人魚が死んだ後
人魚が死んだ後
作者 加藤那由多
自称人魚の母がなくなり、散骨を希望していたので主人公は子供たちといっしょに海へ撒きにいく。母を人間にした友人のお婆さんが現れ、人間を好きになりあなたを身籠ったからだと伝えられる。主人公は母の思い出を胸に、子供たちと帰路につく話。
現代ドラマ。
ファンタジー要素あり。
主人公は、人魚を母に持つ女性。一人称、私で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。
それぞれの人物の想いを知りながら結ばれない状況にもどかしさを感じることで共感するタイプの中心軌道に沿って書かれている。
主人公の母が七十九歳で病死し、遺言に従って遺灰を海に撒くために二人の子供たちと海へ向かう。
母は自称人魚であり、遺灰を海に撒くことを強く望んでいた。海で遺灰を撒いた後、主人公は母の友人であると名乗るお婆さんに出会い、母が本当に人魚であったこと、自分は魔女で、魔女の力で人間の脚をプレゼントしたことを聞かされる。
お婆さんは母の願いを叶えた友人だった。
「あたしたちが友達で、あたしが友達の願いを叶えてあげたかったからよ。彼女は人間を好きになった。それから、定期的にあたしの元へ来ては一時的な変化の術でその人間に会いに行った。それからしばらくして、彼女はあなたを身籠った。その時よ、彼女があたしに人間として生きたいって言ったのは」
主人公に母の気持ちを伝える。
「見ず知らずのお婆さんにそんなこと言われても困るだけだろうけど、あなたに彼女のことを話したかった。きっと母になった今のあなたなら、彼女の気持ちをわかってくれると思ったから。彼女もあなたみたいな娘がいて幸せだったわね。そしてあなたの子供たちも、あなたみたいな母がいて幸せよ」
おばあさんが本物の魔女かどうかわからない。生前雇った魔女役の人かもしれない。それでも、夢を壊さないでいようとする母が恋しく思えた。
四つの構造で書かれている。
導入は母の死と遺言の紹介。
展開は遺灰を撒くための旅と子供たちとのやり取り。
クライマックスはお婆さんとの出会いと母の秘密の明かし。
結末は母の思い出を胸に帰路につく主人公。
自称人魚の母が死んだ謎と、主人公に起こる様々な出来事の謎が、どう関わり、どんな結末に至るか気になる。
衝撃的な一文からの書き出し。
遠景で母の病死を伝え、近景で死因がわからないと説明、心情でとにかく死んだのは間違いないと語る。
主人公の母が亡くなるという悲しくも、可愛そうな気持ちになり、共感を抱く。
母は遺言を書き、会う度に「わたしが死んだら遺灰は海に撒くこと」と願っていた。その理由は人魚だからだという。
幼い主人公はそれを信じ、母が語る海での生活を、目を輝かせて聞いていたという。
母の愛情、美徳を感じる。
「だから最期まで母はそれを貫いた。いい母だったと思う」いまでは信じていないような感じがする。
七歳と五歳の子供がいて、一緒に海へ行く。
主人公も母なのだ。
長い文ではなく、こまめに改行している。お婆さんの会話でも、五行ほどで改行している。句読点を用いて一文は長くない。
「私は急に母の話をしてきたお婆さんを警戒するよりも先に好奇心でそう訊いてしまった」
読点を入れるなりして、読みやすくしてもいいのではと考える。でもここは、驚きや落ち着き、不安、重々しさを感じさせるためにも遅く、長めの文でもいいのではとも思えてくる。あええ引っ掛かりのある文のほうがいいのか、もう少しスッキリした方がいいのかしらん。「私は」は削れるかもしれない。警戒するよりもの「も」はなくてもいけるかもしれない。
動きのある描写。ときに口語的。短文と長文を組み合わせてテンポよく、シンプルで読みやすい。性格のわかる会話が多く、キャラクターの感情や関係性がよく伝わる。過去と現在が交錯する構造で、回想シーンが効果的に使われている。
母と主人公の関係性が丁寧に描かれていて、ファンタジー要素と現実の融合が上手く、物語に深みを与えている所が実に良い。
五感の描写について、視覚は海の風景、遺灰の袋、電車の中の様子などが詳細に描かれている。聴覚は子供たちの声、海の音、お婆さんとの会話など。触覚は遺灰を撒く感触、子供たちの手を握る感触など。嗅覚は海の匂いが暗示されるが書かれていない。味覚はジュースを買い与えるシーンがあるが、描写はない。
海の匂いの描写があってもいいのではと邪推する。
主人公は人魚の娘なので、なにかしら海に惹かれる描写が会ってもいい気がする。
だけど描かれていないので、人魚を語っていた母は、人魚ではなく、主人公の夢を壊さないよう最後まで演じていたのだろうと思える。
主人公の弱みは、母の死に対する悲しみと喪失感。
母が人魚だったかはともかく、母親がなくなったのだ。
主人公は寂しさに包まれ、悲しいはず。
そんな様子は描かれていない。
母の遺言を守る責任感とプレッシャーのほうが強く感じる。さらに子供たちに母の死をどう伝えるかの葛藤もあったのではないか。
七歳と五歳なら、それなりに分別は着く。
我が子達を連れて、海へ遺灰を散骨することで、お別れは出来たけれども、どのように受け止めたのかまではわからない。
子供たちの反応や感情をもう少し掘り下げると、厚みが出たかもしれない。でも砂遊びをする姿が描かれているので、あまり深く受け止めていないのかもしれない。海に来た楽しさのほうが勝っているのでは、と考える。その方が子供らしい。
ひょっとすると母親は自分が死んだとき、自分の娘が悲しむことをかんがえて、散骨することをお願いしたのかもしれない。
遺言を守るため、悲しんでばかりいられないようにしつつ、幼い頃に人魚だと信じてくれた娘の気持ちを怖さないよう、友人にお願いをした。
お婆さんの登場がやや唐突なので、もう少し伏線を張ると自然になるかもしれない。たとえば母もお婆さんも昔は劇団に所属し、主人公の母親はある役者と恋に落ち身ごもるも結婚はできなかったという過去があり、それなりに苦労した。でも、娘と一緒にいて幸せった。そのことを母親は友人から伝えてもらうと、一芝居うったのかしらん。
「結局、あのお婆さんが本物の魔女かはわからない。ただ母が生前雇った魔女役のただのお婆さんかもしれない」
かなり、現実的なものの見方をしている。
大人な考えだ。
「だけど、死んでなお私の夢を壊さないでいようとする母が、なんとなく恋しく思えた」
それでも母の優しさを感じる心は、幼子のようである。
読後感がいい。じーんとする。
はたして母親は自称人魚か、本当に人魚だったのか
タイトルをみながら、主人公にとってはやはり、母は人魚だったのかもしれないと思うと、嬉しくも悲しく思えた。
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