大罪の娘

武部恵☆美

第1章 日常の崩壊

第1話

りん、お兄ちゃんを呼んできてちょうだい」

「はぁーい」


 母親と娘の鈴は、夕飯の支度を終えた。

 鈴は母親に言われ、兄を呼びに二階の部屋へと向かう。木造の階段をトントンと駆け上がる。下から五段目と八段目がいつものように大きくギシッと鳴いた。二階に上り、自分の部屋の前を通り過ぎて隣の兄の部屋の前に着くと、扉を叩いた。


「お兄ちゃん、ご飯だよ」

「ああ、分かった。今行く」


 兄はノートと資料本を閉じ、テーブルライトを消した。勉強机から立ち上がると扉へ向かい、開いた。


「今日はなに?」

「今日のメインは、豚の生姜焼き! だよ」

「おー、父さんの大好物だね」


 兄の〝父さん〟という言葉を聞いて、鈴は少し伏し目がちになった。そしてクルリと背を向け、廊下を歩き出す。


「そうだね」


 あまり元気の感じられない返事が返ってくる。そんな鈴の態度に、兄は父がまだ帰ってきていないのだなと思った。


「そっか」


 鈴の頭にそっと手を乗せ、よしよしと軽く撫でる。これで少しは機嫌がよくなるといいなと思った。

 鈴が軽快に駆け上がった階段を、元気なくゆっくりと降りていく二人。二カ所だけ空気を読まずに大きくギシッと鳴いた。

 兄は食卓が視界に入ると、ああやっぱりか……と思いながら、自分の席に着いた。

 鈴も静かにその隣の自分の席に着いた。

 食卓には三人分の食事しか用意されていない。父が帰ってきていないことは確定だ。

 母が最後に椀物をそれぞれの前に置くと、席に着いた。

 母の隣に父が居ない。ただそれだけのよくある光景。いつもと違うのは、事前に連絡がなかったというだけ。それもごくたまにある光景。

 しかし、今日父がすることを考えると、イヤな予感しかしない。それは母も同じである。

 今日父がすること……それは世界を変える論文の発表だ。それは禁忌に触れる論文になっていると父は言っていた。

 兄の知っている禁忌といえば、魔法ぐらいしか思いつかない。父は魔法に関わってしまったのか、と驚愕した。

 だが母はそんな話を聞いても大して驚く様子が無く、ただ緊張した面持ちで黙って父の話に耳を傾けていた。何故なら、父が禁忌に触れていることを以前から知っていたからだ。

 そんな論文が認められる可能性は限りなく低い。結果として父は捕まってしまうだろう。それでも発表する価値がある。認められる可能性は高い、と父は自信を持って語っていた。

 そのことを知らされていないのは、鈴だけだ。ただ、朝に父が鈴に一言、今日は帰れないかも知れないと伝えている。その本当の意味を、鈴だけが知らない。


「いただきます」


 誰からというわけでもなく手を合わせると、三人でそう言っていた。

 箸を持ち、いざ食べようとしたときだった。玄関の呼び鈴が鳴る音が聞こえてきた。


「お父さんだ!」


 鈴はそう元気よく叫ぶと、椅子から飛び降りて玄関に向かおうとした。


「鈴、待ちなさい。お母さんが出るわ。雷太らいた、鈴をお願い」

「えーっ!」

「鈴、こっちに来なさい」

「ブーッ」


 兄は席を立つと、立ち止まって膨れっ面になっている鈴の側に寄った。

 母はそれを確認して兄に目配せをすると、兄は頷いてツバを飲み込んだ。

 何故なら、父が帰宅したのなら呼び鈴など鳴らさずに鍵を開けて入ってくるはずだからだ。つまり、来訪者は父ではない可能性が高い。

 母が立ち上がり、食卓を出て行く。玄関までそれほど遠くないはずなのに、かなり時間が掛かっているように感じられる。

 時計の秒針がコチコチと時を刻む音が、やけにうるさく耳に突き刺さってくる。兄は緊張して手汗をかいているのに対し、鈴は不満の表情を浮かべてご機嫌斜めだ。


「鈴、静かに。大人しくするんだ」

「むぅー」


 玄関を開ける音が聞こえてくる。なのに父のただいまの声は聞こえてこない。やはり父が帰宅したのではなかったようだ。

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