十四章
舟酔いで朦朧としたまま雑に担ぎ上げられたのが分かった。腹が圧迫され頭が空と逆さに、さらに
新たな舟での待遇は
三日は過ぎたろうか、咲歌はやっと地上に下ろされた。しかしすでに自立はできない。あの
頭の中は幾分すっきりとしていたが
泉宮へ戻ったのかと錯覚した。長く昼寝していただけで、今までのことはすべて悪い夢だったのではないかと。なぜなら、
「……ここは、どこ……」
「まずは水を」
背に
「あなたは……」
「
女は他人行儀に固く言い、頭を下げ退室する。咲歌は首を巡らせた。この
「でも揺れてもいない……」
まるで内だけ綺麗に
「やっとお目覚めか」
入ってきたのは三人。背後でさっきの女が粥の散った床に
男たちは一様に白い。咲歌を運んできた大賑も顔の覆いはそのままだが特徴のある装いに着替えていた。額には
「大賑、このホラ吹きめ。不細工だと聞いたから期待しないで来たのに、なかなかどうして
うち、
咲歌はにじり
「わ、わたし、もう公主じゃない」
「ああ、そういえば県主にお
青年は立ち上がると遠慮の欠片もなく
「不思議な色だ。
褒め言葉を連ねるが殺伐とした笑みを浮かべ、ねぶるようにためつすがめつした。「殺してしまうのは惜しいな」
「もういいだろう、
大賑はというとついてきただけなのか、戸の外の女が皿の破片を集めているのをつまらなさげに眺めている。発言したのはその横、小柄な最後のひとりは
「泉宮ではどうも」
言われて頭の中を疑問に満たして見つめる。彼は頬をひくつかせた。
「
それでやっと、あの糾弾してきた男だと気がついた。
「族主の
「左様です。まず確認しましょう。県主、あなたは今の状況をお分かりで?」
咲歌は大賑を見上げた。
「わ、たしを、叛乱の最初の犠牲にすると」
「そもそもなぜ我々がそれに踏み切ろうとしているのか、了解しておられますか」
「えと……国内で鱗族の待遇が低いから……」
「罪…………」
そもそも自分の罪は、直接手を下していないとしても進物で姉を流産させ、子を失わせてしまったことだ。
「王太子を死なせてしまっ――」
「そうではない‼」
いきなり怒鳴りつけられ震えた。頭は真っ白、喉は締めつき、ただ縮こまる。
「あなたの大罪は自らの下僕を助けず見殺しにしたことだ‼香円は……
類離は一度息を吸い込んだ。
「……私はたしかに澔香から
「あの事件のせいで宮入りしていた鱗人は多くが暇を出され貧しい故郷へと帰らざるを得なくなりました。地方での我々への差別は
「あなたは我々の怨みを買ったわけです。おりよく鳴州に
「待って。わたしは香円が犯人だなんて言わなかった!」
「けれど否定もしなかったのでしょう。何も知らないと首を振るだけだったのでしょう」
それは。しどろもどろに俯いた。あの状況で香円の無罪を言い募れば姉たちや泉主の猜疑は増した。怖かった。言えるわけが……なかった。
「泣きたいのはこっちです。いいえ、泣くことで
ぴし、と鞭が
咲歌の胸に一抹の気持ち悪さがよぎる。この男は自分で言うように、ただただ七泉に刃向かう口実が欲しかっただけではないのか。さも鱗族を代表して責め立てるが、彼は族主ではない。個人的な
「……わたしを殺すことが鱗族の総意なら、族主がわたしにそう言うべきだと思う」
ぴく、と青年の眉がひくついた。
「なんですって?」
「たとえわたしが原因としても、あなたがみんなを焚きつけて国と戦争しようとするのは納得できない。まして話し合いもなにもせずに、聞く耳を持たずに一方的に報復するのはおかしいよ。お会いした族主はあなたたちの不満を突っぱねるような方には見えなかった。きちんと上奏して、泉主に伝えてもらえば」
「それが通らないからこうして強硬な手段に出ているのです!あなたは本当に何もお知りでないのですね!」
「何も知らないけど、こんなこと、誰も喜ばない」
「恵まれた泉人の典型のような方。平和呆けした薄ぺらい哀れみで我々を
「水を与えてくださるのは泉主なのに」
「その態度ですよ。それなら何をしてもいいと?どう扱ってもいいと?鱗族を泉人の
「『あなた方』なんて分からない!『わたし』はそんなこと思ってない‼」
張り手が咲歌の頬を打った。いや、手ではなかった。鋭い革の鞭が命中して倒れ込む。どっ、と顔が火を噴いたように熱くなり口中に鉄の味がした。
だらりと顎先に垂れてきた自分の血に
「なにが公主、県主だ、この
「ちょっと類離、やりすぎ」
「どけよ‼」
「泉国に尾を振るだけの当主など我々には本来必要ないが、今はまだ手を出せない。だが決起の
声も出せないのを無視し去っていく。残った青年だけが「大丈夫?」と咲歌を引っ張り、裂けた頬に触れた。
「ひどいな」
「…………離して」
仕草が妙に馴れ馴れしく、悪寒を感じ逃れようとした。いつの間にか両手首を握られていた。
「可哀想に。傷の手当てをしてあげます」
「いらない。出てって」
「まあどうせ死んじゃうけどね、あんた」
「出てって!」
彼は聞こえていないのかさらに顔を寄せた。「県主は未婚だったね。まだ男を知らない?死ぬ前に俺が女の
「なに……?なに言って……」
「
穏やかな調子とは裏腹に据わった目で咲歌の破れた衣を
「やだ、やめて」
何を考えているのだこの男は。得体の知れない恐怖に腰が抜けた。分からない。ただ、これからとてつもなく悪いことが起きる予感がした。
押し倒され、したたかに
「いやっ!……どいて‼だれかっ‼」
手が。太腿を這い上がってくるおぞましく不快な感触、耳許で嗅ぎつく息遣いにぞわりと肌が
急に扉を叩く音がした。
「おやめ下さい!どうかお控えください!」
あの世話役の女だ。戻ってきてくれたのだと思ったが入って来ない。男は無視してやめない。鍵がかかっているのだと絶望した。
「だれか助けて‼――淳佐、淳佐ぁッ‼」
錯乱していつの間にか呼んでいた。常に傍にいてくれた下僕の名を。淳佐が助けに来ないわけがない。声を
目の前で閃光が炸裂した。
ように見えた。キン、と耳鳴り、同時に重みが消失する。思わずぎゅっと目を
「――――愚か者。鱗の名を自ら
静かで小さな、しかしはっきりと
「……第七公主殿下でいらっしゃいますね?」
ゆっくりと助け起こしてくれたのは待ち侘びた下僕ではなかった。見覚えのない若い女だった。
女はありさまに顔をしかめる。なんてことを、と呟き、共に入ってきた者たちに捕らえさせた男を睨んだ。
「お前がこれほど愚かとは見損ないました」
「違います、違います。怪我をさせたのは類離ですし、俺だって本気でするつもりじゃ」
「黙りなさい‼」
針のように鋭い怒声に彼は叱られた小犬そのものになった。女は全身の震えが止まらない咲歌の肩を抱く。
「仮にも泉根にかような振る舞いをするなど考えずともならぬと分かること。お前の命は今日限りです。――連れていきなさい」
「ま、まって。こ、殺さないで」
歯の根が合わないので必死に
女は厳しい表情を崩さず目を合わせ首を振る。
「人には一生涯
何を言っているのかよく分からなかったが彼女はこの男を
「いま殺せば、またわたしのせいで鱗人が死んじゃったと大騒ぎになる。だから、おねがい」
「………………」
思案するふうに黙し、しばらくして頷いた。
「……分かりました。この者には別の方法で罪を償わせましょう。――
「すっ⁉お待ちください、俺は」
「
男は泡を食った。「それでは息ができません!お許しください!ほんの
「悪戯?あなたは悪戯に人の体を踏みにじるのですか。本気で言っているのならますます救いようがありませんね。
「だからやってねえって!このクソアマ!」暴れる男の耳と目に布が巻かれる。引き
女は息をつき、再び咲歌を窺う。白い前髪を目の上で切り揃えていて眉は見えず、感情が読みづらいが気遣われているのは分かった。口端に垂れた血を
「おいたわしい。さぞ怖かったでしょう」
「あり、が、…………」
言いかけ安堵で息が詰まり、声にならず落涙する。女はあやすように手を
「場所を移します。手当てしましょう。この者も男ですが危険はありません。ご安心くださいませ」
傍に立っていた大男が無言で、しかしなるべく傷に触れないよう丁寧に咲歌を横抱きにかかえ、女は手を握ったまま微笑んだ。
房室の外で控えていた世話役にも促す。
「行きますよ」
「しかし」
「女手が足りぬからとお前を貸した、けれど理由が分かったわ。殿下はこちらで預かる。お前も戻ってきなさい」
世話役は硬い表情をみるみる一変させ、見るからにほっとした。咲歌に深々と腰を折る。
「申し訳ありません殿下。この者は私の下女です。お嫌いにならないで頂けると嬉しいです」
咲歌はがくがくと頷く。この女たちを呼んだのは彼女だろう。もし
解放されたが外の景色を楽しむ余裕など咲歌にはまったく無かった。過度の疲労と立て続けに受けた苦痛と恐怖ですぐに昏倒してしまった。
「
弟が危なげなく抱える少女を悲しげに見て、姉は
「――類離。あのような薄い堅固で私を閉じ込められたなどと思い上がったの?」
「閉じ込めるなぞ…そんな」
「その鞭はなんです」
「これは……」
「殿下に許されざることをしましたね?」
「いいえ、大姉上」
弟は
「では付いている血はだれのもの」
「これは先ほど大賑を
言に
「殿下はひどいお怪我をされているわ」
「自らお転びなされたのです。鱗人は怖いと言って手当ても受けつけず」
「いつから私にそんな嘘をつくようになったのです」
「決めつけないでください。証拠はありません」
しゃあしゃあと
「……そう。叱るのは効果がないようね」
色なく言う。
「私にはそれほど
「とんでもない!」
慌てて膝立ちで姉にすり寄った。「誤解です。私は決して姉上を侮っておりません。どうか見捨てないでください」
手を押し戴く類離に
「……もうすぐ父上がいらっしゃるそうよ。私はひとまず城に戻るわ。泉根は我々がお守りするゆえ
「っ……。分かりました」
類離は苦虫を噛み潰したような表情を隠す。下げた頭にもう一度憂いの息をつき、配下を連れて出口へと向かった。
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