十四章



 舟酔いで朦朧としたまま雑に担ぎ上げられたのが分かった。腹が圧迫され頭が空と逆さに、さらに悪心おしんが強まる。吐きそうになる唾をなんとか飲み込んだ。


 新たな舟での待遇は朿菱ククルンのほうとは雲泥の差だった。食事は水とほしいいだけ、咲歌には固すぎて噛みきれず、なけなしの体力はみるみる落ちて起き上がれなくなったが介抱もされなかった。時おり監視が扉の隙間から視線を寄越すだけだ。ひどい揺れで目を開けているのも辛くなりほぼ眠って過ごした。


 三日は過ぎたろうか、咲歌はやっと地上に下ろされた。しかしすでに自立はできない。あの大賑テジンとかいう男に至極めんどうくさそうに運ばれ気を失い、次に目覚めるとどこかの臥房ねまに横たえられていた。



 頭の中は幾分すっきりとしていたがねばつくような倦怠感で体中が痛い。 薄目で眼球だけを動かしていると「お気がつかれましたか」と声がした。

 泉宮へ戻ったのかと錯覚した。長く昼寝していただけで、今までのことはすべて悪い夢だったのではないかと。なぜなら、のぞき込んでくる女は歳のせいで灰まじりなものの黒髪で、咲歌と同じ肌の色をしていたから。しかしすぐに見覚えのない調度と雰囲気で違うのだと落胆した。

「……ここは、どこ……」

「まずは水を」

 背に靠枕まくらを宛てがわれ器を近づけてくれ、ぬるい湯冷ましを口に含む。喉を湿らしてやっと呼吸が楽になった。

「あなたは……」

かゆをお持ちします」

 女は他人行儀に固く言い、頭を下げ退室する。咲歌は首を巡らせた。このへやには窓がひとつもない。舟室とほぼ変わらないように思えた。だとしたらここはまだ水の上なのだろうか?


「でも揺れてもいない……」


 まるで内だけ綺麗に調ととのえた牢獄のようだ。夏のはずなのに寒いくらい冷えている。身震いし、いつの間にか着ていた睡衣ねまきを掻き合わせたとき、悲鳴と皿の割れる破砕音があり、足蹴あしげにされた戸が荒々しく開いた。


「やっとお目覚めか」


 入ってきたのは三人。背後でさっきの女が粥の散った床にひざまずいていた。

 男たちは一様に白い。咲歌を運んできた大賑も顔の覆いはそのままだが特徴のある装いに着替えていた。額には網巾はちまき、つばの広い氈笠かさを被っている。ゆったりとした袍衣うわぎ帯鉤こしおびで押さえ剣をき、曲領まるえりの結び紐に揃いの銀の装飾をしていた。


「大賑、このホラ吹きめ。不細工だと聞いたから期待しないで来たのに、なかなかどうしてうるわしいじゃないか」

 うち、長身痩躯ちょうしんそうくのひとりが牀榻ねどこのすぐ前で片膝を折った。切れ長のまなじりを弓なりに細めて笑う。「初めまして冀翼きよく公主。大賑が大層失礼な真似をしたとか。お加減はいかがですか」

 咲歌はにじり退さがる。

「わ、わたし、もう公主じゃない」

「ああ、そういえば県主におくだりあそばされたのでしたね。まあどうでもいいのですが」

 青年は立ち上がると遠慮の欠片もなくしとねに腰かけ、腕を伸ばして振り乱した咲歌の毛先をすくった。思いがけない所作に唖然と凝視する。彼はその様子に吹き出した。

「不思議な色だ。川藻かわものようじゃないか。眼も美しい」

 褒め言葉を連ねるが殺伐とした笑みを浮かべ、ねぶるようにためつすがめつした。「殺してしまうのは惜しいな」

 あごをとらえられ抵抗すればようやく背後から別の声があった。

「もういいだろう、退け」

 大賑はというとついてきただけなのか、戸の外の女が皿の破片を集めているのをつまらなさげに眺めている。発言したのはその横、小柄な最後のひとりは馬鞭ばべんを持つ手を後腰で組み、居丈高に咲歌を睨んだ。

「泉宮ではどうも」

 言われて頭の中を疑問に満たして見つめる。彼は頬をひくつかせた。

殯屋もがりやでまみえたのをお忘れか。タン類離ユリと申す」


 それでやっと、あの糾弾してきた男だと気がついた。


「族主の甥御おいごさま……」

「左様です。まず確認しましょう。県主、あなたは今の状況をお分かりで?」

 咲歌は大賑を見上げた。

「わ、たしを、叛乱の最初の犠牲にすると」

「そもそもなぜ我々がそれに踏み切ろうとしているのか、了解しておられますか」

「えと……国内で鱗族の待遇が低いから……」

 つたない理解に類離は溜息をついた。「まあ間違いではありませんけれど。ではあなたは御自身の罪をきちんと分かっていますか」

「罪…………」

 そもそも自分の罪は、直接手を下していないとしても進物で姉を流産させ、子を失わせてしまったことだ。

「王太子を死なせてしまっ――」

「そうではない‼」


 いきなり怒鳴りつけられ震えた。頭は真っ白、喉は締めつき、ただ縮こまる。


「あなたの大罪は自らの下僕を助けず見殺しにしたことだ‼香円は……澔香ホヒャンはあなたが幼い頃からずっと仕えてきた第一の侍女でした。あなたの傅役ふやく、教育係でもあった。彼女が王族殺しの罪を被せられ、ろうで七日にわたる責め苦を受けていてもあなたは助けなかった!彼女が無実だと知っていたくせに‼」

 類離は一度息を吸い込んだ。

「……私はたしかに澔香から阿膠あきょうの手配を頼まれ用意した。しかし骨蓉こつようが混入されているとは知らなかった。澔香も当然そう。聡く慎重な方でしたから、把握していれば献上を思いとどまったでしょう」


 愕然がくぜんとして咲歌は瞳を揺らした。もちろん香円の犯行ではないと確信していたが、身の潔白を訴えられる証拠もなかった。では、誰が毒を混ぜたのだろう。


「あの事件のせいで宮入りしていた鱗人は多くが暇を出され貧しい故郷へと帰らざるを得なくなりました。地方での我々への差別は泉畿みやこの比ではありません。泉根せんこん殺しの汚名まで着せられ、ますます肩身の狭い思いをしなければならなくなった。賦税とりたても増えた」

 たかぶって熱くなる目許を押さえた。

「あなたは我々の怨みを買ったわけです。おりよく鳴州にくだることになり助かりました。火種には丁度良い」

「待って。わたしは香円が犯人だなんて言わなかった!」

「けれど否定もしなかったのでしょう。何も知らないと首を振るだけだったのでしょう」


 それは。しどろもどろに俯いた。あの状況で香円の無罪を言い募れば姉たちや泉主の猜疑は増した。怖かった。言えるわけが……なかった。


「泣きたいのはこっちです。いいえ、泣くことで月明珠げつめいしゅを作り出せるのならまだ甲斐もあるでしょう。日々、なみだたまに変え上納してまで宮で働きたいと励んだ多くの青雲士がいったいどれほどの思いで官服を脱ぎかんむりを置いたと?そしてそんな不当な仕組みのなかで六百二十年間も耐え忍んできた我々に対して、県主は己にはなにも否がないと仰るのか。ええ、ええ、あなたはただの切欠きっかけに過ぎません。むしろあなたは澔香を手許に置き厚遇していました。我々に対してこだわりないのも事実なのでしょう。――しかし、それとこれとはまったく関わりないことです」


 ぴし、と鞭が被衾ふとんに叩きつけられた。類離の眼は香円と同じく黒く、不思議な光彩が散っている。なのに温度はまるで感じられず冴え冴えとして死んだ魚のようだった。


 咲歌の胸に一抹の気持ち悪さがよぎる。この男は自分で言うように、ただただ七泉に刃向かう口実が欲しかっただけではないのか。さも鱗族を代表して責め立てるが、彼は族主ではない。個人的な怨嗟えんさを大きな理由に転換して戦をおこそうと画策しているのでは。


「……わたしを殺すことが鱗族の総意なら、族主がわたしにそう言うべきだと思う」

 ぴく、と青年の眉がひくついた。

「なんですって?」

「たとえわたしが原因としても、あなたがみんなを焚きつけて国と戦争しようとするのは納得できない。まして話し合いもなにもせずに、聞く耳を持たずに一方的に報復するのはおかしいよ。お会いした族主はあなたたちの不満を突っぱねるような方には見えなかった。きちんと上奏して、泉主に伝えてもらえば」

「それが通らないからこうして強硬な手段に出ているのです!あなたは本当に何もお知りでないのですね!」

「何も知らないけど、こんなこと、誰も喜ばない」

「恵まれた泉人の典型のような方。平和呆けした薄ぺらい哀れみで我々をぎょせるとでも?誰も喜ばない?七泉ともっと対等になれれば一族は大喜びですとも」

「水を与えてくださるのは泉主なのに」

「その態度ですよ。それなら何をしてもいいと?どう扱ってもいいと?鱗族を泉人の奴婢ぬひおとしめ使い捨てると?我々の珠を搾り取りあくどく儲けておきながら、あなた方にとっては足裏の泥程度の存在なのですか。醜くけがらわしいのは七泉人のほうではないか!」

「『あなた方』なんて分からない!『わたし』はそんなこと思ってない‼」


 張り手が咲歌の頬を打った。いや、手ではなかった。鋭い革の鞭が命中して倒れ込む。どっ、と顔が火を噴いたように熱くなり口中に鉄の味がした。

 だらりと顎先に垂れてきた自分の血に狼狽うろたえる。興奮した類離は肩で息をしうずくまった咲歌の背をさらに打った。

「なにが公主、県主だ、この醜女しこめ!身の程知らずが!泉根でも女の時点で役に立ちはしないんだ!」

「ちょっと類離、やりすぎ」

「どけよ‼」

 いさめた仲間を押しのけさらに鞭を掲げたが止まる。背後からそれを握った大賑が無感動に見下ろし、類離は憤懣ふんまんやるかたないと鼻息荒く睨み、ようよう腕を下ろした。

「泉国に尾を振るだけの当主など我々には本来必要ないが、今はまだ手を出せない。だが決起のときはすでに近い。県主、準備が整い次第あなたには死んでもらいますから」


 声も出せないのを無視し去っていく。残った青年だけが「大丈夫?」と咲歌を引っ張り、裂けた頬に触れた。

「ひどいな」

「…………離して」

 仕草が妙に馴れ馴れしく、悪寒を感じ逃れようとした。いつの間にか両手首を握られていた。

「可哀想に。傷の手当てをしてあげます」

「いらない。出てって」

「まあどうせ死んじゃうけどね、あんた」

「出てって!」

 彼は聞こえていないのかさらに顔を寄せた。「県主は未婚だったね。まだ男を知らない?死ぬ前に俺が女のよろこびを教えて差し上げる」

「なに……?なに言って……」

ぬくいなあ、のぼせそうだ。これが泉人の女か。鱗人とは大違いだ」

 穏やかな調子とは裏腹に据わった目で咲歌の破れた衣をぎにかかる。

「やだ、やめて」

 何を考えているのだこの男は。得体の知れない恐怖に腰が抜けた。分からない。ただ、これからとてつもなく悪いことが起きる予感がした。

 押し倒され、したたかにされて叫ぶ。

「いやっ!……どいて‼だれかっ‼」

 手が。太腿を這い上がってくるおぞましく不快な感触、耳許で嗅ぎつく息遣いにぞわりと肌が粟立あわだつ。

 急に扉を叩く音がした。

「おやめ下さい!どうかお控えください!」

 あの世話役の女だ。戻ってきてくれたのだと思ったが入って来ない。男は無視してやめない。鍵がかかっているのだと絶望した。


「だれか助けて‼――淳佐、淳佐ぁッ‼」


 錯乱していつの間にか呼んでいた。常に傍にいてくれた下僕の名を。淳佐が助けに来ないわけがない。声をらして泣き叫んだ。



 目の前で閃光が炸裂した。



 ように見えた。キン、と耳鳴り、同時に重みが消失する。思わずぎゅっと目をつむった薄闇の中で戸を打ちつける激しい開閉音、男の呻き声が床で聞こえた。


「――――愚か者。鱗の名を自らとすとは何事です」


 静かで小さな、しかしはっきりとつよい叱責に耳だけが傾注する。仰臥あおむけのままの咲歌の上にふわりと衣が落ち、ようやく恐る恐る目を開いた。

「……第七公主殿下でいらっしゃいますね?」

 ゆっくりと助け起こしてくれたのは待ち侘びた下僕ではなかった。見覚えのない若い女だった。


 女はありさまに顔をしかめる。なんてことを、と呟き、共に入ってきた者たちに捕らえさせた男を睨んだ。

「お前がこれほど愚かとは見損ないました」

「違います、違います。怪我をさせたのは類離ですし、俺だって本気でするつもりじゃ」

「黙りなさい‼」

 針のように鋭い怒声に彼は叱られた小犬そのものになった。女は全身の震えが止まらない咲歌の肩を抱く。

「仮にも泉根にかような振る舞いをするなど考えずともならぬと分かること。お前の命は今日限りです。――連れていきなさい」

「ま、まって。こ、殺さないで」

 歯の根が合わないので必死に呂律ろれつを回す。自分に関わる者が死ぬのをもう見たくない。

 女は厳しい表情を崩さず目を合わせ首を振る。

「人には一生涯おこなってはならない禁忌がございます。他者の霊をけがすことは大罪です」

 何を言っているのかよく分からなかったが彼女はこの男をゆるすつもりはないようだ。それでも首を振った。

「いま殺せば、またわたしのせいで鱗人が死んじゃったと大騒ぎになる。だから、おねがい」

「………………」

 思案するふうに黙し、しばらくして頷いた。

「……分かりました。この者には別の方法で罪を償わせましょう。――水牢すいろうへ」

「すっ⁉お待ちください、俺は」

えらを塞いで繋げ」

 男は泡を食った。「それでは息ができません!お許しください!ほんの悪戯いたずらだったのです!」

「悪戯?あなたは悪戯に人の体を踏みにじるのですか。本気で言っているのならますます救いようがありませんね。浄身じょうしんを勧めます」

 「だからやってねえって!このクソアマ!」暴れる男の耳と目に布が巻かれる。引きられて行く合間にも罵倒していたが虚しくこだまだけを残して消えていった。


 女は息をつき、再び咲歌を窺う。白い前髪を目の上で切り揃えていて眉は見えず、感情が読みづらいが気遣われているのは分かった。口端に垂れた血をそでで拭ってくれる。

「おいたわしい。さぞ怖かったでしょう」

「あり、が、…………」

 言いかけ安堵で息が詰まり、声にならず落涙する。女はあやすように手をさすった。

「場所を移します。手当てしましょう。この者も男ですが危険はありません。ご安心くださいませ」

 傍に立っていた大男が無言で、しかしなるべく傷に触れないよう丁寧に咲歌を横抱きにかかえ、女は手を握ったまま微笑んだ。

 房室の外で控えていた世話役にも促す。

「行きますよ」

「しかし」

「女手が足りぬからとお前を貸した、けれど理由が分かったわ。殿下はこちらで預かる。お前も戻ってきなさい」

 世話役は硬い表情をみるみる一変させ、見るからにほっとした。咲歌に深々と腰を折る。

「申し訳ありません殿下。この者は私の下女です。お嫌いにならないで頂けると嬉しいです」

 咲歌はがくがくと頷く。この女たちを呼んだのは彼女だろう。もし些事さじなかれと無視されていたら助けが間に合わなかったかもしれないのだから、うとむ理由はない。



 解放されたが外の景色を楽しむ余裕など咲歌にはまったく無かった。過度の疲労と立て続けに受けた苦痛と恐怖ですぐに昏倒してしまった。


怒廉ノヨム、力を入れすぎてはだめよ」

 弟が危なげなく抱える少女を悲しげに見て、姉は広房ひろまに差しかかる。見えない帷帳とばりの向こうは真っ青な水と浮き上がる泡、魚群の陰影がきらめいた。そのまま進み、雁首を揃えたもうひとりの弟とその取り巻きが額を床に擦りつけるのをめた眼で見下ろした。

「――類離。あのような薄い堅固で私を閉じ込められたなどと思い上がったの?」

「閉じ込めるなぞ…そんな」

「その鞭はなんです」

「これは……」

「殿下に許されざることをしましたね?」

「いいえ、大姉上」

 弟は傲然ごうぜんと顔を上げた。

「では付いている血はだれのもの」

「これは先ほど大賑をいましめたものです。県主を乱暴に連れて来たので」

 言にたがわず当人は古傷の上にさらに生傷をつくっている。

「殿下はひどいお怪我をされているわ」

「自らお転びなされたのです。鱗人は怖いと言って手当ても受けつけず」

「いつから私にそんな嘘をつくようになったのです」

「決めつけないでください。証拠はありません」

 しゃあしゃあとなめらかなのたまいに姉は目許を険しくした。

「……そう。叱るのは効果がないようね」

 色なく言う。

「私にはそれほどないがしろにされる理由があったかしら」

「とんでもない!」

 慌てて膝立ちで姉にすり寄った。「誤解です。私は決して姉上を侮っておりません。どうか見捨てないでください」

 手を押し戴く類離に喟然きぜんとした。

「……もうすぐ父上がいらっしゃるそうよ。私はひとまず城に戻るわ。泉根は我々がお守りするゆえ随従ずいじゅうは必要ない」

「っ……。分かりました」

 類離は苦虫を噛み潰したような表情を隠す。下げた頭にもう一度憂いの息をつき、配下を連れて出口へと向かった。




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