悪魔の証明
山城渉
悪魔の証明
汗ばんだ手が、薄暗い視界の中で掴んだのは、二階建てをまるまる飲み込めそうなほどの大きな暗幕だった。
「ああ」
彼は白衣の襟元をまさぐった。それから力なく首を振る。
「違う違う、胸ポケットだ」
そういえば、研究室を閉めるのに大急ぎだったせいで、机上にあった物は手当たり次第、白衣に詰め込んだのだった。
お目当ての眼鏡をかけた彼は、少し辺りを見回してから、暗幕を握る手に力を込めた。
レールの上を滑らせて、暗幕をどけていく。
しっかりとした手触りのそれは、まるで城門のような重厚感だ。
彼が暗幕を端に寄せきると、露わになったのは巨大な黒板だった。いや、ブラックボードといった方が正しいだろうか。教室に取り付けられている代物ではなく、ホワイトボードをそのまま黒く塗りつぶしたような、光沢のある板である。
それは、研究所帰りの彼のくたびれた姿を綺麗に反射するほどに、丁寧に磨き上げられていた。
厳密にいえばブラックボードはまっさらではなかった。難解な数式が未完のまま、随所に書き連ねられていた。
彼の細腕でじりじりと動かされていた脚立が止まったのも、数字の羅列のある箇所であった。
固定した脚立をよろよろと上り、そのてっぺんで腰を落ち着ける。
彼はポケットから取り出したペンを咥え、右手でキャップを引き抜く。
「逆だろう」
苦笑を浮かべた彼の左手にペンが握られる。キャップはポケットの中に自由落下させた。
彼は眼鏡のつるを調整してから、白いインクの先端を、ブラックボードに接地した。
数式の途中で彼は手を止める。
それから一つ書いた。
「?」
よく見ると、前回打ち止めにしていた式の終わりの方にも、疑問符が散見される。
彼は丸めてあった書類を広げ、右手に持った。
瞳が紙面の上から下へと流れていって、彼の首が捻られた。今夜は月明かりがひどく眩しい。そして前へと視線を戻し、黒板に写っている己と向かい合う。
それからまた一つ。
「?」
彼はまた、反射した自分の顔にも一つ。
「?」
続けて小さく書き殴る。
「enigma」
無意識のうちに、彼は首を傾げていた。
それに気がついた彼の目が、大きく見開かれる。
彼自身、自分が疑問を持ったことに驚きを隠せない様子だった。彼は何かを振り払うかのごとく、ぶんぶんと頭を左右に振った。
ブラックボードに映る自身の顔には、目に見えて疲労の色が表れている。もう何日も、寝ずに数式と睨めっこしているのだ、無理もない。
「?」
彼はまた手を動かした。数式を紡ぎだす指先に痺れるような感覚があった。
身体が小刻みに震えている。重たい瞼をこすった。それでもやめられない。数字を見てしまったが最後、頭が勝手に回りだすのだ。
視界が歪む。涙が溢れた。生理的なものだろう。
周囲の景色もぐるぐるしだした。
だがそれもいつものことだった。
白衣の裾で顔を拭う。月明かりがちょうど、彼の辺りに差して、反射する彼をより鮮明に映しだす。脚立の足元に転がる無数のトロフィーも。
「なんてザマだ」
手を止めることなく彼は自嘲を浮かべた。
また書き綴る。
「?」
数式のある地点まで来たところで荒い呼吸を繰り返していた彼が息を呑んだ。
脚立の上、ペン先はボードに付けた姿勢で彼は十秒ほど固まっていた。
半ば放心状態のまま、彼は腕を動かしていった。これまでとは打って変わって、ゆっくりと。
数式が完成しようとしていた。
それでも彼が傍に書き記すものは変わらなかった。
「?」
汗が滲む。
印の先、ブラックボードに映る彼が、彼の目を真っ直ぐに捉えて口を開いた。いつものように。
「解らない、だって?」
それは彼の唯一の友。そして、
「解りたくない、の間違いじゃないのかい、君」
彼の姿形をした真理であった。
悪魔の証明 山城渉 @yamagiwa_taru
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