あ や か
@miura
第1話 あ や か
政府が定めた最低賃金より五十円だけ高い時給での労働を終えたナカジマは六畳の畳
の部屋と四畳半のフローリングのダイニングキッチンで構成された所謂“1DK”の自分の城にたどり着いた。
シャワーを浴びる前にどうしても冷えたビールが呑みたかったので冷蔵庫を開ける。
唯一の贅沢、発泡酒でもなく第三のビールでもないマジのビールのロング缶を取り出す。
畳の部屋に腰を下ろす前にプルトップを引き喉に流し込む。
「うまいっ」といつもの言葉を漏らす。
ナカジマは就職氷河期に学生時代を過ごした運の悪い男で、齢四十八にして独り身で、
三年前に実家にいづらくなり今の城に移ったのであった。
仕事は物流倉庫での商品の仕分けで、月収は手取りで十五万、勤めて二十年近くになる
が夏冬の“寸志”はそれぞれ十万円だった。
ナカジマは畳の部屋に置かれたスチールのテーブルにビールを置き、コンビニで買って
きた弁当を横に並べた。
テレビをつけるといつもの芸人が現れる。
確か歳はほとんど変わらなかったはずだ。
しかし、年収は二桁違う。
たいして面白くもないのにどうしてこんなに需要があるのだろうかとチャンネルを変える。
しかし、どこのチャンネルも、同じよう内容で同じような顔ぶれの番組ばかりだった。
若い人のテレビ離れが叫ばれる中、テレビ局は何も変わらないというかなぜだか変わろうとせず、相変わらずの有様だった。
NHKの日本の名山を紹介する番組を画面に映し、ノートパソコンを開けユーチューブを見る。
だいたいは自分と同じくらいの齢のおっさんが一人で居酒屋を巡るものばかり見ていた。
見ると何か心が落ち着いた。
一緒に吞んでいる錯覚に陥るからだろうか。
ビールを吞み干したのでレモン酎ハイに移る。
弁当のおかずばかりをあてにしてビールを呑んでいたので肉団子のみを残してあとは白米だけとなってしまったが、テーブルの上に置き放しになっていたアジシオを掛けると立派なあてに変身した。
おじさんの居酒屋巡りに飽きてきたので他にいいのがないのか探していると“三十三歳処女 乳なし金なし彼氏なし”という文言に目が止まる。
試しに覗いてみると、女性が一人、居酒屋を巡り、本当にご自身は処女どころか生まれてこの方、彼氏なるものができたことが無いようだった。
さすがに顔にはぼかしがかかってあって、お酒も女性にしてはそこそこ強かったが、とにかくテロップが面白く、お笑いのセンスを感じた。
過去にもたくさんの作品があったので見て見るとどれも面白かった。巡る街が自分の住んでいる街のすぐ近くで、過去に行った店も何件かあった。
そのうちどこかで会えるんじゃないかと思いながらナカジマは明日の労働に備えてノートパソコンを閉じた。
②
何か月ぶりかに土曜の休日を得たのでナカジマは“昼吞み”に出かけた。
コロナ禍に見舞われて以来“昼吞み”はすっかりこの国に定着してしまった。
営業時間に規制がかかり、仕事帰りの一杯が出来なくなったサラリーマンたちが、それならばと週末の昼間から酒を酌み交わすようになったのだ。昔も場末の駅の周辺には夜勤明けの労働者が朝から呑める店があることはあったが、今や都心の居酒屋の大半が週末の“昼吞み”営業を行っている。
ナカジマはたまに“昼吞み”に使う、立ち呑みにしては若干値段の高い店の暖簾をくぐった。
土曜の十一時過ぎで客の入りは七割程度だった。
通り過ぎてきた店はどこもほぼ満員だったので、やはり値段設定が原因なのだろう。
ナカジマはモーニングセットなるものを注文した。
喫茶店のモーニングセットをまねたもので、発泡酒の生中、マジのビールの生小、ハイボール、酎ハイ、日本酒一合から一つ吞み物を選び、そこにあてが三品ついて、さらにおでんが一品選べてたったの六百七十円。値上げラッシュに日本全土が見舞われる前にはなんとワンコインの五百円だったのだ。
ナカジマが選択した発泡酒の生中がすぐに供される。
周りの客はほとんどが親父連中で、ナカジマより先輩と思われるものがほとんどだった。
そんな中に紅一点、女性がジョッキを持って楽しそうに親父連中と会話をしている。
「自分、何とかって言う、ねえちゃんやなぁ。
あの、ユーチューブってやつで見たことあるわ」と親父連中の一人が紅一点に声を掛ける。
「そうです、あっ、お父さん知ってくれてはったんですね」
紅一点が答え、まさかと思ってよく見ると違った。
三十三歳処女は顔にはぼかしがかかっていたが、髪は長かったし(切っている可能性はあったが)紅一点よりもっと細身(急に太る可能性もないことはない)だった。
「お父さん、顔映ってもいいですか?」と紅一点が楽しそうに親父連中と戯れる。
発泡酒の生中が空になったのでナカジマは熱燗の一合を注文し、すぐに透明の瓶が供された。
すると「あのう・・」と突然紅一点が近づいてきた。
「このお店、よく来られるんですか?」
「いや、たまにですね」
三十三歳処女と同い年くらいのようだ。
「何かおすすめってあります?」
「ここはなに頼んでも美味しいですよ。私いつも食べるのがもやし炒めです。豚肉が結構入っていてビールにむちゃくちゃ合いますよ」
「本当ですか?」と言った紅一点はカウンター内に振り向き「じゃあ、お母さんっ、もやし炒めお願いします」と少し酔っているのか
大きな声を店内に響かせた。
そして「顔は映ってもいいですか?」と聞いてきた。
「いえ、恥ずかしいから、ぼかし入れといてください」と返す。
「わかりました、一週間後には編集してアップロードされますので。良かったらチャンネル登録もお願いします」
「わかりました、楽しみにしています」
ナカジマは全身に汗を感じた。年頃の女性とこの距離感で話をしたことなど、二十年前ごろに初めて参加した高校の同窓会以来だった。
「お母さんっ、生中もらえます。あと、私ももやし炒めくださいっ」
紅一点がこっちを見て目が合った。微笑んでいる。
すぐに出てきた生中をナカジマはすごく旨く感じた。
③
「たまには帰ってきいよ」の母の声にナカジマは「おぅ、わかってる」と言って電話を切った。
同級生の母親に「息子さんは?」と聞かれ「まあ、適当にやってるわ」と言っている母の顔が浮かぶ。
畳の部屋に腰を下ろすと、テレビは点けずにパソコンを開きユーチューブにたどり着く。
顔にぼかしがかかっているとはいえ、自分だとすぐにわかった。
馬ずらの顔に声量がまったくないかすれた声。
ぼかしの向こうで少し笑って話している自分が気持ち悪くなり“三十三歳処女”に切り替える。
昨日アップロードされたばかりの動画で彼女は一人で居酒屋で吞んでいた。
映し出される店内の一部を見てナカジマは過去に一度行ったことのある店ではないかと思った。
仕事帰りに、一人で軽く呑んで帰った記憶があった。
そして、ぼかしがかかっていない店員のおばちゃんの顔を見て確信に変わった。
“三十三歳処女”は女の子としてはよく呑むほうだったが、酒豪と言うほどのレベルではなかった。
ただし、よく食べる。
前に見た動画では、確かコロナまっただ中で、たこ焼き二人前と焼きそば一人前をテイクアウトしてホテルの一室で食べていた。
それに、場末の立吞み屋で年季の入ったキャップをかぶったおっちゃんたちが頼むようなあて、例えばモツ系などを好んで食した。一度、お昼ごはん用にコンビニで買った酢モツを会社の冷蔵庫に入れていて先輩女性社員から聞こえないブーイングを浴びたというようなことがあった。
あとナカジマが思ったのは、三十三歳にしては自分たちが若かったころに流行った歌や番組やギャグなどをよく知っていた。SNSでいくらでも時を超えて昔のものを見れるといっても、言葉だけでなく、その時の背景なども非常によく理解していた。
今日の三十三歳処女は生中を呑み、鶏の唐揚げをつまみながら、最近、マッチングアプリで知り合った男性と呑みに行ったことを話している。
同い年の彼はすごくおとなしく、まじめで、趣味は鉄道鑑賞、所謂鉄オタだった。
会話も弾み、いい感じで食事を終えた二人は、またご飯を食べに行きましょうと約束して別れた。
しかし、その後、彼からはなんの連絡もなく、三十三歳処女がメールを送っても電話をかけても、なんの反応もなかった。
“彼が何かの事件に巻き込まれたということで納得しておく”のテロップには思わず笑ってしまった。
とにもかくにも、早く彼氏を作りたい、早く処女を卒業したい、という彼女の焦りの気持ちをすごくナカジマは感じた。
と言っている自分も、この歳になって正社員にもなれず、もちろん彼女などいるわけなく「どの口が言うとんねん」と心の中で呟きながら、ナカジマは変な親近感を覚え、一度彼女と会ってみたいなと思った。
④
二十年近く勤めてナカジマは有給休暇なるものを初めて取得した。
自ら申し出たのではなく、人事課の人から取得するように言われた。それも、今後、必ず月に一日は取ってくれというおまけまでついていた。
労働環境の見直しの一環か、労基から指摘でも受けたのだろう、と思いながらナカジマはたまった洗濯物に悪戦苦闘する。
午前中で片付けると、暫くユーチューブを見ていたが、飽きてきたので、ナカジマはウイークデーの街に出る。
行くところと言えばもちろん呑み屋しかない。
いつもの駅で降りいつもの商店街に入り、いつもの店を外から覗く。
この間のユーチューバーの女性、紅一点と遭遇した店だった。
暖簾をくぐり店内に入ると、ほぼ満員状態だった。
なんとか体を滑り込ませ、モーニングセットの時間は過ぎていたので生中を頼む。
「せやけど、なんとかチューブの影響てすごいのう」と年季の入ったキャップをかぶる親父さんがしわがれた声を上げる。
これまでこの店で見たことのない女性客も何人かいた。それもみんな若い。
「なんか落ち着かんなぁ、いつも空いてて、俺にとっては癒しの空間やってんけどなぁ」と隣のやはり年季の入ったキャップをかぶった親父さんが店員のおばさんに声を掛ける。
「そんなこと言わんといてよ、うちは儲かってええねんから」とおばさんが返す。
若い女性客は会話などせず、それぞれのスマホに見入っている。
「なぁ、にいちゃん、昔はこんな店には若いねぇちゃんなんかおれへんかったよな」と隣
の親父さんが声を掛けてくる。
「ちょっと、こんな店って、なんか感じ悪いなぁ」と店員のおばさんが間に入ってくる。
「ちゃうやん、そういう意味で言うたんちゃうやんか」と親父さんが少し慌てて返す。
「お詫びの代わりになんか頼んでっ」と店員のおばさんが笑って言う。
「しゃないなぁ、そしたら、串カツの五本盛りもらおか」
「ありがとうございますっ」と言っておばさんが笑う。
「そしたら僕も同じやつお願いします」と言うと、おばさんは「悪いねぇ、気ぃ使わせて」と言って目じりのしわを二倍にした笑顔で言った。
朝から何も食べていなかった胃に生中と熱燗二合を放り込んだからか、ナカジマは結構いい気分になって店を出た。
商店街を歩いていると“昼キャバ ランチセット”という文字に目が止まった。
“1セット 2000円”なる文字が続く。
立呑み屋にモーニングセットができ、キャバクラにランチセットができ。これもコロナの影響なのかと思いながら、雑居ビルのエレベーターに乗る。
店に入ると、やけに静かだった。
学生時代の飲み会の二次会は決まってキャバクラだったが、もっと活気があった、というか、そもそもキャバクラは昼間に来るところではない。
少し間があって「いらっしゃいませっ」と男の声が響き、薄暗い店内でも褐色とわかるボーイがでてきた。
席に通され、暫くすると、女の子がやって来た。
見るからに二十代前半のキャピキャピ感はなかった。
「五十分呑み放題ですから、あと、この、乾きものも食べ放題なんで」
「わかりました」と言って乾きものを眺める。ポテチや昔懐かしい色つきのセロハンに巻かれたラムネがあった。
「思ったより若くない女が出てきたと思ってるんでしょ」と女の子が言った。
「いやいや、そんなん思うてないよ」
「ちゃんと顔に書いてますよ」
思わずナカジマは自らの頬を手でこすった。
「はは、おもしろいっ、私もなにか呑んでいいですか?」と言って女の子は腕を絡めてきた。
生身の女性の体に触れたのはいったいいつ以来だろうか。
「ええよ。あんまり高ないやつでお願いします」
「大丈夫ですよ、この店は良心的ですから女の子が呑ませてもらうドリンクは一律五百円なんです」
「へぇーっ、そうなんや」
「お客さん、何呑まれます?」
「日本酒呑んできて喉乾いたからビールもらえます」
「生しかないですけどいいですか?」
「いいですよ」
女の子は絡めていないほうの手を上げると「生とジントニックお願いします」と、席に案内してくれた褐色のボーイに声を掛けた。
店内を見渡すと客の入りは五割くらいで、さっきの店にいた親父さん風の客がほとんどだった。
「このお店は初めてですか」と女の子が聞く。
「うん、ていうか、こんな店って言うたら失礼やけど、もう二十年ぶりくらい」
「そうですよね、結婚してお子さんが出来きたらなかなかこんなところ来れなくなりますよね」
「いやいや、金があったらたまには来たいんやけどね」
「ここは安いからたまには来てくださいね」
「ほんまやねぇ、呑みに行くの二回我慢したら来れるもんね」
褐色のボーイが生とジントニックを持ってきてナカジマは女の子と乾杯する。
「お仕事はなにをされているんですか?」
「流通関係。久しぶりに徹夜して、家に帰る前にちょっと呑んで帰ろうと思ったらちょっとで終わらへんかってん」
「あるあるですよね」と言って女の子は笑う。「たまにおんねんけど、ちょい吞みセットいうて吞み物一杯とあてが何品かついて千円くらいのセットやねんけど、あれを頼んでほんまにそのセットだけで帰る人おんねん。ほんまに尊敬するわ、普通、一杯目で火がついて二杯目、三杯目に行くねんけど、店の人もそれを狙ってのちょい吞みセットやと思うんやけど、それをさくっと一杯だけ呑んで去っていけるなんてすごいと思うわ」
「本当にお金が無いのかもしれないですよね」
「まあ、なかにはそういう人もおるんやろうけどね」
「ここは呑み放題ですから、安心してどんどん吞んでくださいね」
「ありがとう、せやけど、さっきの店で日本酒ようさん呑んだからあんまりもう呑まれへんわ」
「そしたら私が頑張って吞みます。もう一杯いいですか?」
いつの間にか女の子の透明なグラスは氷だけになっていた。
「いいですよ、結構呑める口なん?」
「はい、そんなに量は呑めないんですけど、毎晩晩酌はやっています」
「それすごいなぁ、筋金入りの呑み助やん。
失礼やけど歳いくつ?」
酒が回って来たのかナカジマは珍しく生身の女性の前で饒舌だった。
「アラサーです」
「便利な言葉やんなぁ」
「本当に、いい時代に生まれました」と女の子は少し笑みを浮かべて言って、褐色のボーイにハイボールを頼んだ。
「ちなみにお客さんはおいくつなんですか?」
「アラフィフ」
「うそーっ、無茶苦茶若く見えますよっ、三十代後半かなと思ってました」
「ええて、お世辞は・・」
「本当ですよ、いくら厳しく見積もっても四十ですよ」
「ほんまにぃ・・まあ、結婚もせんと気楽に生きてるからかなぁ」
「そうなんですか。じゃあ、お休みの日なんかどうされているんですか?」
生が空いたのでナカジマはお代わりを頼んだ。
「ユーチューブを見ながら呑んでるだけ」
「そうなんですか。どういったのを見られているんですか?」
「ほとんどが、俺くらいのおっさんが呑み屋を巡ってるやつ。あっ、この間、面白いの見つけてん、自称三十三歳処女の女の子、たぶん大阪の子やねんけど、同じく呑み屋を廻ってその後に一人でビジネスホテルに泊まんねん。で、そこで二次会開くねんけど、それがすごい笑いのセンスあってさぁ、テロップは面白いし、ほんまに三十三歳なん?ていうくらい古いことよう知ってんねん。巡る店も知ってるところ多いし、行ったことある店もしょっちゅう出てくんねん。そのうちどっかの店で会うんちゃうかと思うてんねん」
「へぇーっ、面白そうですね」と女の子が言うやいなや、スマホを取り出し、ピアノの鍵盤を叩くがごとく、ディスプレイに指を躍らせた。
「あっ、これですね」と言って見せてくれたスマホの画面には三十三歳処女が映っていた。
「あやかさんて言うんですよね」
ナカジマは初めて三十三歳処女の名を知った。
⑤
ナカジマは居酒屋にいた。
仕事が終わるとこれまでは自宅に一直線だったが、週に一、二度、あやかに会えるんじゃないかと足を運ぶようになった。
カウンターの席に陣取り、辺りに目を配る。
一人女性が一番端っこの席で呑んでいたが、すぐに違うと分かった。年齢があやかよりは少し上そうだったし、そもそもカウンターの上に自分を撮るためのスマホやカメラみたいな媒体が置かれていなかった。
使える金が限られていたので、ナカジマは、長居できるよう、するめの天ぷらを食しながらハイボールのギガジョッキなるものを喉に流し込んでいた。
店内を見ると六分の入り。コロナが明けたとはいえ以前のような活気はなかった。
家呑みと週末の昼のみが定着し、会社帰りのちょっと一杯が減ったのだろう。若い人のアルコール離れもあるのかもしれない。
さすがにハイボールにも飽き、するめの天ぷらでギトギトになった口の中が気持ち悪かったので生中と冷やしトマトをナカジマは追加注文した。
そして、その生中が先に運ばれてきた時、一人の女性客が間一つを空けた席に腰を下ろした。
歳はあやかと同じくらい。正直悪いが色気はまったくなかった。
彼女はメニューを見ることなく、おしぼりを差し出した店員に生中を注文し、二人の間の席の上に置いた小さなリュックから何かを取り出した。
小型のカメラのようにナカジマには見えた。
彼女はそれを自分の正面に置き、何度も目を大きく見開いた。
やはりそのようだ、小学生が一番なりたい職業、ユーチューバーのようだ。
彼女は店員から受け取った生中をカウンターの上に置き、口をつけずに、立てかけてあったメニューを開くと、目の前に置いた小型のカメラのようなもので1ページずつなめるように撮影していった。
間違いないようだ。
彼女はメニューの撮影を終えると少しだけ生中に口をつけ、ポテサラと若鳥の唐揚げを注文した。
すると今度は店内の様子を撮影し始めた。
店の人には許可を取っているのか、店員は彼女には何も言わなかった。
彼女は店内の撮影を終えると、すかっり泡が無くなった生中を呑み始め、注文したポテサラと若鶏の唐揚げが供されると美味しそうに頬張り始めた。
似ている、細身の体に長い髪。
ナカジマは声を掛けようか迷った。
ごくりと喉を鳴らすと、ゆっくりと立ち上がりトイレの場所を店員に確認する。
チラ見で彼女を見る。
違った!
似ている、しかし、明らかに彼女ではないことが分かった。
なぜなら、変なTシャツを着ていなかったのだ。彼女はいつも“くせT”といってくせが強いというのがおそらく語源だろうが、とにかくいつも微妙な、正直、少しセンスを疑うTシャツを着ていた。
トイレから戻ると支払いを済ませ店を出る。
最近、彼女を探して居酒屋で呑むケースが増えた。そんなご身分でないのはわかっていた。少し出費を控えないとな、とナカジマが思っているとスマホが震えた。
母か、週末に出勤してくれと言う職場の責任者からの依頼かと思ったが違った。
「今何されてるんですか?」
この間の昼キャバの女の子だった。
「軽く呑んで家に帰るところ」
「今から来れないですか。今日は全然だめなんです」
「行きたいんやけど給料日前でお金ないねん」
「ワンセットでもいいですから、ダメですか?」
「ごめん、ほんまに金ないねん。来週給料日やから金曜日の晩か土曜日のお昼に絶対行くわ」
「わかりました、じゃあ、お待ちしています」
自宅に着くとナカジマはシャワーで汗を流し六畳の畳の部屋に腰を下ろす。
ビールを呑みたかったが水道水で我慢しユーチューブに見入る。
あやかの新着がなかったので過去作を何作かを見ているとナカジマはあることに気が付いた。
彼女が一人で泊まって二次会を開くビジネスホテルが、ある系列のホテルに集中しているのだ。
ネットで調べるとその系列のビジネスホテルは市内に五軒あった。
毎日一軒ずつあたれば一週間で終われるなと思い、ナカジマはパソコンの電源を落とし眠りについた。
⑥
ホテルの入り口が見えるコンビニの前にナカジマはいた。
給料日とはいえ最近の浪費から手にはハンカチでくるんだ発泡酒が握られている。
もう一時間近く経っていたがそれらしき人の出入りはなかった。
戻りつつあるインバウンドのアジア系の人が大半で金曜日のせいか会社員風の人もほとんど見かけなかった。
発泡酒が空になったのでハイボールをコンビニで買い足し、再び定位置に戻る。
プルトップを引き、一口ハイボールに口をつけた時、ふとナカジマは思った。
いつも彼女は泊った翌朝、会社に行きたくない病を発症した。ということは金曜日ではないのだ。今時土曜日が出勤の会社などほとんどない。
期待薄を察したナカジマはハイボールが空になるとコンビニの前から去った。
ずっと立ちっぱなしだったのでナカジマはどこかで座りたかった。
昼キャバの彼女との約束を思い出す。
夜のほうが値段が高いのはわかっていたが、一度誘いを断っているからいいかと自分を納得させ店に向かう。
金曜日の夜とあって、店内は賑わっていた。
また昼キャバと違って客層はかなり若かった。
この間の褐色のボーイとは違う日本人のボーイに革張りのシートに案内され、体を沈めながら夜のシステムを聞く。
セット料金が昼間の倍であることがわかったが、女の子たちに飲ませてあげるドリンクは昼間と同じ料金で良心的だった。
「ご指名などございますか」とボーイに聞かれたので昼キャバのの女の子を指名するとすぐに彼女は蝶のように舞ってやってきた。
「ありがとうございます、本当に来てくださったんですよね」
「約束したから、当然やんか」
「ボーイに聞いたと思いますけど、夜はお昼の倍の料金になりますので・・」
「そんなんかまへんよ」
「その代わり飲み放題は変わりないのでたくさん呑んで帰ってくださいね」
「ありがとう、おねえさんもなんか呑んでや」
「ありがとうございます、お客さんは何にされます?」
「とりあえず生ビールもらうわ。今日はまだ軽くしか吞んできてへんからしこたま吞みまっせぇ」
「吞みましょっ、じゃあ、わたしはハイボールをいただいてよろしいですか」
「もちろん」
女の子はすぐにボーイを呼び二人の吞み物を告げる。
「だけど、本当に来てくださるって思ってなかったんですごく嬉しいです」と女の子は言ってナカジマの腕に自分の腕をからませた。
「そんなしょっちゅうは来られへんけど、給料日くらいは来るようにするよ」
「ありがとうございます」
「せやけど、さすがに金曜日の夜は賑やかやねぇ」
「はい、ですけど、コロナ前に比べたらまだまだ少ないですね」
吞み物がやって来たので乾杯する。
「そうなんや」と言ってナカジマは口の周りに付いた泡を手で拭った。
すると女の子はすぐにナカジマにおしぼりを手渡した。
「ボーイの子なんかほんとうに走りまわってましたから。私もまだアラサーじゃなかったですから、指名されてテーブルに着いたと思ったらすぐにまた他のテーブルから指名されて、今では考えられない忙しさでした」
「そんなことないでしょ、まだまだ若いんやから引く手あまたでしょ。今日はこの間来た時より、なんか、変な言い方やけど元気そうっていうか、顔が輝いているように見えるんやけど」
「昨日お休みで今日もお昼は入っていなかったんです」
「そうなんや。なんかこの間とすごく違って見えるわ。髪もこの間は束ねてたけど、ほどいたらなんかすごいイメージ変わるわ」
「この歳になると体は噓つかないですから、疲れるとすぐに顔に出てしまって、昨日の午前中にエステに行った後、今日出勤してくるまで久しぶりにゆっくりできましたから」
「この商売も大変やね」
「本当そうなんです。ところでお客さんは明日はお休みなんですか?」
「うん。最近、働き方改革言うて、昔みたいに土日も関係なく働いてたら国から指導が入るみたいやから」
「そうなんですか。それで何か予定なんかあるんですか?」
「何にもない。酒呑んでユーチューブ見てるだけ」
「あの三十三歳の女の人のは見てるんですか?」
「見てるよ、相変わらず面白いわ。たまに居酒屋に吞みに行っておれへんかなぁと周りきょろきょろすんねんけど、さすがにおれへんわ」
「大阪って言っても広いですもんねぇ」
「この間、あることに気づいてんけど、彼女が泊るホテルのほとんどが、ある系列のホテルやねん。それで、この間、たまたまその系列のホテルの前を通った時、おれへんかなって、三十分ほど外で見ててんけど、おらへんかってん」
「それ、お客さん、あぶないですよ、ストーカーじゃないですかっ」
「大丈夫よ、変な感情は持ってへんから、ただの興味、どんな人なんかなぁっていう」
「そういうのが興じて段々と変な感情が芽生えてきて・・」
「考えすぎやって・・それより、お腹減ってんけど、ここはなんか食べるもんてできんのん?」
ナカジマの胃には発泡酒とハイボールと生ビールしか入っていなかった。
「できますけど、正直、チンなんです。ですけど、最近のチンは結構おいしいですから」
「チンか・・久しぶりにちゃんと焼いたたこ焼き食べたいねんけど・・」
「大丈夫ですよ、買ってきますから」
「ほんまに?じゃあ、これで買ってきてくれる」とナカジマは千円札を三枚女の子に渡した。
「私の分も買っていいですか?実は朝に食パンを食べたきりでその後何も食べてないんです」
「ええよ、あっ、おれのはマヨネーズかけんといてな」
「わかりました、ありがとうございます」
女の子はナカジマの腕に絡めていた腕をほどき、ボーイを呼び、三枚の千円札を手渡し、ごめんね、と掌を合わせた。
「いいですよ」とボーイは笑ってテーブルから離れていった。
「手数料とか取っといてね。持ち込みとかあかんねやろ」
「大丈夫です。たまにお客さんでお土産やからって買ってきてくださる方もいるんで」
「そうなんや、良心的なお店やねぇ」
「今、ちょっと変なことっていうか高圧的な態度を取ったらすぐにSNSで拡散されて、お客さんが来なくなったりするってよく聞きますので」
「嫌な時代やねぇ、みんなで揚げ足取り会ってなにが面白いんやろね」
「あっ、次何呑まれます?」
女の子は空になったナカジマのグラスを手にして店の奥に手を上げる。
「もう一杯生もらうわ。たこ焼きにはやっぱりビールやろ」
「私ももう一杯頂いていいですか?」
知らないうちに女の子のグラスも氷だけになっていた。
「いっていって、今日はとことん呑もや」
「ありがとうございます、お客さんすごくやさしいですね」と言って女の子は遊んでいた手をナカジマの手に絡めた。
「同伴できるような身分やないし、そんなしょっちゅうも来られへんから、とことんやっちゃってください」
「じゃあ、ハイボールのお代わりいただきます」
たこ焼きがやって来た時、ナカジマの二杯目の生は半分が無くなっていた。
この間、女の子が他のテーブルから指名がかかることはなかった。
「お客さん、結婚とかは考えていないんですか」と女の子が爪楊枝でたこ焼きをつつきながらナカジマに聞く。
「そうやねぇ、もう、この歳やし、おかんは心配してたまに電話かけてくるけど・・」
「最近よく聞きますけど、お客さんの齢ぐらいの方で、子供さんを作るとかじゃなくて変な言い方ですけど残りの人生を一緒に生きていく“パートナー”として女性と一緒になられる方がいらっしゃいますよね」
「そうやねぇ、そういうのもいいかもしれんけど、そんな相手もおれへんしなぁ」
「失礼ですけど、中高年の方の紹介所みたいなのも結構今はあるみたいですよ」
「俺みたいにええ歳こいて結婚してない人ようさんおるもんなぁ・・」
「お客さん、はい、あ~ん」と女の子がいきなり爪楊枝でたこ焼きを持ち上げナカジマの口に近づけた。
ナカジマに断る理由はなかった。
あ~んと開けた口に女の子がたこ焼きを優しく落としてくれる。
これまで散々食べてきたたこ焼きの中で一番旨かった。
「あふ、あふ、うまいっ」と言って生ビールで消火活動を行う。
「美味しいでしょ、ここのたこ焼き評判なんですよ」
「そうなんや、おねえさんも食べてや」と言ったナカジマはさすがに爪楊枝でたこ焼きを持ち上げることはしなかった。
「ありがとうございます、あっ、次何されます?」と女の子が空になったナカジマのグラウを見て言った。
「ビールはもうええから俺もハイボールもらうわ」
そして、そのナカジマのハイボールが空になり、二人ですべてのたこ焼きを平らげた時、女の子に指名が入った。
「ごめんなさいね」
「ええよ、ええよ、行ってきて」
「七十歳のおじいさんなんです。週に二、三回お昼間に来てくださって、二、三か月に一度夜も来てくださるんです」
「シニアキラーやね」
「喜んでいいんですかね?」
「もちろん、惹きつける人の年齢なんかは関係ないと思うよ。あなたに人を惹きつける何かがあるのよ。
あっ、もうお勘定してくれる」
「えっ、まだ時間ありますよ、女の子すぐにつけますので」
「ええよ、ええよ。あなた以外の女の子と話す力残ってないから。俺もあんたに惹かれてる一人やから」
店を出ると酔い覚ましに三十分ほどの自宅マンションまでの道程をゆっくりと歩く。
スマホが震える。
“さっきはありがとうございます。また来てくださいね。お待ちしています”
“おじいさんは?”
“今、おしっこに行っています(笑)”
“ちゃんと面倒見てあげてね”
“大丈夫です、紙おむつを履いてきてると言ってましたので(再笑)”
“ラジャー よい週末を”
“おやすみなさい”
自宅マンションに着くとナカジマは水道水を呷った。
ビールを呑みたかったが今日も結構散財したので我慢する。
敷きっぱなしの布団に潜り込み、テレビは点けずパソコンを立ち上げ、部屋の明かりを消す。
あやかの新作が配信されていた。
マッチングアプリで知り合った男性とのデートに望み、なかなかの手ごたえ。これは来たか!と思ったのもつかの間、相手の男性からお断りの連絡。理由は彼女に借金があるからだった。
借金とは奨学金のことだった。
ナカジマは親のお金で大学を出た。
子供の学費は親が出すのが当たり前だとずっと思っていた。それは、順繰り。自分ももし親になったら子供の学費は自分が面倒を見ると思っていた。
ところが今はどうやら違うようだとナカジマは最近になって知った。
この間テレビのドキュメンタリーでやっていた。みな、自分で奨学金、聞こえはいいがただの“借金”だ、を借り、卒業すると何年もかけて返していく。中には無利息で借りれるものもあるらしいが、借金を背負って社会に出ていくことに違いはなかった。確かに日本の授業料は高いと聞く。しかし、この国はそこまで貧しくなったのか。子供の学費を親が払えないほど貧しくなったのか。
あやかも例に漏れず数百万円の奨学金を借り、まだ返済途中でそれが理由でふられたのだ。ということはふったその男は、いくつの齢の男だか知らないが、親の金で大学を出たのだろうか。それとも、奨学金は借りたがすでに返し終えていたのだろうか。
ナカジマは何かすごく複雑な思いになった。と同時に親に感謝した。自分が大学へ行くと決めた時に「悪いけど授業料は自分で・・」なんてことは一切言われなかった。
しかし、今思うと、母は自分が小学校に入るとパートに出て、大学を出るまでずっと続けていた。地下鉄で一駅向こうの勤務先に通う交通費を浮かせるため乗れない自転車を必死になって練習した。幼稚園児のように必死になって・・。
そんな母にこの俺は孫どころか嫁さんさへ見せてあげれていないのである。なんと情けないのだと思い“来週末、久しぶりにご飯でも食べに行こか”と母にメールをしたナカジマはパソコンからあやかを消し眠りに落ちた。
⑦
母が食べたいと言って予約した焼き肉屋に入ると、週末とあってか店内はたくさんのお客さんで賑わっていた。
「珍しいやん、お肉なんか食べたいって」
「そうやねん、年取ったらお肉も食べなあかんてテレビとか週刊誌でよう言てるやんか」
「そうなんや、昔、あんまりお肉は食卓に並べへんかったのになぁ」
言いながらナカジマは目の前の母がえらく年を取ったなぁと感じた。
「ちょっとでええねん。ロース二、三切れで」
「そんなこと言わんでしっかり食べたらええやんか」
ナカジマは店員を呼び、ロースとカルビを二人前ずつと生中とウーロン茶、そして、海鮮サラダを注文した。
「これで足りんのん?」
「俺も歳とってあんまり食べれんようになってきたから。足りんかったらまた頼んだらええやんか」
言ってはみたものの、ナカジマも肉をあまり食べない家庭で育ったため、吞みに行くときに“焼き肉”という選択肢は持ち合わせていなかった。
「今日も仕事やったん?」
乾杯したウーロン茶の入ったグラスを傾けながら母が聞く。
「いや、休みよ。最近、労働環境がどうたらこうたらで、休日出勤どころか、率先して有給取るようにって言われるようになってな、単純やねん日本人て、ええ意味で言うたらお国に対して従順なんやけどな」
「そうなんや。他になんか変わったことはないのん?」
「低位安定や、ええことも悪いことも何にもないわ」
「そうなんや」と言って母は店員が持ってきた、ロースとカルビの乗った銀の皿を受け取った。
「体調はどうなん?」とナカジマはトングでロースかカルビかわからない、とにかく赤い肉をつまみ、炭火であおられる網の上に並べながら母に聞く。
「今のところ、どこも悪いところはないよ。
あっ、それで、あんたに言うとこと思ってんけど、私のお姉さんおるやろ」
お姉さんとはナカジマからすれば叔母さんのことだった。
「一緒に住まへんかって言われてんねん」
「そうなんや。確か、うちの親父が無くなった五年前の次の年に旦那さんが亡くなってんなぁ」
「そうや。それであの子の家広いやろ、一人で住んでんの寂しいし最近物騒なことが多いからって」
叔母さんの旦那さんは国立大学を卒業してから大手都市銀行を定年まで勤めあげ、東京都内に百坪ほどの大きな屋敷をかまえていた。
「で、どうすんのん?」
「私も一人で生きていくよりはいいかなと思って・・で、この間からお父さんの遺したもん片付け始めてて、それが一段落着いたら一回姉のとこへ行ってこようと思ってんねん」
「家はどうすんのん?」
「売るわ。近くの不動産屋さんに聞いたら、隣の駅の近くに大学が誘致されるらしくて駅前開発も近々始まるらしいから結構土地が上がってきてんねんて。たぶん、すぐに買い手つきますよって言われたわ」
「そうなんや」
「もし売れたら半分あげるわな。私はそれもってあの子と暮らして、どっちかがもうあかんようになったら一緒に老人ホームに入ろう言うてんねん。あの子のとこ子供おらへんし旦那さん銀行の支店長までなった人やからようさんお金持ってるから、一時金は払ってくれる言うてんねん。その後の毎月の管理費は自分で払って、足らんようになったら出してくれるてまで言うてくれてんねん」
「そう・・あっ、肉焼けてきたわ」
二人は網の上の肉に箸を伸ばす。
「また詳しく決まったら言うわ。それより仕事はどうなん?」と母親が肉をタレに漬けながらナカジマに聞く。
「なんとか首にならんとやってるよ」
「そうなん。せやけど、新聞とかニュース見てたら今はどこもすごい人手不足なんやろ。どっか転職して正社員になられへんのん?」
「この歳やったら無理やわ、なんの資格も持ってへんし」
言うとナカジマは生中を追加注文した。
「お父さんもあんたのことは無茶苦茶心配しててんで。あんた一人っ子やろ、私らが死んだら一人ぼっちになるやろ、そやから、一緒になってくれる人がおったらなぁって、子供がおらんかってもええからって・・」
「そうか、悪いな、つまらんことで心配かけて・・俺かて出来たら所帯は持ちたい、もう子供は無理かもしれんけど、一緒に暮らしてくれる人がもしおったらとは思てんねんけどな・・」
その後、二人は黙々と焼き肉を口に運び、ナカジマが三杯目の生中を空にした時に店を辞した。
「叔母さんの件、正式に決まったらまた連絡ちょうだいな」と言って母親と別れたナカジマは無性にもっと酒が呑みたくなったというか酔いたくなった。
キャバクラの女の子にメールを打とうと思ったが散財続きだったので我慢して、いつも行く立ち呑み屋に向かった。
そして、店の前にたどり着き、込み具合を暖簾の下から覗きこもうとした時、スマホが電子音を発した。
ディスプレイに職場の責任者の名前が出た。
「明日出勤してくれちゃうやろな」と独りごちてスマホを耳に当てる。
「すいません、お休みのところ」
責任者はナカジマより一回り下で、私立の大学を出た正社員でハヤシと言った。
「いえ、大丈夫です」
「ナカジマさん、唐突で何なんですけど、うちで正社員になる気ありませんか?」
「え? 正社員て・・」
「うちもご多分に漏れず人手不足で、社長命で、各部署から、仕事が出来て、正社員になってくれそうな人を何人かリストアップしろと言われてまして、ナカジマさんでしたら、私が言うのもなんですけど、仕事はすごくきっちりとやってくださるし、私よりいい大学も出てますから、社長に自信をもって推薦できると思いまして」
「いやいや、そんなたいした人間やないですよ」
「受けていただけますか?」
「ちょっと考えさせてもらっていいですか?」
「はい。もしなんでしたら、条件面の説明をさせて頂きますので月曜日にお仕事が終わってから少しだけお時間をいただいてよろしいですか?」
「ええ、大丈夫です、お願いします」
電話を切るとナカジマは立ち呑み屋の前で踵を返しキャバクラへと向かった。
「どうしたんですか、給料日でもないのに、万馬券でも当たったんですか?」
「いや、なんとなく来たくなったっていうか、あなたに会いたくなったのよ」
「お上手ですよね、お客さん今日はかなり酔ってます?」
「久しぶりにおかんと焼き肉食べてきて、生中を二、三杯呑んだだけ。お腹は減ってないけど酒はまだまだ吞めるよ」
「そうなんですか、親孝行されてきたんですね」
「勘定はおかんが払ってくれたけどね」
「えっ、そうなんですか」
「出来の悪い子供はいつまでたっても可愛いんよ。あっ、生もらえる」
「はい、私も何か頂いていいですか」
「もちろん」
「じゃあ、ハイボールを頂きます」
「今日はお腹空いてないのん?良かったらなんか食べや」
「ええ・・いいんですか?」
「ええよ、また、たこ焼きかなんか買ってきたら」
「お客さんもうお腹いっぱいなんですよね。私一人で食べるのって・・そうだ、サンドウィッチなら少しは食べれます?」
「俺、サンドウィッチ大好きやねん。一切れか二切れやったら食べれるよ」
「近くにオープンしたばかりのお店があるんですけど、すごく美味しいって評判なんで。
どんなのがいいですか?」
「ノーマルな、玉子とハムが挟まったやつがええねぇ、あと、出来たら塩も欲しいね」
「わかりました」と言った女の子はボーイを呼んだ。
「あっ、これ」とナカジマは女の子に万札を渡した。
「いつもすいません、私が食べたいだけなのに」
「ええよ、その代わりお釣りは返してな、来週から暮らしていかれへんようになるから」
その後ナカジマは、サンドウィッチをあてに生ビール二杯と、ハイボール五杯、そして彼女にはハイボール五杯を呑ませてあげ、時間を二時間延長して、店を去る時に彼女に向かって「ちょっとまとまったお金が入りそうやねん。おかんが実家売るみたいで、なんやかんや言うて大阪市内やろ、それで半分もらえることになってん。ほんま、出来の悪い子供はいつまでたっても可愛いねんなぁ」と大きな声で言った。もちろん、本人にはそんなことを言った記憶などは微塵もなかった。
⑧
仕事を終えたナカジマは軽く呑んで帰りたかったが懐のことを考えまっすぐ帰路へとついた。
正社員になり毎月の手取りが減り、生まれて始めてもらった名刺に書かれた“ライン長”という肩書のため、余計な仕事が増え、定時で帰れる日がほぼなくなってしまった。そのくせハヤシからは「ナカジマさん、申し訳ないんですけど月の残業申請は十時間までにしてもらえますか」とお願いされたため、正社員の特権、人生初の“ボーナス”まで緊縮財政を余儀なくされた。
自宅マンションにつくとナカジマはシャワーで汗を流し、唯一の贅沢、本物のビールのプルトップを引き、パソコンを立ち上げた。
あやかが有名中華チェーン店で旨そうに餃子を食べながら生ビールを飲んでいる。
たまには外で呑みたいなぁと思いながら、ナカジマは五個入って二百八十円の冷凍うどんの一個を解凍し、うどんスープをお湯で割った丼に放り込み卵を一つ割った。
「月見の季節でもないのに毎晩月見うどんとはむなしいなぁ」とつまらない冗談を吐き、やや硬めのうどんをビールで流し込む。
食事を終えたあやかはお決まりのビジネスホテルへと向かい、大浴場に浸かった後、いつもの二次会を始める。
マッチングアプリを試みるもなかなかうまくいかないようだ。ある男性と食事に行った。ここまでは良かった。支払いの段階になって割り勘となった。まあ、これは時代なんだろう。が、ここで問題が起こった。男性はあまりお酒が強くなく一杯呑んだだけで彼女はいつも通りのペースで若干気は使ったものの三杯を喉に流し込んだ。すると男性は店を出ると「本当は僕のほうが一杯しか呑んでいないので安くなるんですが今日は割り勘ということにしておきましょう」とのたまった。
“吞みもん 二杯分くらい 払ろたるわっ!!”と大きな赤い色のテロップがパソコンの画面を占拠した。
自分たちが若かったころ、それほど女性との付き合いはなかったが、二人でどこかへ出かける、所謂“デート”の時には女の子には一円も出させなかった。待ち合わせ場所の駅に来る電車賃まで渡したものだった。それが、いいとは言わない。しかし、自分も含め、平成大不況というものが日本国民から余裕というものを奪い取ってしまった。ボール球は絶対に振らない、という考えが植え付けられてしまったようだ、とナカジマは思った。
結局、男性との連絡は途絶え、そのことを少し怖いが大好きで尊敬している姉に伝えると「あなたには男性を選ぶ権利なんかないんやから。人間であること、生きていること、死んでいないこと、この三つの条件を満たしている男性やったらだれでもええんやから」とかなりひどいことを言われたようだ。
しかし、これは俺にも当てはまっていることだな、とナカジマは思い、ずっと割らずにいた卵の黄身に箸を入れた時、スチールのテーブルに置いてあったスマホが震えた。
“元気にされていますか 最近ぜんぜん来てくれないんですけど(涙)”
キャバクラの女の子からだった。
“すいません、給料は一円も増えてへんのにわけのわからん役職付けられて毎日残業で行く時間も元気もありません”
“そうなんですか、昇進おめでとうございます♡”
非正規雇用者から正社員になることを“昇進”とはよばないとナカジマは思いながら“全然おめでたくないです”と返した。
“とりあえず昇進祝いしましょう♡近々来れないですか?”
“さっきも言ったけど仕事の後は疲れてて行く元気が残ってないんで、今週の土曜日のお昼に行きます。それでいいですか?”
“ありがとうございますっ、お待ちしています”
ナカジマは大きくため息をつくと、汁を吸ってかなり太くなったうどんを卵の黄身にからめ、早く何かよこせ!と訴えている胃に流し込んだ。
⑨
いつもの立ち吞み屋に入るとナカジマはモーニングセットを注文した。
ユーチューバーが訪れた影響で賑わっていた店内は元の静けさを取り戻していた。
発泡酒の生中を舐めながらおでんの大根をつまむ。
いつ来てもいつも同じ位置に立って呑んでいる常連の親父さんは、いつも通りよれよれのキャップを被り店員のおばさんと何かを話している。
場末の立ち呑み屋はこれでいいんだと一人納得しながらあて三品の一角を占める卯の花をつまんでいるとスマホが震えた。
母からのショートメールだった。
姉のところに行くことに決めました。そして家の売り先が無事見つかりました、税金とかを差し引いて一千万くらいは渡せそうです、引っ越しは業者に任せるけど一緒に立ち会ってもらえないか、その夜はどこかビジネスホテルに泊まるので予約してもらえないか、といった内容だった。
一千万という文字が健康診断で受ける眼底検査の後の緑色の玉のようにずっと記憶のスクリーンに張り付いていた。
キャバクラでの吞み放題が控えていたので発泡酒の生中が空になった時、おあいそ(お勘定)をしようとナカジマは思ったが、あまりにもモーニングセットだけでは愛想が無さすぎるので、麦水(麦焼酎の水割り)とこの店で一番美味しい特製厚揚げ(注文を受けてから豆腐を揚げてくれる)を注文した。
すぐに供された麦水を舐めていると、脳裏のスクリーンに張り付いた“一千万”という文字がやっとはがれたが、今度は言葉になって頭の中で響き渡る。
しかし、と、ナカジマは思った。この一千万はよくよく考えてみると、所謂、手切れ金ではないか。大学までやってやったのに、正社員にもなれず、孫の顔どころか嫁さんの顔まで拝ませてもらえなかった。もう、お前とはこれでお別れや、なんとか一人でやっていきや、と。
慌ててスマホを開き“資産運用”と打ち込み検索する。
銀行に預けることは、わかっていたが論外。定期預金ですら雀の涙にすらならない。国債も同じく二十年ものでも一パーセントとちょっと。海外の国債がいいと聞くが、リスク等がないかよく調べてみないといけない。一時年金生活になると夫婦で最低二千万円が必要と世間が騒然となった。独り身だから半分としても一千万、この歳でやっと正社員になれたから退職金などしれている。高齢化社会はどんどんと進む。一千万ではおそらく足りなくなるだろう。いずれ母が亡くなり身寄りがなくなる自分には頼れるのはお金しかない。一度、証券会社へ相談に行ってみてもいいかとナカジマは真剣に思った。
いつの間にか空になっていた麦水をお代わりし、いつの間にか供されていた特製厚揚げに箸を伸ばしながら母に返信メールを打つ。
“引っ越しは立ち会います。自分が育った家やから最後にお礼を言いたいし。ホテルは取っておきます、俺も一緒に泊まります。最後の大阪の夜(笑)をお供させて頂きます”
店を出ると、母からの“ありがとう、お世話かけます”の返信メールを確認してキャバクラが入っているビルに足を踏み入れる。
「いらっしゃいませっ」と女の子が駆け寄ってくる。
店の中を見渡すと三分の客の入り。
「お疲れのところありがとうございます。今日はゆっくりしていってくださいね」と女の子はナカジマの腕に自らの腕をからめる。
席に着くと褐色のボーイが待ってましたとばかりにやってくる。
「何されます?」
「とりあえず生ください。おねえさんもなんか呑んでくださいね」
「ありがとうございます、じゃあ、いつものハイボールをいただきます」
褐色のボーイが頭を垂れ去っていくと、女の子が「ご昇進おめでとうございますっ」と言ってナカジマに薄い縦長の包みを差し出した。
「もらってええの?」
「はい。いつものお礼とご昇進のお祝いです。
開けてみてください」
ナカジマが包みを開けると紺地にグレーのストライプが入ったネクタイが現れた。
「わーっ、かっこええやん」
「昇進されたんですからビシッと決めて頂かないと」
「そうやねぇ」と言ってはみたものの、ネクタイなどは父親が亡くなった時に慌てて買った黒色が一本と、二十年前に今の会社の面接を受けるときに百均で買ったペラペラの無地の赤色が一本あるだけで、父親の葬儀以来ネクタイなど首からぶら下げたことが無かった。
「これ、高かったんちゃう」
「ええ、そこそこはしましたけど、折角お渡しするんならいいものをと思って・・」
包みに書かれているロゴはナカジマでも知っている高級ブランドのものだった。
「ありがとう、早速月曜日からつけていくわ」
ネクタイをしての荷物の仕分けは大変だぞと自虐的な想像をしていると吞み物が運ばれてきた。
「今日はいっぱい吞んでや、あと、体が許す限り延長するから」
「わーっ、ありがとうございます、お客さんもたくさん吞んでくださいね」
その後、二度の延長を経て、ナカジマの胃には二杯の生中と五杯のハイボールが飲み込まれていった。
「あ~、結構酔うた~」とナカジマは女の子の手を握りながら言葉を垂れた。
「あっ、そうや、この間、お客さん、近々まとまったお金が入る、実家を売るねんておっしゃってましたけど、あれは本当の話なんですか?」
「嘘っ? ほんまに俺そんなこと言うてた?」
「はい、大きな声で仰ってましたけど」
「そうなんや、俺も酒に呑まれるようになったんやなぁ」とすでに呑まれているナカジマが言った。
「じゃあ、本当の話なんですか?」と女の子が四杯目のハイボールを舐めながら聞く。
「うん、本当の話。そして、つい先ほど、無事に売れたとおかんから連絡がありました」
「えーっ、そうなんですか」
「だけどこのお金は、体のいい手切れ金なんよ。もう、お前とはこれで終わりやで。もう私に頼らんと一人で生きていくんやでって言う・・」
「ええ? そうなんですか?」
「はっきりとは言わへんけど、たぶんそうと思うよ。今まで散々苦労というか迷惑かけてきたから・・」
「そんな寂しいこと言わないでくださいよ」
「いやいや、現実の話よ、そんなことよりなんかお腹減ったなぁ・・」
「また、たこ焼きでも買ってきましょうか?」
「いや、お寿司にしよ。ネクタイのお礼させてもらうわ。悪いけど買ってきてくれる。回ってる店のやつはあかんで、ちゃんと大将が握っている寿司屋のやつね。おねえさんも食べるでしょ」
「はい、いただきます」
「じゃや上握り三つね」と言ってナカジマは万札二枚を女の子に差し出した。
「えっ、三つって?」
「あのボーイのにいちゃんの分も・・いつもようしてくれるから・・あの子どこから来てんのん?」
「バングラデシュです。日本に建築の勉強しに来てて、生活費稼ぐためにここで」
「そうなんや、えらいな」
その褐色のボーイがやってきて、女の子がナカジマの二枚の万札を渡しながら二言三言話すと彼は少し微笑んでお辞儀をして店の奥に消えていった。
「目がええよね、目が輝いてる、日本の若い子らみたいに死んでへんよ、目が・・」
「そうですか? 私の目も死んでます?」
「いや、君の目は潤んでいる。もう少しでお寿司を食べれるうれし涙で・・」
「ははっ、面白いっ」
「お寿司やから日本酒といきたいけど、ないやんねぇ」
「はい、ごめんなさい、焼酎ならありますけど」
「ほんまに? そしたら、お湯割りってできる? 梅干し入れて・・」
「大丈夫です。昔は焼酎も梅干しも置いてなかったんですけど、昼営業を始めてからご年配の方が来られるようになって置くようにしたんです」
確かに周りのテーブルを見るとおじさんたちはビールやハイボールなど呑んでおらず、透明のグラスに入った透明の吞み物、あれが焼酎なんだとナカジマは納得した。
「そういうたら、お姉さんの名前って聞いて無かったやんねぇ」
「そういえばそうですよね・・なんだと思いますか」
女の子も少し酔っていたのか、ナカジマの太ももに置いた手をずっと動かし続けている。
「わかった、イクラ、違う、サザエ、違う、アナゴ」
「ははっ、お寿司ネタはもういいです」
「お寿司ネタ違うよ、サザエさんネタっ」
「もう、それもいいです、というか、イクラちゃんもアナゴさんも男ですよ。
もうこうなったらおまけですよ、大ヒント、三文字ですっ」
「あやかっ」
「違いますよ、それはお客さんが好きなユーチューバーの女の子でしょ」
「あっそうか」と言ってナカジマはやって来た焼酎のお湯割りの底に沈んだ梅干しをマドラーでツンツンとつつく。
「だけど、惜しいです。最後の“か”だけはあっています」
「さやかっ」
「違います」
「まどかっ」
「違います」
「そしたら、もういいですって言うてくれへん」
「えっ?どういう意味ですか?」
「ええから、とにかく言うて」
「は、はい・・ もういいですっ」
「さよかーっ」
「違いますって、ほんとうに、こっちこそもういいです。人の名前で遊ばないでください。
答えを発表します。
ほのか、です。稲穂の〟穂“に”花“で穂花です」
「むっちゃええ名前やん。それ、源氏名?」
「違います。本名なんです。
源氏名を使っていた時もあったんですけど、ある時、病院に行って、待合室で本名で呼ばれた時に気が付かなくて・・私の名前ってなんなんだろうと思ってからは本名で通しているんです」
「そうなんや。そしたら、この瞬間から“ほのちゃん”って呼んでもいい?」
「もちろんです、ありがとうございます。
ところでお客さんのお名前も伺っていなかったんですけど・・」
「ナカジマ」
「サザエさんネタはもういいですよ」
「いや、ほんまやて」
「本当ですか? じゃあ、これからはナカジーと呼んでもいいですか?」
「ええよ、ほのちゃん」
「じゃあ、ナカジー、もう一杯ハイボール呑んでもいいですか?」
「いいよ、ほのちゃん、今日は好きなだけ呑んでください」
「ありがとう、ナカジー」と言ったほのかは、いきなりナカジマの頬に唇を合わせた。
「こらっ、おっちゃんをからかうのはやめなさいっ」
もつれ始めてきた舌で言葉を発したナカジマだったが、こんなことをされたというかこのような行為に至ったことは生まれて初めてのことだった。というか、ナカジマは大好きなユーチューバーのあやか同様、まだ、異性の体と交わったことがなかった。
「あっ、しまった」と突然穂花が声を上げた。
「どしたん?」とナカジマが聞く。
「わさび抜いてって言うの忘れてました」
「わさびあかんのん?」
「ダメなんです、どうしても苦手で。
ナカジー、電話かけてもいいですか?」
「ええよ、ほのちゃん」
穂花は小さなポーチからスマホを取り出した。
「あっ、アッシュ君、一つだけわさび、わさびわかる? そうそう、あの緑色のやつ、抜いてって言ってくれる? NOわさび、そうそう、わさび、いらない、OK、お願いします」
褐色のボーイの名前はアッシュ君と言うんだと思いながらナカジマはグラスの底に沈んだふやけた梅干しをじっと見つめる。
⑩
目が覚めると激しい頭痛が襲ってきた。
昨日の金曜日の夜に会社の忘年会が開催され、晴れて正社員になったナカジマに初めてお声が掛ったのだ。
参加者の中では最年長で、居酒屋で始まった宴は三十分もすると会話が無くなり、みんな自分のスマホと戯れ始め、熱燗を吞んで顔を赤くしていたのはナカジマだけだった。
二次会などないと思っていたのがまさかのカラオケボックス行きとなった。そこでの吞み放題の安物のサワーが頭痛の原因だろうとナカジマは揺れる頭で思った。
水道水をコップで飲み、ハンガーに掛けたユニクロのダウンのポケットからスマホを取り出す。
着信履歴があった。一時間ほど前に母からだった。
スリーコールで母が出る。
「休みのところ悪いねぇ」
「ええよ、ぜんぜん。ちょっと昨日吞みすぎて寝とってん」
「そうなんや。言うてた引っ越しの日が決まってな」
母が告げた日は来週の金曜日だった。
「来てもらえる?」
「もちろん。有給が腐るほど余ってるから。
あっ、そうや、言うの忘れてたけど、俺、正社員になったんや」
「ほんまにぃ、良かったやんか」
「月給は減るしサービス残業は増えるし変な責任は負わされるし、あんまりええことないんやけどな」
「せやけどボーナスもらえるようになるんやからええやんか」
ボーナスという母の言葉でナカジマは思い出した。来週の金曜日は生まれて始めてのボーナスの支給日だった。
「まぁ、たいした額やないと思うけどな・・」
「ええやん、もらえるだけ、あんまり文句いいな」
「まあ、そうやねんけどなぁ・・」
「そしたら悪いけど金曜日にこっちに来てくれる」
「わかった。業者は何時頃来るのん?」
「昼の二時からやけど、もうほとんど処分したからそんなに時間はかからんと思うわ。あとはあんたのもんが結構残ってるから」
「オッケー、そしたらホテルも取っとくね」
「悪いなぁ」
「ええよ、またなんかあったら連絡ちょうだい」
電話を切ると、すぐに新大阪駅近くのビジネスホテルのシングルを二部屋予約して、ナカジマは自宅マンションを出た。
母にプレゼントなどしたことがあったのだろうかと考える。物心ついたときからの記憶ではなかった。ひょっとしたら、まだ二歳か三歳の時に父と一緒に何かを贈ったのかもしれない。
ウィンドウショッピングをするが何も思いつかない。こんな時に相談する友達を持ち合わせていなかったので、しょうがなく穂花にナカジマは電話を入れた。
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっと相談したいことがあって、今日は入ってるの?」
「入ってます。暇なんで来てください」
「たこ焼き食べる?朝からなんも食べてないんで」
「いただきますっ、私もお腹が空いているんで・・お待ちしていまーすっ」
店内に入ると店長と思しき若い男性が「いつもありがとうございます」と頭を垂れた。
持ち込みのたこ焼きを見ても何も言わなかった。ナカジマは完全に常連と化していた。
穂花と腕を組んでテーブルに着くと「自分ら出来とんかぁ」と農機具メーカーのロゴの入ったくたびれたキャップを被ったおじさんが茶化してくる。
店内は所謂“閑古鳥”の状態だった。
「昨日は忘年会シーズンの週末で久しぶりに大忙しだったんです」
「俺も忘年会やってんけど、全然面白くなくって、おまけにカラオケボックスに行って、わけのわからん酒を呑みすぎて二日酔いですわ」
「じゃあ、とりあえず生でいいですか?」
「はい、お願いします。ほのちゃんはいつものハイボールやね」
「はーい、いただきまーす」
「冷めたら美味しくないからたこ焼きも早う食べよ」
レジ袋からたこ焼きを取り出し、爪楊枝でリフティングしようとした時、いつもの褐色のボーイが生とハイボールを持ってきてくれた。
「この間、お寿司、すごく美味しかったです、ありがとうございます」
「どういたしまして。こちらこそ、いつもありがとうね」とナカジマは笑顔を彼に返す。
「じゃあ、とりあえず乾杯っ」と二人はジョッキとグラスを重ねる。
「で、ナカジー、相談って何なんですか?」
「いや、来週おかんが大阪を離れて東京の叔母のところに行くことになって、これまで色々苦労って言うか迷惑かけてきたから、なんかプレゼントしようと思ってんけど、何がええかなかなか思い浮かばんで」
「そうなんですか。お母さん、何か趣味とかお持ちですか?」
「いや、俺と一緒で無趣味やねん」
「洋服とかはどうですか?」
「趣味が分からんし、それに出来たらその場で渡したいからあんまりかさむもんはどうかなと思って・・」
「ネックレスなんかどうですか。かさまないし、よっぽどへんなの買わない限り“ハズす”ことはないと思うんです」
「うちのおかん、装飾品ていうか、指輪とかネックレスとか全然せえへんねん。してるとこ見たことないんでね」
「そうですか・・難しいですよね・・何かナカジーがこれまでの感謝を伝えるものですよね・・あっそうだっ、手紙なんかどうですか?」
「そんなん、なんか照れくさいわ」
「いいじゃないですか、新幹線のホームでいきなり手紙を読み始めて、最後にお二人抱き合って号泣するってのは・・」
「気持ち悪いわっ、どんな親子やねん」
「すいません、だけど難しいですよね、何かいいのが思いついたら連絡します」
「頼みますわ、あっ、たこ焼き早う食べよ、冷めてまうよ」
二人並んでたこ焼きを爪楊枝でつつく。ナカジマは何とも言えない幸せを感じた。
「最近、あやかちゃんの追っかけはしてないんですか?」と穂花がナカジマに聞く。
「結構忙しいから、なかなか時間が無くて・・動画はずっと見てるけど、結構彼女も婚活に苦戦してはるわ。俺知らんかったんやけど、コミュ障っていう、人とあんまり話したりするのが苦手な人みたいで、所謂、俺ら世代で言うたら人見知りいうんかなぁ。それでマッチングアプリで男性と会うことは会うんやけど、その後がなかなか上手くいかへんみたいで・・。でも動画見てたら相手の男性も大概で、初めて会う人の前で言うようなことでないことをポロっと言ってみたり、なんて言うか、ええ歳こいて嫁さんももらえてない俺が言うのもなんやけど、若い人ら全体的にそういったとこがあるんやろねぇ。ネット社会になって人と直接、顔を見て目を見て話す機会が減ったから、どうやって接したらいいのか、何を話しらええのかがわからんねやろねぇ。うちの若い社員もお昼ご飯にみんな集まって食べてんねんけど、会話ないからねぇ。自分らの目の前に置いたスマホをじっと睨んで黙って食べてんねん。それやったらわざわざ集まって食べんでもええやろと思うんやけど、時代なんやろねぇ」
「私も実はそのコミュ障なんですよ」とたこ焼きを爪楊枝でリフティングしながら穂花が言った。
「うそやん、どう見てもほのちゃんは違うやろ」
「いえ、本当なんです。ナカジーのように少し年が離れた方とは大丈夫なんですけど、近い年の人になると、ちょっと・・昨日の夜も二十代、三十代のお客様が多く来ていただいたんですけど、店長から、もっと喋って盛り上げろって二回も注意されたんです」
「へぇーっ、意外やねぇ」と言ってナカジマが生のジョッキを傾けた時、褐色のボーイがテーブルにやってきて「穂花さん、ご指名です」と言った。
「人気もんやなぁ、ほのちゃん」
「いつものお爺さんなんです。クリスマスが近いからパーティをしようって」
「そうか、毎年俺には関係のないことやったから意識せえへんかったけど、来週の土曜日はクリスマスイブか・・あっ、ほのちゃん、その日に同伴しよか?クリスマスイブに」
「ぇっ、本当ですか?」
「土曜日におかんを新大阪に送っていくから、その後どっか吞みに行かへん」
「ええ、うれしいです。クリスマスデートですよね」
「こんなおっさんと申し訳ないけど」
「そんなことないです。是非お願いします」
「おかんとの涙のお別れが終わったら連絡するわ」
「はい」と言うと穂花は「じゃあ、行ってきます」とテーブルを立ち、ナカジマは褐色のボーイを呼び、生のお代わりを注文した。
⑪
実家に着くと二トントラックが一台横付けされていた。
二階へとつながる階段を青いつなぎを着た作業員が往き来する。
実家は三階建てで、今は一階を無農薬野菜の販売会社にオフィスとして貸し出しており、二階で母親が一人で暮らしていた。
「えらい小さいトラックやなぁ」と二階に上がったナカジマが母に声を掛ける。
「お父さんが遺したもんは全部片付けたから。持って行くもんいうたら、服と長年使いなれた布団と電気製品、あと、食器くらいやから。箪笥とか家具はもう全部置いていくねん」
「そうなんや」と言ってナカジマは二階の居間を見渡し懐かしさを感じる。
本来、この実家を建てた時、父と母は二世帯住宅をイメージし、自分たちは、今は貸しオフィスになっている一階で住み、二階と三階でナカジマの家族が暮らす予定になっていた。ところが、嫁すらもらえない息子に愛想をつかし、空けておくのがもったいないからと賃貸に出したという経緯があった。
「上にあんたのアルバムとか釣り道具があるからちょっと見といて。いらんねやったら、そのまま置いていったら業者さんが処分してくれるから」
「わかった」と言ってナカジマは三階への階段を上る。
三年間、空き部屋となった部屋は少しすえた匂いがした。
フローリングの床に置かれた小さなテーブルにいくつかのアルバムと大きな封筒が一つ置かれていた。
今でも空で校歌を歌える小学校の卒業アルバム、校則が厳しくて何度もやめようと思った高校の卒業アルバム、封筒を逆さにするとたくさんの写真が落ちてきた。家族で行った旅行の写真がたくさん出てきた。皆、若い。少年野球に明け暮れていた時の写真もあった。
チームに入ったのが一番早かったという理由で三年生からずっとキャプテンを任され、セカンドを守っていたが、体が小さく、球を遠くに投げたり打ったりする力がなく、本来なら補欠の身分であることは子供ながらわかっていた。そんな風に周りのみんなに気を使いながらやる野球にだんだん疲れてきて、小学校を卒業してチームから解放された時、二度と団体競技はしないと誓ったものだった。
白黒の写真が出てきた。幼稚園の卒園式で卒園証書を園長先生から受け取っている。半ズボンにハイソックスを履き、頭は最近見かけなくなったスポーツ刈り。丸刈りで前髪だけを少し残した髪型、今で言う、ツーブロックの走りだろうか。
母が用意してくれてあった紙袋に全部のアルバムと散らかした写真を戻した封筒を入れる。
次は釣り道具。
押し入れを開けると、竿が三本とリールが二つ置かれていた。
三本の竿のうち二本はガイドがついている投げ竿で残りの一本はガイドがついていない述べ竿だった。
小学生の時、ある釣り漫画が大ヒットして釣りブームなるものが起こった。ナカジマも類に漏れず、父の知り合いからもらった十尺の竿を持って、土曜日の午前の授業がはけるとクラスの友達と、近くにあるお城のお堀に糸を垂れに行った。
そのうち、新しい竿が欲しくなり、お小遣いを貯め、念願の十五尺の新しい述べ竿を手にした。自宅近くにあった小さな釣具屋さんのおじさんに「大事に使ってな」と言われ渡された竿は、たしか“ひばり”と言った名前がついていたはずだ。
ガイドがついている投げ竿は、いたるところに錆が出て使い物にならなかったが。父と一緒によく和歌山の近くの海に二人で行ったことを思い出させてくれた。
二つのリールも糸が経年でぼろぼろになり使えるものではなかった。
十五尺の述べ竿を持ち帰ろうかと思ったが、今後、釣りをすることはないだろうと「ありがとう」と頭を垂れ押し入れの引き戸を閉めた。
二階に降りると「ごはん食べよ」と母が言った。
「ごはん? 今から料理するの?」
「違うよ、お弁当作っておいたんよ」
居間を見ると、遠足よろしくレジャーシートが敷かれていた。
「最後やろ、みんなでお弁当食べよ」と言って母は台所に行くと、すぐに藍色の風呂敷を持って戻ってきた。
「ささやかやけど」と言って風呂敷を解くと透明のプラスチックの容器に入った二つのお弁当と、ペットボトルのお茶と紙コップ二つが姿を現した。
「小学校の運動会みたいやなぁ」とナカジマが言葉を漏らす。
「はいっ」と言って母が胸にかけていたエプロンのポケットから一枚の写真をレジャーシートの上に置いた。
在りし日の父だった。
「さっ、いただきますっ」と母が両手を重ねたのを見てナカジマの涙腺は崩壊しそうになった。
しかし「男は人前で泣くもんやない」と父によく言われた言葉を思い出しなんとか踏ん張った。
俵型のおにぎりも全く昔と変わっていなかった。少し甘めの玉子焼き、皮が苦手だからと身だけをほぐしてくれた紅鮭。
「釣り竿はええわ。処分してもうて」
「そう、わかった」
「この後、新大阪にホテル取ってあるから、そこへ行って、ちょっと休憩してから晩御飯食べに行こか。なんか食べたいもんある?」
「最後に大阪の柔らかいうどん食べたいわ」
「最後って・・今なんか東京へ行ったっていくらでも大阪のうどん食べれるよ」
「所詮チェーン店の似非大阪うどんやんか。やっぱりこっちのほんまもんを食べときたいねん」
「わかりました、了解です」
お弁当を食べ終えると忘れ物がないか最終のチェックを終えた母と二人でナカジマは一階に降りた。
「どうもありがとうございました」と母は青のつなぎを着た責任者らしき若い男性にお礼を言い、明日の向こうでの引き渡しが十三時であることを告げられ、二トントラックは去っていった。
「ナカジマ様、お疲れさまでした」
声のほうを見ると、ツーブロックの髪型をしてきれいに眉毛を整えた、いかにも今風の若い男が立っていた。
「色々お手数をおかけしました」と母が男に礼を言う。
「いえいえ、短い期間で大変でしたよね」
と愛想笑いで男は返した。
「今回の件ですごいお世話になった不動産屋の人」と母がナカジマに男を紹介する。
「あっ、そうなんですか、色々すんませんでしたね」とナカジマは男に返す。
「いえ、こちらこそ、こんな素晴らしい物件、いえ、お家を紹介いただきましてありがとうございます。今日中にもう東京へは行かれるんですか?」
母は自分の身の内をすべてこの男に喋っているようだった。
「いえ、最後の大阪の夜を満喫して、明日の朝に発ちます」
「そうですか。また、何かございましたら何なりとお申し付けください」
言うと男は頭を垂れ去っていった。
「すごいお世話になって・・この近くの不動産の人やねん。若いけどしっかりしてて、ほんまに助かったわ」
「そうなんや、で、買いはった人は取り壊してまた建て替えんのん?」
「いいや。このまま使うって言うてはったわ、さっきのお兄さんが」
「そうなんやっ、それは良かった。なんかなくなんの寂しいやんか」
「結構お父さんが手入れて大事に使ってきたから・・買ってくれはった人もつぶすのもったいないって言うてくれて・・」
「そうなんや、それやったら、たまに見に来るわ、売った言うても俺ら三人が長い間暮らした家やからな」
「そうしたって、お父さんも喜ぶと思うわ」
最後に、人の手に渡ってしまった実家に二人で最敬礼をして最寄り駅に向かう。
そして、地下鉄を乗り継ぎ、三十分足らずで、新大阪駅近くのビジネスホテルに到着する。
通常より少し料金が高いのだが、十三時からチェックインのできるプランを予約していた。
「ちょっと疲れたから横になるわ。晩御飯の時間になったら携帯で呼んでくれる?」
「了解、そしたらね」
母の部屋の前で別れ、隣の自分の部屋にナカジマは入った。
近くで良さそうなうどん屋がないかスマホで検索しながら、テレビをつけたが相変わらずくだらないバラエティーばかりだったので画面から、何もできないのにタレント=才能と呼ばれている人間を消した。
手持無沙汰だったのでホテルを出て、検索したうどん屋を覗きに行く。
五分ほど歩いたところにその店があり、店名が描かれた看板に“吞めるうどん屋!!”と書かれていた。昼時を少し過ぎていたがサラリーマン風の客で店内は賑わっていた。昼間はうどんや定食などを提供し、夜は居酒屋に変貌する、ただし、ちゃんとうどんも食べれますよ、と言った感じの店なんだろう。
コンビニに立ち寄り、ロングの缶ビールとレモン酎ハイ、それにポケットサイズのさきいかを買ってホテルに戻る。
ライティングデスクに掛け、テレビは点けず目の前の鏡に映る自分の姿を見ながらロング缶を傾ける。
今日で本当に一人になる。齢 四十八 貯金なし 妻子なし 女性経験なし どこかで聞いたセリフだ。
これからどうやって生きて行こう。待っているのは孤独死だけか、唯一頼りになるのは母からもらう予定の実家の売却金だけ。こうなりゃ前にも考えたが一か八か、母からもらう金で株で勝負でもしてみるか? いや、失敗したらどうする、孤独死までの時間が短くなるだけだ。
鏡に映る自分の顔をじっと見る。年を取った。これまで一体何をやって来たんだ。確かに平成不況と言うきついアゲインストの風が長く吹いた。しかし、俺は、何かアクションを取ったのか?状況を打開しようと動いたのか?どうしてこんな情けない男になったんだ?
残っていたビールをナカジマは呑み干し、レモン酎ハイのプルトップを引き、鏡に映った自分の顔に「ばーかっ」と声を浴びせる。
これ以上自分の顔とにらめっこするとネガティブ思考のオンパレードになるので、さきいかをしがみながらテレビを点ける。
情報番組、昔で言うワイドショーをみるとどこもかしこも各地の街の様子が映し出されていた。そう、明日はクリスマスイブ、おまけに土曜日である。あるイタ飯屋の店員がインタビューを受けていた。
「ええ、明日はおかげさまで予約で満席です」
「早い人ですと何か月前から予約を取られているんですか」
「そうですね、一番早い方で半年ほど前からです」
この言葉でナカジマは明日の穂花との同伴を思い出した。
まさか居酒屋ではいくらなんでも失礼だろうと慌ててスマホを手に取る。
しかし、どこもかしこも予約でいっぱいだった。
行ったことのないような高級ホテル内のレストラン、食事だけで一人一万円を軽く超えるようなそんなところまで満席だった。
甘かった、クリスマスに女性と食事など行ったことが無かったので“店を予約する”という概念を持ち合わせていなかった。
そして、予約する行為を諦めかけた時、一軒の寿司屋の十二月二十四日の予約欄に“空席わずか”を示す△の文字が灯っていることに気が付いた。
ネット予約などせず、ディスプレイにキーボードを引っ張り出すと十桁の数字を乱打し暫くすると男性が出てきた。
「すいません、明日の夜、まだ空いてますか?」
「大丈夫ですよ。テーブル席ですけど最後の一席が空いています」
「そうですか、じゃあ、二名で予約をお願いできますか」
「わかりました。お料理はコースにされますか?さすがに寿司屋なんでクリスマスディナーコースはないんですが、五千円と八千円のコースがございます」
「じゃあ、八千円のコースでお願いします」
「ありがとうございます。お吞み物は含まれておりませんのでご承知おきください。
それではお時間は何時からになさいますか?」
「六時でお願いします」
電話を切ると大きく息を吐く。
ほっとしたのと、二人で吞み物入れて三万近く、その後店に行って下手すれば一晩五万コースになるのを認識したことが混じった息だった。
レモン酎ハイを手に取り視線をテレビに戻す。いつも面白くないと批判ばかりしていたが今日は助かった。見ていなかったら、大変なことになっていた。たまにはテレビも見るもんだなと思っているうちにナカジマは少し眠くなってきた。
実家に行き、いろんな昔の思い出に触れただけである。
人は感情が動くと疲れるものなのかと思っているうちナカジマは眠りに落ちた。
遠くからぼやーっと聞こえていた音が確かな音となって耳に伝わった。
誰かが部屋の扉をノックしている。
起き上がると窓の外は暗く、ベッドに備え付けられているデジタルの時計は18:34を示していた。
おそらく母だろう。
慌てて起き上がり扉の前に掛ける。
「おかん?」
「うん、そろそろ晩御飯食べに行かへん」
「行こ行こ、先に下に降りといて、すぐに行くわ」
急いで脱いでいた靴下を履き、洗面台で顔を洗うと一階へと降りる。
「ごめんごめん、ちょっとビール吞んだら寝てもうて・・」
「疲れてるんちゃうの、仕事忙しいんやろ?」
「まあ、確かに社員になる前よりはやけど、それほどたいした仕事はしてへんねんけどな」
「そう、あんまり無理したらあかんで、まだまだ先は長いんやから」
「そうやなぁ・・で、寝とったん?」
「寝ようとしたんやけどなんか全然寝れんで。明日東京に行くから興奮してんのかな?」
「一日引っ越しの立ち合いやってたから気が張って疲れすぎたんやろ。疲れすぎたら興奮して寝られへんてよう言うやろ」
「そうなんかなぁ」
「お腹減ったなぁ、言うてた通りうどんでええ?」
「うん」
店に着くと金曜日の夜とあって会社帰りのサラリーマンで賑わっていた。
かろうじて、二人掛けの小さなテーブルに通される。
「何する? いきなりうどんはなんやから、適当に頼もか?」
「うん、任せるわ」
ナカジマは自分の生と母のウーロン茶、そして串カツの盛り合わせ、たこ焼き、紅しょうがの天ぷらを注文した。
「さ、惜別の大阪の食べ物、満喫してください」
先に出てきた生とウーロン茶で乾杯する。母と二人で呑みに来たことなどもちろん初
めてだった。
「明日の新幹線のチケットはもう取ってあんのん?」とナカジマが母に聞く。
「あの子が手配して送ってくれてん。私、ああいうの苦手やからって言うたら次の日に送
ってきてくれて」
「そうなんや、時間は何時?」
「九時ちょうど発やねん」
「そしたら、朝ごはんがついてるから七時半に一階のフロント前に集合しよか」
「今日みたいに遅刻せんといてや」
「大丈夫、夜寝る前に必ず目覚まし掛けてるから」
料理が出始め、生のお代わりをナカジマが店員に告げた時「そうや、これ忘れんうちに渡しとくわ」と言って母が肩から掛けているポーチの中から封筒を取り出した。
そして「例のやつ」と言ってナカジマに差し出した。
「私知らんかったんやけど、十八歳以下の自分の子供やったら親が代わりに口座作れるん
やけど、十八歳超えたら本人が窓口に行かんと口座作られへんねんて。
そやから、私の名義になってるから、もしカードを無くした時だけは連絡頂戴ね。あと、暗証番号はあんたの誕生日の0331にしたから忘れたらあかんで」
「うん、悪いなぁ」と言って合った母の目は“ほんまにこれで最後やで”と言っているようにナカジマには見えた。
二杯目の生が空いて熱燗の一合をお代わりしたときテーブルの料理はほとんどがなくなっていた。
「もうちょっとなんか頼もか?」
「いや、もうお腹いっぱい。最後にうどんだけ食べたいわ」
「オッケー、そしたら俺もうどんあてにして日本酒吞むわ」
「一人前もよう食べんから二人で分けて食べよ」
「ええよ。そしたらなにうどんにする?
最後やからやっぱりきつねうどん、正しくは“けつねうどん”にしよか」
「うん、それでお願いしまう」
二人で“けつねうどん”を“分け分け”して食べ終えると店を出る。
年の瀬の夜の空気は冬の寒さが比較的ましな大阪でもさすがに冷たかった。
ホテルに着くと「最上階に大浴場があるから浸かってきたら」と勧めたが母は今日は疲れたからシャワーを浴びて寝るわと言って部屋の前で別れた。
ナカジマはもう少し吞みたかったので、コンビニへ行こうと思ったが、外の寒さに触れるのが嫌だったので、少し割高だがホテルの自販機を利用することにして再び一階に降りる。
飲み物やアイスクリーム、そしてチョコやスナック菓子や袋パンまでが売っているラインナップ豊かな自販機コーナーでレギュラーサイズの缶酎ハイを二本買った。あては昼間のさきいかがまだ残っていたはずだから何も買わなかった。
そして、エレベーターホールに戻ろうとしたとき一枚のポップに目が止まった。
“夜鳴きコーナーやってます! 夜十時まで一階食事処にて”
これは、あやかさんが贔屓にしている系列のホテルのサービスじゃないか、このホテルもその系列なのかな、とりあえず後で来てみようと思いナカジマはいったん部屋に戻った。
一本目の缶酎ハイを半分ほど吞んだところで大浴場へ行き、戻ってくるとまたさきいかをあてに缶酎ハイを傾ける。
風呂に入って血行が良くなったのか急に酒が回ってきた。鏡に映る顔が真っ赤だ。
そして、何気なく備え付けの時計が九時を示しているのを見た時、急に空腹感を感じた。
確かにうどん屋でも母と二人で食べたあてはしれていたし、最後はうどんを一人前食べようと思っていたところを母と“分け分け”した。
部屋にあった薄い半天を羽織り、さっきの“夜鳴き”に向かう。
ひょっとしてあやかさんも利用していたりしてと思ったが、考えれば今日は金曜日、あやかさんは金曜日の夜にビジホに止まることはなかったのだ。
ナカジマが一階の食事処に入ると一人の先客がいた。
女性だった。
目が合い、軽く会釈すると、女性はマスク越しでもわかる少し恥ずかしそうな表情を返してくれた。
その時、ナカジマの脳は何かに反応した。
最近、どこかでお見かけした人じゃないかなぁ・・あっ、あのTシャツ、見たことがある・・猫が二匹前足でどつきあっているイラスト、その下にかかれた“ねこパンチ”。
「あやかさんだっ」とナカジマは思わず言葉を発した。
女性が一瞬、えっ!と眉毛を吊り上げる。
「すいませんっ」ナカジマの体が勝手に動き女性に近づき「いつも見させてもらっています、あやかさんの動画、無茶苦茶面白いですね」と言って手を差し出した。
「えっ、ええ・・・」と女性は戸惑いながらナカジマに手を差し出す。
「まさかこんなとこで会えるなんて・・実は私も独身で・・失礼ですけど、すごい共感を持って見させてもらってるんです」
「あっ、そ、そうですか・・・」
「これから部屋に戻って二次会開催ですか?」
「は、はい」
「マッチングアプリもいいですけど、今度一度呑みに行きませんか?あやかさんと一度行きたいとずっと思ってたんです。すごく楽しそうなんで。あっ、ちょっと待っていてくださいね」と言ってナカジマはフロントに走っていきすぐに小さな白い紙片を手にして戻ってきた。
「私の電話番号です。良かったら・・」
「は、はぁ・・」と言ってその白い小さな紙片を受け取ると、女性は小さくお辞儀をしてプラ容器を片手に持ってエレベーターホールへと逃げるようにして去っていった。
ナカジマは夜鳴きと言う名のしょうゆラーメンを手にして部屋に戻り残っている缶酎ハイを傾ける。
酔いが回っているとはいえ、すごいことをしたなと思いながら細い黄麺をすする。
体のいい“ナンパ”ではないか。これまでこんなことをしたことは一度もなかった。一体俺はどうしたんだろう。
鏡に映る己の顔を見てナカジマは照れ笑いを浮かべ「おかんに捨てられて焦ってんのか
なぁ、自分の家族を作らな一人ぼっちになってまうって」と言葉を吐き、サービスにしては美味しい夜鳴きだなと思いながら、テーブルに置いたスマホを手にする。
⑫
はっと目が覚めベッドに備え付けられているデジタルの時計を見ると母と一階で待ち合
わせている時間まで五分を切っていた。
どうやら二度寝をしてしまったようだ。
慌ててベッドから飛び出ると顔だけを洗い、スマホを手にして部屋を飛び出る。
「また寝とったん?」
「いや、ちゃんと起きてんけど、二度寝してもうて」
「部屋に戻ってからまた呑んだん?」
「ちょっとだけな」
お食事処に入ると土曜日の朝で時間も早いせいか先客はインバウンドらしきアジア系の
若い男性の四人組だけだった。
コロナが明けたからか、食事はバイキング形式になっていた。
「先取ってきいや、俺あんまりお腹空いてないから」
ナカジマが言うと母は「悪いなぁ」と言って席を立った。
いつもの癖でスマホを手に取るとショートメールに着信があった。
穂花からだった。
“すいません、お店が忙しくて返信が遅くなって、すごい、あやかさんと会えたんですよ
ね。また明日聞かせてください“
思い出した。昨日、あやかさんと出会ったことを穂花にショートメールしたのだった。
“そらそうやんなぁ、金曜の夜言うたら一番の書き入れ時やもんねぇ、失礼しました。今
夜はお寿司予約してるから昼ごはんに回転ずしに行かんようにね“
暫く待ったが返信はなかった。疲れて寝ているのだろう。
母がトナーを持って戻ってきた。
「食べたいもんいっぱいあって目移りして難儀したわ」
言った母のトレーの上にはたこ焼き、紅しょうがの天ぷら、そして、小さな器に入った
うどんが乗っていた。
「昨日の晩とおんなじやんか」
「しょうがないやん、やっぱり食べたいねんから」
「向こう行ったら“大阪シック”になるんちゃうか」
「かもしれんわ」
「寂しいなったら帰ってきぃ、俺の豪華マンションに泊めたるわ」
「ええよ、このホテルに泊まるから」
「そうでっか・・ちょっと俺もなんか取ってくるわ、全然食欲無いけど」
言ってナカジマは席を立った。
ひょっとして、あやかさんがいないかなと辺りを見たがさっきの四人組しかいなかった。
そして、トレーを手に取って、並べられているたくさんの料理の前を歩くが、どれにも
手を伸ばす気になれなかった。
仕方なく、お粥と梅干しとなめこの味噌汁をトレーに乗せ席に戻る。
「なんや、そんだけしか食べへんのん?」と母がナカジマに聞く。
「年々食欲が落ちていくねん。酒はなんぼでも呑めんねんけどな」
「体調には気ぃつけなあかんで。あんた一人やねんから、部屋でもし何かあっても誰にも
気づいてもらわれへんねんから」
「孤独死ってやつやなぁ、朝から重いこと言わんといてよ」
「ほんま体だけはちゃんとしいや。しっかり食べなあかんで」
「しっかり食べな大きなれへんで、やな、昔小さいときによう言われたな」
食事を終えるとナカジマは三十分後にもう一度フロントの前で会う約束を母として部屋
に戻った。
歯を磨き、髭をあたり、帰り支度をしているとスマホが電話の着信を告げる。
「ごめんなさい、眠りの沼に落ちてました」
「ごめんごめん、起こしてもうたみたいで」
「大丈夫です、美容院に行くのでそろそろ起きないといけない時間だったので」
「そうなんや、それやったらええんやけど」
「うちのお店は同伴が入ると美容院代を出してくれるんです。お客様にお声を掛けていた
だいたんだから、綺麗にして行きなさいって」
「ええ店やんか」
「ですから、今日はいつもよりむちゃくちゃ変身していきますから」
「会ってもわからんようになってんちゃうん。影武者を仕込んだらあかんで、ちゃんとほ
のちゃんが来てや」
「わかりました。それより、もうお母様はお見送りされたんですか」
「いや、これから」
「何を贈るか決まったんですか?」
「うん、いちおうね」
「なんなんですか?教えてください」
「いや、ダっサイから恥ずかしい。今日、会った時に言うわ」
「わかりました。お寿司と一緒に楽しみにしておきます」
「了解、そしたらね」
待ち合わせの最寄りの駅名を穂花に伝えナカジマは電話を切り部屋を出た。
新大阪駅までは、ゆっくり歩いても五分と掛からなかった。
もうええからとの母の声を断り、入場券を買って新幹線のホームに二人で立つ。
「昼ごはんはどうするん?駅弁買うてこよか」とナカジマが母に聞く。
「ええよ。姉が駅に迎えに来てくれて、昼ご飯をご馳走してくれるって言うてくれてるか
ら」
母が乗車する新幹線が間もなくホームに入ってくるというアナウンスが流れる。
「そしたら気ぃつけてな」とナカジマが言う。
「ありがとう、なんかあったらお互いに連絡とりあおな」
「了解」
暫く二人の間には沈黙の時が流れ、やがて新幹線がホームに入ってきた。
「おかん、あんな、実は昨日、ボーナスが出たんよ」
「そうなん、良かったやん」
「人生初のボーナスや、ええ歳こいてな。で、色々世話になったからなんか餞別の品でも
と思ってんけど、おかんの趣味とか好みとかようわからんかって・・」
「そんなんええよ、親子やねんから」
「それで、色々考えて・・これにしてん」
ナカジマが差し出した小さな紙片を見て母は目を丸くした。
「生まれて始めて作ってもらった名刺。色々心配かけたし、まあ、やっと、この歳で正社
員になれましたっていう証ということで。
会社の電話番号も書いてあるから、俺がもし孤独死してると思ったらここに電話して。
すぐに会社のもんが俺のマンションに駆けつけてくれると思うから・・はは」
「ありがとう。大事にするわ。お父さんの仏前に供えとくわ」
「色々これまですまんかったなぁ。何も親孝行してやれんで。ほな元気でな」と言ってナ
カジマは母と握手を交わすと「男が人前で泣くもんじゃない」という父の言いつけを守っ
て、まだ車内清掃中の新幹線の前に立つ母を残してホームから一人立ち去った。
⑬
一張羅のスーツに穂花にもらったネクタイをぶら下げてナカジマはマンションを出た。
まず向かったのは銀行のATMだった。
母からもらったピカピカのキャッシュカードを機械に飲み込ませ“残高照会”のボタン
を押下する。
これまで見たことのない桁の数字が表示される。
操作を終了し別の銀行のATMへと向かう。
着くと、誰も並んでいない機械の前に立ち“通帳記入”のボタンを押下し、かなりくた
びれた通帳を飲み込ませる。
すぐに通帳は吐き出され振込金額を見ると225,000と過去最高の金額が記載され
ていた。
そしてキャッシュカードを機械に飲み込ませると今夜の軍資金の五万円をおろしナカジ
マはATMを出た。。
待ち合わせの時間の十分前に到着すると穂花はまだ来ていなかった。
さすがにクリスマスイブとあって周りは幸せそうな顔をして誰かを待っているような人たちで溢れかえっていた。
ただし、自分のような歳の男とか、ましてやスーツを着て首からネクタイをぶらさげているような男は誰一人いなかった。
暫くして一目見てお水のお姉ちゃんとわかる女性が手を振りながら近づいてきた。
そして「ごめんなさい」と言った女性の顔を見た時、ナカジマはその女性が穂花であることを確信できなかった。
「おう、ほのちゃんやね?」
「そうですよ、ナカジマさん、先週の土曜日に会ったばっかりじゃないですか」
「いや、いつもと全然雰囲気が違うから・・」
「だって、今日は何といっても初の同伴なんですから」
「いや、ほんまは影武者かなんかと違う?」
「違いますよ」と言って穂花はナカジマの肩を優しくたたいた。
「じゃあ、店であなたは私のことを何と呼んでいますか?」
「ナカジー」
「じゃあ、あなたはお寿司のわさびが苦手である」
「イエス」
「よっしゃ、ほのちゃんに間違いないわ」
「でしょうっ」
腕を組み、周りの人間の変なまなざしを感じながら二人はナカジマが予約したお店に向かう。
親父さんと奥さんが二人で切り盛りしているようなこじんまりとした店を想像していたが、店内に入るとカウンターで寿司を握っている職人さんが三人とホールに数名の女性がいた。
席に通されるとすぐにおしぼりが供され、いつも通り生とハイボールを注文する。
「せやけど、ほのちゃん、女性ってそんなに変われるもんやねんなぁ」とナカジマはおしぼりで手を拭いながら聞く。
「化粧は“化ける”と書きますから」
穂花はいつもは髪をお団子ヘアーにしてうなじを見せていたが、今日は髪を肩に垂らし外側にカールをつけ、化粧もアイシャドウ、口紅、チーク、すべてが濃かったが嫌味をかんじさせるものではなかった。
飲み物がやって来た。
「じゃあ、お疲れ様」と言いかけたナカジマは照れくさそうに小さな声で「メリークリスマス」と言って二人はグラスを重ねた。
「コースにしたから適当にやってね」
「高かったんじゃないですか?」
「いや、たいしたことないよ、ここより高い店はいくらでもあってんけど、どこも空いて無くて・・」
「そうなんですか、すいません、無理をお願いしちゃって」
「そんなことないよ、誘ったんは俺やねんから」
「ありがとうございます」と言った穂花の少し申し訳なさそうな表情にナカジマはすこし心が動いた。
「せやけど、コロナが明けて初めてのクリスマスやから、みんなこれまで我慢してきたことを取り返そうと思ってんねやろね。若い人らは可哀そうやったもんね」
「そうですよね」と穂花が言った時、最初の料理が運ばれてきた。
茶碗蒸しだった。
「わーっ美味しそう」と言って穂花は嬉しそうな表情でスプーンを手にした。
「お寿司屋のコース料理なんか初めてやから何が一番最初に出てくるかと思ったら・・」
「お先にいただきますっ」と言って穂花はスプーンで茶碗蒸しを一口食べる。
「わーっ、すごく美味しいです」
「ほんまにぃ。じゃあ俺も」と言ってナカジマも手にしたスプーンを茶碗蒸しに伸ばす。
「あっ、ほんまうまいわっ」
「そうでしょ、このあともすごい期待できそうです」
「ほんまやね。今日はゆっくりやりましょう」
「ありがとうございます。ところで、ナカジー、昨日のあやかさんの話を聞かせてくださいよ」と穂花が言う。
「あっ、そうやったなぁ、まあ、想像していた通りのおとなしそうな人やったわ。ほのちゃんと一緒の“コミュ障”てテロップでよう出てくるけど正しくそんな感じの人やったわ」
「そうなんですか。何か話されました?」
「いつも見てます、面白いですね、言うて、握手してもらった」
「へぇ~良かったじゃないですか」
呑みに誘ったことを言おうと思ったがナカジマはやめた。
「最後まで一回も目を合してくれへんかったわ」
「ナカジーが言うようにすごい恥ずかしがりなんでしょうね」
「そんな感じしたわ」
「次の新作見ないとだめですよね。絶対に夜鳴きそばを食べるシーンで“ファンの方に声を掛けられクリビツ‼”というテロップが流れますよ」
「ははっ、わかるわ、それ、なんとなく想像できるわっ」
その後、二人は出てくる料理に舌鼓を打ち、浴びるように酒を呑み店を辞した。
「すごく美味しかったです」
「ほんまにぃ、それは良かったわ、クリスマスイブに寿司ってどうかなと思ってんけど」
「そんなのチキンなんか食べてるのって一部の若い人たちだけですよ」
「ほのちゃんだってまだ若いやんか」
「いえいえ、もう次の代が見えてますから」
「俺に比べたらまだまだヤングやんか」
「ヤングと言う言葉を使っているだけですでにもうヤングじゃないですよ」
「ははっ、確かにそうやわな」
暫くすると今日待ち合わせた場所が見えてきた。
「呑みすぎてしんどいからタクシーで行こ」とナカジマが穂花に声を掛ける。
「そんなんもったいないですよ、環状線で行ってもほとんど時間変わらないですよ」
「ええやん、今日は特別」と言うとナカジマは客待ちしていたタクシーに手を上げ、二人で乗り込んだ。
タクシーが走り出すとナカジマは運転手に断り窓を少しだけ開けた。
「ちょっと呑みすぎたわ」
「ナカジー、だって最後のほうは水のように熱燗を呑んでましたよ」
「そやろ、あかんねん、どっかでスウィッチ入ったらもう止まらんようになんねん」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、ちょっと喉乾いたから、店着いたら一杯目だけ生もらうわ」
「お水あるけど飲みますか? 飲みさしですけど」
「ええの?」
「はい。小さいやつですからもう全部飲んでください」と言って穂花はバッグから小さなペットボトルを取り出しナカジマに差し出した。
蓋を捩じり開け、喉に水を流し込んだ時、ナカジマは生まれて嗅いだことのない香りを感じた。
そして穂花が「私も少し酔っちゃいました」と言ってナカジマの体にもたれかかった。
店に入ると、土曜日の夜にもかかわらずクリスマスイブということで多くのお客さんで賑わっていた。
フロアレディは皆赤いサンタの衣装を身に纏い、店内に流れる曲は毎年この時期になると必ずどこかで耳にするものだった。
「え~、同伴したらこんな席に通してくれるんや?」とナカジマは声を上げた。
その席とは、店の一番奥に君臨し、所謂“上座”的な席で、店の全体を見渡すことができ、体を沈める二人掛けのソファもすべて本革仕様だった。
「そうなんですよ、で、ナカジー、とりあえず生でいいですか?」
「はい、お願いします」
「私、今日の衣装に着替えてきますんで、少し待っててくださいね」
「あいよ」と言ってナカジマはソファに体を沈めたがすぐに生を持って日本人の男のボーイがやってきた。
「何かお食事などはよろしいでしょうか?」
「ごめん、今、腹いっぱい高級寿司食ってきたからいいですわ。なんか軽く乾きもんでも出してくれます」
「かしこまりました」と言って、つるりとした顔のボーイは戻っていった。
暫くすると、サンタに化けた穂花が戻ってきた。
「お待たせしました」と言った穂花は赤いサンタの帽子をかぶり、同じく赤いサンタの衣装を身に纏っていた
「すごい似合うけど、目のやり場に困るわ」
赤いスカートが膝上二十センチに仕上がっていた。
「大丈夫です、ちゃんと“履いて”ますから」
「ははっ、それやったらええわ。安心したわ。
なんか呑むんやったら頼んでや」
「ありがとうございます」と言った穂花はすぐにボーイを呼び「ハイボールお願い」と伝えた。
「せやけど、さすがにクリスマスイブとはいえ、この店にアベックは来てないなぁ」
「アベックって・・カップルですね」
「今はそう言うんや、やっぱりヤングやないよな」
「言葉は時代とともに変わりますからね。
私も最近入ってきた女の子と話す機会があるんですけど一つの会話に大概二つくらいは、はぁ?という言葉がありますから」
「確かにそうやんなぁ。今でこそパンケーキってみんな言うてるけど俺らの時はホットケーキて言うてたもんなぁ」
「そうなんですか?」
「そうよ。いつの間にか俺の許可も得らんとパンケーキになってんねん。あと、スチュワーデスもキャビンアテンダントて全然色気のない言葉に変わってるし、そのくせ、ラブホテルはいったん品がないから言うてファッションホテルに呼び方変わったんよ、そしたら、いつの間にかまた元のラブホテルに戻ってんのよ」
「へぇ~」と穂花が感心しているうちに彼女のハイボールがやってきた。
「じゃあ、改めまして、乾杯っ」
二人のグラスが重なり合う。
「ナカジー、今日はほんまにありがとうございました。お寿司もすごく美味しかったし、ナカジーの話もすごく楽しかったですし」
「こちらこそ、こんなおっさんに一日、それもクリスマスイブに付き合って頂いてありがとうございました」
「いえ、こうやって、所謂“同伴”してもらうとお店から少しだけですけどお手当が出るんですよ」
「そうなんや、少しは俺もほのちゃんのために役立ってるんや」
「そうなんですよ。私なんか滅多にないんで、それもすごく嬉しくって」と穂花は腕をナカジマに絡める。
「そうでっか、まあ、しょっちゅうと言うわけにはいかへんけど、たまにはまた声かけますわ」と言ったナカジマは母からもらったキャッシュカードの残高を思い出した。
「ありがとうございます、もう結構お互いに呑んでますけどゆっくりしていってください」
「おおきに、これ空けたらまた焼酎のお湯割りに梅干し入れてくれる」
「わかりました。お食事はもういいですよね?」
「もうお腹いっぱい、さっきお兄ちゃんにも聞かれたけど乾きもんだけでいいって断っといた」
「そうですか。あと少ししたらダンスタイムが始まるんです。うちもコロナが明けて初めてのクリスマスなんで、何か楽しい企画をしようとなって、今週一週間限定の催しなんです」
「えーっ、ダンスなんかようせんし・・ていうか小学校の時のフォークダンス以来やったことないし・・」
「大丈夫です。体を合わせて、クラゲのようにフラフラと漂っているだけでいいですから」
「簡単に言うなぁ」
「そんなことより、ナカジー、お母様はちゃんとお見送りできたんですか」
「うん。昨日初めて一緒のホテルに泊まって、今朝無事に東京に見送りました」
「前に話していたプレゼントは何にしたんですか」と穂花がハイボールの入ったグラスを手にして聞く。
「名刺」と言いかけてナカジマは留まった。
穂花の前では物流関係のサラリーマンであって生まれて初めて名刺をもらったばかりのライン長ではなかった。
「色々考えたんやけど写真にしてん」
「写真ですか?」
「そう、昨日、実家に行って古い写真を整理しててん。そしたら、親父とおかんと三人で小学校の運動会のお昼休みにお弁当食べてる写真が出てきて・・誰が撮ってくれたんかわからんねんけど、三人が一枚の写真に収まってんのがそれ一枚だけやって、それを渡してん」
「そうなんですか」と言った穂花は少し悲しい顔をして組んでいた腕をほどき、ナカジマの手を強く握った。
「俺、年取ったんか、涙もろなって、新幹線のホームで泣きそうになったから、まだ発車してない新幹線の前におかん一人残してその場から立ち去ってん」
「お母様喜んでるんちゃいます」
「そうやったらええんやけどな」
暫く静かに二人で呑んでいると、突然店内の照明が落ちた。
「いよいよ始まりますよ」
この時期になると必ずどこかで聞く、曲名は知らないが外国人が歌う雰囲気のあるジャズの曲が流れ始める。
「ナカジー、さっ、いきましょっ」
穂花は腰の引けたナカジマの手を引っ張りフロアーに踊り出る。
照明が落ちた店内に目が慣れてくると、自分のようなオジサンは一人もいないことをナカジマは確認する。
「緊張しなくていいですよ、体をゆっくり揺らしているだけで大丈夫ですから」と言うと穂花はナカジマの体に自分の体を合わせる。
ナカジマは穂花の体をサンタの衣装越しに感じる。
唇の距離は十センチもない。
「これ、酔ってるからできるけど、素面やったら絶対無理やわ」
「そんなことないですよ、最初は照れくささが勝ってしまいますけど、段々楽しくなってきますから。だって、この店のお客様でもナカジーより歳の上の方で何人かダンス教室に通ってる方いらっしゃいますから。日本は、もっと大人が楽しむべきだと思うんですね。なにか、楽しむのは若者の特権みたいな風潮がありますけど、大人ももっと楽しんだらいいと思うんです。歌って踊って恋もして、ね」
「確かにそうやんなぁ。前にテレビでイタリアかどっかのヨーロッパの国を旅する番組で向こうの親父が言うとったもん『日本の大人の男性はどうして自ら歳をとっていくんだ。これまでの経験をもっと活かして溌剌と生きていけばいいのに。服装だってそうだよ。年を取ればただでさえシミやしわで全体がくすんで見えてくる。だから逆に派手な原色をつかった服を着るべきだよ』て言うてたわ」
「ほんとう、もったいないですよね。ナカジーもこれまでの経験を活かして・・」
「俺はそんな大した経験してないからなぁ」
「だけど、ナカジー、今日一番うれしかったのは、お寿司屋さんで前菜に色々美味しいものを頂いて、これからメインのお寿司を提供しますと店員さんに言われたときに、前も言いましたけど私わさびが苦手なんで、どうしようかなと思って、一つ目の確か鮪の握りを恐る恐る食べたら、わさびが入っていなかったんです。そして、その後全部のお寿司にもわさびが入ってなかったんで。ナカジーが事前に言うてくれてたんやと思ったら、すごく嬉しくって・・大人、いえ、失礼ですけどおじさんにしかできないことだと思うんです」
「いや、そんなことないよ、最近の若い男の子、ヤングは優しいから、きっと同じことしたと思うよ」
「そんなことないですよ」と穂花が言って唇の距離が一瞬だけゼロセンチメートルになる。
「本当は怒られるんです。だから、暗くて誰にもばれないうちにね」
ナカジマは暫く幸せの余韻に浸っていた。。そして、穂花の唇の感触が無くなりかけたころに「メリークリスマス」と呟いた。
この幸せの空間の中でクラゲのように永遠に漂っていたい、と願いながら・・。
⑭
自宅マンションに着くと日付が変わるまで一時間もなかった。
年内の配送最終日とあってとんでもない量の商品が倉庫内にあふれた。
本当にどうしてもこの本を今日中に手に入れて読みたいのか、おせちくらい自分で作れよバカっ、といったことを何度も心の中で呟きながら一日が終わった。
風呂に入る力が残っていなかったのでナカジマは冷蔵庫から缶ビールと鮭の缶詰の食べさしを取り出し畳の上に腰を下ろした。
格別の最初の一杯を喉に流し込みスマホを手にするとショートメールが一通届いていた。
穂花からだった。
“お疲れ様です。もうお仕事終わって部屋で呑んでいるところですか。ところで、あやかさん見ましたか?ナカジーとの出会いを語っていましたよ~ また、明日にでも見てください、おやすみなさいっ”
穂花への返信を打つ前にナカジマはパソコンを立ち上げユーチューブであやかを探す。
あった、二日前にアップロードされていた。
どうやら、また会社でいやなことがあったらしく、中華料理のチェーン店でかなりのやけ吞み食いをした後、彼女はビジホにチェックインした。
正しく母と泊ったホテルだった。
彼女はいつもの“二次会”を開始して暫くするといつものチャルメラが鳴り、夜鳴きそば会場へと向かう。そして、画面が部屋に戻ってきた彼女に変わると、突然、赤い大きな文字の“クリビツ”のテロップが現れた。
穂花の言った通りだった。
いつも見てくださっている方に突然声を掛けられびっくりしましたと続けてテロップが流れた。
しかし、電話番号を書いた紙を渡されたことは語らなかった。
スマホを手に取り、穂花にあやかの動画を見たことを報告し“クリビツ”の予想にこちらが“クリビツ”しましたとつまらない冗談を混ぜ、最後に今年一年有難う、来年もまたよろしく、と結んだ。
パソコンに目を戻すと、あやかもビジネスホテルのベッドの上で頭を垂れ一年間のお礼を述べていた。そして、最後に、何か来年は恋の予感がするんです♡と締めくくった。もちろん、すぐに“根拠のない自信を持つな!”の黄色い文字のテロップが動画の画面を占拠したことは言うまでもなかった。
⑮
そのショートメールが飛んできたのは年が明けた二日の午後だった。
“先日声を掛けていただいた、あやか、です。
良かったら一度お会いしませんか。ご存じか毎年初詣に伊勢にお参りに行くのですが、一緒に如何ですか。お返事お待ちしております“
目を疑うというのはこういうことだったのかとナカジマは思った。
前日の元旦、コンビニで二リットルの紙パックの日本酒を買って一人で一日中吞んでいたのでかなりの二日酔いだったが、そんなものはどこか遠くへ飛んで行ってしまった。
“こちらこそすいません、少し酒に酔っていて大変失礼なことをしてしまいました。初詣の件、是非、ご一緒させてください。ただ、休みが明日までなので、行けるのが早くて六日の土曜日になるんですけど初詣としては遅くないですか”と、とりあえずあやかに送る。
猛烈な喉の渇きを潤すために水道水をグラスに注ぎ、畳の部屋に敷かれた布団に戻ってくるとスマホにショートメールの着信があった。
“この週末は予定があるので、急で申し訳ないんですが、明日とかは如何でしょうか”
もちろんあやかからの返信でナカジマに迷いはなかった。
“大丈夫です。待ち合わせの場所と時間を連絡ください。楽しみにしています”
すぐにあやかから返信が来て十一時に近鉄の伊勢市駅に集合となった。JR側の改札から出ないといけないそうで、迷ったらいけないので携帯の番号が書かれていた。
“了解しました。よろしくお願いします”と返す。
伊勢なんかは小学校の修学旅行以来だなと思い、壁にハンガーでつるしたジーンズを見た。
かなりくたびれていて、その隣で吊るされているダウンも白い小さな毛玉がいくつか付着していた。
正月明けの二日から“新春大売出し”と銘打ってオープンしている店はたくさんの人で賑わっていた。
助かることは助かるが、そろそろ日本人もゆっくり休憩してもいいのにな、と思いながらナカジマは明日身に着けていく服を選ぶ。
歳が歳だ、高校生の初めての私服での遠足になってはいけない。
黒のチノパンに白のニットのセーター、そしてダークグレーのダウンパーカーを合わせた。
すべては店員からの受け売りだった。
裾上げに一時間ほど時間がかかると言われたので、同じ商業施設にあるうどん屋で少し早い昼食をとる。
迎え酒とばかりに生ビールでわかめうどんを掻きこみ、少し顔にほてりを感じながら店を出ると、やはり同じ施設に入っている大型スーパーで今日の晩御飯を調達し、ATMで明日のデート代と言っていいのかとにかく金を下ろす。ボーナスがあっという間に半分近く無くなってしまった。
そして、裾上げが完了したチノパンを受け取ると、今日はあまり呑まずに早く寝ようとナカジマは商業施設を後にした。
⑯
乗り込んだ近鉄特急は満員だった。
両親が初詣に行く習慣のない人たちだったので、物心ついてからも、友達もほとんどおらず誘われたこともなく、もちろん彼女などいたこともなかったので、初詣に行くのは生まれて初めてのことだった。
車内には着物を着ている女性もいてここ何年も感じたことが無かった正月気分を味わえることができた。
本当なら缶ビールでも吞みたいところだが、今日はとりあえずデートなのだ。赤ら顔で行くわけにはいかない。
駅のホームで買った温かい珈琲を飲み、スマホをいじっているうちに特急電車は目的地に到着した。
ホームに降り立つとあっという間に人の渦に巻き込まれる。待ち合わせのJR側の改札の表示を見つけ、とにかく、歩を進め、なんとか指定された場所にたどり着いた。
まだ、彼女は来ていなかった。
遅れてはいけないと余裕を持ってきたのでまだ待ち合わせの時間まで二十分ほどあった。
その辺りにいないかなと周りを見るがすごい人の数と、また年末にかけてコロナとインフルエンザが流行してきたことからマスクを掛ける人が増え始め、特に女性の装着率はかなりのものだったので、若い人の顔がみな同じに見えた。
たぶん次の便だろうと思って人込みから視線を外そうとした時、一人の女性に目が止まった。
いた。
以前に動画で見たことのあるオレンジ色と言うか柿色というか、ある人気アニメにでてくるいじめっ子がいつも着ているトレーナー。
あんな服を着ているのは彼女しかいない。
彼女はきょろきょろと辺りを伺い、視線が合うと少しお辞儀をして、そろそろと近づいてきた。
首から小さなカメラを提げ、薄いピンク色のマスクをしていた。
「おはようございます。今日もやっぱり撮影してはるんですか」
「すいません、少し慌ただしいですけど・・」
「いえいえ、私も一度どうやって撮ってはんのかなと見たいと思ってたんで」
「そんな大したことはしてないんですけど」と少し照れくさそうに彼女が言って二人で歩き始める。
「お正月はいつも伊勢って決めてはるんですか?」と道中でナカジマがあやかに聞く。
「はい、学生の頃に友達と一緒に行ってから恒例になって、それからずっと行くようになったんです。最近はもっぱら一人ですけど」
「そうなんですか。私も初詣に行く習慣のない家庭だったんで、伊勢なんか小学校の修学旅行以来です」
「小学校の修学旅行は伊勢だったんですか」とあやかがナカジマに聞く。
「あれ、大阪の子はみんなそうなんちゃいます。修学旅行は伊勢、そして、林間学校は高野山て・・」
「いえ、私たち、修学旅行は金閣寺で、林間学校は兵庫県の神鍋高原でした」
「そうなんや、もう、伊勢は定番ではなくなってるんや」
「昔と違って選択肢が増えたからですかね。
USJなんかにも行くと必ずそれらしい団体さんがいらっしゃいますから」
「修学旅行で遊園地ってのもどうかと思うけどなぁ・・まあ、時代なんでしょうね」
「そうなんでしょうね・・あっ!」
「どしたんですか?」
「あれ」とあやかが指さした先には、彼女の動画でよく見かける“顔出しパネル”があった。
「やっぱりやるんですか?」
「もちろんです」
「なんやったら、私が撮りましょか?」
「いえ、大丈夫です。カメラが盗まれないかだけ見張ってて頂いていいですか?」
「もちろんです」
あやかは、ちょうど顔出しパネルの向かいにあった木製のベンチに手際よくカメラをセットした。
「あっ、ナカジマさんとお呼びしていいですか?」とあやかがナカジマに聞く。
「ええ、なんでもいいですよ、中にはナカジーと呼ぶ人もいるんで」
「えーっ、それはあまりにも失礼ですから、ナカジマさんと呼ばせていただきます」
言うとあやかは少し駆け足で“顔出しパネル”に駆け寄り、二つある穴の左の方の穴から顔を出した。
通りすぎていく参拝客と思われる人の何人かが彼女を見る。
少しすると、ベンチに置いたカメラがゆっくりと三回、シャッター音を発した。
彼女は顔出しパネルから顔を外すと、何食わぬ顔で戻ってきて、ベンチに置かれたカメラを手に取り首に掛けた。
そして「すいませんでした」とナカジマに頭を垂れた。
「手慣れたもんですよね」
「始めたころは結構周りの目も気になっていたんですけど、今はなんとも思わなくなりました」
「そうなんですか」とナカジマが言って再び二人は歩き始める。
そして、暫くすると、大きな鳥居が目の前に現れた。
「外宮です。お伊勢さんは外宮を参拝してそのあと内宮を参拝するのが正しい回り方なんです」
「そうなんですか、全然知らなかったですわ」
あやかはカメラを手にして黙々と外宮の中を歩いた。二度ほどカメラを固定して自分の後ろ姿を取り、その時ナカジマはカメラを盗難から守る臨時警備員となった。
外宮を出ると二人はバスに乗った。
「内宮まで歩いて行けないことはないんですけどかなり距離があるんで」
あやかのその声を聞いたときつり革を握るナカジマの腹がグーっと鳴った。
その音を聞いたのかどうか「バスを降りて少し歩くとおかげ横丁というのがあって、そこで昼食をとりましょう」とあやかが笑顔で言った。
バスを降り暫く歩くとそのおかげ横丁なるものが目の前に現れた。
結構な幅のある通りが人で埋め尽くされている。
「お蕎麦とか大丈夫ですか?」とあやかがナカジマに聞く。
「大好きです。日本酒と呑んだら最高ですよね」
「去年、初めて入ったんですけど、すごく美味しくて今年も行こうと思って」
そのお蕎麦屋に着くと、もうお昼の二時を回っているというのに何人かが店の前で入店を待っていた。
あやかは「撮影の交渉をしてきますので」と言って待っている人の間を縫って店に入っていった。
暫くして出てきた彼女は「オッケーでした」とナカジマに告げた。
そして十分ほど待って二人は入店することができた。
「私、一番隅の席をお願いしたので」とあやかはカウンター席の一番端っこに陣取り、ナカジマは一席間を空けた席に案内された。
コロナ禍は過ぎ去ったというのに席と席との間にはまだアクリル板が立てられ、唐辛子の瓶の横に小さな消毒スプレーが置かれていた。
店員さんが注文を取りに来たので、ざるそばの大盛と瓶ビールを頼む。
彼女を見ると、ちょうど、別の店員さんに注文を告げたところで、すぐに自分の目の前にカメラをセットし始めた。
瓶ビールが先にやって来た。
突き出しなのか蕎麦を揚げて短く切ったものをつまみながらビールを喉に流し込む。
彼女も生ビールを傾けている。
“乾杯”と“地球に生まれてよかった”のテロップが目に浮かぶ。
ざるそばがやってきた。
見るからに美味そうだったが、喉に流し込むと間違いのないものだった。
ちらっと彼女の方を見るが、湯気をたてたそばを掻きこんでいる。そばの横には小さな器が置かれていて、何か小さな丼とのセットでも頼んだのだろう。時折、カメラに向かって両手でピースマークを送っている。動画でよく見る光景だった。
途中、無性に日本酒を吞みたくなったが、さすがに赤い顔をして付いて回るわけにはいかないので、ビールで我慢する。
食事を終え、お勘定となった時、自分の分は払わせてくださいと彼女はお願いしたが、女性に払わせるわけにはいかないので、何とか説得して財布を収めてもらった。
「あともう一軒寄りたい店があって、それが終わったら内宮を参拝して今日の動画は終了です」
「わかりました、せやけど、ユーチューバーって動画見てたら簡単そうですけど、結構大変ですよね。ようさん歩き回って、お店の人とも交渉せなあかんし、終わってから編集もあるんですよね。それをほぼ毎週、会社に勤めながらするってなかなか大変でしょ」
「始めたころはまだユーチューブというものがあまり浸透していなかったので撮影を断られるお店が多かったんですけど、今はユーチューブも市民権を得たんでだいたいは快く許可頂けるようになって・・編集も大変だったんですけど、慣れてくると段々楽しくなってきて・・」
「そうなんですか、僕は絶対ようやりませんわ。とにかく、言葉悪いですけど、すごく面倒くさそうなんで」
「そうですか」と言った彼女が「あっ、あのお店です」と歴史を感じる木造の建屋を指さした。
伊勢と言えば赤福餅、店の正面に掲げられた横文字の大きな看板には金色で“赤福”の二文字が煌々と輝いていた。
「ここもいつも来るんです。お店で赤福餅が食べられるんです」
「そうなんですか・・いや、残念なんですけど、実は甘いもんが苦手でして・・」
「そうなんですか、じゃあ、私一人で行っててくるんで、少しだけ待っててもらっていいですか。ダッシュで食べてきますので」
「申し訳ないです。急がないんでゆっくりと召し上がってきてください。その辺ぶらぶらしてますんで」
言うと彼女は「では」と言って店の中に入っていった。
対応に出てきた店員と何かを話している。
おそらく撮影の交渉をしているのだろう。
店員が笑顔で店の奥を手で示したので、また端っこの席で撮影をするのだろう。
彼女の姿を見届けると、おかげ横丁を少しぶらぶらする。
インバウンドの人たちの姿がそこら中にある。よその国の正月を満喫して何が楽しいんだろうとナカジマは思った。みな、着ている服も履いているスニーカーもぶら下げているバッグもブランド品だ。私たちお金持ってますと言わんばかりの風情は、海外を闊歩したバブル期の日本人を地でいっている。
しかし、この国はいったいどうなるのだろう。とうとうG7の中でGDPが最下位になったという記事を年末の新聞で読んだ。未だ脱却できないでいるデフレ、どんどん加速する超高齢化社会ならびに少子化。少子化については自分にも責任の一端はある。二十年後三十年後の自国の姿が想像できない。切羽詰まったタカ派の一部がまた愚かな戦争でも近隣諸国にふっかけるか。いや、そんな勇気のある人間と言うか男はもうこの国には存在しない。観光で飯を食っていく国に成り下がって、全国民が法被を着て、中国語と韓国語と英語をマスターして、神様仏様観光客様を空港へお出迎えに行くだけだ。
そんなつまらないことを考えているとスマホが震えた。
“お待たせいたしました。食べ終わりました”
彼女からだった。
別れてからまだ一〇分もたっていない。
慌てて戻ると彼女は店の前で手を振って迎えてくれた。
「お待たせしました」
「もっとゆっくり食べはったらよかったのに」
「いえ、お餅二個だけですから、ペロリです。結構いい時間なんで次行きましょう」
二人で内宮を目指す。
道すがら彼女は何度も足元を撮った。
動画でいつも流れている曲がナカジマの頭の中で奏でられる。
内宮に着くとあやかは積極的に動き回り、ナカジマは何度かカメラの見張り番を務めた。
そして、あやかが「ありがとうございます。これで今日の撮影は終了です」と言った時には陽はすでに西に傾いてた。
「お疲れさまでした。僕らいつもビール吞みながら気楽に見させてもらってますけど、こんなにご苦労されて撮ってらっしゃるのを間近で見たらなんか申し訳ない気分です」
「そんなことないですよ。こちらこそ一日お付き合いいただいて、すごく楽しかったです。
私まだ夜の撮影がありますので駅までお送りします」
「そうですよね、二次会開催せんとダメですもんね」
ナカジマはあやかに最寄りの駅まで送ってもらい「今度は撮影抜きで一度呑みに行きましょう」と二人で約束をして別れた。
何もせずただ一緒に歩いていただけなのにナカジマは結構な疲れを感じた。
売店でワンカップを二つとするめを買って電車に乗り込む。
動き始めた列車を夕陽が追う。
ちびちびと喉に流すワンカップがやたら旨い。
昼間、この国のこれからを憂いた。しかし、その前に己のこれからはどうなのだ。母からもらった金をお守りにして、毎日人様の商品を選別してコンベアに乗せ、給料日に穂花の店に行って薄っぺらい愛情を金で買う。これを一生続けるのか。いや、母からもらった金で一発投資で勝負、株でもするか・・いや、そんな勇気など自分にはあるわけがない。十年後の俺・・二十年後の俺・・。
スマホを手に取りあやかにメールを打つ。
“今日はありがとうございました、すごく楽しかったです、今度吞みに行くのを楽しみにしています”
夕陽を眺め、ワンカップをナカジマは舐める。
⑰
正月休みが明けてからは地獄のような忙しさが続いた。
毎日自宅マンションにたどり着くのは日付が変わる直前で、ご褒美のビールを呑む時間も力も残っていなかった。
そして、成人の日が過ぎた週の金曜日の夜、久しぶりにまともな時間に帰ってきて缶ビールを開けようとした時にナカジマのスマホが震えた。
“来週の土曜日、お食事に行きませんか?難波に安くて美味しい和食のお店があるので”
あやかからだった。
“喜んで。また待ち合わせ場所を言ってください”とビールに口をつける前に返す。
すぐに返信が来る。
“ありがとうございます。店が所謂『裏難波』なので少し歩きますけど高島屋の前に五時でいいでしょうか?”
“了解です。楽しみにしています”
ビールを一気に喉に通す。これまでの疲れが一気に吹き飛んだ。久しぶりに穂花の店にでも行こうかとメールを打つ。
すぐに返信は来ず、冷凍うどんの解凍が済んだことを告げるレンジの電子音が鳴った時、スマホが震えた。
“ごめんなさい、明日は珍しくナカジー以外の常連さんと同伴なんです。来週の土曜日はどうですか?”
“その日は私も珍しく用事が入ってて・・じゃ、また連絡します、週末のお忙しいところすいませんでした”
冷凍うどんをレンジに取りに行き、うどんスープを湯で割った丼に放り込み、ネギを散らす。
畳の間に戻り腰をおろしてうどんを啜り始めた時、穂花からの返信がある。
“ごめんなさい、じゃあ、また、連絡をお待ちしています。そうだ、あやかさんの動画見ましたか?伊勢へ初詣に行ったものです。相変わらず面白かったですからまた見てください”
そういえば、忙しすぎてユーチューブも全く見ていなかったなとナカジマは思い、早速パソコンを開きあやかを探した。
いた。
“神聖なる伊勢より愛をこめて♡”と銘打たれた動画を見進めていく。
彼女も行きの近鉄特急の中ではビールを呑みたかったらしい。我慢して、サンドウィッチを珈琲で流し込んでいた。
顔出しパネルで突き出した顔には、ぼかしの代わりに、着ているトレーナーがトレードマークのアニメの登場人物の顔が描かれていた。
蕎麦屋では、やはり、温かい蕎麦といっしょに小さな親子丼を食していた。
赤福本店では二つのお餅を音速のごとく食し、おそらく熱いだろうお茶をごくごくと喉に流し込んでいた。申し訳なく思う。
夕食はホテルの近くの中華料理屋で半チャンラーメンと生ビール、そして、ホテルに戻っての二次会は途中のコンビニで仕入れてきた缶ビールと缶酎ハイと簡単なあてで施され、そして、よほど好きなのか、プラスチックの容器に収まった赤福餅をデザートとして食し、お開きとなった。
最後に、今年一年よろしくお願いします、と頭を垂れた後、あやかは歳女であることを告げ、今年の干支に言及した。
今年の干支は甲辰(きのえたつ)と言って、これまで準備してきたことが形になる、だとか、新しいことに挑戦して成功する、といったことを述べた。
“これまで準備してきたことが形になる”
黄色い文字のテロップが流れたかと思うと“これまでの婚活が実り晴れて結婚”の赤い文字のテロップがすぐに追いかけてくる。
“新しいことに挑戦して成功する”
再び黄色い文字のテロップが流れる。
“マッチングアプリを辞め、新しいこと、ナンパをして彼氏をゲット!!”とまた赤い文字のテロップが追いかけてきた。
そして、動画の最後に、彼女のお姉さんのアニメが現れ“生きてる人間でいいからね”と金文字のテロップが流れた。
⑱
翌日の土曜日の午後、ナカジマはあやかとの伊勢旅行の時に慌てて服を買いに行ったアパレルショップのフロアーにいた。
同じ服装で行くのもどうかと思い、急遽やって来たのだ。
フロアーを見渡し、伊勢旅行の時に色々と相談に乗ってくれた店員を見つけ「ちょっとズボンを・・」と言いかけて「ちょっとパンツを買いたいと思って」と言った。
ある日、会社の昼休憩の時に若い同僚と話しているときに“ズボン”という単語を発した時にきょとんとした表情をされ、続けて「いえ、作業着なんかは“ズボン”作業ズボンでいいと思うんですけど、普段着だとかスーツは“パンツ”ですよ」と言われ軽いショックを受けた。
「そしたら下着のパンツはなんて言うんや?」
と聞くと「アンダーウェアです」と軽く返されてしまった。
「今日はどのような」と店員が聞いてくる。
「前と同じやつで、色違いが欲しいなと思ってるんで、あっ、今履いてるのがこの間のやつね」と言ってナカジマは自分の下半身を指さす。
「あっ、ありがとうございます、それでは、ブラウンなんか如何ですかね。どんな服にも合わせやすいので」
「そうですか」と言いながら、まともな普段着はこの間買った一張羅しかないんですわと心の中で呟く。
すぐに店員はブラウンのパンツを持ってきてくれた。
「じゃあ、これにします」と言って、レジに持って行って代金を支払い、前回同様、裾上げに時間がかかるので昼食を取ることにする。
しかし、土曜日の午後とあってどの店もフードコートも立錐の余地がなく、諦めて商業施設を出るとちょうど目の前にコンビニがあった。
“イートイン”と看板に書かれていたので、入店して覗くと、空席があった。
慌てて駆け寄り着ていたダウンパーカーを椅子に掛け席を確保した。
そしてフードコーナーに行き、三角のハムのサンドウィッチと温かい缶コーヒーを手にして精算を済ませ、席に戻ってきた時、スマホが震えた。
母からで、メールではなく電話だった。
「どしたん?」
「いや、実はな姉のことなんやけど」
「叔母さんの?」
「そう」
「叔母さんがどしたん?」
「なんかな、ちょっとボケが始まってきてる感じやねん」
「そうなん? せやけどまだ叔母さんて確か八十くらいやったやんなぁ」
「そう、私の三つ上やから」
「なんか、それらしい症状が出てんのん?」
「まあ、お互いええ歳やから、物忘れがひどかったり、同じこと何回も言うたりはするんやけど、たまに私の顔見てきょとんとした表情で『どなた様でしたっけ』て言うねん」
「これまで電話で話してるときなんかはおかしなところなかったん?」
「そう、せやからびっくりしてんのよ」
「他にはなんかそれらしいことあるの?」
「いや、それ以外は普通で、会話もちゃんとできるんやけど、とにかく、ようきょとんとした表情すんねん」
「で、どうするん?」
「本人にボケてきたんちゃうか言うたら怒るかもしれんから、来週に、いつか入るねんから一回見学に行こうって言うて老人ホームに行くことにしてんねん。で、予約取った時に向こうの方に事情を話して、クリニックの先生にそれとなく様子見てもらうようにしてんねん」
「そうか、わかったわ、また結果聞かしてな」
「うん。あんたは変わりないの?」
「特にはね」
「そう、そしたらね」
電話を切るとサンドウィッチを食べスマホをいじり缶コーヒーを飲み干すとアパレルショップに戻る。
裾上げはすでに出来ていて商品を受け取ると、同じ商業施設に入っている書店に移る。
“資産運用”のプレートが貼られた棚の前に立つ。
最近よく耳にするNISAの書を手に取る。
ユーチューブでも“NISA これからの資産運用”と銘打った動画をよく見かける。
五ページほど読んだところで飽きてしまい、これなら銀行とかでやっている無料相談会にでも行ったほうがいいだろうとナカジマは書を棚に戻した。
店に入るとアッシュ君が迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。だけど、きょう、ほのかさん、お昼は入っていない」
「大丈夫、わかってるから」
「そうなんですか、じゃあ、どうぞこちらに」
アッシュ君に案内されナカジマはテーブルに着く。
結局、行くところはここしかなかった。
「いらっしゃいませ」と二十歳ぐらいの女の子が横につく。
「ルリカです、よろしくお願いします」
「こちらこそ。喉乾いたんで生もらえます?
ルリカちゃんもなんか呑んでね」
「ありがとうございます。じゃあ、ハイボールを頂きます」
「どうぞどうぞ。せやけど、最近若い人らはみんなハイボールやね、まあ、確かに呑みやすいし、呑みすぎへんかったらそんなに酔わへんし」
「そうなんです。私、あまりお酒が強くなくて・・」
「そうなんや。せやけど、まだ若いやんねぇ、ほのちゃんの一回り下ぐらい」
「いやぁっ、それなら私未成年になっちゃいますよ」
ナカジマにはどう見てもルリカが二十代前半にしか見えなかった。
「二十一です」
「そうなんや、ひょっとして学生さん?」
「はい、そうなんです」
「こんなところって言うたら失礼やけど、お小遣い稼ぎか、ひょっとしたら、最近社会問題になっている、ホストに入れ込んで大量に借金して、その返済のためとか・・」
「そんなんだったらいいんですけど、どちらとも違います」
「そうなんや」とナカジマが言った時、アッシュ君が呑み物を持ってやってきた。
「お待たせしました」と相変わらず彼の目が輝いている。
軽く乾杯をした後「実は奨学金なんです」とルリカがナカジマに言った。彼女の目はアッシュ君と対照的に輝きを失っていた。
「そうなんかぁ、結構、おるわねぇ、この間、ユーチューブを見ていたら三十歳過ぎた女の子もまだ返し続けてるて言うてたもんなぁ」
「私の周りの子もみんなほとんどそうなんです」
「らしいねぇ、俺らの時は学校の授業料なんか親が出してくれるのが当たり前やったし、父親に聞いた話やったら、もっと昔は、大学に行きたくてもお金のない子は泣く泣く断念して高校出て働いたって言うてたもんなぁ・・失礼やけど、借金してまで大学って行かなあかんもんなんかなぁ・・」
「だって、周りはほとんど大卒ですから・・。
お客さんは子供さんの授業料は出してあげてるんですか?」
「ほのちゃんに聞いてない? 俺この歳で独身やから」
「あっ、すいません・・」
「いや、ええよ、せやけど、自分ら大変て言うかえらいよなぁ、自分の学費を自分で稼いでるんやから」
「返済は卒業してからなんですけど、就職してしまうとなかなか副業なんかできないと思うんで、今の内から貯めておこうと思って・・」
「勤めてからユーチューバーになったらええやん。きわどい恰好して街中歩いている動画なんか結構あるやんか」
「うーん、こういったところで働きながら言うのもなんですけど、そこまでして稼ごうとは思わないんです。気持ちはよくわかるんです。お金が全てだって。だけど、それは・・」
「お金が全てか・・なんか悲しいねぇ、お金に翻弄される人生って」
言いながら『お前もだろが』とナカジマは自らに言い放った。
「そうだ、たしか穂花さんも奨学金を借りていたはずですよ。まだ、あと何年か残ってるって言ってらっしゃった記憶があります」
「そうなんや」と言いながら、自らも巻き込まれた平成大不況は色んなところに影を落としていて、未だ消えていない影はいくらでもあるんだなとナカジマは実感した。
「そしたら、今日はわずかしか協力でけへんけど、ルリカちゃん、指名して、時間もできるだけ延長するわ」
「えーっ、ありがとうございます」
輝きを失っていたルリカの目が若干だが光を得たように見えた。
結局、二回延長をして、ナカジマの横にはずっとルリカがいた。
「すきっ腹に呑んだら結構回ったわ。ルリカちゃん、ありがとうね」
「いえ、こちらこそありがとうございました。
今日は穂花さんは遅番なんで」
「知ってるよ。同伴なんやろ」
「ご存じなんですか?」
「今日のお昼に行くわ言うたら同伴やからって言われて。せやけど、結局、行くとこないからここに来てもうてん」
「そうなんですか。
穂花さん、お客さんのように少しご年配の方にすごく人気があるんですよ」
「上手いこというよな。いわゆる“おじさんキラー”なんやろ。前も言うとったよ、おむつ履いてるお客さんから指名掛かるって」
「はは、あのおじいさんのことですよね。それで今日の人も歳が確か四十を少し超えている方で、嘘か本当かIT関連の会社を経営していて年商が十億を超えるらしいです」
「すごいやんか・・玉の輿に乗ったらええねん」
「先週に初めてうちの店に来られて、たまたま穂花さんが付いたら、すごく、気に入られて、いきなり今日の同伴ですから」
「へえーっ、すごいなぁ、ルリカちゃんも早う、そういう人見つけや」と言ってナカジマは席を立った。
そして、勘定を済ませ、店の前に見送りに来てくれたルリカちゃんに「ほのちゃんによろしい言うといて。また、来月になったら来るからって」と言いナカジマは場末の街の冷たい空気に身を預けた。
⑲。
待ち合わせの場所に着くとすでにあやかは来ていた。
「すいません、お待たせしまして」とナカジマが頭を下げる。
「いえ、私も来たばかりですから」とあやかは今日もピンクのマスクで小さな顔を覆っていた。
土曜の夕刻とあって周りは待ち合わせと思われる人がたくさんいた。
「じゃあ、行きましょか」とナカジマが言って二人は裏難波に向かって歩を進める。
会話がずっとなかったが、黒門市場のアーケードが見えてきた時「お忙しいところすみません」とあやかが口を開いた。
「いえ、土日は腐るほど時間が余ってますから、かえって大歓迎です。よく行きはる店なんですか?」
「二、三か月に一度なんですけど、すごく気に入ってるんで、あまり人に教えたくないんです。だから動画でも一度も撮ったことはないんです」
「その気持ち、なんとなくわかりますわ」
二人は堺筋の手前で道を折れ細い通りに入った。
「ここです」
その店は昭和の純喫茶のような店構えをしていた。
「へぇーっ、和食を提供する店には見えないですね」
「はい、私も初めて入った時はすごく勇気がいりました」
二人で入店する。
店は全体的に薄暗く、店構え同様、昭和の純喫茶店という雰囲気を醸し出していた。
「あやちゃん、いらっしゃい」と小柄な年配の女性が店の奥から出てきた。
「おかあさん、お久しぶりです」
「ようこそ、あの奥の席を取ってあるんで」
と店の奥の四人掛けのテーブルをおかあさんは指さした。
向かい合って座ると二人の間には天井から飛沫防止用のビニールシートが垂れ下がっていた。
「とりましょか?」とおかあさんが言ったがあやかは「大丈夫です」と言って断った。
「すいません、こういうところ神経質なんで」と言ったあやかは「おすすめはあれなんです」と店の奥にぶら下がっている小さなボードを指さした。
魚をはじめとした美味しそうなメニューが書かれていて値段もすごくリーズナブルだった。
「吞み物何にされますか?」とおかあさんが聞きに来た。
「僕は生で、あやかさんは何されます?」
「私も生を頂きます」
おかあさんが店の奥に消えていく。
「あやかさん、動画見てたら日本酒は呑みはりませんよね」
「嫌いじゃないんですけど、結構酔っちゃうんです」
「そうなんですか。僕はビールちょっと飲んだらすぐに日本酒に移行するタイプなんで」
「ここのお店は日本酒は一種類しかないんですけど大丈夫ですか?」
「酔えたらいいんで、銘柄なんか一切気にしません。甘口はちょっと苦手ですけど大丈夫です」
「そうですか。お魚は本当にどれも美味しいんで日本酒に合うと思います」
「嫌いなものはないんで、あやかさん、お任せしますんで適当に頼んでください」
「わかりました」
おかあさんが生二杯を持ってくるとあやかは適当にあてを注文して、ジョッキを重ねた。
「渋くていいお店ですよね」と言いながら流れてきたBGMに「懐かしいっ」とナカジマは思わず言葉を吐いた。
「私も聞いたことがあります」
「ほんまに?これ僕らが小学生の時のアイドルの曲ですよ。前から思ってたんですけど、動画見てたらすごく昔のしゃれとかギャグとかよう知ってはりますよね。年齢詐称してるんちゃうかってほんとうに思ってたんですよ」
「今はSNSでいくらでも昔の番組とか見れますので」
「そういうことですか、いや、いつもあのテロップ見て爆笑してるんですよ、昭和の匂いがするなって・・」
「今のお笑いも嫌いじゃないんですけど、昭和のころの方がなにかはまってしまうんです」とあやかが言うと、注文したお料理が運ばれてきた。
鯵の造りがボードに書かれた値段では到底できない艶やかな盛り付けで供された。
「おかあさん、熱燗もらえますか。これはもう日本酒でいかんと・・」
「あやかちゃんはいつものハイボール?」とおかあさんが聞く。
「はい、お願いします」と言うとあやかはピンク色のマスクを顔に戻す。彼女はジョッキを口から離すたびにマスクを戻した。
「あやかさん、最近、あの業務用のハイボールのタンクを持ち歩いていないですよね」
「そうなんです。結構重いし、会社の更衣室で人に見られると『旅行に行かれるんですか』と聞かれて、そのたびに嘘をつかないといけないんで、なにか疲れたというか面倒くさくなってしまって」
「そうなんですか」
「ところで、この間、一緒に行っていただいた伊勢の動画は見ていただけました?」
「ええ、相変わらず面白かったです。よっぽど赤福が好きなんやなぁって」
「ははっ」とあやかがマスクの向こうで笑う。
「あの後は撮られてないんですか?」とナカジマがあやかに聞いたとき、おかあさんが頼んでいた吞み物を供してくれた。
「えべっさんに行ってきました。ずっと行きたいと思っていたんですけどコロナだったんで・・」
「私も行ったことないんですけど、すごい人なんでしょ」
「すごかったです。久しぶりに人込みに酔いました」
「そんなに・・あっ、鯵よばれましょ」
ナカジマは見るからに新鮮な鯵を醤油に着け喉に流す。
「わっ、これは旨いわ、このやや甘口で、すだちが入ってるんですかね・・このたまりとむちゃくちゃ合いますよね」
「そうでしょ。わたしもこのお醤油の大ファンなんです」
「あっ、ごめんなさい、あまりにも鯵が美味しすぎて、話がそれちゃって・・それで、笹とかも買いはったんですか?」
「ええ、少しだけで、あとは露店でいろんなものを食べて、呑んだだけですけど、すごく雰囲気が楽しかったです」
「で、その後は、あの辺りの安い宿で・・」
「いえ、さすがにそれは・・天王寺まで行ってビジホでいつも通りに過ごしました」
「そうなんですか。僕も一回行ってみたいなぁ・・」
「来週にはアップロードされると思いますので是非また見てください」
「もちろんです」
出てくる肴すべてが格別で、ナカジマはやや癖があるものの、ちょうどいい辛口の新潟の酒を何度も煽った。
飛沫防止のスクリーン越しに見えるあやかの顔は少しだけ赤く見えた。
「あやかさん、前に動画で見たんですけど、あの奨学金の件、あれ本当なんですか?」
「はい」とピンク色のマスクをしたままあやかは答えた。
「いや、私の知り合い言うて、呑み屋の女の子なんですけど、やっぱり、同じような境遇の子がいて、まだ学生なんですけど、そういった店で働いてお金貯めてるんです」
「私の同級生もほとんどそうです」
「みたいですよね。女の子が借金背負って社会に出るってのは酷ですよね」
「本当に“金なし夢なし彼氏なし”を地でいっています」
“夢”のところは“乳”ではなかっただろうかと思いながらナカジマはさらに熱燗を注文した。
「だけど、あやかさん、私もテレビのひな壇でアホのタレントが賢いふりしてしょうもない自論垂れてるみたいに偉そうに言うてますけど実際は“金なし夢なし彼女なし”ですから」
あやかはえっ?という表情をして、マスクを外しハイボールを舐めるとすぐにマスクを戻した。
「あやかさんですから言いますけど、実は私、今、四十八歳なんですけど、ついこの間、生まれて初めて正社員になったんです。ずっと、アルバイト社員だったんです、所謂、非正規雇用社員だったんです。正社員になったいうても給料はおそらく一流企業の大卒の初任給より安いと思います。だから貯金もほとんどありません。この間、母親がお姉さんと東京で二人で住むから言うて、誰も住まなくなる実家を売却したお金の一部、一千万なんですけど、それを所謂“手切れ金”でもらって、それだけなんです。その一千万を切り崩しながら残りの人生を一人で生きていくというすごく寂しく夢が全くない未来が私を待っているんです」
おかあさんが熱燗を持ってきてくれた。
「どうですか、うちのお料理は?」とおかあさんが聞く。
「いやあ、どれもむちゃくちゃ美味しいです。お酒を呑むための肴と言った感じで・・」
「ありがとうございます。ゆっくりしていってくださいね。あやちゃんはどうする?しめにざるそばでも作ろか?」
「お願いします」とさやかが言いおかあさんは笑顔を残して戻っていった。
店の時計を見ると入店してから三時間が過ぎていた。
「だけど、お金だけじゃないと思うんです。私もお金は欲しいと思いますけど、それだけじゃないと思うんです。よく動画を見ていただいた方から、お金がないと言いながら、ユーチューブの収益が結構あるんじゃないのか、と言ったことをコメントされるんですけど、実際に会社からもらっているお給料よりは多く頂いています。だけど、しょっちゅう旅行に行ったりビジホに泊まっているんでほとんど残らないんです。だから、動画でたまに姉から預金の残高を報告して怒られているシーンがあると思うんですけど、あれは全くの事実なんです」
「へぇーっ、そうなんですか」
「迷惑系やきわどい恰好で街を歩いたりして再生回数を稼いでいる人も中にはいますけど、何かそれは違うんじゃないかと思うんです。そこまでしてお金を稼いでどうするのかなと思って、恥ずかしいとか思わないのかな、お金さえ稼げば自分は他人より優れていると思っているのかなとか思っちゃうんです。普通に暮らせればそれでいいと思っています」
「普通に暮らすということは、普通に家族を持ってっていうことですよね」
「え、ええ・・それが意外と難しいことなんですけど・・」
言って、あやかはマスクを取って残っていたハイボールを一気に喉に流し込んだ。
「僕もね、この歳なんですけど、まだ、少しは結婚願望ってあるんですよ。さっきも言いましたけど、もう今後孤独に生きていくのが確定してるんで、まあ、現実的には無理かもしれませんけど、物好きな人がもしおったらとわずかな望みを抱いているんです」
言うとナカジマはもう何杯目だかわからないコップ酒を呷った。
「だけど、あやかさん、あなた三十五年彼氏がいないというてはりますけど、そんなん可愛いもんです。僕なんか四十八年間いないんですから」
えっ?という顔をあやかはビニールシート越しにナカジマに見せた。
「ほんまに“金なし夢なし彼女なし”を地で行ってますわ。あっ、おかあさん、最後にもう一杯お酒もらえますか?」とナカジマは店の奥に向かって声を掛けた。
おかあさんはすぐにナカジマの熱燗とあやかのざるそばを持ってテーブルにやってきた。
「おにいさんは何か締めに食べなくて大丈夫ですか?」とおかあさんがナカジマに聞く。
「ええ、もうたくさんよばれて呑んで、おかあさんの愛情もたっぷりいただきましたから」
「上手いこと言いはるねぇ、あやちゃんとはどういうご関係の方ですか?」
「逆にどういう関係に見えます?おかあさんからしたら」
「会社の上司とか」
「土曜日の夜に私服で会社の上司と呑みに来たらヤバいでしょ」
「そうか、じゃあ、なんやろねぇ・・」
「ただの吞み友達です。彼氏とか彼女とかっていう関係ではないです」
「それは言わんでもわかるわ」
おかあさんの答えにあやかはマスクの上から口に手を当てて笑う。
「おかあさん、お酒だけじゃなくて、愛情までも辛口なのね」
「酒呑みはみんな辛いもんが好きでしょ」
「おっしゃる通り、ごもっともです。で、おかあさん、先に勘定してくれます、酔っぱらってるんで払わんと帰ってしまいそうなんで」
ナカジマが言うと、おつゆにわさびを溶いていたあやかが立ち上がり「あっ、私も払います」と言った。
「いいですよ、こんないいお店を紹介してもらったんですから」と言ってナカジマはおかあさんに大枚を一枚渡し店の奥に戻らせた。
「すいません、私が誘ったのに」とあやかは申し訳なそうな表情で腰を下ろした。
「店を出た後に『割り勘で半分払ってください。ただし、ほんまはざるそばの分あなたの方が多いんだけどね』みたいな過去の動画の男のようなことを私は言いませんので」
あやかは手に口を当て、ほぼ爆笑に近い笑い方をした。
「ほんとうに、変な男性が多いですから」と目に涙を浮かべてあやかは言った
「まあ、変ていうか、きっちりしてるっていうか、僕らには持ち合わせてないもんを持ってますよね」
あやかが笑い涙を拭っているとおかあさんがお釣りを持って戻ってきた。
「えーっ、こんなにお釣りあんのん?無茶苦茶安いですよね」
「そうでしょ、だから、またお友達誘ってきてくださいね」とおかあさんが言って戻っていった。
「ええ店ですよね、誰かって友達なんかおれへんから、たまに一人で来させてもらいます」
「はい、ただ、あまりいろんな人に言いふらさないでくださいね」とあやかが言う。
「もちろんです」と言ってナカジマはゆっくりと熱燗を喉に流す。
「ところで、あやかさん、近々に動画の撮影の予定はないんですか?」
「ありますよ、もうすぐ節分ですから」
「あっ、それ去年のやつ見ましたよ、ビジホのなかで一人節分してましたよね。お面被って。で、豆をまく映像に“決してまねをしないでください。彼女は特別な訓練を受けていますから”というテロップが流れて『どんな訓練やねん!』と思わずパソコンの画面に向かって突っ込みました。あれですよね?」
「ははっ、よくご存じですよね」
「いやぁ、最高ですよね、下手な最近の何とか世代って言われてる若い芸人よりよっぽどあやかさんのほうが面白いですよ」
「そんなことないですよ」と言ったあやかがざるそばを食べ終えると二人は店を出た。
地下鉄の駅まで歩く力が残っていなかったナカジマはあやかに「僕はタクシーで帰りますんで、あやかさんもタクシーで帰ってください」と言って大枚を差し出したが彼女はそれを拒んだ。
「大丈夫です、まだ早いですから地下鉄で帰ります」
「そう・・」と言って大枚を引っ込めたナカジマは泊っていたタクシーに手を上げた。
そして「今日は有難うございました」と言うあやかに「こちらこそ、ありがとう」と言ったナカジマはタクシーに乗り込み窓を開けた。
「あやかさん、俺、四十八年間、彼女おらへんかったって言ったでしょ、実は、女性とそんな関係も持ったことないんですよ、処女・・違う・・童貞なんですよ」
あやかは驚いて言葉が出ず、口だけをナカジマに向けて動かした。
“ク リ ビ ツ”
⑳
重油が入ったような強烈に重くタプタプと揺れる脳みそをスマホの着信音が激しく揺さぶる。
ナインカウントで何とかリングに手を掛けたレスラーのようにスマホをつかみ取る。
「悪いな、休みの日に」
母だった。
「どしたん? なんかあったん?」
問いかけに母は少しだけ間を開けて「この間の姉の話やねん」
まだ機能していないオートマチックの脳みそに無理矢理ミッションでギアを入れる。
「あー あのことね 行ってきたんや 老人ホームに」
「そうやねん。そしたら、クリニックの先生が言うには間違いなく始まってますって。これから少しずつ少しずつ進んでいきますからって」
「そうなんや・・まあ、なってもおかしない歳やからなぁ」
「ひどなってきたらどうしよう? わたしよう面倒見んわ」
「叔母さんを追い越すくらいボケたらええやんか。今の世の中変な言い方やけどボケたもん勝ちやで」
「そんな冗談言わんといてよ」
「それやったら、もう早いうちにホームに入ったらええやん、叔母さんがまだ計算できるうちにその豪邸売り払って・・」
「私もそう思っててん。それで、見学に行った帰りの電車の中で『ええ老人ホームやったなぁ、もう早いうちに入らへん』て言うたら『いや、足腰が立てなくなって一人で何もできなくなるまでは入らない』って」
「そしたら叔母さん一人置いてこっちに帰ってくるか。もう住むとこないんやで。どっかで狭いアパート借りて家賃払って一人で暮らすか?」
「お父さんの遺族年金があるから何とか月々のやりくりはやっていけると思うし、あとは家売ったお金で食いつないでいくしかないやろなぁ」
「なんて言うて帰ってくんのよ? アホの息子がやっと嫁もらってんて言うんか?」
「え?そんな話あんのん?」
「あるわけないやろ。せやけど、それくらい言わんと叔母さんは納得してくれへんやろ」
言った瞬間にナカジマは昨夜のあやかの姿を思い出した。急に、会いたくなった。
「まあ、なんかあったらまた言うてよ。ちょっと用事あるから、もう切るわな」
「あっ、ごめんな、お休みやのに」
「ええよええよ、ほな、またね」
母との電話を切るとすぐにパソコンを立ち上げユーチューブを見る。
“35歳独身女 恋の繁盛を願って 今宮戎初参戦”とのテロップが入ったサムネをすぐに見つける。
いつもの通り“しごおわ”のテロップの向こうにせかせかと動く足元の映像。
到着すると境内の入り口で福笹を受け取り無料であることに“クリビツ”し、縁起物を一つだけ買って笹に吊るし、本道の裏にある銅鑼を鳴らし、えびす様に恋の成就をお願いする。すぐに黄色いテロップが“お願いすることが違うだろ”と追いかけてくる。
参拝を終えると早速露店で生ビールを買い、福笹を手にごきげんで人込みの中を闊歩する。
途中、酔っ払いのおっさんに声を掛けられ相変わらずのコミュ障ぶりを発揮する場面もあった。
夕食はチェーン店の牛丼屋でミニサイズのうどんのセットを食し、徒歩でお泊りのビジホに到着する。
いつもの靴下投げをして偶然にも福笹の上に落ちて“これは縁起がいい”と赤いテロップが流れるやいやなや“この罰当たりが”とまた黄色いテロップが追いかけてきた。
そして、これまたいつもの二次会も滞りなく終わり、本来なら“華麗なる寝落ち”となるところ、婚活の状況報告があった。
前回の動画で語っていた今年の干支、甲辰に再び言及し“これまでの準備が実る”・・・“新しい何かが始まる”の赤い文字のテロップが流れた後、大げさなファンファーレが流れ“あやか 新しい形での婚活 始動っ 乞うご期待”と赤いテロップの後、お決まりの“誰が期待などするか”と黄色いテロップが追いかけてきて動画は終了した。
俺のことかな?と思ったナカジマはパソコンの電源を落とし、部屋の明かりを消し、まだ重油が入っているかのようにタプタプと揺れる重い脳みそが入った自らの頭を枕に沈めると、そっと目を閉じた。
㉑
二月に入って最初の土曜日の朝、目覚めたナカジマはかなりのけだるさを感じた。
二日酔いではなかった。
一昨日、急に責任者に吞みに誘われ、一杯目の乾杯の後に「ナカジマさん、昇格試験受けてください。三月の中旬にあるんで、簡単な筆記試験、うちの会社の理念とか社長方針とかその辺だけ覚えてもらっていたら、あとは人事部長の面接です。ナカジマさんの学歴なら余裕だと思います。部長に叱られましたよ、なんでこんな優秀な人をラインなんかで働かしていたんだって、そんなこと俺の知ったこっちゃないですよね、それはあんたらの仕事やろってよっぽど言うたろうと思たんですけど・・だけど、受かるともうラインには立たなくていいそうです。所謂、背広組ですよね。立場が変わったからっていじめないでくださいよ」と言われ、昨日の夜遅くまで久しぶりに“勉強”していたからだった。
会社のホームページを見て、いろんなことを頭に入れようとするが、歳のせいかストックする容量が若い頃と比べて極端に小さくなり、一つ覚えたと思ったら、押し出されるようにしてストックしていた一つが頭の中から出て行った。
顔を洗い、ビールを呑もうと冷蔵庫を開けたらビールのストックまで切れていたので、気晴らしに近くのコンビニへ向かう。
ビールのロング缶六本セットと、チンして食べられるおかずを何点かかごに入れ、弁当の棚に移ると太巻きが三本並んで売られてい た。
そうか、今日は節分だったとナカジマは気が付いた。
普段、太巻きなど滅多に食べなかったが、たまにはいいかと一本をかごに入れた。
レジを打ってもらっているときに、レジのおばさんが今年の方角は東北東のやや東であることを教えてくれた。
マンションに戻ると、缶ビールを開け、買ってきたシシャモと豚汁をチンして宴を始める。
パソコンの画面には会社の社長の顔が映っている。会長と名字が同じで一族系の会社のようだ。経歴を見ると、大阪の私立の大学を出ていて、偶然にも同い年だった。
企業理念や社長方針を何度も読むがどうしても頭に入ってこない。学生時代、内定をもらおうと必死になって、受ける会社の思ってもいない将来性を称賛し、頭の先から足のつま先まで品定めをされ、結局は後日“残念ながら・・”の紙切れ一枚を受け取る。そんなことを何度も繰り返し、やがて、なんという茶番なことに俺は巻き込まれているんだと気づいた。そんな茶番に真剣に取り組めるわけがない・・その時の気持ちというか思いが体に染みついているのだろう。だから脳がどうしても覚えようとしてくれない。これからの深刻な人手不足への対応のための人員確保に過ぎないのだろう。正社員にして、簡単な役職をつけ、スーツを着て働かせてやれば“定職に就くこと”に飢えてきたやつら氷河期世代は簡単に社に残るだろう、そんな風に思っているのに過ぎないのだろう。
会社のホームページを閉じ、ユーチューブを見る。
同い年くらいの所帯持ちの男性が飲み歩くたわいもない動画が気楽に見れて好きだった。
唯一の難点はついついつられてこっちも吞みすぎてしまうことだった。そんなこんなで今日も一日一本と決めているビールの二本目を開けてしまう。母からもらった一千万があるといっても、あれは手を付けてはいけないお金なのだ。今後一人で生きていく己の最後の砦なのだ。毎月の給料で何としてでもやりくりしていかないといけない。
シシャモを食べてしまったので、一緒に買ってきたサバの味噌煮をチンしようとしたが、明日に残しておこうと断念し、太巻きが入ったプラスチックの容器を床に置いたレジ袋から取り出す。
容器を開けると思ったより太いのに少し驚く。入っている具も量も種類も豊富で、結構いい値段をするなと思ったがこれで頷けた。
子供のころ母が作ってくれた巻きずしは、せいぜい、かんぴょう、伊達巻、高野豆腐に三つ葉程度で、もっと細かったイメージがあった。
酒飲みのいやらしさで、がぶりとかぶりつくことはせず、滅多に使わない包丁をキッチンから取ってくると全体の半分を一口サイズに切り、中の具を取り出す。そして、それら穴子、海老、出し巻き卵を酒の肴として、その他かんぴょう、伊達巻、高野豆腐、きゅうりは箸休めとして食す。
暫くすると日本酒が呑みたくなってきたので、残っていた紙パックの酒をそのままコップに移して吞む。
パソコンの画面に映る同い年くらいの男性は散々呑んだ挙句、最後に豚骨ラーメンで締めて夜の帳に消えていった。
影響されたのか、少し空腹感を感じたので、無残にも内臓を取り除かれた一口サイズの太巻きを口に放り込み酢飯の味を楽しむ。
そして、この間見たばかりのあやかの一年前の節分の動画を探し見つけ出す。
一人深夜のビジホで鬼のお面をかぶって、特殊な訓練を受けたあやかが豆まきをして狂喜乱舞している。
昨日か今日の夜にまた同じことを大阪のどこかのビジホで繰り広げているのだろうと少し一人にやついた時、スマホが着信音を発した。
穂花からのショートメールだった。
“何されてるんですか?”
“一人寂しく太巻き食べてます”
“店に来ないですか?ひまでひまで”
“ごめん、お金もないし、それにもう呑んでるし。来週の土曜日行くわ”
“ごめんなさい、その日は予定が入っていて”
“IT社長やなぁ”
“あっ、ルリカちゃんでしょ”
“ええやん、玉の輿に乗ったら”
“そんなんじゃないんですよ”
“ええよ、ええよ、また、どっかで行くわ”
“それじゃあ、再来週、バレンタインデーのイベントがあるんで来てください。十四日がメインなんで”
“了解、おめかししていきます”
“お待ちしています”
電話を切るとナカジマはパソコンの画面に会社のホームページを再度映し出し、作り笑いの同い年の社長を見る。そして、一口サイズに切らずに残しておいた残り半分の太巻きを手にして立ち上がると、北向きの窓から少し右を向いてかぶりついた。
㉒
今年に入って初めて取った有給休暇でナカジマはある銀行の大きな会議室にいた。
“これから始めようとしているあなたへ NISA 説明会”と銘打たれたその会にはたくさんの人が集まっていた。
暇とお金を持て余している年寄りばかりかと思っていたが、意外と若い人も多かった。中には見るからに二十代と見受けられる人もいた。
自分がそんな年の頃、投資なんかには全く興味がなかった。今の若い人たちは本当に将来を見据え備えているんだなと改めて感心した。
説明会を聞き、母からもらった一千万の半分を現金で持ち、残りの半分をNISA口座を開設してリスクの低い投資に回していこうか、とナカジマは会場を出て次の目的地に向かいながら考えた。
次の目的地は金曜日の午後とあってか店内は閑散としていた。
「水洗いができるやつで、紺系が欲しいんですけど」
通りがかった若い女性の店員を捕まえナカジマは言った。
来月に控えた昇進試験に受かると、というか絶対に受からないといけない、人生の中で初めてであり、そしておそらく最後の“背広組”への挑戦権なのだ、となると一張羅のスーツだけでは回すのが大変だろうということで新しい一着を購入しに来たのだった。
女性店員に進めてもらった、紺地に薄い縦縞が入ったスーツに決め、明後日には裾上げができますと店員に告げられ店を出た。
ランチタイムからは少し時間が経っていたが、ふらりと入った、所謂、町中華の店はお客で一杯だった。
カウンターに空きはなく、四人掛けのテーブルでチャーハンを掻きこんでいる中年サラリーマンとの相席となった。
申し訳ないと思いながら、瓶ビールと餃子ともやし炒めを注文する。
すぐに瓶ビールが供され、一緒についてきた小鉢に入ったメンマをつまみながらグラスを傾ける。
向かいのサラリーマンと一瞬目が合う。
「すいませんなぁ」と心の中で呟きながらもグラスは動きを止めない。
もやし炒めと餃子が一緒に出てきた時、悪いと思いつつ瓶ビールをお代わりすると、向かいのサラリーマンはチャーハンについていたスープを一気に飲み干し席を立った。
二か月後には俺もああなるんだなぁと少し嬉しいような、何か何とも言えない気持ちに浸りながらナカジマはグラスを傾け続けていたところ、途中で変なスイッチが入ってしまい、紹興酒にまで手を出してしまった。
気が付けばあれだけいた客はいなくなっており、カウンターに常連と思しき白髪の初老の男性が一人いるだけだった。
そして、酒の肴がなくなったので叉焼を注文したとき、その初老の男性が「お兄さん、今日はお休み?」とナカジマに聞いてきた。
「はい、有給を取って、ちょっと買い物とか色々してまして」
「そうなんや。ええな、今の時代は有給なんか取れて」と言った初老の男性の手元には日本酒の透明の瓶が二本鎮座していた。
「無理矢理取らされるんですよ。休みなんかあってもすることないのにね」
「変な時代やねぇ、ところで、お兄さん、失礼やけど結婚されてるの?」
「いえ、独り身です」
「結婚したいとか思ってはる?」
「ええ、もういい歳ですけど、チャンスがあればと思ってます」
「ほんまにぃ?なんやったらうちの娘どうでっか」と男性が言った時、厨房から叉焼を持って店主が出てきた。
「ひろやん、やめときって、もう今日は帰り、可愛い娘さんが待ってるさかいし」
「可愛いことあるかっ、もう三十六やぞっ、今年歳女やねんからっ」
あやかと同い年かとナカジマは思った。
「もうわかったから、ひろやん、なっ、あんまりごちゃ言うたら奥さんに電話すんで」
「あ、あかん、それだけはやめてくれ。何言われるかわからんから。ほな、お兄さん、真剣に考えてくれはってその気になったらこの店にまた来てください。私毎日来てますから」
言うとひろやんは「ほな」と手を上げて帰っていった。
「すいませんねぇ、お客さん、あの人、一人娘がおって、全然結婚せえへんて来るたんびにぐちって、お酒入ってきたら、新しいお客さんつかまえては『うちの娘どうでっか』てからんでいくんですわ」と店主が言う。
「そうなんですか。やっぱりいくつになってもむすめさんのことはご心配なんですね」
「どこまで心配してんのかわかりませんけど」と言った店主はいったん厨房に戻り、紹興酒の小瓶を持って戻ってきた。
「お客さん、すいませんねぇ、機嫌よう呑んではんのに、これ、やってください」とその瓶をテーブルに置いてくれた。
「すいませんっ、申し訳ないです」
「これに懲りんでまた来てくださいね」
言うと店主は厨房の奥に消えていった。
店を出ると最後のご好意の紹興酒が効いたのか、かなりいい気分になっていた。
地下鉄に乗ると、窓に映る自分の顔がトロンととろけているのがわかった。
隣の女性が露骨に嫌な顔をする。かなり酒臭いのだろう。
自宅マンションに着くと、少し喉が渇いていたのでビールを呑みたかったが、スーツを新調し遅い昼食で結構散財をしたので我慢をして、冷凍うどんを解凍して卵を割り今日の晩御飯とした。
そして、シャワーを浴び、昼間の酒の疲れを感じつつ、いつもより少し早く床に着こうとした時スマホが震えた。
あやかからだった。
“遅い時間にすいません。来週なんですけど十四日って空いてますか?”梅田に安くて美味しいお寿司屋があるんで良かったら“
間髪入れずに“大丈夫です。楽しみにしています”と返す。
すぐにあやかから“ありがとうございます。では二名で予約を入れておきます。待ち合わせは・・”梅田駅のある改札口が書かれていた。
財布を入れたままにしていたジーンズの尻ポケットから取り出し商品引換券を確認する。裾上げができるのは明後日の日曜日、忘れずに取りに行こう。新調したスーツで臨むのだ、なんせ生まれて初めての、二月十四日、そう、バレンタインデーに女性とのデートなのだ。
ナカジマは立ち上がると冷蔵庫に行き、自らお預けを課していた缶ビールを取り出し、「一週間経ってるけど効き目あるかなぁ」と呟き、東北東の少し東の方向を向いて喉をごくごくと鳴らした。
㉓
店内に入ると、また、ハッシュ君が迎えてくれた。
「今日も穂花さんいません。大丈夫?」
「オケー、ちゃんと確認してきてるから、ルリカちゃんは今日いんのん?」
「大丈夫です」
ハッシュ君が店の奥に姿を消してすぐにルリカちゃんがテーブルにやって来た。
「いらっしゃいませ、今日も穂花さんはいませんよ」
「ハッシュ君にも同じこと言われた。今日もIT社長と同伴なんやろ。今日来るって言うたら昼間は入ってないって言われたから」
「ええ、そうです」
「ITのこと何で知ってんのんて言われたから、ルリカちゃんから聞いた言うたら『あの野郎っ』て怒ってたわ」
「嘘っ、本当ですか?」
「冗談、冗談、そんなことより生もらえる。ルリカちゃんもなんか呑んでや」
「もう汗かいちゃいましたよ・・私も急に喉が渇いたんで生をいただきます」
ルリカちゃんがハッシュ君を呼ぶ。
店内は相変わらず年齢層が高い。ほとんどのテーブルに梅干しが沈んだグラスが置かれていた。
生がやってきたのでルリカちゃんと乾杯する。
「来週バレンタインデーのイベントがあるんですよ」
「ああ、ほのちゃんに聞いた。十四日に来るって言うてあんねん」と言った瞬間、あやかとの約束を思い出した。
「せやけど、ひょっとしたら、用事が入るかもしれんから、日にち変えるかもしれん」
「そうなんですか。女の子みんなからチョコレートのプレゼントがあって、十四日だけは私たちみんなが可愛い衣装に着替えたショータイムもあるんです。だからできるだけ十四日に来てくださいね」
「了解しました。ところで、ほのちゃんはやっぱりITと同伴なん?」
「たぶんそうだと思います。今夜の穂花さんのスケジュールは同伴になっていましたから」
「結構うまくいってんのかなぁ?」
「どうなんですかね・・」
「本当は知ってんねんやろ?」
「いえ、私が直接聞いたわけじゃないんですけど、結構いい感じみたいです。相手の方がすごく穂花さんのことを気に入ってらっしゃるみたいで、来月のお雛祭りの日に、そのIT社長がこのお店を借り切って、社員全員を連れてきて盛大に“お雛様パーティー”なるものを開くみたいです。だから、うちの店長もノリノリで、穂花さんに絶対にこのチャンスを逃すんじゃないぞってすごくはっぱをかけているみたいです」
「そうなんや、やっぱり金のある人は違うなぁ、こんな店借り切るって、半端ないお金いるんちゃうんかなぁ。俺らみたいに昼のセット呑んでる貧乏人とはわけが違うわなぁ」
「そんなことないですよ。私は大きい声では言わないですけど、ああいった人ってあまり好きじゃないです。なんでもお金で解決しようとして、逆に自分を小さく見せてますよ。私はナカジマさんとか、今日来てくださっているおじ様たちの方が好きです」
「ひゃーっ、嬉しいこと言うてくれんなぁ、ルリカちゃん、お店借り切るお金はないけど、なんかお腹空いたから美味しいもん買ってきて、ルリカちゃんもなんか好きなもん買いや、あとハッシュ君の分もね」と言ってナカジマはルリカに大枚を差し出した。
結局、三回延長をして、大枚二枚を消費して店を出ると、外はもう薄暗かった。
お腹が空いていたが、焼酎お湯割り梅入りをしこたま吞んだせいか少し胸が悪かったので、駅前の立食い蕎麦屋に入ってタヌキを啜る。いつもの癖で缶ビールを頼んでしまったが珍しく半分ほど残してしまった。
自宅マンションに着くと、部屋の明かりをつけ畳んでいた布団を拡げ大の字になる。
暫くすると、もう風呂に入る余力は残っていなかったので、上半身だけを起こしパソコンを起動させユーチューブを見る。
すぐにあやかを見つける。
去年と同様、鬼のお面をつけてはしゃぎまわっている。
“特別な訓練をうけています”のテロップにはやはり思わず笑ってしまう。
いつもの二次会が終わり“華麗なる寝落ち”かと思ったら違った。
“三度目の正直まで待てません、二度目の正直、ゼクシィ”の赤いテロップが画面を覆いあやかがぼかしの向こうで雑誌たるものをかざしている。
“乞うご期待ください”のテロップで今回の動画は終わった。
これは間違いなく、俺のことだろうとナカジマは確信をもった。もし、他にいい人がいるのならわざわざ俺とバレンタインの夜にデートなどするわけがない。
あわてて穂花に14日の約束を13日に変更してもらうメールを送った。理由は突然の母親の来阪ということにした。
そして、今頃自分のお店でIT社長といい感じになってるんやろなと思いながらナカジマは眠りに落ちた。
㉔
裾上げをしてもらったスーツを試着し終えると対応してくれた店員が「ネクタイなどはお揃いですか?」と聞いてきた。
確かにまともなのは穂花からもらった一本だけだった。
「このスーツに合うやつ、見てもらっていいですか?」と聞くと店員は百万ドルの笑顔を返してきた。
すぐに茶色地に細い水色のストライプが入ったネクタイを持ってきてくれたので即決で購入する。
店を離れると、腹は減っていたが昨日の酒がまだ若干残っていたので、駅前に佇む“昔のうどん屋”と言った感じの店の暖簾をくぐる。
想像通り、子供のころに近くにあったうどん屋を思い出させるような店で、瓶ビールときつねうどんの定食を注文する。
すぐに瓶ビールと、定食についているものなのか、里芋の小鉢と漬物がでてきた。
少し埃をかぶった招き猫と目が合う。ビールやジュースが入った小さな冷蔵ショーケースと並んで立っている本棚には懐かしいアニメの単行本がぎっしりと詰まっていた。
里芋と漬物を肴にちびちびとビールをやっていると、湯気を上げたきつねうどんとかやくごはんが運ばれてきた。
温かいものが食べたかったので出汁に浸かった揚げをつまむ。この甘い揚げはたまに無性に食べたくなる時がある。原因はわからない。
そして、瓶ビーが空になり次はどうしようかと迷っているときにスマホが震えた。
“わかりました。じゃあ十三日にお待ちしています。お母さんに優しくしてあげてくださいね”
穂花からのメールだった。
すぐに“申し訳ないです。その代わり当日はガンガン飲んでください。延長もしますんで”と返した。
何かすっきりした気持ちになり、胃の辺りにあった不快感も併せて解消したので熱燗を注文する。
周りの客は誰一人として酒など吞んでいない。
初老の女性店員が小鉢に入った塩昆布を持ってきてくれた。
「熱燗のあてです」
すいませんと頭を垂れ暫くするとその女性店員が熱燗を持ってきてくれた。
昨晩、あれだけ呑んだのにするりと胃に流れていく。
きつねうどんもかやくごはんも立派な酒のあてとなった。
またスマホが震える。
今度は母からのメールだった。
“お休みのところごめんなさい。手がすいたら電話ください、お願いします”
せっかくすっきりした気分がまたつかえる。
内容はわかっていた、また叔母さんのことだろう。
“わかりました。夜になると思いますが”と返し漬物をポリポリとかじり酒を喉に流す。
きつねうどんもかやくごはんも食べ終え、あてが小鉢に入った塩昆布だけになった時、女性店員がまたごぼう天と大根の煮物が入った小鉢を「あてにどうぞ」と言って供してくれた。
やむを得ず熱燗を注文する。
周りの客はいつの間にかいなくなっており、日曜の昼間に赤い顔をして一人酒を呑んでいる自分の姿は滑稽に映っていたんだろうなとナカジマは酔った頭で思う。
二本目の熱燗がやってきて、ごぼう天と大根の煮物をつまみながら喉に流しているとまたスマホが震えた。
電話の着信で職場の責任者からだった。
「ナカジマさん、お休みのところすいません」
「いえいえ、どうせ暇してましたから」
「急で申し訳ないんですけど、明日の夜って空いてますか?」
「ええ、大丈夫ですけど」
「実は社長が一度ナカジマさんと吞みたいって言っているんで」
「え? 社長さんがですか?」
「そうなんです。社長とナカジマさん同い年なんですよね。親近感を覚えたから一度ってことで、じゃあ、オッケーですと言っておきます。お店はこの間昇進試験のお話をしたあの店です」
「わかりました、わざわざありがとうございます」
「ところで、ナカジマさん、今、何されてるんですか?」
「もちろん昇格試験の勉強です・・と言いたいところなんですけど、昼間からうどん屋で一杯やってます」
「いいっすよね。僕なんか、社長と人事部長とゴルフですよ。いつも人数合わせに入れられて。今、前半が終わって昼ごはん食べてるんですけど、急に中島さんの話になって、そしたら明日吞みに行こ、お前、都合聞いて来いって言われて・・」
「そうですか。それはご苦労様です」
「ナカジマさんはゴルフされます?」
「いえ、一回もしたことがないんですけど」
「やったほうがいいですよ、これから社長との付き合いが増えていくと思いますから」
「わかりました。ちょっと考えておきます」
「じゃあ、すいません、明日よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、お願いします」
店員さんに小鉢のお礼を言って店を離れると、また、スーツを買った店が入っている商業施設に戻り、本屋で“五十歳からのゴルフ入門”なる本を買って自宅マンションに戻る。
少し横になり、晩御飯のおかずをコンビニに買いに行こうと起き上がった時、母への電話を思い出した。
「叔母さんの話やろ?」
母はイエスとも言わず「誰か身内おれへんかなぁと思って、こっそり年賀状とかないか探してたら出てきて、亡くなったご主人の妹さんが千葉におることがわかってん。それで電話して事情話したら一回話聞きに来てくれることになってん。歳も姉と近いから、昔は結構付き合いがあったみたいやねん」
「そうなんや、良かったやんか」
「とりあえずはね、で、あんたは変わったことないのん?」
「うん、まあ、あるとすれば、来月にしょうもない昇進試験受けて、やっと、背広組になれそうやねん」
「良かったやんか」
「人並みになるだけやんか、ええ歳こいて」
「でも良かったやん」
「なんか、社長が同い年なんやけど、結構俺のことを気にかけてくれてるみたいやねん」
「まあ、あんた、恥ずかしない大学も出てるしなぁ・・あとは嫁さんだけやけど、それはちょっともう無理やな」
「それがな、ちょっと脈あり案件があるんや」
「えっ、ほんまに・・」
「うん。また、連絡するわ」
「いやーっ、そうなったら、やっぱり大阪に帰りたいわ」
「期待せんといて、夢見てるだけかもしれんから、ほなな」
電話を切ると、鼻歌を歌いながらナカジマは自宅マンションを出た。
㉕
「筆記試験は形だけのものですからご心配なさらないでください」
そう言うと人事部長は空いたグラスにビールを注いでくれた。
「本当にナカジマさんみたいな方をラインにずっと立たせていて申し訳ございませんでした。彼にどうしてもっと早く言ってこなかったんだって注意したところなんですよ」
隣に座る責任者をチラ見すると“なんで俺なんだよ!”といった表情をしていた。
「ところでナカジマさんはゴルフはされますか?」
社長の問いかけに「いえ、一度もやったことが無いんです」と答えると、今度は隣の責任者が「だから言ったでしょ」と言いたげなドヤ顔をして見せた。
「是非、始めてみてくださいよ。これから、お客さんとの接点が増えてくると思いますので、五十の手習いではないですが是非お願いします」
「ええ、なんとかやってみようと思います」
「クラブは以前私が使っていたものを進呈しますのでまずはそれで始めてください。最初は結構へんなとこにボールが当たったりしてクラブを痛めますので、新しいのを買うのはもったいないと思いますから」
「ありがとうございます」
「今度、この四人で練習にいきましょう。その時にクラブをお持ちします。練習場に貸ロッカーがありますので、そこを借りて置いておけば会社の帰りにでも行けますから」
「はい、是非お願いいたします」
二時間ほどして皆の顔が赤く染まった時、会はお開きとなった。
店の前で解散となり駅に向かって歩いていると「ナカジマさん」と背後から人の声が聞こえた。
振り返ると、社長が小走りでこっちに駆けてきた。
「もう一軒如何ですか?」
人事部長と責任者はいなかった。
「ええ、少しだけでしたら・・」
明日、穂花の店に行って、日にちを変えてもらったお詫びに散財を宣言してしまっている。
「どこかいいお店知りませんか?」と社長が聞く。
その穂花の店を思い浮かべたが、この歳になってキャバクラに行っていることがわかると今後に影響しないかと考えた。
「さあ、私も滅多に行かないんで・・」
「接待でスナックへ行って化粧の濃いおばさんの顔見てカラオケばかり歌っていると、たまには若いときによく行ったキャバクラとかに行きたいなぁと思ったりするんですよね・・」
「それでしたら、大した店じゃないですけど一軒だけ知っているところがあります」
「ナカジマさん、そういったお店によく行かれるんですか?」
「いえ、夜は高くてとてもじゃないですけど行けないんですけど、昼間に行くんです」
「え? キャバクラに昼間に行くんですか?」
「そうなんです。昼キャバ言うて、まあ、食堂で言うランチセットみたいなもんなんです。五十分吞み放題で二千円なんです。あと、乾きものも食べ放題なんです。昼間に酒呑んでぶらぶら歩いてたらたまたま見つけまして。月に一回程度、土曜日のお昼に行ってるんです」
「そうなんですか。じゃあ、そこ行かしてもらっていいですか?」
「もちろんです。ちょっと、いつもの女の子に電話入れてみます」
すぐに穂花にショートメールではなく電話を入れる。しかし、四コールしても五コールしても出てこない。そうか、今日からバレンタインのイベントをするって言っていたから忙しいのかもしれない。
電話を諦め、ショートメールを打とうとした時、スマホが震えた。
「あっ、ごめん、ちょっと、今、会社の社長と呑んでて、久しぶりにほのちゃんとこみたいな店に行きたいって言われて、今から行こうと思うんやけど・・」
「ナカジー」の穂花の第一声が“死んで”いた。
「ちょっと体調崩してて、今日お店休んでるんです」
「そうなんや、それは申し訳ないっ」
「ううん、そんなんかまわないですから、ルリカちゃんに連絡入れときます」
「ごめんね、で、明日は大丈夫なん?無理したらあかんで、なんやったら、日改めるよ」
「大丈夫です。ちょっと疲れがたまってたみたいですから。明日は楽しみにお待ちしています」
電話を切ると、コンビニへタバコを買いに行って戻ってきた社長に「大丈夫です。ここからタクシーで十分ほどですから」と言って、客待ちしていたタクシーに二人で乗り込んだ。
入店すると、すぐにアッシュ君が飛んで来た。
「いらっしゃいませ、いつもありがとうございます」の言葉に、輝いた瞳をいつものように添えてくれる。
通された席は、穂花と同伴したときに案内された席で、フロアーに設けられた小さな階段の頂きにある店全体を見渡せる席だった。
おそらく穂花が“社長”という言葉に気を利かせてくれたのだろう。
すぐにルリカちゃんがやってくる。
「いらっしゃいませ。ルリカです」と言って二人の間に座る。
「お飲み物は水割りでよろしいですか」の声に社長の鼻の下が伸びる。
月曜日の夜とはいえ、常連客への事前告知が功を奏したのか、バレンタインイベント目当てのお客さんであろう人たちで店はほぼ満杯だった。
ルリカちゃんが作ってくれた水割りで社長と乾杯する。
「いや~、懐かしいなぁ、こういったお店に来たのは何十年ぶりだろう、久しぶりに来るとなんかいいですよねぇ」
「私も学生の時なんかよく来ましたけど、この歳になって来るとは夢にも思わなかったです」
「あの頃は、店の女の子を何とかしたろ言うて、みんなギラギラしてましたけど、この歳になって来ると、また、違った感覚で楽しめそうですよね」
「今は若いお客さんが多いですけど、昼間なんかおじさんばっかりですから」
「そうなんですか、それはそれでなんか楽しそうですよね」
「ええ、よかったら一度お誘いしますよ」
「是非お願いします。
あっ、おねえさんもなんか呑んでくださいね」
二人の会話を柔らかい笑顔で聞いていたルリカちゃんに社長が促す。
「ありがとうございます。じゃあ、いただきます」
言うと、ルリカちゃんはホールに向かって手を上げ、やって来たボーイに小さな声で「ハイボールお願いします」と言った。
「最近の若い人らはようハイボール飲むよね」と社長がルリカちゃんを見て言う。
「はい、飲みやすいですし、あまり酔わないですから」
「吞みすぎたら酔うと思うけど」と言って社長が嬉しそうに笑う。
「あまり飲めないんです」
「そうなんや。まだ、学生か何か?」
「はい。三回生です」
「もうぼちぼち就活せなあかんのちゃうの」
「はい。わかってはいるんですけど、なかなか行動に移せなくて」
「せやけど、今は人手不足が深刻化してるから売り手市場でしょ。贅沢言わへんかったらすぐに決まるんちゃうんですか」
「そうみたいなんですけど、特に何がしたいって言うのが無くて、どういったとこへ行こうかもまだ決められてなくて・・」
「良かったらうちへ来る? 小さいけど流通会社の社長してるんで」と言って社長は名刺をルリカちゃんに差し出した。
「えーっ、ほんとうですか?」
「こんなん言うたら怒られるけど、うちも女性言うたらパートのおばちゃんか、色気のないお局さんしかおらへんねん。ルリカちゃんみたいな若くて綺麗な子来てくれたら職場の雰囲気も変わるし、男性社員の士気も上がるわ、ねぇ、ナカジマさんっ」
急に振られ「そっ、そうですよね」と言って薄い水割りを喉に流しこんだ時、一人の女性が突然目の前に現れた。
「失礼します」
女性はこの世のすべての幸せを吸い取ったような笑みを浮かべてルリカちゃんと席を代わる。
「エリカです。今日はお越しいただきましてありがとうございます」
押し出されるようにして隣に陣取ったルリカちゃんが「うちのナンバーワンなんです。毎週同伴が入ってるんですよ」と小声で呟く。
「そうなんや。なんかオーラって言うか独特の雰囲気持ってはんなぁ」と小声で返す。
社長は早速名刺をエリカに渡してさらに鼻の下を伸ばしている。
「そうだ、ナカジマさん十四日は来てくれるんですよね」と相変わらず小声でルリカちゃんが聞く。
「あっ、ごめん、その日用事が入って明日に変更になってん」
「えーっ、せっかくダンスショーがあるのに・・すごく練習して、見てもらいたかったんですよ・・」
「ごめんごめん、その代わり今日はいっぱい延長するやんか、大きな声では言われへんけど、どうせ社長のおごりやと思うから」
隣の社長を見ると完全にこっちの二人のことなど眼中に無く、三日ぶりに餌にありつけたハイエナのようにエリカに食らいついていた。
「せやけど、ほのちゃん大丈夫かなぁ・・電話の声が全然元気なかって、体調崩したって言うてたけど・・」
「結構シフトに入られているんで、疲れがたまったんじゃないですかね」
「それやったらええんやけどね・・」
「ナカジマさん、ハイボールお代わりしてもいいですか?」
「あっ、ごめんごめん、どんどんいってよ、今日はもう吞み放題やから」
結局、ルリカちゃんとエリカをずっと指名し続け、三回の延長をして店を出た。
「いやーっ、ナカジマさん、すっごく楽しかったです。最高のお店ですね」
「それだけ楽しんでいただいたら私も嬉しいです」
「明後日の十四日のバレンタインデーはイベントがあるから必ず来てくれってエリカちゃんに頼まれたんですけど、ナカジマさん、一緒に来ないですか?」
「社長、すいません、その日は先約がありまして・・」
「あーっ、バレンタインデーにデートでしょ」
「違います、そんな甲斐性はないです。急に東京から母親が帰ってくることになって・・」
同じ嘘をついてしまった。
「そうなんですか。じゃあ、人事部長とでも来ようかなぁ・・ナカジマさん、あなたの大切な城に入らせていただきますけどよろしいでしょうか? 決して荒らすようなことはしませんので」
「いえいえ、そんなん、気ぃ使わんといてください。あの子らも喜ぶと思うんで」
「そうですか、じゃあお言葉に甘えて」
「今日はどうもありがとうございました。全部ごちそうになってしまって。まだ、電車がありますんで環状線で私は帰ります」と言って頭を垂れ駅に向かおうとした。
すると社長が「ナカジマさん、今日は遅うまで付き合っていただいたんでタクシーで帰ってください」と言って一万円札を一枚差し出した。
「いえいえ、本当にまだ電車がありますから」と断ったが社長は何も言わずその一万円札を手に握らせた。
「じゃあ、明日からもよろしくお願いいたします」と言うと、社長は、店でもらったおそらくチョコレートが入った手提げの紙袋を嬉しそうに手に握って夜の帳へと消えていった。
㉖
責任者から「ナカジマさん、デートでしょ」と声を掛けられ社を出ると牛丼チェーン店へ直行する。
スーツを新調し、今日の夜も下手をすれば大枚二枚が消えてしまい、明日はあやかとの食事がある。母からもらったお金にはできるだけ手をつけたくなかったので節制できるところは節制していこうという思いからのチョイスだった。
店はほぼ満員で会社帰りのサラリーマンが大半を占めていた。
券売機で牛丼の並と瓶ビールを購入する。
コロナに席巻されてからセルフサービスとなり、券に書かれた番号を呼ばれると注文した品を取りに行き、食事を終えると空いた食器を自ら返却口に持って行かないといけない。
五分ほど待って番号が呼ばれる。
注文した品を受け取って席に戻ると、コップにビールを注ぎ喉に流す。
牛丼屋で呑むビールは今夜もうまかった。
備え付けの紅しょうがを大量に牛丼の上にのせ、七味をふりかけ酒のアテとして食す。
スマホが震える。
“体調が戻って店に出ています。いつでも来てくださいね、お待ちしています”と穂花からだった。
牛丼のアタマを食べ終えると、残った白飯に再度紅しょうがを山盛りに乗せ醤油を掛けて急いで掻きこむ。
そして、穂花にもらったネクタイに汚れがついていないかを確認して牛丼屋を出る。
連日の入店はアッシュ君ではなく、吹けば飛ぶような瘦せた日本人のボーイが迎えてくれた。
席に案内される途中、別のテーブルで若いお客に挟まれて水割りを作っているルリカちゃんとアイコンタクトをとる。
席に着き暫くすると女の子が目の前に現れた。
「いらっしゃいませ」
てっきりほのちゃんが来ると思っていたが違った。
「ナカジー」
「えっ!?」
「穂花です」
「嘘やんっ!」
目の前にいる女性は、極端なショートヘアーで、どこからどう見てもこれまでの穂花の面影が微塵も無かった。
「どしたん?」
「うん、もうずっと髪が長かったんで、一度ばっさり切ってみようと思ってたんです」と 言って、水割りを作ってくれる穂花の横顔はやはりどうみてもこれまでの穂花ではなかった。
「女性ってこんなに変われるもんなん?」
化粧もいつもより濃かった。
「化けるから“化粧”て言うんでしょ」
「それにしてもなぁ・・」
作ってくれた水割りで乾杯する。
「もう、体調は大丈夫なん?」
「はい。少し疲れが溜まっていたみたいで。
一日休ませてもらってだいぶ良くなりました」
「そうなんや、それならいいんやけど」
言いながら穂花の顔を見ると、瞳の白いところがやや赤く、化粧をしているとはいえ瞼が少し腫れているように見えた。
「泣いたん?」
「え、ええ」
「IT社長に結婚申し込まれてのうれし泣きやんねぇ」
「違います。その逆です」
「逆? ふられたん?」
「ふったんです」
ナカジマは水割りを一気に飲み干すと空いたグラスを穂花に差し出した。
「ふったって、なんでそんないい話を?」
「う、うん、そうですよね・・」
言うと穂花は目に涙を浮かべナカジマにしな垂れかかり、テーブルに乱暴に置いたグラスの音に隣の客が何事かと二人を見た。
「すごくいい人で一緒になろかって言ってくださったんですけど、ただ、ただ一つだけ、私、ナカジーに言ってましたっけ?」
「なんのこと?」
「大学の奨学金の返済をまだ続けているんです」
「あっ、ルリカちゃんに聞いたわ」
「そのことを彼に話したら、そんなしょうもない借金、俺が全部払ろうたろって・・」
「そうなんや」
「私、小さいときに親が離婚して、母親一人に育ててもらったんです。生活が大変なのは子供ながらにもわかっていたんですけど、周りの友達もみんな大学に行くんで私もどうしても一緒に行きたくて、母親に相談したら最初は女の子が借金してまでって反対されたんですけど、最後は納得してくれて、それで大学に進学したんです。だから、変な言い方ですけど、私にとっては“しょうもない借金”じゃなくて“大切な借金”なんです。大学を出たという証になる“借金”なんです。それを少しお金があるからって“しょうもない借金”やなんて、悔しくて悔しくて・・」
穂花の嗚咽を聞きつけさっきの吹けば飛ぶようなボーイがテーブルにやって来た。
「お兄さん、大丈夫、大丈夫、ほのちゃん、ちょっとおセンチになってるだけやから」
「は、はい」と言ってボーイは戻っていった。
「ごめんなさい、ナカジー、折角楽しみに来てくれたのに、こんな暗い話してしまって、ちょっと待っててね」
穂花は手で瞳を拭うと、立ち上がり、小さな階段を降り店の暗闇へと消えていった。
周りの視線をナカジマは感じた。
自分でグラスに水割りを作り、またも一気に喉に流し込む。
暫くするとエリカがやってきて横に掛けた。
「すいません、ご迷惑おかけしまして」と言って白魚のような指で水割りを作ってくれた。
「いいですよ、若いと色々ありますもんねぇ」
「プライベートは持ち込まないよう厳しく言われているんですけど」
「ええやないですか、それで気が済むんやったらなんぼでも私の胸で泣いてもらっていいですよ。エリカちゃんもその時は歓迎するから」
「ありがとうございます、じゃあ、その時はお世話になります」
「ええ、喜んで。それより、明日またうちの社長来るんでしょ?」
「はい。ナカジマさんは?」
「ちょっと急におかん、いや、母親が東京からこっちに来ることになって・・」
また嘘をつく。
「そうなんですか、残念ですよね、ダンスショーとか色々イベントをご用意しているんですけど」
「私もそら、しわくちゃのおかん、いや、母親と二人で過ごすよりはこっちに来たいんですけど、これまで色々迷惑をかけてきたんでね」
穂花が戻ってきた。
「すいません、本当に申し訳ないです」と言ってエリカと代わって横に掛け、エリカは軽く会釈をしてテーブルを離れていった。
「水で顔洗って、塗り直してきたんや」
「ちょっと、それセクハラですよ、ナカジー・・」と言って穂花はナカジマの肩のあたりを優しく叩く。
「ごめんごめん、そんなことより昨日はごめんやで、そんな状態のあなたに電話なんかかけて無理お願いして」
「いえ、いいんです」
「うちの社長がね、えらいこのお店を気にいって、明日また、人事部長と二人で来るんよ」
「ありがとうございます。やっぱり、エリカちゃんですか?」
「それもあると思うけど、社長、偶然にも同い年で、久しぶりにこういったお店に来て、無茶苦茶楽しかったみたい。明日来たらほのちゃんも指名するように言うとくわ」
「ありがとうございます」
「せやけど、残念ながら妻帯者やし、そんな不倫するタイプでもなさそうやから」
「私は不倫はしないです。母に最近聞いたんですけど、離婚の原因は父親の不倫だったそうです」
「そうなんや、まぁ、父を憎んで不倫を憎まずにしてやってください」
「ハハっ、それ、逆なんじゃないですか。
それより、最近あやかさんの動画は見ていますか? ひょっとして、彼女、彼氏が出来かかってるんじゃないですか」
「あっ、それは俺も思った。最新の動画でなんかそれらしいこと匂わしてたもんね」
「やっぱりそうですよね」と言った穂花の瞼瞳はまだ少し腫れていた。
結局、穂花を指名し続け、途中からはルリカまで指名して三度の延長をしたナカジマは大枚三枚を払って店を出た。
二人に見送られ昨日と同じ手提げの紙袋を手にして駅に向かって歩いていると、今日穂花の店に来る前に立ち寄った牛丼チェーン店とは別の牛丼チェーン店の明かりが目に入ってきた。
穂花の店では乾き物しか食べていなかったので、かなり酔ってはいたが同時に腹も減っていたので迷うことなく足を踏み入れる。
周りは酔っ払いの一人客がほとんどだった。
この店は食券ではなくタッチパネルで注文するタイプだったので、座ったまま瓶ビールの中瓶と牛皿を注文する。
すぐに品が供される。
アジア系外国人の店員がたどたどしい日本語で「アルコールさんぼんまでです」と言って店の奥に消える。
かなりの量のアルコールを摂取したのに、ビールがやけにうまい。
あっという間に中瓶が空になりもう一本追加する。
「あといっぽんです」とさっきの店員が中瓶を持ってきて無表情で告げる。
「大丈夫、もう呑む力は残ってへんから」と言って、へっと笑い顔を返す。
すべてを消化し、何気なくスマホを取り出すとメールの着信に気づく。
“明日、姉の旦那さんの妹夫婦が家に来てくれます。そこで今後の話を決めます”
母からだった。
もう日付が変わりそうだったので返信はせずに「ごっちょうさん」と誰に言うでもなく言葉を垂れて牛丼屋を後にする。
㉗
責任者に昼ご飯を誘われたが、さすがに胃が食べ物を受け入れられる状態ではなかったので断った。
今日二本目のトマトジュースを休憩室で飲んでいると、昨夜の母からのメールを思い出した。
“また、話し合いの結果を教えてください”
返信すると長机に突っ伏し目を閉じる。
飲んだばかりのトマトジュースが胃から這い上がってきそうになる。
二日続けての午前様はこの歳にとってはかなりきつい。
今日はほどほどにしておかないとなと思い薄い眠りに落ちかけた時、スマホが震える。
“あやかです。急な仕事が入ってしまって少し遅れそうなので先にお店に行っていただいていいですか。六時からナカジマさんのお名前で予約していますので”
文章の下にローマ字と数字が二十個くらい二列に並んでいる。こういうものを見た時はとにかくポチっとすればいいと最近になってやっとわかってきた。
予約を取ってくれたお店の詳細が現れる。
本当に便利になったもんだと胸のえづきに耐えながら店構えを見てあれ?と思った。
どう見てもクリスマスイブに穂花と行ったお寿司屋だった。
人気のある店なんやなぁと自分を納得させ“わかりました、先に行ってやってます、へべれけになってたらごめんなさい”と返信するとすぐに“笑”と返ってきた。
何か胃に入れておかないといけないと思い、席を立ち休憩室を出ると近くのコンビニへと向かう。
何とか仕事を終わる頃には、昼休みに無理矢理胃に放り込んだアンパンが功を奏したのか、胸のえづきは消えてなくなっていた。
ロッカー室でスーツに着替えていると責任者が近寄ってきて「ナカジマさん、二日続けてデートですか?」と聞いてきた。
「それやったらええんやけど、おかんが急に東京から帰って来るんでその接待なんですわ」
「月曜日にナカジマさんが社長を連れて行った店に今日一緒に行くんだって、さっき人事部長が嬉しそうに言ってましたよ」
「そうみたいですよね」
「僕も一度連れて行ってくださいよ」
「夜は高いから昼間に行きましょ。ランチセットなるものがあるんですよ。二千円で五十分吞み放題なんです。今度、土曜日に一度誘いますわ」
「是非お願いします」
社を出ると最寄りの駅までを歩く。
途中、通り過ぎる建屋のウィンドウに映る自分の姿を確認する。
スーツはもちろん新調したもの、ネクタイも一緒に買った新品のものだった。
昨日、穂花に会うのに着て行こうと思ったが、やはり、あやかと会う時のためにと思い今日のデビューとなった。
待ち合わせ場所の最寄り駅で電車を降り、歩きながら、その辺にあやかがいないかきょろきょろしたが、いなかったので、店へと向かう。
入店すると自らの名前を告げ、店の一番奥の四人掛けのテーブルに通される。
「お揃いになってからで?」と聞かれる。
「予約してるのはコースですか?」
「いえ、二時間のお席だけの予約になっております」
「じゃあ、生と何か軽くつまめるもんいただけますか」
すぐに生ビールと小鉢に入った枝豆と煮凝りが供された。
“先にやってます”とあやかにショートメールを送る。
少ししてから“今仕事が終わりました。これから向かいます”と返信があった。
店内はほぼ満杯で、いかにも“同伴”とわかる二人連れもいた。
生ビールを舐め、枝豆を一粒ずつ口に放り込み、煮凝りの透明のゼラチンに封された白いささみ肉を見つめる。
酒を呑むのに言葉なんかはいらないのか。
「いらっしゃいませ」の店員の声が音を拒んでいた鼓膜を震わせる。
目の前に一人の女性が立つ。
「あっ」と言葉を紡ぐ前に「ナカジー」と女性がすでに出来上がっていたであろう言葉を放つ。
「座っていいですか」の女性の問いかけにナカジマは「どうぞ」と感情移入が出来ていない言葉を返す。
「今日はお母様とご一緒じゃあなかったんですか?」とあやかという名の穂花という女性が言葉を垂れる。
「え、えっ・・」
「ナカジー、本当にごめんなさいっ!」と女性が突然頭を垂れる。
注文を取りに来て何事かとたじろいた店員に「生お願いします」と冷静に言い放った女性はナカジマにはどこからどう見ても穂花だった。
「ちょっと待ってよっ、無茶苦茶かっこ悪いやんかぁ、ああ、あかん、恥ずかしすぎるわ」
と言ったナカジマは去ろうとした店員を呼び止め熱燗の二合を注文した。
「本当にごめんなさい」とあやかと言う名の穂花がもう一度首を垂れる。
「あやかに話してたこと全部ダダ洩れやったんや」
「どこかで言おうと思ってたんですけど、なかなか言えだせなくて」
「そしたら、この間の裏難波の時も今日もわかってておんなじ日に俺を誘ったんやな?」
「そう、あやかと穂花のどっちの私のことが好きなんかなぁと思って・・」
「かーっ、もうあかん、今日は呑まなやっとられんわっ」
生と熱燗の二合が同時に運ばれてきたので少し荒々しい乾杯をする。
「ということは、この間の動画で結婚情報誌をかざしてたんも、俺のことではなく、うまくはいかんかったけどあのIT社長さんのことやってんね」
「ごめんなさい、本当に本当にごめんなさいっ」
隣のテーブルの中年のカップルが怪訝な表情で二人を見る。
「そのうちばれるだろうと思っていたんですけど、それがなかなか・・」
「いや、髪型も全然違うし、それにあやかはずっとマスクしてたから、全く疑う気持なんか湧かんかってん。で、本物はあやか、穂花のどっち? それか両方とも源氏名?」
「穂花です」
「そうなんや・・」とナカジマはお猪口では追いつかないので店員にコップをお願いする。
「ナカジーね、全部話しますけど、私、昨日話した奨学金のことはね、本当の話なんです。で、大学を卒業していったんOLになって返済し始めたんですけど、なかなか減らなくて、もっと稼げるとこにと思って三年でOLを辞めてこの業界に入ったんです」
「そしたら、あの、あやかの動画で出てくるうざい上司はその時のことを思い出して・・」
「そうなんです。あの頃つらかったことを思い出しながら編集しているんです」
「ははっ、それは笑ったら失礼やけど、ある意味いい社会経験になったんや」
「そうですね。それで、さぁ、稼いで早く返済しようと思ったらコロナがやって来て・・それで何かで稼がないといけないと思いユーチューブを始めたらまさかのまさかで・・」
「そうなんや」と言ったナカジマのヒートアップされていた“恥ずかしさ”はかなりクールダウンされていた。
「ところで、ほのちゃん、こんなこと聞いたら思いっきりセクハラなんやけど“三十五歳処女”いうのは本当の話?」
「想像にお任せします」
「そうやねぇ」とナカジマはコップ酒を喉に流す。
「ちなみにナカジーはどうなんですか?」
「ははっ、あやかに告白してんから、あれはマジです」
「えっ! そうなんですか」
「そうですよ。わたくしはこの御年で未だに真っ新でございます」
予約した二時間を堪能した二人は店を出た。
さすがに三日連続の酒宴に浸かったナカジマには「ちょっともう一軒いこか」の力は残っていなかった。
二人は掌を合わせ最寄り駅へと歩く。
「ほのちゃん、俺、酔うてんのはわかってんねんけど、マジで一緒になってくれへん?」
「えっ、本当ですか~正に“クリビツ”です」と言った穂花もかなり酔っていた。
「しがないライン工なんやけど、月曜日にお店に行ったうちの社長に結構目を掛けてもらってて、来月に昇格試験受けるねん。それでやっと晴れてスーツを着た正社員になれんのよ。それに、話したかどうか忘れたけど、おかんからもらった一千万があるから、それで中古のマンションでも買って一緒に暮らさへん?」
「うーん、少し考えさせてください」
「ラジャー、そしたら、ええお返事お待ちしています」
「あっ、これ渡さなあかんかった。バレンタインデーのチョコレートです」と穂花がナカジマにこじゃれた手提げの紙袋を手渡した。
「これは“あやか”からです。そして、これは・・」と言っておもむろに穂花はナカジマの頬に唇を合わせた。
そして、頬から唇を離した穂花に「これはどっちから?」とナカジマが聞く。
「それはナカジーが決めてください」
「オッケーっ、ほな、今日は酔っちゃったんでタクで帰ります。ほのちゃんは?」
「私はまだ少し時間が早いんで少し寄り道場六三郎して帰ります」
「ははっ、生で聞いたら余計に面白いね。ほな、今日はありがとう」
二人は手を振るとそれぞれの道を千鳥足で進む。
㉘
二月最後の土曜日の朝、母から連絡が来た。メールではなく電話だった。
「叔母さんの件やろ?」
「そう。この間から旦那さんの妹夫婦に色々とお世話になって、自宅の売却も目途がついたようで、資産の整理もほぼ終わったみたい」
「そうなんや、それでどうすんのん?高級老人ホームに入んのん?」
「うーん、それがな、お姉ちゃんが急に四人で入らへんかって言いだして」
「四人って、すごいお金いるんちゃうの?」
「それがすごい資産があって、一人分の数千万する一時金を四人分払っても、まだ、四人がホームで人生を終えるまでの毎月の管理費を支払っていけんねん」
「すごいなぁ、それでどうしたらええか迷ってるってことやんなぁ?」
「そうやねん。姉は、もしそれが嫌で大阪に戻るんやったら一時金分のお金はくれるって言うてくれてんねんけど」
「叔母さん、そんなこと言うてんのん? まだちゃんとしてるやんか」
「そうやねん、お金のことはすごいしっかりしてるみたいで、どこの銀行にいくら現金を預けてるとか、どんな株を持ってて、それぞれ何株ずつ持ってるとか全部覚えてるみたいで妹さんもびっくりしてはったわ」
「そうなんや、人間はボケてもお金のことは覚えてるってよう言うもんなぁ」
「ということやから、ちょっと考えよかなと思って」
「了解です。また決心ついたら連絡頂戴。
せやけど、どっちに転んでも、安泰やからええやんか」
「そうやねんけどな・・」
「ほな切るで」
母からの電話を切ると、今日は何も用が無かったので一週間の労働のご褒美として、缶ビールのロング缶と、昨日の帰りにスーパーで買ったマグロのお造りを冷蔵庫から取り出し畳の上に腰を下ろす。
缶ビールのプルトップを引き、小鉢にお造りの醤油を垂らし。パソコンの電源をつける。
“地球に生まれてよかった”と思わず叫んでしまいそうなくらい休日の朝ビールは旨かった。
ユーチューブを見るが、まだ、穂花と言うかあやかの動画は更新されていなかった。
先週のバレンタインデーの夜に分かれて以来、電話もメールもなかった。
急に声が聞きたくなったので電話をするが出てこない。
ショートメールを打つ“元気にしてますか”
暫く返事がなかったが、缶ビールが空き、残っていた紙パックの酒をチンして、マグロのお造りとの組み合わせに幸せを感じている時、電話での返信があった。
「すいません、ちょっと体調を崩してまして」
「そうなんや、それは申し訳ない。お店も休んでんのん?」
「はい。とりあえず今日と明日は家でじっとしておこうと思って」
「そう、いや、久しぶりにお店に行って顔みたいなぁと思って」
「ごめんなさい、だけど、もし良かったらお店に行ってあげてくれないですか。さっき、ルリカちゃんからメールが着てすごい暇みたいで、ワンセットでもいいんで・・」
「了解、今、マグロを肴に日本酒吞み始めてんけど、これ空にしたら行きますわ」
「ありがとう、ナカジー、感謝です」
「ええよ、どうせなんも用事もないから」
「ルリカちゃんに言っておきますんで」
電話を切ると、声が聞けただけで何か嬉しい気持ちになり、日本酒を急いで明けると自宅マンションを出る。
店に着くといつも通りアッシュ君が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、今日は穂花さんいません」
「わかってるよ、さっき電話で聞いたから」
「電話でですか?」
「うん、メールじゃないよ」
「そうですか」と言うとアッシュ君はテーブルまで案内してくれ生ビールの注文を聞くと店の奥へと消えた。
店内は穂花が言っていたほど暇そうではなく、いつも通り高齢者で七割方のテーブルが埋まっていた。
すぐにルリカちゃんがやってきた。
「いらっしゃいませ」といつもの笑顔を振りまいてくれる。
「先週はごめんね、バレンタインデーに折角のルリカちゃんのダンスが見れなくて」
「いえ、そんなことないです。たくさんのお客様に来ていただいてすごく盛り上がりましたから」
「そう、うちの社長さんも楽しんでました?」
「ええ、すごく喜んでいただいて、今度、店を借り切って社員たちの慰労会を行うと仰ってました」
「どこの社長も考えること同じやねんなぁ」
「そうみたいですね」と言ったルリカの顔は笑っていなかった。
「ナカジマさん、生ビールでよろしいですか」
「あっ、もうアッシュ君にたのんだ。ルリカちゃんもなんか呑んでや」
「ありがとうございます。じゃあ、いつも同じですけどハイボールを頂きます」
言うと、ルリカはホールを歩いていたハッシュ君を呼び、立ち上がると、テーブルから少し離れたところでアッシュ君に何かを話し、それに対しアッシュ君は二度ほど頷き、言葉を二言三言返した。
ルリカはテーブルに戻るとナカジマに話しかける。
「こちらに来る前に穂花さんと電話で話されたんですか?」
「うん、体調悪いから休んでるって。せやけど、ルリカちゃんから連絡があってお店が無茶苦茶暇やから行ったってくれへんて」
「私、穂花さんと連絡なんか取っていないんです」
「えっ!」とナカジマが意外そうな顔で言う。
「穂花さん、先週の金曜日でお店を辞めたんです」
「うそっ! マジでっ!」
「本当なんです。あのIT社長からの結婚を断ったからといって、週末にお店を借り切るという話がキャンセルになって。それで、穂花さん、自分から責任を取りますと言って辞めてしまったんです」
「えーっ、ほんまに?」
「本当なんです」
「連絡先とか知ってる?」
「これまでの番号にかけても『現在使われておりません』と返って来るだけで」
「そうなん? じゃあ、なんでさっき俺んとこにかかってきて、俺が掛けても『現在使われておりません』にならへんかったんやろう・・あっ!」
突然の大声に隣のテーブルで梅干しが沈んだグラスを持っていた老人が驚いてナカジマの顔を見る。
ナカジマはすいませんと老人に頭を下げ、スマホを取り出し何度かタップすると目を丸くした。
スマホのスクリーンに映る通話の履歴の最上段に“あやか”という文字が燦燦と輝いていた。
翌朝、目が覚めると強烈な頭痛に襲われた。
穂花の退職をルリカちゃんから知らされ、いい歳をして自暴自棄となり、その後どれだけお店で吞み、どうやってお店から自宅マンションまで帰って来たのか全く記憶がなかった。
冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出し喉に流し込み、なぜか、玄関の備え付けの下駄箱の上に置かれているスマホを手にする。
通話の履歴に“あやか”という文字のよこの丸いカッコに10という数字が入っている。ショートメールには送信を表す緑色で塗りつぶされた吹き出しが縦に並ぶ。
ダメもとでもう一度電話を掛けるが呼び出し音はなるが穂花は出てこない。
諦めて歯でも磨こうとした時、肌のべたつきから昨日風呂に入っていないことに気づき、窓の桟に掛けてある針金のハンガーにぶら下がったバスタオルに手を伸ばしかけた時、スマホが電子音を発した。
穂花かと思ったが、残念ながら母だった。
「ごめんね、毎日掛けて」
「ええよ、ええけど、ひどい二日酔いやから正しい判断はでけへんで」
「そしたら単刀直入に言うけど、昨日の件、よう考えてんけど、やっぱりみんなでホームに入ることにしてん」
「そうなんや、まあ、それの方がええよな、妹さんご夫婦もおるからなにかと安心やんか」
「そうやろ、だから、また正式に入所が決まったら連絡するわ」
「了解。高級老人ホームで余生を過ごせるなんてある意味勝ち組やで」
「人生に勝ちも負けもあらへんよ。ところで、この間言うてた“ええ人”の件はどうなん?」
「あんなん、冗談や、俺みたいな負け組に嫁はんなんか娶れるかいな」
「なんや、そうなんや・・」
母はため息ともとれる声を残して電話を切った。
シャワーを浴び、向かい酒とばかりに缶ビールのロング缶を手にして畳の上に腰を下ろす。
テーブルの上のスマホをタップするが何の受信もない。
パソコンを立ち上げユーチューブを閲覧する。
い、いた、あ、あやか、が、いた。
“とうとうYou Tubeが会社にばれる”
いきなり寂しいBGMが流れ始め、以前にも疑いを掛けられた同僚の女性社員に言い詰められ、とうとう白状してしまった、という流れだった。
ビジホのベッドの上で深々と頭を垂れるあやかに赤い文字のテロップが重なる。
“三十三歳から始めたこの動画、今年はとうとう歳女になりました。永らくご愛顧いただき本当にありがとうございました”
そして、頭を上げたあやかは後ろをむき何かを手にして再度振り向いた。
“二度目の早とちり またしても使えない付録が増えた”
手にしていたのはぼかしがかかっていても結婚情報誌だとわかった。
最後に“本当に地球に生まれてよかった”のテロップの向こうであやかは頭を垂れ、これで動画が終わるのかと思った瞬間、おもむろに中指と小指を折った手を差し出し“さばら”の大きな金文字のテロップが追いかけてきて動画は終焉を迎えた。
「オー マイ パスタ やわ」
独りごちたナカジマはずっと部屋の片隅に置き放しになっていた紙袋を手に取り、中から“五十歳からのゴルフ入門”を取り出すと指に唾をつけて頁をめくる。
了
あ や か @miura
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