引退勇者の後始末

やまぴかりゃー

序章「勇者の生まれた日/雲と流れる」




「魔物、そして勇者という存在の始まりは──」


 ぼんやりとした頭の中に、教師の声が流れ込んでくる。


「今からおよそ385年前とされています」


 教室の中には窓から春の陽気が差し込んでおり、昼寝にはもってこいの絶妙な暖かさになっている。

 窓の外には雲ひとつない青空が広がっており、まさに平和そのもの。

 時折鳥が窓の端から端を横切るくらいで、それ以外に特に大きな変化はない。

 遠くに見える自分の家の畑では、見事なまでに不作な様が見て取れる。

 つまり、いつもと変わらないということ。

 大きな欠伸が出て、視界が潤んだ。


「超規模魔法により魔物を生み出した宗教団体の名前を……28ページにありますね。キーラさん、何という名前かわかりますか?」

 

「はい!バラドーマです!」


「正解です、流石ですね。では、バラドーマが掲げたスローガンを……スイさん。同じ28ページです」


「えっと、かいせい……じょうど?」


 つまらない内容が続く。

 無理やり背筋を伸ばして参加の意思だけでも表明しようとして、いつの間にか意識が飛んで、気付けば顔面と机が平行になっている。

 そんなことをもう二三繰り返していた。


 あ、そういえば今日は帰って収穫手伝うんだった。

 怠いな。

 まぁ数が取れた日は鉄銭が5枚くらい増えることもあるし、それに期待しよう。


「その超規模魔法は、世界全体に自浄作用をもたらす感覚を投影し、およそ100万人もの人々の命を代価に行使されたと言われています。彼らは『人間という存在があらゆる災害を引き起こす』という思想を持っていました」


 ぼんやりとした頭に、ぼんやりとした内容が入り込んでくる。

 まぁ、言っていることは間違いではないのかもしれない。

 戦争や魔物災害で死んだ人間は、恐らくここ100年で病死や老衰の数を優に超しているだろうし、その戦争も魔物も人間の手によって生み出されたのだと言うのだから救いようがないのだ。

 いつだって人間は人間のやったことに苦しめられていて、他の生物から見れば自作自演も甚だしい。


「それに対抗すべく、現在の協会の前身である聖ユリゲー帝国の対バラドーマ組織、ユリゲー魔法師団が発動した魔法が──」


 固有名詞が多くて頭に入ってこない。

 バラドーマだのユリゲーだの、覚えたところで今年の収穫量が増えるわけでもないし。

 どうせ将来役に立たないのだから、収穫量が増える知識とか、すぐに役に立つ勉強がしたい。


「お」


 遠くでトウトウが罠にかかったのが見えた。

 今年は罠の量を増やして正解だったかもしれない。

 あんまり増やしすぎても育てられる場所が減ってしまうので、迷いどころではあったけど。


「そして生まれたのが勇者というわけです。今現在も勇者バリア様達が我々のために戦ってくださっております。さて、勇者に選ばれた人間にはある2つの特徴が発現すると言われておりますが……ではマドさん。分かりますか?29ページですよ」


「あっ、はい。えーと……」


 不幸中の幸いで教科書のページだけは追っていたので、もしかしたらまぐれが起きるかもと思い、それらしい単語を指でなぞって探す。

 えっと、勇者の特徴を二つ──


「紋章と、特殊能力……?」


「はい、2つとも正解です。素晴らしいですね」


 ほっと胸を撫で下ろし、背もたれに体重を預ける。

 丁度知ってるところで助かった。

 まぁこれは知らない方が珍しい気もするけど。

 

「勇者様が万に一つその命を落とされた場合、その瞬間に勇者の紋章と特殊能力が次に選ばれた人間に発現します。といっても赤ん坊に発現することは稀で、大抵は10代の子供なんですね」


 10代の子供、か。

 選ばれたら最悪だ、勝てもしない相手に死ぬまで挑み続けるんだから。

 というか、確実に長くは生きられない。

 勇者の生誕祭が少なくとも数年に一回あるから、つまりはそれが勇者のおおよその余命と言えるのかもしれない。

 勇者の仲間だって似たようなものだ。

 勇者と共に旅をする仲間として各地から優秀な人材が集められ、大体4、5人で旅をすると聞いたことがある。

 それでも2、3年に一度「新しい勇者の仲間として頑張ります」なんて祭りのようなものをやるのは、欠員が出たと言っているようなもの。

 まるで補填が効く商品みたいで、祭りの度に少し嫌な気持ちになる。


 そりゃ、勇者の能力はこの世界で最高峰のものばかりだ。

 大衆にはあまり詳しくは広められないが、身体能力が途轍もなく高かったり、相手の急所を一瞬で看破するものであったりと、特徴に一貫性はないものの、どれも魔物に対して非常に有効である。

 まぁ、強いて言うならそれが一貫性なのか?

 なんにせよそんな世界の宝である勇者を仲間は全力で守らなければならないのだから、勇者の最期を看取れる仲間もほんの一握りなのだろう。


 全くもって、嫌な話だ。

 有能な人材を無駄に消費しているようにしか思えない。

 どうせ魔王なんて倒せるか分からないのだから、人の多い場所に現れた魔物だけ倒してくれればそれで十分なのに。

 偶然魔物が発生したところに住んでいたとしても、それは多分自然災害と同じで、仕方のないことなのだと思う。

 そう割り切ってこの世界の人々は生きている。

 魔王討伐を期待している人間なんて、どうせ世界の半分もいないのだ。

 だから今頑張っている勇者も、あと数年もすればきっと



「あでっ」



「マドさん、どうかなさいましたか?」


「えっ、いや、なんか右手が」


 右手に一瞬変な感覚が走った。

 ピリッというか、静電気のあの感じというか、とにかく形容し難い感覚だった。

 ふと周りを見てみれば、教室の全員がこちらをじっと見ていた。

 友達の顔を見ると、直ぐに冷静さが戻ってきて、恥ずかしい気持ちが込み上げる。

 あ、アイツ笑ってる。

 あとでいじられそうで面倒だな。


「すいません、虫がいたので、つい」


「授業中は静かにお願いしますね。では再開しますよ」


 同じ体勢続けてたら痺れたかな?

 そう思って、右手の手のひらを見た。


 特に何もない。

 気のせいか。


「ねぇ」


 スイが話しかけて来た。

 普段はからかってくるような性格じゃないから、少し意外だ。


「いや、本当に結構な大きさだったんだって。アレはみんなびっくりするって」


 ひとまず取り繕おうとするも、スイは変わらず妙に真剣な眼差しでこちらを見ている。


「えと、そうじゃなくてさ」


 スイは右手の人差し指で、さっき変な感覚があった自分の右手を指差した。


「え、なに」


「いや、それ……」

 

 もう一度手のひらを見た。

 やはり何もない。

 それからひっくり返して、手の甲を見た。


 手の甲を見て、言葉を失う。


 そこにはどこかで見たような変な黒い模様が、しっかりと刺青のように刻み込まれていた。


「……なんじゃこりゃ」


 指で擦っても、爪を立てても、端の方から剥がそうとしても、取れない。

 まるで自分の身体の一部になっているようで、気付けば冷や汗が吹き出していた。

 


「まぁ、まさかね」



 勇者バリアの訃報がこの小さな町にも届いたのは、それからおよそ一月経った後のことだった。

 



 * * * *




「おい、そこの」


 鬱蒼とした森の中の道を走っていると、突然知らない男に呼び止められた。


「何か」


「何か、じゃねぇよ。この人の流れが見えてねぇのか?」


 沢山の人々が、自分とすれ違うように向かいから歩いてくる。

 確かに、人の流れだ。

 遥か上空から見れば濁流にも見えるかもしれないほどの光景だが、きっとそれはこの深緑の天井に遮られて叶わないのだろう。


「見えてます」


 ただ、人の流れが見えていないわけもないので、素直にそう答えた。


「はぁ、なんだお前、察しが悪いな。この先には魔物が出てんだよ。危ねぇから戻んな」


 男は手を「しっしっ」と振ってみせる。

 見た目は厳ついが、これでも心配してくれているのだろう。

 このご時世に、なんていい人なんだろうと思った。


「ご忠告どうも。それじゃ」


 それほど時間に余裕もないので、さっさと振り切ってしまおうと歩き出したが、「待て」と腕を掴まれてしまった。

 見た目から推測できるように力強い。

 力を入れないと折れてしまいそう。


「おい、人の話聞いてたか?」


「それはまぁ」


「……お前、からかってんのか」


「そんなまさか」


「魔物が出たって言ってんだろーが」


 厳つい顔がさらに厳つくなる。

 なるにつれ、腕を掴む力も強くなる。

 多分このまま話してても埒が開かないので、逃げようとする体勢をやめて手を離させる。


「逃げませんって」


「いや、逃げろよ!」


「あ、そっちじゃなくて」


 主語って大事だなと思った。

 ここまで引き止められてしまったのならせめて何らかの情報の一つは欲しいところ。


「あの……特徴とか、わかりますか?」


「はぁ?」


「簡単でいいんで……」


「死ぬほどデケェヤツだよ!植物みてぇな!行ったら強風に煽られて何もできやしねぇよ!」


 でかくて、植物みたいで、強風。



「アイツか」


「あ、おい!」


 

 

 森の中を、音を頼りに走った。

 遠くで鳴る、空気を切り裂くような音。

 自信から確信に変わった瞬間である。


 先程までは街道を走っていたが、今は音のする方向へと兎に角一直線に森の中を突っ切る。

 木々が空を覆っているため、ここから魔物の存在を視認することができない。

 邪魔なので吹き飛ばしてしまおうと思ったが、今回は方向が殆ど絞れている状態だ。

 意識を集中させ、微力な魔物の存在を感じ取れば必要のない行為だろう。


 森を抜ける。


 地面から立ち昇る細長い植物ようなものが見えてきた。

 その先端は雲に隠れて視認できず、初めて見た者であればどこまでも伸びているようにさえ思えてしまうだろう。

 ひとまず今は、その全体像を把握するべく先を急ぐのみ。


 魔物の方向へと進み、やがて遠くに街道が見えてくる。

 草原に一筋のラインを引いただけの簡素な道に、人影がちらほらと確認できた。

 こちらに逃げてくる人の流れは徐々に減っているように思えるが、老人の割合は増えていく一方。

 さらに奥を見やると、怪我をしている人や、その怪我人を背負っている人の姿も見えてきた。

 当たり前と言えば当たり前だが、ほとんどの若者は全員先に逃げてしまったのだろう。

 誰が悪いというわけではない。

 強いていうなら、バラドーマだろうか。


 それからまた10分ほど走り続けると、ようやく魔物の姿が良く見える見晴らしの良い小さな丘に到着した。

 強風が吹き荒れ、草の大合唱が鼓膜を刺激する。

 魔物の全体像をようやく拝めたところで一度足を止めた。



「相変わらず、でかい」



 クモガシラ。

 その全長は、およそ雲の辺りまで届く。

 細長い身体を持ち、手足はない。

 「根」と呼ばれる部位を地面に突き刺し、軽い身体を固定してその場に留まる。

 そして全身に点在する気孔から強烈な風を巻き起こし、周囲の環境を破壊して移動、周辺一帯を荒地に変える天災。

 頭部は雲に隠れ、正に雲のかしら

 巨大な植物のような姿をしており、体内に空気を通してその巨躯を垂直に保っている。



「産まれてからまだそんなに経ってないか?」


 目標の足元から現在地点までのおおよその距離を測る。

 ギリギリ問題ないか、と討伐の準備を始めようとした時だった。


「おい!はぁ、待てよ、はぁ、はぁ」


 何故か先程のおじさんが、息を切らして自分の後を追ってきた。

 非常に疲れたフリをして、こちらへ駆け寄ってくる。

 自分で忠告しておいて、実はこの人もこっちに用があったのだろうか。

 それとも、火事場泥棒とか。


「どうしかしましたか」


 おじさんは丸く大きな荷物を地面に下ろすと、そのままこちらへ ずいっと寄ってきた。

 

「はぁ、お前、はぁ。家族か誰か、助けに戻るんだろ。逃げる波に逆らって走ってるヤツってのは、大体そうだからな」


 こいつぁ堪えるな、とおじさんは膝に手をついて肩で息をする。


 驚いた。

 こういう人と出会う度に、世の中捨てたもんじゃないと思い起こさせてくれる。


「おじさん、ありがとうございます」


 とりあえず一礼。

 結果必要なかったにせよ、助けてくれようとしたその気持ちに感謝した。


「そういうのはいらねぇよ。ほら、さっさと助けて逃げるぞ。この先の村か?」


 おじさんが目をやった遠い先には、半壊している村があった。

 先程の人の群れはあそこの村からが大半だろう。

 流石にあの様子じゃ逃げ遅れた人はいないだろうが──


「若いヤツ、先行っちゃってたしなぁ」


 念のためと思い、遠くの点のような村を凝視する。

 強風が吹き荒れる中で、更に意識を集中させると、次第に目の奥の辺りが熱くなる。

 途端、点のようにしか見えていなかった村が鮮明に見えるようになった。

 吹き飛ばされた屋根、柵、そして家屋。

 ついさっきまで人が住んでいたとは思えない凄惨な現場であり、魔物の力の強大さを感じざるを得ない。


「あと少し──」


 目の奥が、そして脳がより一層熱を帯びる感覚を感じて、より深く、詳しい情報が次々と脳内に流れ込んでくる。

 破壊された建物、放棄された家畜、倒壊した家屋の下敷きになって、まだ体温が残っている人。


「……いた」


「おい、話聞いてっか?」


 正直に言えば、優先すべきはクモガシラの討伐。

 アレは放っておけば徐々に移動を開始し、通り道には何も残らず、甚大な被害が予想されるとして、発生直後に討伐するのが絶対の魔物。

 だから、人一人の命の方がどうしても優先順位が劣ってしまう。


 だが幸い、今回は一人じゃなかった。


「手前から数えて四番目、右手の家にいる逃げ遅れた子供を助けてあげて下さい」


「そりゃやべぇな、じゃあさっさと行くぞ!」


「自分は残ります」


「はぁ!?何寝ぼけたこと言ってんだお前!」


 声がでかい。

 ゲルノードさん並の声量だ。

 強風なんてお構いなしのボリュームに若干たじろぎつつも、改めて少女の救出をお願いする。


「お願いします、もうあんまり時間がなくて」


「なんだよ、ったくよ!」


「あと、風に気をつけて!」


 声が届いたか否かは分からなかったが、兎に角おじさんは倒壊した村の方へと勢いよく飛び出して行った。

 その大きな背中を一瞬見送り、それから視線をターゲットに戻す。


「うし」


 背中に装備していた折り畳み式の弓を取り出し、展開する。

 

 クモガシラは弱点の核がある頭部が基本的には雲で隠れている魔物だ。

 首元から空気を吸い込み、それを定期的に長い胴体から一気に放出する。

 空気を吸い込む際に雲が吸い寄せられて、弱点が隠れてしまうのが厄介この上ない。


 初討伐時は一晩かけて胴体を攻撃し、頭部をやっとの思いで引き摺り下ろした。

 頭部にあった核を発見した時には、それは腹が立ったのを覚えている。


 普通の人間なら、雲の上まで攻撃を届けることは不可能だ。

 仮に届き得るスキルなどを持っていたとしても、雲に向かって攻撃を放つよりも、見えている胴体の部分を攻撃した方が確実だと思うだろう。

 だからやっとの思いで核を破壊した時のあっけなさは、果てしない徒労感をただひたすらに感じたものだ。

 

 矢を番え、目標を定める。

 身体の内側が熱くなって、弓が仄かに光を帯び始めた。

 狙うは雲の上。

 先程の視野強化の効果がまだ残っており、薄らと頭部の位置が判明した。


 次第に弓を纏う光の輝きが増し、矢も同様に光り始める。

 視力は未だ強化されたままで、狙うべき場所がはっきりと見える。

 クモガシラの身体の伸びる先に集中し、雲の中にある心臓部を矢の先が捉えた。


「さよなら」


 矢はピンッと甲高い音を立てて一直線に目標へと飛んでいき、雲を貫いた。

 矢が穿った点を中心に雲が霧散し、その中から丸く赤黒い物体が姿を現す。

 まるで果実のようなそれはぐらりとバランスを崩し、やがて徐々に空気を吐き出しながら萎み始める。

 ついには胴体の部分からも空気が抜け、雲を貫いていた巨体はそのまま草原に沈み込む。

 最後に一度ぶわりと強風が吹いて、それから辺りの強風が徐々に凪いでいった。

 

「うし」


 最近は魔物の出現率が減ってきていると協会が言っていたし、もしかしたら終わりも近いのかもしれない。

 ようやく、終わりが見えてきたのだろうか。

 

 と、そういえば。

 

「あ、おじさん……いない」


 そう思って、村の方を見てみる。

 視力はいつも通りに戻っており、村は点のようにしか見えない。

 近くに置いてあったおじさんの荷物を背負って、村まで行ってみることに……というか荷物がすごく重い。


「何入ってるんだろこれ」


 中身を壊してはいけないとそっと地面に戻し、弓をしまっている最中に先程のおじさんと思しき人影が見えてきた。

 

 それからまた少し進むと向こうもこちらに気付いたようで、早歩きでずんずんと近付いてきて、それから目の前で止まった。


 おじさんは一人だった。


 一人。

 それを見て、嫌でも悟る。



「すまん。ダメだった」


 おじさんは頭を下げて、そう言った。


「そうですか」



 ダメだった、と聞けばそれがどのような結果であったかは容易に想像できる。

 できるが、念の為確認してみることした。


 村の残骸に視線を合わせ、意識を集中させる。

 先程まで生体反応が確認できた場所から──



「あれ」



 まだ、反応が残っている。



「まだ、生きてる」


 

 男に視線を戻す。



「なんだお前、探知系か」



 探知系。

 視神経に宿る能力の一つで、普通は見えないものが見えたり、とんでもなく視力が良かったりする。

 遠くにいる生存者を見つけられた理由なんて、この世界で生きていれば探知系の能力だと瞬時に理解できるというもの。

 ただ、探知能力者は基本的に一人で行動することはない。

 戦闘能力がない上に、賊に襲われた時に太刀打ちのしようがないことが殆どだからである。

 という理由から、この男は少し驚いたような反応をしたのだろう。


「確かに、あの距離からどうやって正確な位置を割り出したんだって話だよな」


 男は苦い顔をして、遠くに目をやった。

 悪い人には見えないが、時に見た目が本質からかけ離れているということもある。


「説明してもらっても」


 男はこちらを指差して言った。


「お前のそれ、多分あれだろ。温度を視る系のやつなんだろうよ」


 探知系、それも温度を判別する種類のもの。

 この男はかなりその辺りに詳しいようだ。

 完全な間違いではないが、わざわざ正解を教える必要もない。


 そっと鞘の付近に手を移動させる。

 それから男の顔を見て、



「…………」



 警戒するのをやめた。


 こちらが警戒しているのが馬鹿らしくなるほどに、この男は、おじさんは悲しそうな表情を浮かべていたから。


「見つけた時にゃ瓦礫の下で、意識もなかった。生きるのに必要なもんが半分以上いっちまってたから、直ぐにダメだってわかったよ」


 おじさんは腰を下ろし、俯きながらも話してくれた。

 きっとお前が探知したのは絶命直前か直後にわずかに残っていた体温で、到着後に村の方向から何かが崩れたような音はしなかったし、自分らが到着した時には既に手遅れの状態だったのだろう、と。

 こんな時にまでこちらに気を遣って、本当にどこまでもお人好しなのだと、疑っていたのが本当に申し訳ない気持ちになる。


「…………」


「すまん、お前の家族か?」


 このおじさんからすれば、確かにそう思われてもおかしくはない。

 さて、どうやって切り抜けたものか。


「家族じゃ、ないです」


「そうか。いや、そこは問題じゃねぇよな」


「まぁ、言ってしまえば赤の他人です」


 おじさんは一瞬驚いた顔をして、わからない、といった顔をした。


「野良の救助隊か?」

 

 ボランティアで人助けをしている、またはそれを生業としているのだと推測されたのだろうか。


「自分はそこまでお人好しじゃないので」


 これも事実。

 適材適所という言葉があるのだ、自分のやるべきことは直接的な人助けではないことは確かと言える。

 おじさんは頭を掻いて、一つ大きなため息をついた。


「……まぁ悪いことしてるようにゃ見えねぇからいいか」


 詰められる、と少し構えていたものの、無駄に終わった。

 やっぱりこの人はお人好しだ。

 良くて火事場泥棒、悪くて奴隷商人だと思われても仕方がないと思っていたが、助かった。


「じゃ、これもいらねぇか」


「それは?」


 おじさんがポケットから取り出したのは、鉄の鎖の一部だった。


「お前の肉親かと思って近くにあったものを適当に見繕ってきたんだが……」


 それを見て、合点がいった。

 きっとあの子は奴隷だったのだろう。

 見捨てられたというよりは、そもそも助ける対象として見られていなかった、と言うべきか。


「おじさん、やっぱお人好しだ」


「一応医者やってっからな。人助けが本分だよ」


 そういったおじさんは軽く笑った。

 なるほど、この滲み出る善性は職業が由来なのだと納得できる。

 いや、逆の方が正解か?

 だから医者になったのだろうか?

 まぁ、順番なんてどちらでもいいか。


「今お礼できるものがこんなものしかないので」


 ポケットに入っていた銀貨を一枚取り出し、指で弾いておじさんへと飛ばす。

 それは素早くキャッチされ、まじまじと観察される。


「これ、シャルナリア銀貨か?」


「足りるか分かりませんが」


「いや、十分だ。別に金目的じゃなかったが、少なくとも帝都までの路銀には余りある」


「いい宿でも泊まって下さい。それじゃ」


「おい」


 おじさんに背を向けた時、声を掛けられた。

 森で会った時と同じような場面だったが、その時よりは優しい声になっていたような気がする。


「どこいくんだ」


「あのままなのは、あんまりなので」


 おじさんは「はっ」と快活に笑った。

 

「やっぱお前、お人好しだよ。あぁ、お人好しの俺が言うんだから間違いねぇ」



 * * * *



 村は、遠目で見た時よりもずっと酷い状態だった。

 恐らくクモガシラはここからそう遠くはない場所で誕生し、時間をかけて先ほどの場所まで移動したのだろう。

 遠くで放棄された家畜の生き残りの鳴き声が聞こえ、見れば倒壊した厩舎の下敷きになった仲間の顔をペロペロと舐めていた。


「ほれ」


 おじさんが村の残骸から木材をいくつか見繕って持ってきてくれた。

 それを受け取り、まだ幼い少女の遺体に添えるように並べる。

 年齢は12、3歳程度だろうか。

 キーラ達の顔が思い浮かんで、懐かしい気持ちになる。


 木材を並べ終えて、ふと瓦礫の下で見つけた時の表情を思い出す。

 目は半開きになり、その隙間から光を失った目玉が重力に従って地面を見つめたまま動かない。

 腹が潰された時に逆流したのだろう、口からは大量の血を吐き出した跡が見られた。

 現在はおじさんの手によって瞼は閉じられ、口元は綺麗になっている。

 真っ赤な股下、紫に変色した脚と、発見時と変わらず腹から下は目を逸らしたくなるような酷い有様だったが、顔だけを見れば安らかに眠っているように見えた。


 大量に流れたであろう涙の跡を除けば、だが。


 ここへ運ぶ際にその身体を持ち上げた時は、子供とはいえあまりの軽さに若干恐怖すら覚えたものである。

 もうこんなのは御免だと何度思えば、許されるのだろうか。

 そんな風にすら思えてしまうのだから、最早これは病気に近いのかもしれない。


「……うし、やるか」


 やり場のない怒りのようなものが一瞬だけ芽生えて、すぐに消えてゆく。

 

 奴隷は実際役に立つし、生活の厳しさから望んで奴隷になる人だって実質沢山いる。

 ただ、子供に限っては親に売られたなんてケースがほとんどだから、きっと望まぬ人生を今日まで送ってきたのだろう。

「奴隷制度が悪である」という共通認識が普遍的でない以上、村の人々を責めることは正直難しい。


 そんなことを考えている間に、一通り準備が済んだ。


「ここまでやってなんだが、火はどうすんだ」


「魔法器があるので、それで」


「なんだよ準備がいいな」


「まぁ、こんなことのために持ってきたわけじゃ──」


「わぁってるって。……いや、悪い」


「いや、すみません。こちらこそ」


 草原に火が燃え移らないように再度地面を確認する。

 当然ながら荷物になる魔法器なんてものは持っていないので、鞄の中から適当な道具を取り出し、それを使うフリをしてこっそり手から火の魔法を打ち出した。


「あっ」

「うおっ」


 魔法が当たった衝撃で、綺麗に並べた木材が軽く散らばってしまった。

 近くで見ていたおじさんが「おいおい」と笑う。


「随分と物騒な魔法器だなぁ」


「いや、調整が意外と難しくて……」


「なんだお前、意外と不器用なのか?」


 なんて話している間に火は大きく燃え盛り、形容し難い異臭が周囲を覆う。

 炎が弾ける音がして、煙の量も徐々に増え、少女は橙と灰の景色に包まれていった。

 晴れた空に上っていく煙が青色に溶け、やがて地面には骨や灰しか残らなくなるのだろう。

 昔からその様が、肉体に宿る魂が煙となって天へ登っていき、やがて入れ物しか残らなくなる仕組みなのだと解釈していた。

 死という神秘的な現象の仕組みなんて誰にも分からないが、きっとそれが正しいのだろうと、そう思っていた。

 

「しかしお前、肝が座ってんな。普段からこんなことしてんのか」


 それはこちらの台詞だと言いかけたが、そういえばおじさんは現職が医者であった。


「そりゃ、人を助けるのが仕事だってのに、見送ることに慣れてちゃどうしようもねぇって思ってるよ」


 その言葉は、自分にも強く刺さった。

 寧ろ自分に向けた言葉と受け取っても間違いはないのかもしれない。

 人を見送る時にはいつだって、自分は何のために生まれてきたのだろうと考えさせられる。

 やることはやってきたつもりだが、もっとやりようはあったのではないかと常に考えてしまうのだ。


 やがて燃やす対象がなくなった炎は行き場を無くし、熱を残して消え去った。

 残ったのは木材の燃えかすと、かつて少女だったもの。

 頭蓋骨の口の部分は少し開いており、一瞬、そこから何かが漏れ出しているように見えてしまった。

 奴隷としてこき使われ、最後には見捨てられて死んだこの少女は、最期に何を言いたかったのだろう。

 この世への恨み言か、来世への希望か、それとも──


「言っておくが、あと少し早く到着してればなんて考えても意味ねぇからな」


「……それは」


「強いて言うなら俺のせいだ」


「…………」


「ほら、埋めてやろう」


「……そうですね」


 倒壊した家屋から見つけた風呂敷で骨と歯を包み、近くにあった見晴らしの良い丘に移動する。

 それから厩舎の付近に落ちていた農具を地面に突き立てて、雑草を根本から掘り起こす。

 幸い土が柔らかかったので、あまり時間を掛けずにそれなりの穴を掘ることができた。

 骨を包んだ風呂敷はすっぽりと穴に収まり、掘った土を戻して小さな山が出来上がる。

 さらにその上から近くから運んできた岩を乗せた。

 

「悪いな、こんなものしかなくてよ」


 おじさんはそう言って、近くに咲いていた花を摘んで添えた。

 強風の影響で花弁はほとんど散ってしまっており、墓前の供物にしてはかなり質素である。

 が、石の前に花が置かれているだけで雰囲気は出るものなのであった。


「不格好だが、こんなもんか」


 確かに墓と呼ぶには不格好で、かつあまりにも簡素であったが、世の中には墓すら持てない人間がごまんといる。

 その点で言えば、こうして一人用の墓があることは比較的厚遇といえるのかもしれない。

 当然、この少女が幸せな死を迎えられたかはまた別の話だが。


 墓の前に立ち、手を組む。

 もしこの世に輪廻転生という仕組みがあるとするのならば、次はもっと幸せな人生が待っていますように。

 誰かに必要とされる、そんな人生になりますように。

 そう、心から願った。


「そういや、今更だが『東のやり方』で良かったのか?」


 おじさんが尋ねてきた。

 ここでいうとは、葬儀の方式に関しての話だろう。

 昨今の宗教的な作法には過敏な人間も多い。

 気にしない人間はとことん気にしないが、その逆もまたとことん気にする。

 医者ともなれば普段から気を使う場面が多いのだろう。


「別に、やり方はなんでも。野晒しで魔物に喰われるのが、こう、可哀想というか」


「そうか。なら、いいんだよ」


 墓の前に座っていたおじさんは「よし」と立ち上がり、言った。


「帰るか」


「はい」


 お互い帰る場所は違えど、今はその言葉が適しているような気がする。

 帰る場所があるのなら、自分を待っている人がいるのなら、いつだって人間はそんな場所に帰結するのかもしれない。


 空を見れば、既に日が傾いていた。

 クモガシラによって集められていた雲が散らばり、照らされて橙色の光を帯びている。

 

 来た道を戻り、森に入ろうとして、振り返る。

 丘の上に不恰好な墓石が見えた。

 意識を集中させると、そこに刻み付けられた文字があることに気付く。


「The sky’s the limit ──」


「なんかかっこいいだろ。俺が昔、異国で知った言葉でな、装飾代わりに彫っておいたのよ」


「意味は?」


「自由とか、可能性は無限大とか、確かそんな意味だったな」


「それは確かに──」


 風が強く吹いて、草原の合唱が辺りに鳴り響く。

 墓前の花が舞い上がり、彼方へと飛んで行くのが見えた。


「いい言葉ですね」


「だろ?」


 賑やかな草原を背にして、森の中へと入ってゆく。

 それからしばらく、遠ざかっていくその音を聴いていた。

 聞こえなくなるまで、ずっと、ずっと。



 * * * *



 帰り道におじさんと話している際に、おじさんから一杯奢らせて欲しいと最寄りの町に立ち寄ることになった。

 なったのだが──


「……すごい人だかりだ」


 森を抜けた先にあるその小さな町は、各地から避難してきた避難民たちで溢れており、受け入れ態勢が整っていないのか、多くの避難民らは石畳の上で座り込んでいた。


「まぁ、そらこうなるわな」


「協会が来るまでは当分このままでしょう」


 魔物災害による避難民の受け入れは、最寄りの町・街・都市の義務である。

 といってもそれがどこかに明文化されているわけではない。

 ないのだが、受け入れを拒否しようものならば周辺からの評価が落ちる。

 ひいては国の評判に繋がるため、受け入れざるを得ないのだ。


「じゃあ、行ってくるわ」


 おじさんは荷物を背負い直してそう言った。

 恐らく、というか十中八九怪我人の元へ向かうのだろう。

 

「何か必要なものは?」


「あぁ?」


「綺麗な布とか、水とか」


「お前──」


「さっきのお礼、させて下さいよ」


 おじさんはやれやれといった様子で苦笑し、そのまま怪我人の元へと歩き出す。

 そしてそのまま振り返らずに、手をひらひらさせて言った。


「水、布。あるだけな」


「了解です」

 

 お使いの遂行中に、多くの避難民とすれ違った。

 傷を負い苦悶に呻く者、行方不明の家族を探す者、既に事切れている物。

 彼らの横を通り過ぎて、町の中心部へと一直線に向かった。


 

 役所で貰えた配給分の布では当然数が足りず、近くの雑貨屋で布製の商品をいくつか調達して鞄に詰めた。

 広場を経由しておじさんの元へ布を届け、次に水の調達へ向かう。

 井戸には大勢が押し寄せていたので、付近の河川の場所を尋ねそちらへ向かったものの、こちらも当然人に溢れており、仕方なく上流の方へ軽く足を伸ばした。

 水いっぱいの桶を両手にま持ち、まず片方をおじさんへと届け、もう片方は近くの家から借りてきた鉄鍋の中へと流し込む。

 丁度炊き出しが終わった頃だったので、火を借りて煮沸させ、その後は風通しの良い場所に安置する。

 それらを、何回か繰り返した。

 

「こんなもんか」


 夜はすっかり更け、広場から少し離れればそこには静寂が待っている。

 月は天辺に位置し、ぼんやりと広場を照らしていた。

 時折気持ちの良い穏やかな風が吹くが、秋ともなれば夜もそれなりに冷え込む。

 労働終わりの自分はともかく、避難民たちの体温は徐々に奪われていた。


「……そろそろか」


 ある程度冷めた水をおじさんの元へと運ぶ。

 少し歩けば、数刻前と変わらず怪我人と向き合っている背中が見えてきた。


「煮沸した水、持ってきました」


「お前、俺の助手にならねぇか?」


「次は何を?」


「そう嫌がんなって」


 もう終わるから、と言っておじさんは作業に戻った。

 他に手伝えることもなさそうなので、広場の隅にでも移動しようかと思い移動していた時。


「おい、ちゃんと持てよ」


「いや、汚ねえからあんまちゃんと持ちたくないんだよな……」


 路地の方へと、何かを運んでいる二人の人影を見かけた。

 ついていけば、そこには先ほどよりも一回り小さい広場に出る。

 そして感じる、強烈な異臭。


「よっこらせっと」


 どがっ、と少し重たい音が鳴る。

 男性の遺体が地面に落ちて手足が投げ出され、それを先程の男たちが足で整える。

 男の遺体はやや不恰好ながらも、仰向けで気をつけのポーズをとった。


 周囲にはざっと見ただけでも20を超える遺体が、皆同じような体勢で並んでいる。

 大きさは大小様々で、正に老若男女といえる。

 そして、若い人間には共通している特徴があった。


「この手足の枷、燃えるのか?全員着けてる訳じゃないけど」


「鎖は燃えないだろ。お前、やっぱバカだなぁ」


 男たちはそんな会話をしながら、先ほどの路地に引き返して行く。

 それを視界の端で見送って、もう一度綺麗に並んで眠っている遺体に目を戻した。


「まさかね」


 目の辺りが熱くなる感覚がして、脳に情報が伝わってくる。

 生存者はいなかった。

 当然と言えば当然、それまでのことなのだが。


「……あ」


 視界の端、広場の隅に生体反応を感知した。

 見れば、まだ幼い少女である。

 12、3歳程度といったところだろうか。

 いくつかの遺体と同様に、継ぎ接ぎで作ったような質素な服装と手足に枷を身につけている。

 虚な目は目の前の景色を見つめており、きっとそう遠くない未来で自分がその景色の一部となることを理解しているのだろう。


「なぁ」


「……どうか、なさいましたか」


「そりゃ、どっちかと言えばこっちのセリフだろうよ」


「……どうもしませんよ」


「そうか」


 腕で隠そうとしているが、腹に傷を負っているのが見える。

 放っておけば悪化するのは間違いない。

 

「立てるか」


「……どこへ」


「傷、診てもらおう」


「……どうしてですか?」


「…………」


 少女は地面を見つめたまま、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

 もうほっといてくれと言わんばかりの表情。

 死にたがりの典型的な表情をしている。

 傷が治ったとして、それ以外の好転が約束されているとでも?

 なんて、思っているのだろう。


 ふと、夕刻の少女の顔を思い出した。

 涙に濡れ、まるで地獄の中心にいたようなあの苦悶の表情。

 何を願ってももう遅いと解ってしまった時、いざ本当に避けようのない死を間近に感じた時、この少女も彼女と同じように涙を流すのだろうか。

 それとももう、そんな感情すら失ってしまったのだろうか。


 まぁ、正直どちらでもいい。


「少し痛むけど、我慢しよう」


「ぃだっ──」


 なるべく少女の傷を刺激しないよう、そっと持ち上げておじさんのいる広場へと向かう。

 嫌がるそぶりは見せず、ただされるがままで、持ち上げるのにそう苦労はしなかった。

 

「すぐそこだから」


「…………」



 少女の身体には、重みがあった。

 それだけで少し安心する。



 途中、先程の運搬係とすれ違った。


 子供の奴隷の死体を運んでいた。



 * * * *



 ドタドタと、騒がしい音で目が覚めた。

 蹄や車輪が石畳を鳴らし、やがて広間は兵士の話し声で覆われる。


「目ェ覚めたか」


「寝ちゃってましたか、すみません」


「粗方片付いた後だったから問題ねぇよ」


 どうやらそのまま広間で意識が飛んだようで、腰を上げようとして節々が痛んだ。

 寝る前に何をしていたか思い出そうとして、目の前の景色に目を向ける。


「ようやっと協会のお出ましか」


 視界の右端から左端へと、荷車やら兵士やらが流れてゆく。

 その内のいくつかが広間に止まり、緊急用の天幕の近くに集まって行った。

 天幕は長年使用された形跡が見られ、所々に穴が空いている。

 継ぎ接ぎした箇所もあり、まるで質素な服を集めて作ったような──


「あ」


 奴隷の少女。

 どうなっただろう。


「そういや、お前が最後の方に連れてきたヤツ」


 おじさんは、先ほど自分が寝ていた方向を指差した。

 それは昨晩の路地がある方向でもあった。

 

 路地。

 昨晩、少女と出会った場所。



「……そうですか」


 

 半分くらい、仕方ないという気持ちがあった。

 それがなんとも遣る瀬無い。

 やはり、腹の傷が深すぎたのだろうか。

 それとも、傷口から良くないものでも入り込んだか。

 

 なんだっていいか。

 もう、終わってしまったことか。


「なんだよ、アイツじゃなかったか?」


 おじさんがほら、ともう一度指を差す。

 その方向を見て、視界の下の方に何かあることに気づく。

 

「あれはまぁ、奴隷は天幕に入れらんねぇからって、仕方なくだな……」


 先ほど自分が寝ていた地点からほど近い場所に少女は横たわっていた。

 灰色の布を掛けていたからか、石畳と同化して先程は気づかなかったようである。

 体全体の筋肉が弛緩する感覚がして、ため息のようなものが出た。


「傷は?」


「縫ってる最中に意識が飛んじまったみてぇだが、一応処置は問題なく終わったよ。あとは目を覚ますかどうかだけだな」


「……そうですか」


「しかし、拾ってきたはいいもののどうすんだよ。面倒見んのか?」


「それは」


 と、腹が鳴った。

 思えば、昨日の昼から何も食べていなかった。


「ま、ひとまず飯にしようぜ」


 どんな状況であれお腹は空く。

 魔物に住処を追われようと、火葬の後であろうと、遺体で埋まった広場を見た後であろうと、腹に大怪我を負おうと。

 腹が減っては戦はできぬどころか、戦場へ出る前に死んでしまうのだと、散々嫌というほど理解させられてきた。

 空腹と睡魔には大人しく従っておくのが正解なので、少女をそっと持ち上げておじさんについていくことにしたのだった。



 * * * *



 近くにあった宿屋の寝室に奴隷の少女を寝かせて外に出る。

 おじさんは帝都から少し離れたここら一帯を仕事場にしているらしく、この町にも何度も足を運んだことがあるのだという。

 案内されるがままにとある食堂へと向かうと、中は案外空いていた。

 時間帯が南中を過ぎる少し前なのもあるのだろう、丁度開店したばかりのように見受けられる。

 

 おじさんは麦酒を、自分はお茶を頼み、程なくして机に運ばれてくる。

 いつの間にか主菜も頼んでくれていたらしく、それももう時期出来上がると言い残して店員は調理場へと戻っていった。


「んじゃ、とりあえず乾杯」


「お疲れ様です」


 木の杯がぶつかりコツンと音を鳴らす。

 それから二人で中に入っている液体を全て飲み干した。

 しばらくの間飲まず食わずだったからか、余計に喉が乾く感覚に陥る。

 二杯目を頼んで、再び体に注ぎ込もうとして。


「ところでお前、複数持ちなんて珍しいよな」


「げほっ」


 複数持ち。

 この世界では、能力のことを指す。


「なんのことでしょう」


「隠さなかったっていいだろ、今の時代」


「自分は探知系の──」


「火の魔法、使えてたじゃねぇか」


「あれはその、魔法器で」


「あんなすぐに使える魔法器なんざ見たことねぇな。医者やってっと使える道具は基本的になんでも使うから、なんとなくわかっちまうのよ」


 一般的な魔法器は、発動までにそこそこ時間がかかる。

 その理由は魔法器の発動の仕組みが関係しているのだが、今はそれどころではない。

 やはり、迂闊に人前で使うのは危険だったか。


「まぁ、複数持ちは希少だからな。バレたら面倒なんだろ。別に言いふらしたりゃしねぇから安心しな」


「それは助かります」


 バレたら目立つ。

 それが嫌だから隠している、というのが複数持ちの大半の心情だろう。

 昨今の能力開発への注目度が高いせいで、各国のそういった機関が躍起になっているのだ。

 見つかれば何をさせられるか、分かったものではない。

 まぁ自分に限っては、ただ目立ちたくないというのが理由になるのだが。


「そういや今更だけどお前、名前なんていうんだ」


 今更、という言葉がここまで似合う場面に遭遇したのは随分と久しぶりかもしれない。

 自分も「おじさん」と雑に呼んでいたので、その点に関してはお互い様か。

 これといって名前を隠しておく必要もないので、軽い自己紹介をすることにした。


「マドっていいます。今はまぁ、流れ者みたいなもんです」


「マドってそりゃ、あのパーティ殺しの」


「ちなみに偽名じゃないですよ」


「いや、悪ぃ。別に何か言うつもりも、好きでも嫌いでもねぇからさ」


 少し語気が強かっただろうか。

 ただ、親からもらった大切な名前だ。

 そう簡単に偽ることなどできやしない。


「俺はオース。帝都南部を行ったり来たりの医者の端くれよ」


 医者と知った上であの鞄の膨らみを見れば納得もいく。

 その中に魔法器もいくつか入っているのだろう、詳しいことにも合点がいった。


「しかしマドか。最近はあんまり聞かなくなったな」


「もう昔の話ですよ」


「だなぁ……。魔王と勇者が死んだのも、もう100年以上前だろ?まぁ勇者も魔王もこの目で見たことねぇし、魔物もまだまだいやがるからあんまり実感ねえけどな」


「多少は減ってる……とは思いたいですけどね」


 魔物の生まれる仕組みから考えれば、はいつか必ず訪れる。

 時間はかかるが、約束は約束なので、兎に角ひたすらに数を減らし続ける他ない。


「しかしお前、不思議なやつだよな。複数持ちだし、名前は勇者と同じだし、煮沸消毒とか色んな知識もあって、巨大な魔物もぶっ殺せるときた」


 ……それも見られていたのか。

 ここ数年は単独行動がほとんどで、かつ今回は被害拡大を防ぐために速やかに討伐する必要があるから、あまり周辺の人払いに気を回すことがなかった。

 久しぶりだからといって気を抜きすぎのかもしれない。


「いいんだよ、誰だって秘密にしたいことの一つや二つはある」


 お前は一つや二つどころじゃなさそうだけどな、とオースは豪快に笑った。

 それはこちらの台詞だと口から出かけたが、お茶と一緒に飲みこんでおいた。

 あくまで推測に過ぎないが、オースは本当に善意で追いかけてきてくれたのだろう。

 自分を追いかけてきた速度や倒壊した村の往復速度から、この人が身体能力向上系の能力持ちなのは間違いない。

 わざわざ息を切らしたフリをしていたのは、不自然さを隠すためだろうか。

 何にせよ相変わらず悪い人にも見えないので、ひとまずここは大人しくしておく。


「お待たせしました」


 主菜が届く。

 肉と野菜の煮込みというシンプルな調理ながら、材料の一つである果実のおかげでスープは真っ赤に染まっていた。


「この辺の土は水捌けがいいからな。色んな作物を育てるのにもってこいってワケよ」


「へぇ……なるほど。帝都で並ぶことも?」


 オースは大きく頷いた。

 どこか誇らしげなところを見ると、生産側とどこかしら繋がっているのだろう。


「ただまぁ最近、魔物の動きがどうとかで輸送費用が上がってるって村の奴らが嘆いてたけどな」


 魔物の動き、か。

 自分が知る限りでは、そんな話は聞いたことがない。

 そういえば最近、護衛関係の担当が変わったような話を聞いた気がする。


「今度確認しておきます」


「ん?何をだ?」


「いえ、なんでも」


 それから小さな宴は昼過ぎまで続いた。

 最近の技術の発達が目覚ましい話、能力を活用した新しい動力源の話、バルバー地方西部で噂の幼い冒険者の話、遠い地方で聞いた空を飛ぶ透明な魔物の話。

 やはり、世界を見てきた人の話は興味深い。

 

 そして、お互いの皿から料理がなくなった頃。

 

「そろそろ、あいつら診てやらねぇと。お前はどうする?いつまでここにいるんだ?


「協会に寄って、そこで今後の方針を」


「あの奴隷の嬢ちゃんも協会に預けるのか?」

 

 オースが宿の方向を見やった。

 本人の意向が一番だが、行く当てもなければ待っているのは協会の保護施設といったところか。

 信頼していないわけではないが、奴隷という身分が周囲からの視線を集めてしまう可能性が否めない。

 と、なると。

 

「オースさん、近々帝都に行く予定は」


「なんだ急に。まぁここで一仕事終えたら補充のために向かう予定ではあるけどよ」


「おぉ」


 これは、天の計らいと言ってもいいのかもしれない。

 それとも、彼女自身が呼び寄せた幸運なのだろうか。

 なんにせよ、彼女が昨晩広場の端に座っていなければ訪れなかったことではある。

 今はただ与えられた役目をこなすとしよう。

 きっと今の我々は、彼女の人生にとってのただの舞台装置でしかないのだろうから。




 * * * *




「そろそろ行くか」


「はい」


 街と街道の境目、開閉式の門の前でオースに別れを告げる。

 彼は怪我人をあと2、3週間は診て周り、それからこの街を出るらしい。

 殊勝なお人好しである。


 結局協会の保護施設は信頼できないと判断して、帝都にある別の場所に預けることに決定。

 昨晩帝都から離れた方向への移動要請が出たので、一度帝都に寄ってから折り返して移動しようかと考えていたが、丁度オースが帝都に用があるというので護送をお願いすることにした。

 全くもってありがたい話である。


「あの、やっぱり」


「いらねぇって、路銀なら昨日もらったろ。そっから依頼料差っ引いたってお釣りがくるぜ」


「……そうですか」


 昨晩、帝都までの路銀として銀貨5枚を手渡したが、護衛料の相場を考えれば安すぎる。

 当然その後に別で依頼料を渡そうとしたのだが、断られてしまった。

 お人好しも過ぎれば、少しばかり心配になってしまう。


「んで、東地区の『止まり木』って施設に預ければいいんだろ」

 

「えぇ、お渡しした紙を見せてもらえれば、あとはすんなり事が運ぶかと」


 オースは一連の依頼に関して、特に質問をしてこなかった。

 こちらからあれこれ説明するのも折角の信頼を疑っているようで躊躇われたので、結局今朝になっても「少女を帝都東地区にある『止まり木』という機関へ護送を願いたい」程度の情報しか彼は知らないのだ。

 先月まで治安の悪い地域に長いこといたせいだろうか、自分の感覚もどこかズレてしまったのかもしれない。


 そして当の護送対象といえば、今も宿屋で療養中。


 今朝に少し話したきり、それからずっと無言だった。

 急な環境の変化に戸惑っている部分はあるだろうが、不満は口にしてくれなければわからない。

 だが少し話した時のあの感覚が正しければ、自分の選択は完全に間違いではなかったと思う。

 そう思いたいだけだろうと言われても否定はできないが、そう思えるだけでもあまり悲観的になるような結果ではないのかもしれない。



 今朝、少女が寝ている宿の部屋での出来事。

 ノックをしても反応がなかったので、部屋に入ることを何度か聞こえるように口にしてからドアを開けた。


 なんとなく、起きているのがわかった。


「おい、アンタ」


「っ!」


 無理やり目と目を合わせる。

 横を向いて寝転がっていたので、頭の方に行ってしゃがめばすぐに顔が見えた。

 会話はお互いに話を聞く心がないと成立しないものなので、その状況を無理矢理だが作らせていただく。


「傷は」


「…………」


「まぁどんな具合にせよ、あと2、3週間程度は安静にしたほうがいい」


「…………」


「この後の話だけど」


「…………」


「勝手に助けた上にさらに勝手で悪いが、アンタをずっと抱えたまま旅を続けるのは難しい」


「…………」


「だからって無理やり協会に預けて、アンタの将来が協会関係に絞られてしまうのも──」


「……しゅは」


 口を開いた。

 今度はこちらが口を閉じ、次を待つ。


「主は、私の能力の、程度の低さに失望されたのでしょうか」


「なぜそう思う」


「……姉様たちに甘えて、仕事の量が少なかったから」


「……そんだけ?」


「……たまにつまみ食いをしてしまったから」


「それくらい、誰だってする」


「座学が嫌いだったから。好き嫌いがあったから。あまり言うことを聞かなかったから」


 堰を切ったように溢れ出す懺悔──というにはあまりにも幼く、まるで母親に隠していた悪いことをポロポロとこぼしている子供と同じに見えた。


「……海を、海を一度でもいいから見てみたい、なんて我儘を言ってしまったから。だから、拐かされて、奴隷にされて、慰み者にされて、挙句その飼い主にも捨てられて」


 少女は静かに泣きながら続ける。


「だからっ、罰だと思って、思って……耐えてきたんです。天からの試練だから、これを乗り越えればまたあの日に戻れるって……そう、思ったから」


 想像するだけで吐き気のするような日々を送ってきたのだろう。

 完全に理解できる、なんてことは口が裂けても言えないが、今の心の荒れようはなんだか昔の自分に似ている。

 特に全く関係のない何かのせいにして、現実から目を背けているところもそっくりだ。

 ここは一つ、体験談を話そう。


「神罰だとか試練なんて、そんなもんないだろうよ」


「…………」


「強いて言うなら、運が悪かった。それだけだ」


「……運?」


「攫われたのも、そこがたまたま船が近い海だったのも、売られた先が酷い家だったのも全部、運がなかった」


「……そんなこと」


「事実だ。少し時間がズレれば別の誰かが攫われていたかもしれないし、雨が降っていればそもそも出かけることすらしなかっただろ。そんなの、挙げ出したらキリがない。それらを一言で纏めれば、運が悪かったってだけだ」


 何かのせいにするのは簡単だ。

 アイツが悪い、自分が悪い、境遇が悪い。

 そうやって石をぶつける対象があれば、まだ心の整理もつく。

 頭で理解ができる。

 ただ、世の中そんなに上手くできているわけではない。

 本当にただ単に不運だった。

 自分に落ち度もなければ、怒りのやり場もない。

 人攫いに憎悪を向けたとして、顔も知らない相手を憎むのは難しい。

 奴隷制度に憎悪を向けたとして、所詮は蟷螂の斧。

 矮小な自分では解決のしようがないことに気付いて、また別の憎悪の対象を探しはじめる、その繰り返し。

 そうやって矛先を四方に向けて、それに振り回されて、疲れ果ててしまう。

 そんな風になってしまうよりかは、何かのせいにしてしまった方がずっと楽なのだ。

 単純に不運であった事実から目を背け、楽な方へと流されていく。


「自分もまぁ、あった。何かのせいにしなきゃやってらんなくて……。腹が立って、悲しくなって、なんで自分だけこんな目にって。でもどこかで見切りをつけなくちゃならない。運が悪かったんだと認めて、納得しなくちゃならない」


 そんなもの、認めたくない。

 何度もそう思った。

 思って、考えて、それでも認めたくなくて、だんだん疲れてきて、諦観にも似た感情が湧いてきて、やがて渋々納得する。

 納得したふりをする。


 それが大人になる上での通過儀礼のようなものなのだと、今となっては思ったり。


「帝都に『止まり木』っていう場所がある。保護施設とはまた違うけど、そこなら多分お前の元いた家も見つかるかもしれない」


「……?」


「可能性があるってだけだ。絶対じゃない。この広い世界で個人を見つけるのは非現実的と言っても過言じゃない」


 何事も保証なんてない。

 保証する、なんて人間がいたとしても、そもそも絶対的な約束なんてものは存在しない。

 事実が、結果だけが絶対性を持ち合わせているのだから。


 ただ、それでも。


「やってみる価値はある、あそこには協力してくれる人が沢山いるから。自分でいうのもなんだが、これは多分、転機になる」


 何事も挑戦せずに静観していれば、確かに綺麗なままの自分がそこにある。

 ただそれだけで、それ以上も以下もない。

 そういう人間が大半なのだ。

 しかし事実として、何か具体的な目的を持っているのとそうでないのとでは人生の密度に大きな差が生まれる。


 だからまぁ、なんというか。


「もう、落ちるとこまで落ちたんだ。なんだってやるだけやってみよう。それでダメでも、元に戻るだけだろ」


「…………」


 少女はしらばくして、ゆっくりと頷いた。





 ……なんてことがあり、今に至る。

 無言で無表情だったが、わかる。

 きっともう大丈夫。


 後悔なんてものは、放置したところで何か変化が起こるようなものではない。

 それは実体験で理解している。

 忘れることすらできず、薄めるのにも何かしらの契機が必要になるから、後悔というものは厄介だ。


「しっかり送り届けてやるから、そんな顔すんなよ」


「助かります。オースさんも何か困ったことがあれば、事情を問わず『止まり木』を尋ねて下さい」


「なんだよ、そこに行けばお前に会えんのか?」


「恐らく、天文学的な確率かと」


「はっ、なんだよそれ」


「自分がいてもいなくても、助けにはなります」


 オースはこれまた深く聞かず、わかったよとだけ返事をしてくれた。

 いつかまた腰を据えて話をしたいところだが、残念ながらお互い時間がない。


「馬車、来てんだろ。早く行きな」


「はい。それじゃ」


 この世界、約束をしたって再び出会える確率は非常に低い。

 ましてやお互い一所に留まって生きているわけでもないのだから、そんなことがあれば奇跡に近いかもしれない。

 だから旅人は別れ際に再会の約束をしないのが通常なのだが、以前出会った旅人に良い挨拶を教わったのを思い出す。



「それじゃあ、あの世でまた一杯やりましょう」



 オースは少し驚いたような顔をして、笑って言った。


「あんまり早く来たら、そんときゃ奢れよ」


「えぇ、その時は、必ず」


 軽く手を挙げて、背を向ける。

 いつもは色んなところを転々としているからか、あまり人と深く接することがない。

 でも今日は少し違った。

 だから、少し歩いて、なんとなしに振り返る。




 まだ手を振ってくれていた。


 


 手を振り返した。




 今度は、手を大きく挙げて。




 * * * *




「魔物、そして勇者という存在の始まりは──」


 ぼんやりとした頭の中に、教師の声が流れ込んでくる。


「今からおよそ500年前とされています」


 教室の中には窓から春の陽気が差し込んでおり、昼寝にはもってこいの絶妙な暖かさになっている。

 窓の外には雲ひとつない青空が広がっており、まさに平和そのもの。

 時折鳥が窓の端から端を横切るくらいで、それ以外に特に大きな変化はない。

 遠くに見える自分の家の畑では、今日も見事なほどに豊作な様が見て取れる。

 あまりの平和さに大きな欠伸が出て、視界が潤んだ。


「超規模魔法により魔物を生み出した宗教団体の名前を……ネリさん、何という名前かわかりますか?」

 

「はい!バラドーマです!」


「正解です。えー、それではバラドーマが掲げたスローガンを、サロンさん」


「あっ、はい。戒世浄土です」


 つまらない内容が続く。

 将来役に立たない知識だとわかっていて学ぶのは苦痛なことこの上ない。

 きっとみんなそれぞれが持つ夢に近づくための知識、方法が知りたいと思っているに違いない。


 あ、そういえば今日は帰って収穫手伝うんだった。

 魔法器を使っての収穫は見ていて爽快だから、まだ退屈しなくて済む。

 早く終わらないかな、帰りたいな。


「その超規模魔法は、世界全体に自浄作用をもたらす感覚を投影し、およそ100万人もの人々の命を代価に行使されました。バラドーマは『人間という存在があらゆる災害を引き起こす』という思想を持っていました」


 ぼんやりと内容が頭に入ってくる。

 ま、正直昔の人がそう思ってしまうのは仕方がないのかもしれない。

 戦争や魔物災害で死んだ人間は恐らくここ100年でかなり減ったけど、それ以前は……もはや言うまでもないか。

 あの時を境に、確実に世界は平和に近づいたというのは間違いないと思う。


「それに対抗すべく、現在の協会の前身である聖ユリゲー帝国の対バラドーマ組織、ユリゲー魔法師団が発動した魔法が──」


 固有名詞が多くて頭に入ってこないな。

 子供の頃に散々聞かされた物語を真面目に席について学んでいるのだから、少し馬鹿らしくなる。


「お」


 遠くでトウトウが罠にかかったのが見えた。

 今年は罠の量を減らしておいたけど、それでも引っかかるなんて運がないなぁ、アイツは。


「そして生まれたのが勇者様というわけです。最後の勇者様であるマド様が亡くなられて今年で115年になりますが、その後勇者様の紋章発現した人間はいないとされています。ではジャスミンさん、その理由として最も有力な説はなんでしょうか」


 そんなもの、教科書を見なくてもわかる。


「魔王を討伐したからですー」


「はい、正解です。素晴らしいですね」


 幼い頃散々読み聞かされた、勇者マドの冒険譚。

 知らないという方が無理がある。

 

「マド様は歴代の魔法使いの中でも最強と謳われたトリアーナ・アークリー様と共に、バルバー大陸の首都であったガルガンに赴き、魔王を討伐されました。しかし帝都にお戻りになられたのはトリアーナ様お一人で、マド様は魔王との戦いで命を落とされたと、トリアーナ様の口から当時の王に伝えられたとされています」


 勇者マド。

 魔王の討伐という偉業を成し遂げた、最後の勇者。

 

 別名、仲間殺し。


 勇者になってから魔王を討伐するまでのおよそ10年の間に、13人もの仲間が命を落としたとされている。

 生き延びたのは勇者本人と、最後の仲間であるトリア様だけ。

 初めのうちは「勇者だけでも帰ってきてよかった」とかなんやかんや言われていたが、次第に雰囲気は変わり、ただ仲間を犠牲にして生き延びているだけなのではないか、と言われるようになったらしい。

 勇者の能力の詳細は明かされないので、その内仲間を生贄に生きながらえる能力なのでは、なんて噂する人たちも出てきたくらい。


 そんなだから一部の地域では勇者の評判はすこぶる悪い。

 別に勇者マドを擁護するわけじゃないけど、仲間が命を落とすたびに本人が心をひどく痛めていたとしたら、なんとも悲しい話だと思う。



「あでっ」



「おや、どうかなさいましたか」


「えっ、いや、なんか右手が」



 右手に一瞬変な感覚が走った。

 ピリッというか、静電気のあの感じというか、いつかどこかで体験したような感覚。

 ふと周りを見てみれば、教室の全員がこちらをじっと見ている。

 どうしよう、やってしまった。


 ……と、すぐ隣の席、ニヤニヤと笑いを堪えているバカを見て、原因が判明した。


「コイツ、能力使いました」


「あっ、おま……」


「はぁ、また君ですか。危ないからリングを着けておくようにと何度言えば──」


 全く、静電気程度しか起こせない能力のくせに自慢げにしているから、天罰が降ったんだ。

 ざまあみろ。


「大体能力というのはですね、現代では使用箇所が限られていて──」


「チクんなよお前……」


「はぁ?先にちょっかいかけてきたの──」


「こら、ちゃんと話を──」


「────」




 * * * *




 教会と思しき建物から、騒がしい声が聞こえてきた。

 小さな町では、教会が学校の役割を兼ねていることは珍しくない。

 はじめは基本的な教養を信仰と交えて根付かせるのが主目的であったようだが、最近は情報網が発達してきたからか、少しだけ変化の風が吹いているようである。


「お」


 少し離れたところで、馬車が待っているのが見え、そちらの方向へと歩を進める。


 街道に出て、空を見上げた。

 空は高く、深い青がどこまでも続いている。

 風は少し冷たく、草原の匂いを運んで通り抜けて行った。


 風が強いせいか、雲の流れが早い。

 少し急かされるように、一歩を踏み出す。




 新世紀115年。

「魔王」が死んで、100年以上が経った。

 依然として魔物は存在しており、今も世界のどこかで多くの命を奪っている。

 

 魔物の絶滅。


 世界の悲願──かどうかは今の時代となってはわからないが、自分のやるべきことに変わりはない。

 ただの自己満足と言われようが、なんだって構わない。


 何より、アイツと約束したから。

 

 彼女に誓ったから。


 みんなの願いだったから。



 まぁ、言うなれば。



「うし、行くか」



 勇者の後始末と言ったところだろうか。





 序章 終わり

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引退勇者の後始末 やまぴかりゃー @Latias380

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