#7/10 #散った #タワリッシ
週中の水曜日、琉生はあと二日も働かないといけないことに軽い絶望を感じた。
梅雨なのに、雨を落とさない雲のせいだ。空を塗りつぶすなら、仕事をしてくれと琉生は誰に言うでもなく眉間のしわを深くする。
できたらすっきりしたカクテルが飲みたい、と願って後悔した。開けたドアの先にいた人物が、永遠に見たくない顔だったからだ。
潰された蛙のような顔に、綾鳥は訳知り顔で口に笑みを乗せる。
「
ニシンと聞いて、目を光らせそうになった琉生は、寸前で顔を取り繕った。
「ニシンの旬は春でしょう」
騙されないぞと睨み付けられても、綾鳥は動じなかった。得意気に胸をはって皿に乗る料理を見せびらかす。
「田舎者はオイルサーディンも知らないわけだ」
好きだねぇ、君たちも、と外野が呆れても当然、無視をした。
透明な皿にはのったのは、つやつやと輝くニシンだ。白い玉ねぎを下敷きに、ピンクペッパーとディルが散らしてある。生臭くはなく、魚の脂の香りとオリーブオイルの香りに、唾があふれた。
だが、皿を見つめる顔の眉間はいつまでもしわが寄ったままだ。面白がる綾鳥が気に食わないのは通常運転だが、他にも理由がある。言うか、言わまいか考えて、前の彼からも、今の彼女からも出されたことがなかったとわかると言葉が落ちた。
「……辛い玉ねぎは無理です」
珍しく固まった綾鳥に琉生の方が困惑してしまった。元々、食べ物を粗末にする奴ではないことはわかってはいたが、今回ばかりはわざとではないらしい。相手の様子を見るに、嫌がらせとは考えられなかった。
「前に食べてたのは何だったわけ」
綾鳥が言ったのが、いつのことになるのか。前世だというならば、村の畑にはそんな洒落たものは作られていなかった。
思い出そうとして思い出せないのであれば、問題のないものを食べていただけだ。琉生が導き出せる答えはひとつしかない。
「新玉で、ちゃんと水にさらしてあったから食べられただけですよ。普通のものを食べたら胸焼けを起こすので」
綾鳥の冷めた笑みに、琉生の頬はひきつった。内心のムカつきはあの胸焼けよりひどく、今はそれ以上に恥ずかしさがまさる。
当然、からかわれると思っていた琉生の前に、カクテルグラスが置かれた。冬の窓に似た透き通った白さに目が行く。
入れ替わりに、
皿を持った綾鳥は軽やかな髪をひるがえし、華奢な背を向ける。
「
琉生は耳を疑った。声をかけられても無視する綾鳥が、からかう時にしか話しかけてこない綾鳥が、他人の話をつまらなそうに聞いている綾鳥が。社交が得意でもない琉生でも、あれはないだろうと思う綾鳥が、誰かに教えを求めるなんて考えられるだろうか。
まさか、まだあの約束を守らせようとするのか。彼女にとっては、前世とともに散ったと約束だろうと思っていたのに。
琉生は、榊山に指で小突かれてから我に返った。
「
ふわふわとした言動の多い榊山まで真顔だ。
生返事をした琉生はひどく乾く喉を潤すために、目の前に置かれた酒をあおった。味なんてどうでもよかったが、ライムの香りが鼻を抜けていく。甘いのか辛いのか判断がつかない内に飲み込んでしまった。涼やかに下り、腹に入ったと感じた後から、喉が熱を持つ。
酒がそうさせたのか、彼女がいなかったからできたのか。自然と言葉がこぼれる。
「……出したものは、全部食べるという約束をしてるので」
「
「絶ッ対ありえないこと言わないでもらえませんか」
「同志だったのに裏切られたとか?」
「誰が同志ですか! ただの……ただの……」
言葉を遮るように、透明な皿が戻ってきた。
「た・だ・の、酒飲み仲間だっただけだよねぇ」
愉しげな声と息が耳に吹き込まれた琉生は、危うくグラスの足を折りそうになった。
܀𓏸𓈒◌𓈒𓏸܀܀𓏸𓈒◌𓈒𓏸܀
誕生酒:タワリッシ(意訳:同志)
酒言葉:約束
【後日談】
塩もみをされ、電子レンジでわずかに火を通された玉ねぎを琉生は完食した。
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