第2話 実力主義と北宇治高校

作中で久美子が主張する『実力主義』は、演奏技術が秀でている者が学年や在籍歴等に関わらずレギュラーあるいはソリとして活動すべきという方針だと理解している。


上手い者が吹く。現実世界では単純明快なルールだが、物語の中でそれを言葉通りに当てはめてしまうと破綻する。つまり上手ければ大会一週間前の入部であってもレギュラー・ソリの座を得られるという事になる。それでいくと内外問わず上手い人が集まった『北宇治高校』という集団は物語の中で定義の意味を成さなくなる。更に言うなら上手い集団が全国大会で金を取るので、金を取った集団が『北宇治高校』であると言ってしまえる程に、個別の高校にフォーカスする意味が見出せなくなる。


当然この様なくだらない物語にならぬよう、一般的に作者・制作者側は一週間前に入部してくるキャラなど登場させないし、それに近いキャラは主人公側から見て踏み台として使えるように登場させる。つまり私が言いたいのはアニメにおける黒江真由は上述の要素を含んだキャラだったにも拘わらず踏み台になるどころか主人公を踏み台にしてしまったキャラだったという事である(久美子は踏み台になっただけではないが、私の印象ではほぼ踏み台である。後述する)。


SNSでは『久美子と麗奈が1年の時に、今回の真由を実践してるのだからそれが返ってきたのは当然だ』という意見が見受けられた。私はそうは思わない。物語において麗奈と香織は同時期から登場しており物語の中で描かれてる分量は、今回の久美子と真由程の差は無かった。だから視聴者の私も麗奈をそこまでの悪者と見ずに済み、香織に感情移入したり麗奈へ畏怖と憧れの視線を向けたり、と物語を楽しめた。勿論物語で描かれていない時間に対して全く想像しないという事は無い。だがアニメ映像を見ている以上、描かれてるものに注意が大きく向く。


アニメ3期は、本来その『物語を成立させる為に利用すべきでない、利用するにしても注意を払うべきルールの抜け穴』を、制作者であるいわば神様が無分別に利用してしまったという感じがしている。その方が思い描く結末へ繋げ易かっただろうとも思う。


SNSでは『今回の敗北が久美子の糧になる日がいずれ来るのだから、久美子成長の物語として素晴らしい出来だった』という感じの意見があった。12話で大泣きする、”負け”に向かい合おうとしている久美子だけを見るならばその通りだと思う。しかしこの場面に至るまでの『作為的に見えてしまう経緯』を思うとどうも素直にそう思えない。このカクヨムで投稿されている@tnt69氏の「つまるところつまらない」に既に書かれている部分もあり、私がその後で書くのは二番煎じなのだが、どうもモヤモヤは消えないので勝手に参考にさせて頂きつつ、私も自分の意見を書こうと思う。

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