day29 焦がす(はじめてのお料理)

 夏休みの宿題も、だいぶ終わりに差し掛かっていた。残っているのは絵日記と自由研究くらいのものだ。


 朝恵ともえは自由時間に、お気に入りの本を読んでいた。今日読んでいるのは、お菓子作りが出てくる本だ。美味しそうなお菓子が出てくることも気に入っている理由のひとつだが、お菓子を作るくだりが楽しそうだと感じるのも、この本の好きな点のひとつであった。


 ――わたしもお料理、してみたいなあ。朝恵は常々そう思っていたりする。

 やってみたいという気持ちはかなり強く、既に両親には何度か頼んでいるのだ。簡単なものでいいから、させてほしいと。だが、両親の返事はいつも同じ。まだ朝恵は小さいから駄目だと。もう少し大きくなるまで待ちなさい、と。


 区切りの良いところまで読み終わったので、朝恵は本を閉じて、手提げカバンの中に戻す。

 ミヤコ屋の閉店時間までは、まだだいぶ時間がある。そろそろ一人で過ごすのも、少し寂しくなってきた。


 ――お兄ちゃんのところを、訪ねてみよう。お店の邪魔になるかも、知れないけれど。

 朝恵は立ち上がると靴を履き、裏から外へと出て行った。





 インターホンを押すと、真雅しんがはすぐに出てきてくれた。今日はいつものロングブーツではなく、サンダルを履いて。


「おにいちゃん、こんにちは。――いま、おはなししてもだいじょうぶ?」

「ああ、大丈夫だ。今日は店を休みにしているからな」


 それで、ブーツを履いていなかったのかも知れない。入ってくれ、と真雅が言ってくれたので、朝恵はその言葉に甘えて家に入れてもらった。


「今日は随分と退屈しているみたいだな。――まあ、無理もないか。一人遊びばかりも、大変だろう」

「うん。本はだいぶよんじゃったし、ぬりえもあそんだの。おにいちゃんは、おやすみはなにをしているの?」

「俺様か? あまり店を開けてるときと差は無いな。骨董を愛でたり、本を読んだり、だな。今日はこれから昼ご飯を作ろうかと思っていたところだ」

「――おにいちゃん、まだおひるをたべてなかったの?」


 朝恵は目を丸くした。現在の時刻は、もうすぐ三時になろうとしているところだった。それでお昼がまだなのは、少々遅い。


「ああ。――暑さのせいか、あまり腹が減っていなくてな。だが流石に何も食べないのはいけないかと、仕方なく何か作ろうとしていたところだったんだ」


 真雅は苦笑いを浮かべた。本当に暑いのが苦手なようである。


「――そうだ。朝恵ちゃん、俺様にホットケーキを焼いてくれないか?」

「おにいちゃんに、わたしが?」

「ああ。――朝恵ちゃんは前に言っていただろう。料理をしてみたいのだと。ホットケーキはさほど難しい料理ではない。ホットプレートを使えば火を使わずとも出来る。食べるのが面倒な俺様も、朝恵ちゃんが懸命に作ってくれたものなら、残さず食べられる。――どうだ?」


 ――予想しなかった展開だ。でも、はじめての料理に挑戦出来るそんな絶好の機会を、逃したくはない。朝恵は目を輝かせて、頷いた。わたしに、やらせてほしいと。


「よし、決まりだな」


 朝恵は真雅に案内されて、キッチンへと向かったのである。





 真雅が教えてくれたホットケーキの作り方は、確かにさほど複雑ではなかった。

 卵と牛乳を混ぜ、そこにホットケーキミックスを入れて、更に混ぜる。できあがった生地を、ホットプレートで焼いたら完成だ。


「エプロンは……俺様のでは、流石に朝恵ちゃんにはサイズが合わないか」


 真雅はかなり背が高い。故に全てのもののサイズが、朝恵と比べると、相当大きい。


「――まあ、こうすれば着けられるな」


 持ってきたシンプルなデザインの黒いエプロンを、真雅は半分に折りたたむと朝恵に着けさせた。――真雅のものを貸して貰っていると思うだけで、朝恵の胸は少し高鳴ってくる。


 必要な材料と道具を揃えてもらうと、いよいよ朝恵のはじめての料理がはじまった。

 まずは、卵を割ってボウルに入れる。本で読んだことを思い出しながら、朝恵は慎重に卵を割った。卵は縦だと割れないが、横だと割れるのだ。


「上手だな、朝恵ちゃん」


 横に並んで立って、様子を見ている真雅が口の端を上げる。満足げに、頷きながら。


 計量カップで牛乳を計って注ぎ、次にホットケーキミックスを計った。――ここまでは、順調だ。泡立て器で中身を混ぜながら、朝恵はうきうきとしていた。想像以上に、お料理は面白いと感じながら。


 ――さあ、いよいよホットケーキを焼くところになった。

 ホットプレートを温めて、十分熱くなったらお玉を使って作った生地を焼き始めた。


 ふつふつと、生地が焼けていく良い音がする。甘い香りも辺りにふわりと漂い始めた。――そういえば、ホットケーキとはどのくらい焼けば良いのだろう? 何分焼くかとかは、ホットケーキミックスの箱にも書いていなかったが。


 真雅の顔を横目で窺うと、腕を組んで興味深げにホットプレートを見つめている。その、どこか愉しげな表情からは何も読み取れなかった。


 そろそろ、ひっくり返しても大丈夫なのかな。フライ返しを手にした朝恵は恐る恐る、ホットケーキをひっくり返す。裏返したホットケーキは、綺麗なキツネ色――かと思うと、少し焦げていた。――どうしよう。これは真雅のお昼ご飯になるのに、焦がしてしまった。


「おにいちゃん……」

「――どうした、朝恵ちゃん? ほら、最後までやってみるんだ」


 顔を見上げると、真雅と目が合う。――真雅の瞳は、笑っていた。朝恵がホットケーキを焦がしてしまったというのに。


 その瞳に励まされて、朝恵はホットケーキに集中する。あまり長く焼きすぎたら駄目なようだ。さっきよりは少し時間を短くして、朝恵はもう一度ホットケーキをひっくり返した。


 こうして出来上がった、朝恵のはじめての料理であるホットケーキは、どちらの面も少し焦げあるホットケーキになったのである――。





「ごめんなさい、おにいちゃん……」


 お皿に乗せたホットケーキの上に、バターとメイプルシロップをかけて置いた朝恵は、小さくなって真雅に頭を下げた。


「――何がだ? 上手に出来たじゃないか」


 真雅は目を細めてホットケーキを見つめると、おもむろに一口、口にした。


「……そこ、こげちゃってるよ?」

「これくらい、何てことは無いぞ。――うん、美味しいな」


 フォークとナイフを置くと、真雅は朝恵と目線を合わせた。


「最初から、何もかも完璧じゃなくていいんだ。こんなに上手に出来た、そのことを誇ればいい。――俺様の初めての料理なんて、もっと酷かったと思うぞ?」

「……そうなの?」

「ああ。料理のことなんか何も知らずに取り組んで、出来映えは散々だったな」


 とても器用で、何でも出来る気がする真雅の、はじめての料理。それは全然、朝恵には想像もつかなかった。


「ありがとう、朝恵ちゃん。俺様に、昼ご飯を作ってくれて。――今度はまた、違うものを作ってみようか」

「いいの?」

「勿論だ。そうだな――味噌汁なんか、いいかも知れないか。ただ俺様、出汁の素は嫌いだからな。しっかり出汁から頼むぜ?」


 出汁から作るお味噌汁。朝恵の母は、お味噌汁には出汁の素を使っている。そうじゃないお味噌汁について、今度図書館で調べてみよう。


「こんなに食べる気になるなら、毎日朝恵ちゃんに作ってもらった方がいいかもな」

「おにいちゃん、ごはんはたべないといけないんだよ?」

「どうにも一人では、食べるのが億劫になるときが多いんだ。気になるなら毎日、見張りにきてくれ」


 少し焦げ目のある、朝恵が焦がしてしまったホットケーキを、真雅は喜んで全部、綺麗に平らげてくれたのであった。

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