雨にさやかに
田辺すみ
第1話
昼過ぎから降り出した雨は、そろそろ止みそうだ。
定時にオフィスを出る。ビルの合間から一日最後の光が差し込み、細雨にきらきらと瞬いている。家に着くのは6時半、それから残り物や作り置き、または買ってきたお惣菜で夕食、というのがこれまでの日課だったが、悠里が一人暮らしを始めたので、そんな必要も無くなった。博也は残業か接待か飲み会か帰宅時間はまちまちなので、取り置くことも諦めてしまった。この20年余り時間に追われてきたが、いざ余裕が持てると、何をすべきか分からない。
駅に向かう道に水たまりができている。その錫色の面には、街が逆さまに映りこんでいる。今日は家に帰らないと決めた。部署の新年会二次会で初めて行った居酒屋の、そこからの帰り道に彼女といきあった。すぐに分かった。川北さん、とあの頃の名を呼ぶと、お客さん連れだったらしい彼女はそろりと寄ってきて、名刺を渡してくれたのだ。何ヶ月か考えあぐねたが、やはり訪ねてみようと思う。名刺をくれたのだから、少なくても嫌厭されてはいないはずだ。
川北さんは私と同じ高校に通っていた。同級生ではない。私は全日制、彼女は夜間定時制の学生で、下校時刻まで残ってやっと会える。きっかけは何だったろう、私は放送部に所属していて、下校を知らせる放送を任せられていた。音楽が好きだとか将来アナウンサーになりたいとか、そんな動機など無かった。部員が足りずに、担任教師から頼まれたからだった。放送室でだらだらできるのもよかった。当時からあまり社交的な性格ではなかったし、家にもいたくなかった。あの日も雨が降っていた。帰宅しようとしたら、折り畳み傘を忘れてきたことに気がついた。暫く待てば止むような雨には見えなかったが、先生の見回りに遭遇するのも面倒だ。下校時刻を過ぎているので、私の他にほとんど生徒はいない。校舎は雨音に満ちて青く静まり返っていた。私は玄関口に立って空を眺めながら、眠気に誘われるようにぼんやりしていた。
「これ使って」
突然声をかけられて、私は驚いて辺りを見渡した。靴箱の影からふわふわとした茶髪が覗いていた。マスカラをつけているのかぱっちりと大きな目に薄いリップクリーム、それなのに肌は青ざめて見えるほど白かった。制服ではなくワンピースを着ている。
「でも、あなたも帰るでしょ」
私はどぎまぎして小声で答えた。彼女は近づいてきて、濡れたビニル傘を差し出した。
「私は今来たところ。帰るまでには止むと思うし」
私より背が小さくて少し上目遣いの視線は、ビー玉みたいに見えた。やっと定時制の生徒だということに思いが至った。定時制の生徒たちは年齢層がまちまちで働きながら通っている者が多く、時々帰りがけに擦れちがう彼ら彼女らは、私にはとても大人びて見えた。
「明日持ってきて、テキトウに傘立てに入れといてくれればいいから」
じゃあね、と彼女は廊下の向こうへ消えてしまった。私は傘を握ったまま暫く立ちつくしていたが、「皆原、気をつけて帰れよお」と階段上から呼ばわる先生の声に慌てて校門へ駆け出した。
雨は3時間ほどで止んだ。家に着いてからも、彼女が授業の終わる時間には返しにいかねば、とヤキモキしたのだが、結局止んだので戻る理由が無くなってしまった。ほっとしたような、残念なような変な気持ちだった。翌日も曇り模様で、借りた傘と自分の折り畳み傘を持って登校した。名無しのビニル傘が傘立てに有ると無断借用する輩がいるので、休み時間のたびに玄関の辺りをうろうろしていたのだが、その日彼女は私の下校時間前に現れなかった。定時制の授業開始までにはまだ時間が有るものの、私は校舎を出なければならない。明かりの点いた玄関の隅で、私はビニール傘にお礼のメモを挟んだ。
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