせる鮮やかなあか


 朱里は強く瞳を閉じて、開く。ゆっくりとした瞬きを数回繰り返した。

 少しずつ、色合いが戻っているような気がする。

 それとも、単に光線の加減だろうか。


 眼が充血するくらいこすっていると、美しい金色が幻のように、いつもの茶色に戻っていた。目の醒めるような朱の色も失われている。いつのまにか、瞳は見慣れた色合いに戻っていた。

 朱里は全身にみなぎっていた緊張を解いて、大きく息をついた。


 鏡の中にさっきまでの異変を探しても、もうどこにも見つけられない。きっと、あれは錯覚だったのだ。麟華りんかも瞳について何も言わなかった。

 無理矢理そう思いこんで顔を洗うと、朱里はいつものように眼鏡をかけた。レンズには度が入っていない。少しでも特異な瞳を紛らわせようという気休めだった。


 彼女は続いて手際よく、癖のない長い黒髪をくしかして束ねると、固く結んだ。今時の女子高生には珍しいくらいに、清潔感のある髪型が出来上がる。別に結ぶことが学院の風紀に定められているわけではない。朱里の通う高等部は上に続く大学の雰囲気に影響を受けて、私立にしては校則が自由なのだ。


 麟華も綺麗な黒髪なのにと、束ねることを残念がっている。朱里も唯一姉に似た艶やかな黒髪は好きだった。けれど、自慢しようと言う気にはどうしてもなれない。

 自分でも地味な格好だと思うが、気に入っている。


 朱里はとにかく目立つことが嫌いだった。称賛であっても嫌悪であっても、目立っていると何かと問題に巻き込まれてしまう。

 瞳の色合いが違うだけで、幼い頃は同級生にからかわれたものだ。

 古くから学院に伝わる鬼の逸話もあって、中には朱里のことを鬼だと囃し立てる少年達もいた。


 目立たないように立ち居振る舞う習慣。これまでの経験が叩き込んだ習性なのだろう。全てが平凡で、普通であることに安堵する。自分なりに目立たないように立ち居振舞うのが習慣になっていた。必要以上に普通であることに固執しているのかもしれない。

 後ろ向きの意志であることは判っていたが、どうしようもなかった。


「ああ、今夜が憂鬱」


 朱里は素直に胸の内を呟いてから、鏡を見て気合いを入れるようにぴしゃりと頬を叩いた。

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