第2話

 「皆原さん、来てくれたの」

 名刺にはカフェバーと書いてあって、辿り着いたのは路地裏に小さな間口を開いたお店だった。クラシックな内装、カウンター席角に生けられた大輪の芙蓉花、音量を絞られたイルマのピアノ曲。30年経っても、川北さんは綺麗だった。こちらへやってくる、やわらかな髪がライトを弾いてきらきら揺れる。ミントグリーンのワンピースにエプロン。

「素敵なお店ですね」

 私は舞い上がってしまって挨拶もせず、そんなことを口走った。川北さんは目を瞬かせ、次に笑窪を見せた。

「リノベーションする余裕が無いのだけれど、食べ物は美味しいつもり」

 この時間にも何組か既にお客さんが入っていたが、カウンター席に通される。飲める? と訊かれて頷くと、スパークリングワインとハーシーズのチョコレートが出てきた。あ、と思ってカウンター越しの彼女を仰ぎ見る。


***


 その次の朝ビニル傘は無くなっていたので、誰かが持って帰ったのだろうが、彼女かどうか確定はできないので、私はまた一日やきもきした。会ってちゃんと確かめたいのだ。雨の夕方に出会ったせいか、幻なのではないかと自分でもよく分からなくなってくる。下校放送を終えて放送室を跳び出、玄関に向かう階段を駆け降りると、曇り空の向こうから凪いだ輪郭を纏って、彼女がこちらへやってくるのが見えた。私に気づいたらしく、足元を見ていた顔を上げる。

「皆原さん」

 あのビニル傘を持った手とは反対の手が、白くひらひらと揺れる。私はさっきまでの勢いはどこへやら、のりのろと彼女へ近づいた。

「傘、有り難うございました」

 頭を下げてぼそぼそと言う。雨の日の妖怪みたいに顔が無かったらどうしよう、なんて思う。彼女はにんまり笑ったようだった。本当に妖怪かもしれない。

「皆原さん、放送部でしょう? 声で分かった」

 私は思わず顔を上げた。ビー玉のような透明な目と目が合って動揺する。

下校放送してるじゃない。随分つまんなそーに話すなあ、って思って覚えてたの」

 話すことが好きなわけではない。むしろ苦手だ。自分の声など聞いている者はいないだろうと思っていた。妹はそれなりに可愛がられていると思うけれど、手のかからない高校生の姉に親はもう関心も無いだろうし、互いに多忙で互いに何か期待しても無駄だと思っているのが見え透いている。模範生に教師はかかずらわないし、クラスメイトからは面白く無いツンケンした奴と思われているだろう。どう話しかけていいのか分からない。放送の原稿は読めても、自分が話したいことは、からきし声にならない。私は息を詰めてちょっとだけ彼女を睨んだ。

「授業いかなきゃ。はいこれ」

 バックパックからおもむろに取り出して私の手の上に転がしたのは、雫の形をしたチョコレートだった。この時間から授業ってお腹空くんだよね……お店から持ってきちゃった。お裾分け。私の掌の熱で、銀の包装紙ごしに、チョコレートがじんわりと溶けるのが分かった。


 って川北穂花かわきたほのかでしょう、とクラスメイトですらない女子生徒が話しかけてきた。昼休み、仲の良い者同士のグループが三々五々好きなことをしている。委員会で遅くなった時に一緒にいるの見かけたよ。姉さんが同い年だったんだよね。親がスナック経営してるの手伝ってて、それでお客さんと付きあうようになっちゃってさ。結局親と学校にバレて、中退したんだって。定時制に戻ってきたんだね。へえーと他の女子たちが好奇心丸出しの声で囃す。私も噂話の仲間に入れたいらしいが、そう、とだけ答えて教室を出た。下世話な己れを、相手への攻撃や差別で覆い隠そうとしてるだけだ。最も嫌なのは、それに動揺してしまった私自身だった。


 川北さんとは時々話すようになった。恐らく二つ三つ歳上だが尋ねたことはないし、彼女は私と対等に接してくれたと思う。昼の生徒たちのように子供っぽい感情を持て余して、飾った振る舞いをすることもない。

「お店にカラオケがあるの」

 洋楽に詳しくて、スティングやレディオヘッドを一緒に聞いた。ねえ、”Smells Like Teen Spirit”全校放送でかけてよ、先生たち放送室に駆け込んでくるよ、と川北さんは悪戯好きな妖怪のようにけらけら笑う。私の下校時間は過ぎているから、図書室裏のベランダに隠れて音楽や小説の話をした。

「わたし、全日制の高校中退してるし、友達もいなかったから、皆原さんにはつい喋りすぎちゃう。ごめんね」

 雨の夕方、コンクリートの壁に背をつけて座り、川北さんは呟くように言った。ママはわたしに負い目があるの、自分がミズショーバイだから娘が学校で後ろ指さされるんだって。別に高校行かなくても大検取ればいいじゃない、でも“普通”になって欲しいんだ。普通に学校いって、普通に友達ができて、普通に恋愛して。波風立たない暮らしが一番だと思ってるんだよ。ママの言いたいことも分かる、苦労してきたの見てたから。でもさ、わたしはママの娘であることも、自分の恋愛経験も、否定したくないの。“普通“っていうのは、見えなくなることだよ、良い意味でも悪い意味でも目立たなくなることでしょ。皆原さんの下校放送聞いていてさ、つまんなそうだと思ったんだよ、何か本心を隠してるみたい。どの子もそうだけど。高校卒業したら大学いって働かなきゃならないもの、必死で枠に嵌ろうとしてるんだ。悪あがきする人も、さっさと諦める人もいるけどね。私はいちごオレパックのストローから口を離し、恐る恐る川北さんを見た。青白い顔で遠くを見るような川北さんは、今度こそ雨に溶けて消えてしまうんじゃないかと思った。

「雨の日は、いつもより遠くの音がよく聞こえるって……」

 うっとりと目を閉じて、雨垂れの響きに身体を任せる。ちょっとだけかしいだ彼女の肩と柔らかな茶髪が、隣に座った私の二の腕にかかる。

「私は音がこもるようであんまり好きじゃない」

 みんなの隠された本心が漏れ出して不協和音になり、湿った教室をぐるぐる満たしているような気分になる。雨が、それを逃さないのだ。私が言うと、川北さんは目を瞑ったまま紫陽花のように小さく微笑んだ。耳がいいね。次は皆原さんが私を見つけてね。

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