暁に生く

@337652

暁に生く

 少年は涙した。一つは悲しみのために、一つは喜びのために。

 少年は貧家の出であった。十の時に売られ、劇団で歌を生業として生きてきた。売られたのは、その天稟の故であった。少年の歌は、人の心を如何様にも操った。哀切な挽歌は涙を、激情の詠唱は熱狂を。舞台に立つ少年にとって、観客は従順な傀儡であった。

 少年には心がなかった。歓びを謡い、哀しみを紡ぎ、畏れをも生む少年の内奥は、静かに凪いでいた。いつからそうであったのか、少年にすら分からなかった。分かるのは、そうある、ということだけだった。

 昨日、少年は劇団を追われた。少年の存在が団の和を乱すからと、座長が告げたのだ。金を受け取り、荷物を纏めて宿舎を出た。行く当てはなかった。風の噂で、故郷が滅びたことは知っていた。どうとも思わなかった。追い出されたことも、帰るべき場所の無いことも。日が暮れて、少年は宿を取った。泊まったこともない安宿の、固い寝台に身を任せ、窓帷も閉めぬまま微睡みに沈んだ。夢は見なかった。

 東の空が白むころ、少年は起き出した。そのまま外に出て、ゆっくりと通りを歩いた。微かな風と黎明の光が、少年の頬を撫ぜた。歩き、歩き、やがて、町外れの草原に出た。無辺の平野のなか、草木が薄明に照り映えていた。少年はしばし、広野に立ち尽くした。やがて、光の射す方を見た。地平の彼方から、朝が顏を覗かせていた。ふと、少年は、頬にあたたかな感触を得た。涙が零れていた。少年は、頬を伝う感覚の真新しさにたじろぎ、気が付いた。ああ、泣いているのだ、と。少年は、陽の光とともに、穏やかな熱を感じた。それはゆっくりと、染み入るような優しさで、全身に行き渡っていった。

 心地よさに身を委ねながら、少年は想った。父を、母を、弟を、別れを。冷たい寝床を、ひとりの夜を。滅びた故郷と、追われた居場所を。少年はずっと孤独で、きっと、それが悲しかったのだ。そのときには、分からなかったけれど。悲哀に咽ぶ少年の心にはしかし、別の記憶も去来した。それは熱烈な喝采であり、感泣する聴衆であり、劇団の皆の笑顔であった。思い出の中の彼らは、きっと少年の喜びだった。何も感じてはいなかったけれど、少年は確かに覚えていた。

 いつしか日輪はその姿を顕わにし、黄金は一層世界を照らした。少年は晴れやかな心持で、独り立っていた。涙は乾いていた。宿に戻ろうと徐に踵を返したとき、少年は不意にあることを思い、そして小さく笑んだ。それは幼少の記憶だった。大気に柔らかな燐光が満ち、長鳴鳥が目を覚ますころ。起き出した少年の為に牛乳を温めながら、母は教えてくれたのだ。あなたが生まれたのもこんな、朝焼けの綺麗な日だったと。慈しみに満ちた横顔までも、今は鮮明に思い出せた。

 何のことはなかった。少年は、愛されて生まれてきたのだ。決して、憎悪や無関心の末に、世界にひとり打ち捨てられた訳ではなかったのだ。真実を知る術はなくとも、少年には確かに、そう思われたのだった。

 少年は歩き出した。もはや立ち止まることはなかった。ともに歩む影は、少年の内に息づく思い出のようだった。無人と化した野の中、葉に伝う雫の一粒が、夜明けの光に煌めいていた。

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