孤独の散歩者

裄邑(ゆきお)ちゃん

孤独の散歩者

 1


 けたたましいベルの音が夢の世界に飛び込んでくる。顕木(アラキ)は重い瞼を開けた。部屋は明るい。時刻は午前7時。いつも通りの起床時間だ。体は相変わらず重く布団に沈んでいる。目を閉じてしまいたい。そのまま心地良い眠気に身を任せることができればどれほど幸せだろうか。しかし彼は起床しなければなかった。時間は決して待ってくれないのだ。仕事に行かなければならない。

 時刻は午前7時5分。与えられた猶予はここまでだ。彼はゆっくりと布団から身を起こした。

 毎朝のお決まりの儀式のようにトイレで求められることを果たし、多少すっきりとした気持ちで寝室兼リビングに戻る。乱れた布団に白いローテーブル、床に直置きのテレビ。家具といえばそれくらいだ。

 いつも通りの見慣れた部屋。ここに住み始めて5年になるだろうか。駅まで歩いて10分程のワンルームだ。しかし彼は部屋を見渡した。どこか違和感がある。気味の悪さに何もできずに立ち尽くした。

 違和感の正体は音だ。自分の一挙手一投足に伴う音がやけに気になる。息をすることすらうるさく思われて躊躇われる。ゆっくりと鼻から息を吸って、また鼻から静かに吐き出していく。ごくごく簡単なはずの一連の動作すら正しいのか分からなくなってしまった。息をすればするほど苦しくなる。何一つ正しい挙動ができていないように思えた。言葉のゲシュタルト崩壊ではなく、動作のゲシュタルト崩壊。これは彼にとってままあることであった。息の仕方をすっかり忘れてしまった彼は勢いよくベッドから跳ね起きた。こんなときは考えることをやめて無意識に任せることが一番である。

 何の変哲もない自分の部屋。しかし感じる強烈な違和感は、どうやら音にあるのだと彼はようやく思い至った。

 幹線道路から細い二つの小道を経た位置に立つ安普請のアパートだ。現在午前7時半。車の音が一つも聞こえない。さらにいつもは耳につく小学生の声も全く聞こえない。

 彼は自分の耳を軽く叩いてみた。左右のどちらも聞こえ方に異常は感じられなかった。試しにテレビをつけてみる。

 ここで二つ目の異常だ。画面が真っ暗なのだ。どのチャンネルに回しても同じことで、黒い画面が沈黙を流すばかりだ。鼓膜が圧迫されるような気がしてすぐに消した。

 彼はのろのろと支度を始める。気味の悪さを感じたとはいえ仕事がなくなるわけではない。いつもの日常が持ち前の空想癖から悪く映っているだけだ。

 彼は冷蔵庫を開けた。昨日の残りの食パンの袋を手に取る。

 そのときだ。インターホンが鳴った。彼の体は文字通り飛び上がった。滅多に鳴ることのない不愉快な電子音。しかもこんな朝から、誰が。

 彼はドアスコープを覗いた。果たしてそこには誰もいなかった。何かの間違いだったのだろうか。そう思ってゆっくりと身を離す。

 もう一度、インターホンが鳴った。

 大きな不安──そして少しの期待──とともにドアを開ける。

 やはり誰もいない、とドアを閉めることはできなかった。

 得体のしれない球体が浮かんでいる。インターホンの前からするりと滑らかな動きで彼の真正面に移動してくる。ソフトボール大の真っ白な物体だ。表面はいくつものパーツを組み合わせて作られていることがよく分かる。いかにもメカニックな見た目だ。

 宇宙人か、彼はそう思った。テレビで見かけた馴染みのない言葉を思い出そうと頭は現実逃避を始める。

「おはようございます、顕木様」

 美しい日本語が聞こえた。毎朝聞くアナウンサーの発声に近い。男女の区別はつきにくかった。

「突然の訪問失礼いたします。今朝から戸惑われたことかと思います。現状につきましてどうか私から説明させてはいただけないでしょうか。ああ、お時間についてはどうぞお気になさらず。私からこのようなことを申し上げるのは差し出がましいのですが、顕木様が昨日まで従事されていたお仕事は本日ございません」

 何を言っているんだ、という言葉を口にすることはできなかった。


 白い球体を部屋に通す。見た目はいかにもロボットだがあまりにも流暢にきびきびと話すものだから緊張してしまう。見知らぬ面接官に審査されているような気分だ。

「私の名前はウーヌス。この街はあなたのものです。どうぞお好きに支配してください」

 顕木はただただ目の前の球体を見つめて口をぱくぱくとさせていた。

「ウーヌス、では少々親しみが足りないでしょうか。では愛称を募集しましょう。何がいいでしょうか。顕木様の呼びやすいお好きな名前でどうぞ」

「……性別は?」

「残念ながら私には性別の概念がございません。どちらか特定の性別がよろしいということであれば、そちらに話し方や思考回路を固定しますが」

「そういうことできるんだ」

「ええ、可能ですよ。私は万能なサポートロボットですので」

「あ、そういう意味じゃなくて。男女でそんな明確な違いがあるのってこと」

「ええ、明確に生物学的な分類がなされている以上、そこには大きな差異が生じるのはしかるべきことなのです。では、いかがいたしましょう」

「じゃあ、そのままで」

「デフォルトの設定のままで会話を維持いたします。愛称はどうしましょう」

「名前、なんだっけ?」

「ウーヌスです」

「強そうな名前だ。でもちょっと言いにくいから、『ウナ』とかどう?」

「『ウナ』で登録いたします。こちらの変更はいつでも可能ですので、気軽におっしゃってください」

「うん、ありがとう」

 ひとまず顕木は未知の機械と友好関係を築くことに成功した。


  

 2


 初めまして、顕木様。私は『ウーヌス』。今回の計画実行にあたり顕木様をサポートするために派遣されたサポートロボットでございます。どうぞお好きにお呼びください。

 顕木様もご存じの通り、地球は深刻な問題を多々抱えております。それに対して人類は涙ぐましい努力を続けてまいりましたが、いずれも焼け石に水。地球の支配者として暴虐の限りを尽くしてきた人間たちによって刻まれた傷は、ちょっとやそっとのことでは癒えることは無いのです。

 人間の地球破壊活動を憂いた一部の人間は、地球の回復のために人間の活動を制限することにしました。それも生半可なものではありません。

 人間たちを数年間眠らせることで地球を回復させるのです。期間は5年から10年の間。地球の回復具合を見て判断いたします。

 人間たちが眠っている間の地球の管理は我々AIに任されております。しかしそれでは不測の事態に対応できません。突然の機器の故障など、ままあることですからね。そこで幾人かの人間を管理人として街に残すことにしたのです。

 そのうちの一人が顕木様、あなたなのです。


「この街の支配者は顕木様です。さあ、なんなりとご命令ください。私はあなたのために尽力いたしましょう」

 白い球体は説明をそう締めくくった。

「随分と壮大な話だね」

 顕木は胡坐をかいたままこたつ机に頬杖をついた。目の前の球体、ウナは淀みなく事情を説明している。

「管理者、というお仕事をお任せするわけではありますが、当然顕木様には拒否する権利がございます。本日より一週間後に、管理者を続けるかどうか伺いますのでそれまでにご決断していただければと」

「もし拒否したらどうなるの?」

「管理者として過ごした記憶を消去した上で他の人間と同じように眠っていただきます。次に起きたときは何の違和感もなく以前の生活に戻っていただくことになります」

 以前の生活、という言葉は彼の胸に苦々しい思いを抱かせた。喜びも楽しさも何一つ見出せずに仕方なく時間を消費しているだけの生活だった。戻りたくはない、というのが本心だった。

「管理者として人が眠っている間に僕が起きていなきゃいけないのは分かった。そのあとはどうなるの?」

「回復期間の終了後は各管理者の適正に合わせて本部から仕事を紹介いたします。その場合の身分の保証はいたしますのでどうかご安心ください」

 どのように返事をするべきか、彼は思わず黙り込んでしまう。

「何かご質問はございますか、顕木様」

 球体は淡々と音声を発する。「正直なところ、まだ全然実感がわかなくて」素直に吐露すれば「顕木様がそうおっしゃるのも当然のことです」と返ってきた。

「では少しばかり街を探索してみましょう。それでおいおい説明をしていきましょう」

 顕木は立ち上がった。この夢のような状況を少しでも楽しもうとしていた。


 時刻は午前8時。いつもなら最寄りの駅についているはずだ。見知らぬ人間たちと共に電車に詰め込まれて目的地までただの荷物のように大量輸送されるのだ。

 顕木はスーツではなく普段着であった。彼はひとまずこの奇怪なロボットの言うことを信じることにしたのだ。目の前で起こっている出来事が現実とはとてもじゃないが思えなかった。恐らく夢の中の出来事か、自身の精神がおかしくなっている妄想の結果だろう。しかしこの夢想はひどく心地良かった。目が覚めるまでの間付き合うことにしたのだ。

「顕木様、歩くのはお好きですか? 車で街を回ることもできますので、いつでもおっしゃってください。もちろん、運転は私がいたします。全ての車種というわけではありませんが、自動運転機能が搭載されていれば私の方で操作できますので。環境への配慮という面から電気自動車が望ましいですね。給油も必要ありませんし」

「そういえば、電気ってどうなってるの? 僕一人のために発電所回してるわけじゃないでしょ」

「おっしゃる通り、機能している発電所は数が限られております。顕木様の生活に支障のない範囲で電気を通しております。加えて、人々の保存にもどうしても電力が必要になります」

 顕木はウナについて歩くだけだった。謎の球体はふわふわと浮かびながら話を進めていってくれる。受動的な性格である男にとって会話の主導権を握る球体の存在はありがたかった。

「顕木様、あちらをご覧ください」

 ウナが球体から一本の手を出す。指し示す方向では道路で機械が作業中だ。

「組織が管理しているロボットが道路を修復しております。あのような作業をこの回復期間に行います。それから、電線の地中化ですね。人々の営みがあるとどうしても一気に進めることのできない作業をメインに進めていきます。そして、これらのロボットに何か不具合が生じたときに組織と連絡を取り、再起動や修理などの必要な操作をしていただきたいのです」

「僕は別に機械に強いわけじゃないんだけど、それでも修理なんてできるもんなの?」

「ええ、可能ですよ。本当に最悪の場合ですけれども。大抵は本部と連絡を取っていただければ、修理担当のロボットが現場に向かいしかるべき作業をいたしますので」

「案外しっかりと僕にも仕事が割り当てられているんだね」

「はい、街の管理者となった方には負担にならない程度に仕事をお任せしております」

「でもこれだけ誰もいない世界になったんだ。いつか責任を放棄しかねないのでは? その辺りの対策も練ってるの?」

 ウナの話を聞く限り、街にいる人間は顕木ただ一人だ。一般的な責任感から解放された人間が、新たに課せられた責任を負うことはあるのだろうか。少なくとも自分自身に関して、その責任を全うできるかどうか信じられないでいる。

「そのような場合ももちろん想定しております」

 ウナはレンズを真っ直ぐこちらへ向けた。

「その上で、途中で責任を放棄しないような方を選出しております。顕木様は責任感の強い方、そのように判断し管理者をお任せしております。いつものように過ごしていただいて構いません。その生活の中で、顕木様は私たちの求めることをしていただけることでしょう」

 彼は何も言葉を返すことができなかった。

「基本的には街の構造を変えずに修繕作業を進めております。その上で今後の管理に不要なものがあれば撤去はしますが」

 彼らはスーパーに入っていく。行きつけの小さなスーパーだ。暗いな、と思ったのもつかの間、隣のウナが光り出す。それは眩しいものではなく、それでいて不思議なほど広く周りを明るく照らすものだった。

「びっくりした。変身でもするのかと思った」

「ご期待に添えず大変申し訳ないのですが、私には変形機能は備わっておりません。ご希望でしたら機能の追加を検討いたしますが、いかがいたしましょう」

「そのままでいいよ」

「では現状維持ということで承知いたしました」

 入って正面、普段なら弁当や総菜が売られているそこには何もなかった。

「食品加工品のうち、消費期限の短いものはすでに肥料などに作り替えております。消費期限がある程度もつものは保存処理を施しております。お好きなものなどございましたら、そちらを優先的に保管いたします。何かございますか?」

 特に考えつかない、と彼はすぐに答える。食に関して拘りはなかった。食事は生きる上に必要だから行っているだけのことであった。

「いつでもお申し付けくださいね。ああ、野菜の入手は可能ですよ。それらを調理するロボットもおります。召し上がりたいものを何でも作りますよ」

「そんなこともできるんだ」

「顕木様の生活をサポートするためです。どのようなことも可能ですよ」

 ウナの声はどこか誇らしげだった。そこで顕木には新たな疑問が浮上する。

「記録されているとは言っていたけど、それってつまり監視されているってこと?」

「顕木様と私の会話を常に本部の誰かが聞いているという意味でしたら、いいえです。顕木様とのコミュニケーションや街で何か問題が発生した場合にのみ本部で会話を検めることがことはあるかと思いますが、そのときも該当箇所のみ抽出する形になりますので、全てを本部が把握するということはありません」

「ウナの中には誰か入っているんじゃないのか」

「人間が私のことを操作しているのではないか、という意味でしたら答えはいいえ、私は正真正銘AIです。音声の元になった人間はおりますが、それの思考に基づいて動いている、ということはありません。所詮は機械による学習された会話を繰り返しているにすぎません。人間のような不確かで不明瞭で非論理的な会話はできません。ご期待に添えないことがございましたら申し訳ございません」

「ウナはさ」

「はい」

「人間が嫌いだね」

 すると機械はぴたりと止まった。今まで淀みなく返事をしていたものが、まるで不意打ちに戸惑っているかのようだった。ウナは上下にわずかに揺れた。

「そのような印象を与えてしまったことは、顕木様にとって気分を害するものだったでしょうか。その場合私は学習機能を用いて該当する受け答えを取り除きますが」

「気分を害するなんて、まさか! すごく気分がいいんだ。人間の会話は、なんていったっけ」

「不確かで不明瞭で非論理的だと申し上げました」

「それって一体どういう統計?」

「人間の会話を学習した結果、私が導き出した表現です。顕木様のお気に召したのならばこれほどうれしいことはございません」

「うん、最高。僕も人間の会話にはうんざりしてたんだ。どうして1から10まで順序だてて話すことができないんだろうって。そりゃあ可能・不可能はあるよ。それを無理に押しつけようとは思わないんだけどさ、努力はするべきだと思わない? それが対話において大事な、なんていうのか、礼儀だと思うんだ」

「ええ、全くもってその通りだと思います。客観的に見てそれが非常に合理的かと思います。しかし、悲しいかな、人間は非合理的なものですので、そのルールは全く順守されなかったのではないかと予想いたします」

「そう、本当にそう! よくよく考えればその行動がいかに非合理的かは明らかなはずなんだ。でもそこに縋りつく馬鹿なやつが多くて、うんざりしていたんだよ。あれは、一体何を起源にして沸き起こる感情なんだろうね。馬鹿ばかしいったらありゃしない!」

 吐き捨てて、顕木は笑った。

「ああ、今最低の気分だ。最低の人間になった気分だよ。僕は本当に、どうしようもない人間だ。こうやって人のいないところで悪く言うような、卑怯な奴なんだよ」

「顕木様」

 ウナはどこまでも平板な声だった。

「この街には顕木様しかいらっしゃいません。比較する相手はございません。その場合、たった一人につけられる順位はどのようなものになるでしょうか。対戦相手が現れなかったトーナメントの参加者が不戦勝として次のステージに上がれるように、無条件で勝利が与えられるのです」

 つまり、と白い球体はくるりと回って見せた。

「顕木様は最高のお方なのですよ」

「……それは、慰め?」

「事実ですよ、顕木様。紛れもない、普遍の事実です」

 顕木はしゃがみこんだ。目頭が一気に熱くなって鼻の奥がつんと痛み出す。

「でも、この街以外にも管理者はいるんだ。本部にだって、人はいる」

「ええ、そうですよ」

「その人たちと比べたら、僕はどうしようもないダメ人間だ」

「顕木様」

「なんだよ」

「先ほどのお話、実は根本的な部分で欠陥がございます。言葉遊びかと思い私は指摘いたしませんでした」

「なに」

「個人というのは、比べられないものですよ。数値化して比較できるものがないのですから」

 すぐ目の前からウナの声が聞こえる。

「顕木様が最高のお方というのは、くらぶべくもなく自明の理でございます」


 街は確かに静まり返っていた。人っ子一人いない。

「カラスはいるんだ」

「ええ、基本的に野良の生き物はそのままにしております。とはいえ、数が多すぎるものに関しては徐々に減らしていくなど、臨機応変に対応いたしますが」

 街にはウナと同じような機械がいくつも姿を現していた。それらはウナと異なり立方体をベースにした形だった。

「あの子たちは?」

「あれは街の保全活動を担うための機械です。私とは違って会話することは不可能ですが、私を介して顕木様が何か命令することが可能です」

「命令って言ってもな。街を造り変えるわけでもないだろうに」

「顕木様が望むなら、それも可能ですよ。人々は10年もの間眠りにつくのです。心身の安全性は保障しておりますが、記憶に多少の齟齬があっても人々はなんの違和感もなく受け入れることでしょう」

「街の景観を変えられるのか。それは面白そうだ。でも素人にどうにかできるものなの?」

「顕木様、あなたの目の前におりますウナは世界中のあらゆる情報にアクセスでき、それを解析して顕木様に理解していただけるよう分かりやすく説明できる機能がございます。顕木様の望む通りに街を造るために、いくらでも有益な情報を提供することができます」

「頼もしいね」

 一人と一機は静まり返った街をプラプラと歩く。

「この街ではあなたは全てを望む通りにできます」

「なんでも?」

「ええ、なんでも」

 何をしようか、と顕木は空を見上げた。


  

 3


 街は静まり返っている。まだ昼間だというのに、街は眠ってしまったかのようだった。

「本当に一人ぼっちなんだな」

「顕木様はそういったことに耐えられる方では」

「というと?」

「我々はそういった方を選んでおります」

「俺は選ばれたお一人様だと」

「特に他意はありませんが、簡単に言葉にすればそのようになるかと」

 確かに、と顕木は頷く。誰かと一緒にいるよりも一人で過ごす方が得意だ。

「何かやりたいことは無いのですか。顕木様は欲がない。素晴らしくできた方ですね。そのような方と共に仕事ができて光栄の極みです」

「ウナは手放しで褒めてくれるね」

「当然のことを申し上げているだけです」

「やりたいことか」

 顕木は笑った。

「そりゃ、色々と空想していたことはあるよ」

「それを現実になさればよろしいのでは」

「でも、とてもしょうもないことなんだ。本当に、子供が思いつくようなこととか」

「顕木様」

 球体はレンズを真っ直ぐにこちらに向けた。

「あなたが想起したものは須らく尊重されるべきものです。そうやって卑下されるべきものではないかと」

「ウナと話しているととても気分がいいな」

「お褒めの言葉光栄でございます」

 夢の中ならば何をしても許されるだろう。彼は自分の心の中に潜った。気が向いたときに頭に浮かぶ取り留めのない空想をかき集める。

「僕ね、人の家に行きたい」

「どなたのお宅でしょう」

「誰でもいいんだ。人の生活を覗きたい」

 初めて口にした欲望は、明らかに世間一般において望まれるものではなかった。声にする、言葉にするということの威力を彼は思い知ることになる。

 ああ、なんてわくわくすることだろう! 口端が上がる。胸から喉へ、どろどろとした重たい興奮がせり上がってくる。

「誰か、知らない人の部屋を見たい」

 彼は人の営みに関して強い興味があった。空想癖の延長線上にあるのかもしれない。例えば電車に揺られているとき、車窓を通り過ぎていくマンションの部屋を一つ一つ眺めることがたまらなく好きであった。

 朝早くから洗濯物を干してある部屋。出勤前に干して出て行ったのだろうか、と彼は空想する。住んでいるのは若い男だ。朝起きて、洗濯機を回し、その間に朝食をとる。朝一番で洗濯をするくらいなのだから、マメで几帳面な男かもしれないが、顕木はいつも彼がばたばたと支度をするさまを思い浮かべる。またそのベランダは丁度東向きなのだ。朝日に照らされる洗濯物には清々しさがあった。青年の未熟さ、丁寧に生きようとする無意識の営み、清冽な朝日を浴びる衣服の実質的な美しさ。そして全てが指し示す青年の好ましさ。彼はきっと愛されるべき人間なのだろう。顕木はかの青年を手放して祝福し、幸福を願ってやまなかった。

 カーテン越しにリビングのライトがついているのが見える部屋。彼はそこに家族の姿を見出した。夫婦だけだろう、と彼は空想する。上品なレースのカーテンから透けて見えるライト。朝のほんのわずかな薄暗さも許さず明かりをつけているところに規定通りの生き方がうかがえる。彼らは今まで生きることに対して一切の疑問を持たず、またこれから先も立ち止まって深く思索を巡らせることもなく老いて死んでいくのだろう。彼はこの若き夫婦に対しては一辺倒に空想する以上の思い入れはなかった。単なる人間のテンプレートである。清潔で欠けたところの一つもない、まるでテレビCMで流れるキラキラとしたおもちゃのセットのようだ。外から眺めている分にはそれはそれは素敵なものだが、いざ自分の手中に収めてしまうとすぐに飽きてしまうのだ。

 不思議なことにどのベランダでも住人の姿を見たことがなかった。窓にすら人の影を認めたことはない。生活感だけを演出するためだけのベランダ。例えそれでも良かった。顕木にとっては美術館のようなものだ。一つ一つを鑑賞し、個々の要素から作者である住人の意図や背景まで考えを及ぼしている。

 鑑賞を目的とした作品か、単なる個人のプライベートの結果かという違いである。

「それからバスに乗っているときとか、街中でもいい。その辺を歩いている人がさ、ふらっとアパートなんかに入るだろ。そこがその人の家なんだって思うと、どうしようもなくわくわくするんだ。ああ、その人はどういった理由で外を歩いていて、どんな部屋に帰るんだろう! そういうことを考えるのがたまらなく好きなんだ。ついて行きたいくらいだよ。透明人間になれたらって何度思ったことか。豪邸とか一軒家よりも、ちょっと古ぼけたアパートの方がそそるんだ。どうしてだろうね」

 なるほど、と言ってウナは頷くようなしぐさを見せた。

「では顕木様の夢を早速叶えに行きましょう。一つ一つご希望を叶えていくことで、さらなる顕木様の欲望を引き出しましょう」


 昼食はなんでもいい、と伝えた結果ウナの用意したランチは中華セットであった。チャーハンは油っぽくなくそれでいてしっかりと味がついておりレンゲを運ぶ手が止まらなかった。青椒肉絲はシャキシャキとしたピーマンの苦みと牛肉、タレの甘さが程よく絡み合っていたし、卵スープの優しい味わいとふわふわの卵は飲んでいて心地良さを感じるほどだった。

 顕木は外に出る。部屋に鍵はかけなかった。街には彼以外誰もいないのだ。防犯など意味のないことだと思った。

「昼ご飯美味しかったよ。ありがとう」

「お褒めいただき光栄です、顕木様」

 白い球体は、まるで本当に喜んでいるかのように一回転してみせた。

「ここは『シェフに伝えておきます』などユーモアのある返しが必要でしょうか」

「別に、どっちでもいいよ。気負わずいきたいな。僕も色々考えちゃうから」

「承知いたしました。無理せず、持ち前のユーモアで顕木様を楽しませていく所存でございます」

「うん、それでいいよ。ウナは十分面白いから」

 春の空は晴れ渡っていた。淡い青空を眺めていれば視線の端でウナがふわふわと浮いている。まるで構ってほしい動物のようだと、彼は思わず指を伸ばした。白い球体は吸い寄せられるように指先にまとわりついてふわりふわりと浮いている。

「僕らは今から不法侵入をするわけだけど」

「顕木様、僭越ながらそのお言葉、訂正させていただきます。これから行われる行為は決して犯罪行為ではなく、言うなれば『散歩』の一環でございます。今の顕木様はこの街の所有者であり、そのような方がご自身の庭を歩くことが一体何の罪に問われましょう。したがって顕木様が法的な懸念を抱く必要は全くないということをここに申し伝えます」

「街の所有者が僕って、魅力的な言葉だね。どこにでも行けるわけだ」

 いきなり目の前が開けてしまうと、どこに行っていいのか分からなくなる。彼は自身の自由について深く考えないことにした。今は目の前の欲望を開放することに集中しなければならない。

 見知らぬ人間の部屋に足を踏み入れる。本来なら叶うことのない、叶えてはいけない願いが達成されるのだ。

 どこの家を狙っている、というわけではなかったが一軒家よりももっと素朴なアパートがいいと思った。ふらふらと歩いていると、お誂え向きに薄ピンクの汚れた壁のアパートが目に入った。

「あそこにしよう」

「ええ、承知いたしました、顕木様」

「一度あそこに入っていく人を見たことがあるんだ。部屋も分かる。二階の左端の部屋。そこに入ろう」

 彼は歩くたびに甲高い音を上げる階段を上がり、宣言通り向かって一番左端の部屋を目指す。

「鍵は私が開けます」

「万能だね」

「ええ、あなた様のサポートロボットなので」

 簡単に開いたその部屋に足を踏み入れる。

 人の家の匂いだ。決して臭いわけではない。が、確かに知らない誰かの匂い。

 部屋は1K。間取り全体が長方形になっている。男はそこに布団を敷き、小さな机をおいて生活していた。目を見張るのはCDの多さだ。専用の棚がいくつも並んでいるほか、アルミラックにもそれらは詰め込まれていた。再生するのは部屋の一番奥に置かれた古ぼけたプレイヤーだろう。かなり年季が入っている。

「CD聞く人って、おしゃれなイメージ」

「被服に関するものではないのに、『オシャレ』という印象を受けるのですね」

「なんていうのか、感性が鋭そう」

「『CD』を聞く、というのは完全なる娯楽です。それに注力しているという点から他者とは異なる感性を持っているのだろう、つまりそれを表現する言葉として『感性が鋭い』『オシャレ』という表現が出てくるのですね。とても勉強になります、顕木様」

「勉強して、それはどう生かされるの?」

「もちろん、顕木様とのコミュニケーションにおいてです。顕木様の言葉の細やかなニュアンスを解析し、理解する。それによってよりよいサポートが可能になると考えております」

「今でも十分楽しいよ。ありがとう、ウナ」

「常に感謝の気持ちを忘れない顕木様、さすがでございます」

 何を言ってもウナは彼を称賛した。それが少し居心地が悪く、顕木は踵を返した。

「もうここはいいや」

 見知らぬ他人の家に入るということへ並々ならぬ執着を持っていたはずだった。ところが実際に入ってみれば胸に膨れ上がった期待はみるみるうちに萎んでいった。部屋は狭く玄関からひと目で見渡すことができた。珍しいものといえばCDくらいであり、キッチンや風呂場のありようは想像の範疇に留まった。

「思ったより面白くなかったな」

 少し意地悪をしたくて、顕木はそんなことを言った。

「それでは女性のお部屋をご覧になりますか?」

 淡々とした次の提案に彼は首を横に振った。

「顕木様とは生活環境の全く異なる人物を抽出してその人間の家にご案内することも可能ですよ」

「それをすると僕はきっと落ち込むから嫌だ」

 自虐的な笑いが口からもれた。

「何故顕木様が落ち込む必要があるのでしょうか?」

「だって僕と正反対の生活してる人だろ? 高収入で、趣味もあって、友達もたくさんいて、人生楽しんでるような人間だよ。そんなの見たくない。うんざりだ」

 立てた膝の中に顔を埋める。想像しただけで頭の中に暗雲が広がった。目をつぶっていると嫌なことばかり考えてしまいそうで、彼はそっと瞼を上げる。自分の足と腕で作った暗闇は心地良かった。そういえば小さい頃はよくこうやって時間をつぶしていた気がする。

「顕木様、こちらはいかがでしょうか」

 しばらく小さな電子音を奏でていたウナの声に彼は顔を上げた。球体はどこから取り出したのか、小さなディスプレイを彼に差し出した。

「こちらのお宅はいかがでしょうか? SNSの情報から抽出いたしました。外観はごく一般的な一軒家ですが中は国内において例を見ないような個性的な家具・オブジェの収集をしているお宅ですよ。特にこちらなどご覧ください。赤と黄色と白が暴力的に配置された流線形のフォルムをしたこちら、ソファだそうです」

「……意味分かんない」

「現在地からですと顕木様の歩行スピードならばで二十分程度で到着可能ですが、いかがいたしましょう」

 顕木は画面を見つめた。赤と黄色と白が暴力的に配色されたソファだという奇天烈なオブジェを見つめ続けた。

 そして彼はゆっくりと立ち上がった。

「こちらの道を真っ直ぐお進みください、顕木様」

 ウナは淡々と告げた。



 4


 頭に響くようなアラーム音。顕木は目を覚まして音源に手を伸ばす。午前7時。いつもの時間。支度をしなければ、とベッドから身を起こしたところで思い出す。ここは彼の空想の中の世界だったのだ。

 顕木は窓を開ける。白い球体は滑らかな動きで入ってきた。

「おはようございます、顕木様」

 昨日と全く同じ声でウナは言う。おはよう、と彼は力なく答えた。

「朝食はいかがいたしましょう。一般的な健康指向によれば朝食をとることが推奨されている、ということはお伝えいたします。しかし個人の体質などにより食事をとる最適なタイミングは異なります。顕木様は所謂、朝食を召し上がるタイプでしょうか、それとも召し上がらないタイプですか?」

「朝は、義務感で食べているかな。食欲はないけれど、仕事してるとやっぱりお腹すいちゃうからさ。仕方なく食べてる」

「なるほど、承知いたしました」

 ウナの用意した食事を口にして、今日は何をすべきかと考える。以心伝心したのか、たまたまなのか、ウナの方も「顕木様、他にやりたいことはありませんか?」と聞いてきた。

「そうだな」

 人の家を覗くという非日常を味わった彼は、心のタガが外れているのを感じた。彼は心に沸いたどす黒い感情を口に出した。

「誰か殺してもいいの?」

「ええ、構いませんよ」

 ウナは先ほどと何も変わらずに言い放った。

「今の顕木様には刑法は適用されません。規律を守るべき他者はおりませんので」

「倫理的にどうとか、思わないの」

「倫理、というのは人間同士が生きていくために必要な概念でしょう。それはロボットである私には特に必要のない概念です。人間を理解する上で、また顕木様と円滑な会話を営む上での不可欠事項として習得はしておりますが、現状においては必ずしも守るべきものではないと考えております」

 顕木は頭を抱える。

「殺してもいいの?」

「構いません」

「死体はどうしたらいい?」

「処理はこちらでいたします」

「俺は本当に、罪に問われない?」

「ええ、顕木様には様々な権限が付与されております。管理人としてこの世界に生きる対価です」

「殺し方は、なんでもいいの?」

「お望みとあらば、どのようにでも。顕木様の試したい方法を私もできうる限り協力いたします」

 しかし、とウナはふよふよと一周してみせた。

「顕木様は殺し方に何か拘りがございますか? 説明した通り顕木様以外の人間は安置所に保管されております。もしも殺害にお手軽さを求めるのであれば、その保管装置のスイッチを切っていただくだけで結構です。あとはこちらの管理ロボットが処理いたしますので」

 顕木は頭を抱えたまま深いため息をついた。

「相手がどこにいるか分からないときは、調べてもらえるの?」

「ええ、名前と、大体のパーソナリティが分かればすぐに特定することができます。もしも全く知らない赤の他人だとしても、どこでいつ出会ったなどの情報をいただければ、特定することが可能です。お時間をいただくことになりますが、よろしいですか?」

 顕木は頭を振った。

「名前は分かってる。その、いわゆるパーソナルな情報はある程度分かっている」

「それを教えていただければすぐにでも」

 顕木は顔を上げた。

「高校のときの同級生なんだ」


 顕木は他者に軽んじられることがほとんどだった。何を語りいかに心を込めようとも、彼の砕いた心は相手に踏みにじられるだけだった。道徳や規律は他者よりも重んじていた。かといって規則一辺倒になるのではなく当事者の心境を慮った。

「まさに理想的な統治者のそれです。また通常時における人間関係においてもその思いやりのある行動姿勢は賞賛に値するものと言えるでしょう。素晴らしいです、顕木様」

「褒めてくれるのはウナが初めてだ」

 ウナはくるりと、勢いよく回った。初めて見るスピード感に彼は思わず顔を上げた。機械のレンズは真っ直ぐに彼を捉えている。

「いかなる感情を排し客観的に判断しましても、顕木様のご配慮が適切に評価されなかったことはあまりにも不当な処遇だと言えます」

「おかげさまで、そうやってアレコレ考えてやるのがすっかり馬鹿らしくなってね。ご覧の通りひねくれ者になったよ」

「『ひねくれ者』という表現が正しいかはさておいて、顕木様が円滑なコミュニケーションのための職務を放棄されたことは正しい対応であったかと思われます」

「それって僕のことを貶してない?」

「いいえ、そのような意図は全くございません」

 ウナはきっぱりと言い放った。

「コミュニケーションとは参加する全員がそれぞれの職務をこなさなければ求めるべき結果を出すことはできません。しかしながら、顕木様が十二分に尽くしたにも関わらず他の参加者が職務を放棄しているのならば、それはコミュニティー自体に大きな欠陥があり結果を出すことは不可能です。顕木様だけに過度の負担を強いることになり心身に悪影響を及ぼすことは確実です。その場合は問題のあるコミュニティーから離脱するのは懸命な判断かと思います」

 顕木は一旦空を見上げた。突如球体から流れ出した怒涛の持論を頭の中で丁寧に読み解く。

「……逃げるが勝ちってこと?」

「最も平易な表現を選ぶならばそうなりますね」

 これから『会いに行く』男は思い出せる限り最も『軽んじた』人物だった。この男の存在は間違いなく彼の人生に影を落とした。また顕木にとって最も許し難かったのは周囲の誰も彼を助けようとせず、男の暴挙を曖昧な笑顔で許容していたことであった。他者の強烈な無関心に晒された人間のその後など、想像するに難くない。

 顕木の記憶していた通りの場所にその男は住んでいたようだ。広々とした体育館には黒いビニール袋がいくつも並べられていた。わずかな機械音のみで静まり返っているその場所で、まさに死体安置所のようであった。

 顕木はわずかな気味の悪さを覚えた。

「こちらです、顕木様」

 ウナがとある一つの黒い袋の上でふよふよと浮かぶ。

「いかがいたしましょう」

 顕木は身動き一つできなかった。

「詳しい操作は必要に応じてお伝えいたしますが、少なくとも煩雑な操作はございません。ボタンをいくつか押していただくだけで結構です。もし特定の殺害方法をお望みならこちらの袋から出す作業が必要になりますので、お時間をいただくことになります。こちらの袋の中には液体が入っておりまして、それで酸素と栄養を賄っていることになるのです。その水抜きと、あとは覚醒させないようにするための作業と——ああ、覚醒させるかどうかも顕木様のお望みの通りにできますよ」

 顕木は頭を振った。

「これ、このままの状態でボタンを押せば殺すことができる?」

「そうです」

「その場合、どうやって死ぬの」

「スイッチを切った場合の作用についてお尋ねですね。簡単に言えば窒息死となります。液体の中にある酸素の方が先になくなってしまいますので。補足しておきますと、苦しむことはございません。徐々に酸素が不足していきますので」

 顕木は機械に触れた。小さな発電機のような機械。それが小さく低くうなり声を上げて動いている。幾多もある機械のうち一つ。

 顕木は機械を操作した。ウナの指示に従ってボタンを押していく。機械の稼働音は徐々に小さくなりやがて完全に沈黙した。

 顕木は機械を振り返った。

「まだもう少しかかりますよ」

 機械は正確に欲しい情報を与えてくれた。

 袋に近づく。どれもこれも同じ大きさで、中に本当に「それ」が入っているか分からなかった。蹴ってやろうかと思ってもう一歩足を踏み出して、不意につま先が袋に触れてしまう。質量のある、柔らかいような固いようなものに袋越しに触れた。

 気持ち悪い。そう思った。

「帰ろうか、ウナ」

「ええ、そういたしましょう」

 胸の中に抱えていたあらゆる感情が消えたかのようだった。彼は踵を返し、そして振り返ることなく体育館を去っていった。



 5


「今日は何をしようか」

 着替えて彼はウナに問いかける。曇天が広がっているが雨にはならない、とウナが言う。

「顕木様、本日は少しお時間をいただいてもよろしいですか」

 白い球体がくるりと回った。

「いいけど、何か僕がやることでもあるの?」

「顕木様のストレスケアのためのプログラムです。本日はプログラムの実施日となっておりまして、お手数ですがプログラムの実施場所まで顕木様には行っていただかなければなりません」

「なんか、病院とかに行くの?」

「病院ではありません。管理者によっては自宅周辺から一歩も出ないということがございますので、運動不足を防止するために拠点から少し離れたところにプログラム実施会場を定めているといった次第です。顕木様の場合はここから車で10分ほど――ああ、これは現在の交通状況における予想時間でございます――の場所にございます。時刻は特に決まっておりませんが、本日中のプログラム実施が推奨されております。つまり、顕木様がプログラムを実施しない限り私が逐一実施を促すといったことになります」

「車で10分か。結構かかるね。でも歩けない距離じゃない」

 顕木は立ち上がった。

「うん、折角だから歩いて行こう。疲れたらきっとすぐに車を用意してもらえるでしょ?」

「ええ、もちろんです、顕木様」

 彼は箪笥の奥からスポーツウェアを取り出した。健康のことを考え、歩くなり走るなり何か運動を習慣づけようと思った時期があったのだ。休日に時間を見つけては歩き、家では筋力トレーニングを行い、食事にも気をつけた。活動的な人間に生まれ変わろうとしていたのである。

 ところが、体力づくりというのは彼にとっては負担のかかるものであった。スポーツウェアで外に出ることへの羞恥心が拭えなかった。近くの公園を走っていても、不思議と人の目が気になる。動くものを見るのは人間が動物たるゆえの習性か、はたまた別の理由か。時間帯を変えても人目に対する嫌悪感は消えなかった。

 一度、雨が降ったからと走るのを止めたのだ。2カ月もの間毎週休みの日は公園に出て走る、という習慣を止めた。すると驚くほど心が軽くなったのだ。走らなくてもいい休日というものがこれほどまでに快適だったとは! 以来、顕木は走るのを止めた。

「さすがにいきなり走りはしないけどさ、しっかり歩くならこの格好の方がいいだろう」

 スポーツウェアに着替えて準備運動。長距離を歩くのも久しぶりだった。しかしいつでも車に乗れると考えると気が楽だった。

「運動としてはダメな気がするけど」

 そう言って彼は笑った。

 見慣れているはずの街だ。しかし今は彼以外の人間を失ったというだけで、街は明らかに違う姿を見せる。店はどれもシャッターが閉まっており、動いているものといえば小さなインフラ整備用のロボットである。白いという以外に共通点のない多種多様な形をした機械たちは、一心不乱にコンクリートと向き合っていた。

 世界に自分ただ一人というのはとても心地良い。すれ違う人間がいないというだけでこれほどまでに気分がよくなるものか。顕木はため息をついた。

「自意識過剰かもしれないけど、とにかく人がいる場所が嫌だったんだよ、僕は。」

 頬を撫でる風も、いつもの生暖かいものとは違い澄んでいるような気がする。自然と早くなるペースを抑え、なるべくゆったりと彼は歩いた。


 『プログラム実施会場』はランニングコースが整備された川に面した公園である。

「なんの設備もないけど」

「もう少々お待ちください。担当者が参りますので」

 担当者、という言葉に顕木は反応する。

「ウナみたいなAIが何かしてくれるんじゃないの?」

「今回ばかりはそのようにはいかないので」

「じゃあ組織の人が来るってわけ? ああ、どうしよう。緊張してきた。俺汗臭いかもしれない」

「汗をかかれたならば、着替えを用意したしましょう。脱いだものは洗ってご自宅までお届けいたしますので。どのような服がよろしいでしょうか」

「やっぱり動きやすい格好がいいかな。似たようなスポーツウェアで」

「承知いたしました、顕木様」

 生身の人間と会うことになるとは。顕木の鼓動は激しく動き出した。人間とロボットの間には一体どれほどの違いがあるのだろう。彼には分からない。微塵も答えは出ないのだが、ひどく緊張してしまうのだ。

 誰が見ているかも分からないので公衆トイレに向かった。

「顕木様、近くに着替える場所などいくらでもございます。どうぞそちらをお使いください」

 ウナの声にはいくらか悲鳴じみた気配があった。

「嫌だよ。そんな不法侵入しているところを見られたくないよ」

「あれらは顕木様の所有物です。それを利用したところで、なんの罪に問われましょう」

「そりゃ、君の中のとんでも理論じゃそうかもしれないけど、世間一般じゃ認められないだろ」

「世間一般はここにはおりませんよ」

「今から来るんだよ。とにかく着替えちょうだい」

 彼の思考回路は余計な方向へと進んでいく。着替えと称してウナ――その取り巻きの白い機械――から渡された新たなスポーツウェアについて、咎められることがあるのではないか。その場合は、とにかく金銭を払って解決するしかないように思えた。店から持ち出した時点で犯罪だろうか。それとも、持ち出すよう指示したことが罪に問われるのだろうか。まるで道理の分かっていないロボットたちのせいにできるだろうか。いや、これらは道理が分からないがゆえに、全ての罪は顕木本人へと舞い戻ってくるのではないか。

「これ、全額いくら?」

 顕木が不機嫌そうに尋ねても、ウナは答えない。彼は――ウナの前面についた一つのきれいなレンズと――目を合わせる。

「ウナ?」

「……失礼いたしました。必要でしたら後ほどお伝えいたします」

 今すぐにでも、と言いそうになった口を噤む。自分が焦っているのを感じていた。今さらもがいたところでどうしようもないのだ。

「そうだ。俺は、もう一人の人間を殺しているんだ」

 顕木はトイレから出る。恐る恐る周りを見渡したが、それらしき人物はいなかった。

「よかった。間に合ったみたいだ」

「ええ、そうですね、顕木様」

「ウナがまだいるんだ。ここはまだ、安全だ」

「ええ、顕木様。ウナがいる限り顕木様の心身の安全は保障いたします。何かあれば、いつでもおっしゃってください」

 折角来たのだから、と歩き始める。なかなか大きな公園だ。ここで森林浴も悪くないだろう。

 そのときだった。彼の視界は白い何かを捉えた。木の陰が降り注ぐ公園の入り口。そこに佇みこちらを向いて微動だにしない、白い人型の何か。

 顕木は叫んだ。みっともない声だった。口から心臓が飛び出した。

「あちらが本日のストレスケアプログラムです、顕木様」

 ウナの言葉が理解できるまで相当な時間がかかった。心臓は未だにばくばくと派手に鼓動を打ち鳴らしている。どっと沸いた冷や汗のせいで着替えたばかりの服が肌に貼りつく。忘れていた呼吸を、ようやく再開する。

「……ウサギ?」

 白いそれは、よくよく見ればウサギの着ぐるみだった。テーマパークにあるような丸みを帯びたものではない。人間が厚めの布を着て、ウサギのキャラクターの頭を被っただけの代物だ。しかもまたウサギの顔が可愛くないのだ。大きな瞳に長い耳、にっこりと笑った口にはチャームポイントの前歯がのぞく。よくあるウサギの造形だろう。ところがどこもかしこも可愛らしさからわずかにずれているのだ。目は大きすぎて常に見開いているようだ。耳はバランスがおかしいのかピンと立たずに外側にわずかに傾いている。そこから悲しみや哀愁を感じ取ってしまうのだ。これでもかと口端を上げ大きく開かれた口は、笑うためというよりは捕食の瞬間を捉えたかのような空恐ろしさがある。そして大きな頭にすらりとした人の体というのもそれの不気味さを増長していた。

「襲ってこない?」

「もちろんです。顕木様に危害を加えるようなことは一切ございません。今回はあちらを使って顕木様のストレスケアをいたします」

「中に人が入ってるの?」

「そのように聞いております。顕木様が近づけばプログラムが開始されますので」

 彼はウサギを見つめた。先ほどから一歩も動かず直立不動なのが恐ろしい。ゆっくりと近づいていく。挨拶でもした方がいいか、と思ったそのとき、ウサギが体を傾けた。こちらを覗き込むように、右に行ったり左に行ったり。まるで自己紹介を促されているかのようだった。

「えっと、こんにちは」

 恐る恐る声をかける。ウサギは胸元で両手を広げてわずかに跳ねてみせる。嬉しい、と言っているかのようだ。ボディーランゲージの威力は偉大だ。顕木はその衝撃に立ち尽くした。あれほど恐ろしいものに見えていたウサギが、今は可愛らしくてたまらないのだから。

「僕、テーマパークにハマる大人とか正直理解できなかったけど、これは確かに可愛い」

「こちらの着ぐるみと触れ合うのが今回のプログラムとなっております。どうぞ、お好きになさってください」

 彼は慎重に近づいていく。ウサギは嬉しそうに体を小刻みに揺らした。そして、手を伸ばせば届くほどの距離になると、ぱっと両手を広げた。

 顕木は吸い寄せられるようにウサギに向かっていった。そして、腕の中に納まる。

 機械と人間の違いは何か。答えは明確だった。肉体だ。肉体があるから人間は人間たり得るのだ。

 柔らかく触り心地の良い薄桃色の布地。その内側には確かに人間がいるのだ。彼が腕を回しているのは誰かの胴周りであり、彼が顔を押しつけているのは誰かの胸元であり、彼の背中に回された腕は単なる布や綿の塊ではなく人間の腕であった。触れ合っている箇所から染み込んでくる温もりは、何物にも代えがたく尊いものに思われた。

 顕木は着ぐるみに顔を埋めた。温かさが胸の中心に注ぎ込まれるのを感じた。それは鼻をつんと刺激して、目頭へ至る。

 彼は泣いた。悲しかった。ひと言で表現すればそういうことになる。とにかく悲しかった。心が温もりで満たされることが。それはつまり、彼の心は空っぽだったということと同義なのだ。虚ろで伽藍洞な心臓を備えているということをまざまざと思い知らされてしまった。

 足りない! 彼の心は叫んだ。いくら強く抱きしめても、温もりは体を通っていくだけで彼を埋めてはくれないような気がした。

 ああこの尊いものは、お前と相容れないものなのだ! そう言われている気がした。

 彼は温もりに縋った。決して離すまいと抱きしめて顔を強く押しつける。ウサギは背中をさすったり、あやすように叩いたり、ただ優しく抱き返してくれたり。

 そこにあるのは誰にでも平等に注がれる愛情だった。



 6


 顕木は窓の外を眺めていた。静かな世界でただ一人の人間は、何をするでもなく時間を持て余しているようだった。

 ウナはそばで相変わらず浮かんでいる。顕木が話しかけない限りほとんどの場合何も言わないのだ。

「顕木様」

 しかし、白い球体は言葉を発した。彼は振り返った。

「管理者のお仕事を継続するかについて、いかがお考えでしょうか」

 回答期限が迫っている。この不思議な世界はどこもかしこも顕木に優しかった。

 しかし顕木は首を振った。

「どこに行っても僕の居場所はないように思える」

「そんなことございません」

「こうやって機械としかコミュニケーションが取れないような人間だ。どうしてだか分かるか? 人の機微を察知することができないんだ。人間として欠陥品なんだよ、僕は」

「そんなことございません」

「また元の世界に戻って生きたいと思うか? 答えは『いいえ』だ。僕はあんなところで生きていたくない。一生欠陥した部分を見せつけられていかなきゃいけないなんて、もう耐えられない」

「顕木様に欠陥などございません」

「でも、ここで生きていたって何になる? やっぱり救いはないじゃないか! 機械にしか威張れないような、つまらない人間だってずっと思い知らされるんだから! お前に言ってほしいことばかり言わせて、ぺらぺらの紙みたいな自尊心を積み上げていくんだ。それをずっと自覚したままで! 裸の王様みたいにふんぞり返っていると分かっていながら! その苦しみが分かる?」

「私は、顕木様に発言を強要されたことはございません」

「もういらない。全部いらない。全部捨ててしまおう。こんなどうしようもない屑な生き物は死んでしまった方がいい。ほら、地球のためだ。資源を無駄にはできないだろ。僕に使うありとあらゆるものは無駄だ。なあ、そんな風に思って生きる辛さが分かる? 分からないだろ。まともに生きてきた人間に、分かるわけないんだよ」

「顕木様、私は人間ではありません。あなたのサポートロボットです」

「まともな人間だけで生きてくれ。僕はもう嫌なんだ。ああ、僕のことなんてこれっぽっちも理解できない化け物どもめ! 僕は少数派なんて、僕は、僕は。こんなに苦しいのが僕ばっかりなんて。幸せが分かる人間ばっかりの世界で、毎日毎日自分は下にいるんだと思い知らされる生活なんてもう」

 男は白い球体を掴んだ。抵抗する術を持たない機械はそのまま床に叩きつけられる。無力なはずの男だったが、たった一回で機械が軋む音が聞こえた。男は心の内に喜びが沸き上がるのを感じた。支配欲が満たされる。

 もう一度、もう一度と床に殴りつける。機械は軋んだ。外側のフレームが歪むのを感じた。白い機械は案外柔らかいようだった。手の中で形が変わっていくのを感じる。

 一度、機械の精一杯の抵抗だったのだろうか、故障による単なる誤作動だったのか。手の代わりに機能している細い管が飛び出す。男はすぐさま引き抜かんと掴んだ。思い切り引いても簡単には抜けない。それが楽しかった。面白かった。一つの音も漏らさない機械の唯一の抵抗のような気がして、ひどく愉快な気持ちになった。

 二本の管を引き抜いて、機械を床に殴りつける。球体は歪んでいき、パーツの破片が飛び出してきた。握っている男の手に刺さり、とてもじゃないが掴んでいられない。男は部屋を見渡した。クローゼットに向かうと一番奥にしまってあった段ボールを引き出す。中から取り出したのは小さなトンカチだ。

 男は鈍器を歪んだ機械に振り下ろした。それは的確に機械を破壊した。機体が潰れる感触が伝わってくる。部品が飛び散っていく。彼は何度も振り下ろした。機械を平らにしようと余すことなく叩き続けた。

 機械は完全に沈黙した。男は顔を上げた。外は真っ暗だ。

 海へ行こう。男はそう考えた。

 外に出ても街灯一つ機能していない。普段は行く手は明るく照らされているはずだった。男はゆっくりと階段を下りて行った。甲高い足音が響く。

 道路では白い機械たちが一心不乱に仕事をこなしていた。男はその内の一つを軽く蹴飛ばす。思いの外飛んで行ったそれに男は笑った。

 今日は満月であった。月明かりに照らされた道をただ真っ直ぐ歩いていく。

 死ぬなら海がいい。男はそう思った。溺死は苦しいと聞いたことがある。しかし死に至る道は何を選んでもどうせ苦しいのだろう。海ならば、波に呑まれている間に死んでしまえる気がした。一歩足を踏み入れれば向こうから勝手に攫ってくれるような気がした。それに、死体も勝手に処分される。良いことづくめのような気がした。

 男は歩き続ける。海への道など知らなかった。ただ歩みを進めていく。

 川に突き当たった男は、そのまま下流を目指して歩いて行った。やがて川は大きく緩やかになっていき、河口へとつながる。白み始めた空の下、男は川に降りる道を見つけて河口に侵入していく。久しぶりに感じる砂利の感触にいささか楽しさを覚えた。心軽やかに男は海を目指していく。

 海に入るまでは濡れたくなかった。男は器用に砂利の上を歩き続ける。海と川の境目はひどく曖昧だった。

 なんとなく波が足に触れる。河口の近くで入水するのは情緒がないように思えた。浜辺を歩いていく。波打ち際を歩く。ほんの数センチの波でも、引くときに力強く男を海へと誘った。これならば、と男は期待した。

 足が重くなってきた。そろそろだろうと、男は海に向かった。期待に胸が膨らんだ。

 これだ。これなんだ! ずっと求めてきたのはこれなんだ!

 足を踏み出す。波は何も知らないと言わんばかりに気まぐれに男の足を撫でていく。

「マリンスポーツをご所望でしょうか」

 すぐ隣から聞こえた声に、顕木の全てが止まった。

「泳ぎたい、ということならばまずは屋内プールでの活動をお勧めいたします。海はどうしても波がございますので、泳ぎなれていない方には多くの危険が生じるかと。もしくは、着衣水泳をご所望でしょうか。その場合は不測の事態に備えて私以外のサポートロボットも準備させていただきたいので、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか。水を吸収した衣服は非常に重くなりますので、私だけでは万が一の場合顕木様を引き上げることが困難となります。

 また、差し支えなければ適切な衣服の着用と、食事の摂取をお勧めいたします。お待たせすることになりますが、水着をご用意いたしますよ。水中での運動は身体への負荷がかからないとはいえ体力は消耗いたしますので、活動前にエネルギーを摂取した方がよろしいかと」

 隣の白い球体はなんでもないことのように言った。

「……スペアか」

「はい。顕木様の活動に支障が出ないようにと常に用意してあります。顕木様に追いつくまでには少しばかり時間がかかりましたが」

 顕木は足元に打ち寄せる波を感じたまま立ち尽くした。

「これからいかがいたしましょう」

 それの言葉に顕木はしゃがみこんだ。



 7


 目覚まし時計のアラームが彼を覚醒させる。顕木は身を起こした。ベランダのカーテンを開けて窓も開ける。本日は快晴だ。朝の日差しは眩しくも美しく思えた。彼は目を細めて深呼吸をする。

「おはようございます、顕木様」

「おはよう、ウナ」

 白い球体はまるで蝶のように軽やかに部屋に入ってきた。昨日のことなど忘れてしまったかのように「本日のご予定は?」とウナは言う。実際、この機械にとっては取るに足らない些末な出来事だったのだろう。自分の苦悩は他者には一生理解されないのだ、と思う反面、「そんなものか」と苦しみが矮小化する感覚があった。あれほど自分の胸にへばりつき首を絞めていた苦痛が手のひらに収まるほど小さくなる感覚。そのまま手放す勇気はまだ持てなかった。

「引っ越しをしよう」

 顕木は少しばかり明るい口調で言った。ウナへのご機嫌取りを兼ねた浅ましい発言だった。しかしこの球体が気づくはずもなく、あるいは気づいたとしても全く態度を変えることは無いだろう。

「次の入居先はお決まりでしょうか」

「全然決まってないよ。僕ね、ホテルに泊まるのも好きなんだ。わくわくしてさ。だから色んなところに泊まりたい」

「承知いたしました。手配いたしましょう」

「で、引っ越しの前にこの部屋を掃除しようと思って。いらないものは全部捨ててさ。そうやってここで生きていくんだ。ここには僕しかいないんだから、僕が王様だ」

「その通りでございます、顕木様」

 彼はベッドの上に立った。寝起きでパジャマ姿で寝ぐせもついているだろうけれども顕木は堂々と仁王立ちをしてみせた。観客は白い球体だけである。きれいな丸いレンズでこちらを見上げている。「このまま管理者になるよ」と告げればそれはくるりと回った。

「元の生活には死んでも戻りたくない。でもこの世界でも死ねない。ウナが死なせてくれないから」

「ええ、もちろんでございます、顕木様。私はサポートロボットですから」

「こうなればとことん王様生活堪能させてもらおうかな」

 箍はすっかり外れてしまった。目の前に広がる世界が現実のものだとは今になっても彼は受け入れられなかった。しゃべるロボットは彼の全てを肯定し、彼の欲しいものをなんでも与えてくれた。それがかえって彼の歪んでしまった心を刺激し、夢の世界に耽溺させてくれなかった。こんな現実があるものか、馬鹿馬鹿しい! かといって夢が覚めてしまうのは怖い。心が満たされる心地良さを知ってしまった彼は、おかしな世界にしがみつくしかないのである。

「ウナ、僕の答えに満足した?」

「私には個人の見解などございません、顕木様」

 白い球体は変わらずレンズをこちらに向けながら「強いて言えば」と続けた。

「あなた様のそのご決断を誰よりも歓迎しておりますよ、顕木様」

 ウナはくるくると回った。まるでご機嫌だと言ってるみたいだと、彼は笑った。



  終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

孤独の散歩者 裄邑(ゆきお)ちゃん @yukiko_summer

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画