第6話
兄は最後の力を振り絞って蓋を開けようと試みた。ところが、そもそもマンホールの蓋は内側から開けられる構造にはなっていない。幾ら頑張っても無駄だったのだ。
「クソッ」
開かないマンホールに苛立ち、思わず叩いてしまう。すると、ビクともしなかった蓋がゆっくりと開いた。
すると兄の目の前に見知らぬ男の顔が現れた。
「ん? お前新入りか」
しまった、追っ手に見つかった! そう直感して兄はハシゴを降りて逃げ出した。
「待て待て。捕まえやしねぇよ。さっさと上がれ。他に出られる場所なんてねぇぞ」
そう言われて、兄は途中で止まった。確かに今まで蓋は一つも開かなかった。しかし全てがそうとは限らないと思い、やはり逃げるべきだと判断し、再び逃げ始めた。
「マンホールの蓋は内側からは開かない。大雨対策で蓋が吹き飛ぶのを防ぐためにな。だから外から開けるしかない」
そう言われて、兄は再び止まった。
「本当だって。さっさと上がってこい」
それでもこの男の言うことを直ぐに信じることが出来ない。警戒して男を見つめながらゆっくりとハシゴを降りる。
「分かった。ここから離れるから、上がってこい。な」
男はそう言うと、ゆっくりとマンホールから離れた。
兄は男の顔が見えなくなると、いったん下まで降りた。そして母の分のリュックサックから手鏡を取り出すと、手鏡を片手にハシゴを登った。登り切ると頭を出す前に用心深く手鏡だけ上に出し、男を捜した。
「そんなに警戒されると傷つくなぁ。ちゃんと離れているよ」
鏡越しに見える男は、約束通りきちんと壁際に離れていた。他にも人が居ないかグルリと様子を探る。
どうやら外ではなく、部屋になっているようだ。外に出ても、部屋に閉じ込められるのでは大差がない。ここは避けるべきだろうか。
部屋には扉が二つあった。男の側とその反対側だ。もしかしたらどちらかが外に通じているかも知れない。
男の言うことが本当ならば、他に地上へ出る手段は無さそうだ。
「お兄ちゃん?」
下から鈴の呼ぶ声が聞こえてきた。鼻を摘まんでいるせいか、少しくぐもっている。
兄は唇に人差し指を当てて、静かにするように見せた。すると鈴は鼻を摘まんだまま掌で口を塞いで見せた。
兄は鏡で周囲を警戒しながら頭を出した。
部屋には男以外誰も居ない。男を警戒しながらゆっくりとマンホールから這い上がる。
「おーお。随分と大荷物だな。夜逃げの予定なんかあったか?」
そんな戯れ言を口にする男を凝視したまま、鈴においでおいでと手招きをした。
「他にも居るのかい?」
男が尋ねてきたが、兄は警戒したまま答えることはなかった。
男が敵か、味方か、その判断を付けられずにいる。少なくとも今は敵ではないかも知れない。その程度の認識だから警戒を解くことが出来ない。
男の背格好は兄と同じくらいで、歳は少し上くらいだろうか。少し華奢だが、ヒョロッとした感じはしない。客観的に見てイイ男に見える。しかし、見た目に騙されるなと強く思った。
男はため息をつき、ただ見守るだけで動かずにいる。
そんな中、鈴がゆっくりとマンホールから這い上がってきた。
男からは兄が死角になって鈴の姿がよく見えない。覗き込もうと少し動くと、兄がサッと身構えた。
「分かった、済まない。動かないよ」
男は両手を挙げながら宣言すると、覗き込むのを諦めた。
「鈴、後ろの扉までゆっくり行くんだ」
男に聞こえないよう、兄は小声で鈴に囁く。
鈴は頷くとゆっくりと歩いた。
兄はそれに合わせ、男から鈴を庇うように後ろへ歩いた。
「そっちからは外に出られないぞ」
男の忠告を無視し、扉まで辿り着く。扉の外からは大勢の人の声が聞こえてくる。人混みに紛れればそのまま逃げられるかも知れない。そう思い、扉を少し開けて外の様子を覗いてみた。
そこは大勢の人が働いている厨房のようだ。そんなところ、逆に目立ってしまう。兄はそっと扉を閉じた。
「だから言っただろ。外に通じる扉はこっちだ」
厨房を突っ切るよりは、男を倒して扉から出る方が現実的だ。
俺に出来るのか? いや、やらなきゃいけない。
そんな思いにいたり、兄は覚悟を決めた。
「そこをどけ」
覚悟は決めたものの、怖いものは怖い。声が震えている。
兄は格闘技なんて習っていない。喧嘩も好んでしたことはない。体格的にも男の方が有利だ。
「まぁ待て新入り。ここのルールを話そうじゃないか」
「新入りじゃない。そこをどけ」
兄は片腕を横に払い、男にどくよう命令した。
そんな兄の態度に男は呆れた。
「あのな。誰が開かずの蓋を開けてやったと思ってるんだ?」
「……頼んでない」
男は少しムッとした。
「ああそうかい。ったく。なら、次は開けてやらないからな」
男はそう言い捨てると、二人に近づいてきた。
兄は更に警戒を強めた。
「くっ、来るな!」
しかし、男は歩みを緩めない。
「そろそろ休憩が終わる時間なんだ。戻って交代しないといけないの。分かる? 俺、仕事中なの」
そう淡々と言いながら更に近づいてきた。
そして部屋の真ん中にあるマンホールの蓋を閉じた。
「ほら、そこをどけ」
再びこちらに近づきながら、イラついたようにシッシッと手で払った。
兄はゆっくりと壁沿いに鈴を庇いながら移動をした。
男が扉に手を掛ける。
「よかったな。たまたま居たのが俺で。交代で休憩に来るヤツが来る前に出て行けよ」
そう忠告すると、扉を開けて出て行った。
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