県庁寺院

 空港からしばらく車を走らせるとパロの町が見えてきた。

 目抜き通りが町の中央を走り、左右の道沿いに土産物屋やレストランが軒を連ねる。さしずめ「パロ銀座」といったところだ。しかし、スタバやマクドナルドなどの外資系チェーン店はひとつも見当たらない。駐禁という概念がないのか、路上には自動車がずらりと並んで駐車されていた。東南アジアで目にする地方都市の町並みに似ているが、建物の外観は大きく異なる。目立つのは空港建物でも目にしたカラフルなブータン文様だ。

 私が抱いていたイメージとは裏腹に、町ゆく人々にはゴーやキラを着た姿が意外なほど少ない。私がこれまでに見たブータンの写真や映像では誰もがゴー、キラを着用していた。着用が義務付けられているとも読んだ記憶があったのだが、これは業務中に限られるとのことで、「オフ」では洋服がむしろ一般的ということだった。少々拍子抜けだ。

 私たちはパロ銀座を通り過ぎ、まずはパロ・ゾンへ向かった。

 旅行中、行く先々でゾンと寺院を訪問することになるのだが、他の国にはない、ブータン・オリジナルの建造物代表と言えばやはりゾンだろう。

 各県に派遣された公務員が日常業務を行う場所がゾンなので、ゾンは県庁に該当すると言える。しかし、ただの県庁ではない。公務員が勤務するだけでなく、ゾンには仏間があり、実際に僧侶が修行の場として用いる寺院でもあるのだ。つまり、機能面に注目すれば、ゾンを県庁寺院とでも訳したくなる。

 しかし、県庁寺院という呼び方は、やはりゾンを指す言葉としては物足りない。これが最も重要な点かもしれないが、かつて、古くは17世紀に要塞として建てられた建物が、現在もそのまま使われているのだ――もっとも火事で焼け落ちたり洪水で流されたりして、建立当時の建物が完全に残っていることはまれで、火災や洪水の度に建物は新たに作り直されたり、改修されたりしてきた。小高い丘の上にそびえる真っ白なゾンは、遠目からは城砦のように見えるが、実際に城砦だったのだ。

 まとめると、ゾンは城砦を活用した県庁寺院なのだが、やはりゾンにはゾンという呼び名がしっくりとする。

 パロ・ゾンの手前には小川が流れ、ツェリンさんと私は渡り廊下のような橋を渡ってゾンの敷地内に入った。橋からゾンの白い建物が見える。ゾンまでは石畳が敷かれたゆるやかな坂道を登って10分ほどだ。坂道沿いには民家がぽつりぽつりと並んでいる。

 遠くからはほとんど白一色に見えるゾンの建物だが、近づいてみると赤色、朱色、茶色、橙色に塗られたカラフルな門が目を引く。建物の内部も同様で、この4色を使って描かれた花や雲、それに梵字で壁がびっしりと埋め尽くされている。けばけばしい感じがしないのは、暖色で統一されているからだろうか。

 中庭を抜け、部屋から部屋へと移動しながら、ツェリンさんがパロ・ゾンやパロの町にまつわる歴史を説明してくれるが、なかなか頭に入ってこない。誰それがいついつに何をした、というような歴史的事実を覚えるのは中高生の頃から苦手で、日本史は私にとって最も不得意な科目の1つだった。

「仏間に入ったらまずはお坊さんに向かって五体投地をします」

 ツェリンさんがだしぬけにそう言った。私は日本で五体投地をしたことなど一度もなく、当然やり方も知らない。

「私と同じようにやってみてください」

 まず、立った姿勢のまま、左右の手の指先と指先を合わせて両手で蓮花の形を作る。次いで、蓮花をおでこ、口、胸(心臓)の順に当てていく。最後に両膝をつき、床に額づく。この時、つま先は立てておく。そしてこの動作を3回繰り返す。

立った姿勢から土下座するような姿勢へ、そこからまた立った姿勢へ。3回繰り返すと、これだけで息が切れる。それに、床の冷たさが地味に辛い。本来は五体投地をしながら祈りの言葉を唱えるらしく、ツェリンさんは何事か小声でずっと呟いていた。

 私が五体投地を終えてふう、と息をつくと、

「次は仏像に向かって同じように五体投地してください」

 え! 私は内心そう思ったが、郷に入っては郷に従えというわけで、再び立って額づいて、を3回繰り返した。

 ツェリンさんが唱えていたのはお釈迦様への祈りの言葉なのだそうで、こちらも教えてもらおうと思ったのだが、

「さんげちゅまぞっけちゅまに……」

「さんげ、ちゅま?」

 当然だろうが、聞いても全然覚えられない。覚えるのはひとまずあきらめた。


 坂を登ってくる時には気づかなかったが、パロ・ゾンの正門前から山に囲まれたパロの町が望める。背の高い建物がないおかげで遠くまでよく見通せるのだ。正面には来る時に通ったパロ銀座も見える。

「ブータンでは、国有の建築物は屋根が赤色で、民間は緑色です」

 ツェリンさんに言われて気づいたが、確かに目の前に広がる建築物は、屋根が赤と緑に塗り分けられている。だが、今後はどれも緑色に統一される予定なのだそうだ。

「どうして緑なの?」

「緑色は自然の色です。目にも優しいです」

 もともとはブータン西部、ティンプーの人たちの考え方なのだが、今後は東部も含め屋根の色を緑色に統一していく方針らしい。確かに、山に囲まれたブータンでは緑色の屋根の建物は周りの風景に溶け込み心地よいかもしれない。

 面白いことに自動車のナンバープレートも電気自動車は緑色である。「電気自動車=エコ=自然」という発想から来ているのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る