飛翔ブータン

土橋俊寛

いざ、ブータンへ

バンコクからパロへ、国王陛下と乗り合わせる

 日本とブータンを結ぶ直行便はない。

 私はバンコクで飛行機を乗り換え、ダッカ経由でパロ国際航空へ向かうドゥックエアの機内で出発を待っていた。

 ブータン人は自分たちの国をドゥックユル(雷龍の国)と呼ぶ。ブータンのシンボルたる雷龍は黄色とオレンジ色の2つの直角三角形を組み合わせたブータン国旗の中央にも描かれている。雷龍航空とでも訳せるドゥックエアはブータン唯一の国営航空会社である。

 私が乗った飛行機は中央の通路を挟んで左右に座席があるというタイプの小型の機体で、龍よりは蛇を思わせる。前方の4列は左右に2席ずつのプレミアムエコノミー、後方座席は3席ずつである。定員が百人ほどの飛行機は乗客率が4割といったところか。最後尾の4列の座席はすべて空席だった。

 客室乗務員の女性たちが着用している制服は、巻きスカートに似たキラと呼ばれる民族衣装をベースにしたものだ。その姿を見ると、もうすぐブータンなのだという実感が湧いてきた。

 何気なく前方を見やると、シンプルな紺一色の民族衣装を着た男性の姿が目に留まった。ブータンの男性は日本の着物に似たゴーという民族衣装を着用する。女性乗務員のキラ(ベースの制服)と比べると、男性の衣装はずいぶんと地味だ。男性はレンズの大きな眼鏡をかけていた。

 あれ、どこかで見たことがあるような?

 どことなく男性の顔に見覚えがあるのだが、私にブータン人の知り合いはいない。

 男性は笑顔で乗客と短く言葉を交わしながら後部座席の方へ進んできた。3列前の向かい側の座席に座っていた2人の乗客はスマホを取り出し、男性とのスリーショット写真を自撮りしている。ひょっとしてブータンの有名人なのだろうか。私は男性の顔に意識を集中してじっと見つめてみた。

 そして、ふいに思い出した――あの人、ブータン国王だ。私はこの顔をインスタグラムで見たのだった。

 一国の王様がどうして民間機に乗っているのか、そして一般人の乗客と言葉を交わしたり写真に写ったりしているのかはまったく分からないが、目の前の人物はまごうかたなき国王陛下である。

 これがいかにあり得ないことかは、ブータン国王を天皇陛下に置き換えてみれば理解できるだろう。普通はどの国でも国家元首が一般人と同じ飛行機で移動することなどない。それどころか、総理大臣だって専用機を使うはずだ。

 国王陛下は私の横を通り過ぎる時にこちらへ顔を向けてニコリと笑いかけてくれたが、残念ながら言葉を交わせなかった。自分から話しかけようにも、何と声をかけてよいのかも分からないし、無礼なことのようにも思える。「こんにちは、どこから来たのですか」と英語で話しかけられていた斜め後ろの席の女性たちを、私は羨望のまなざしで見つめた。

 ブータンとは何だかすごい国だな……。入国する前から私はそう思った。


 ブータン国王がカーテンの向こう側に姿を消し、飛行機は時間通りに離陸した。

 しばらくすると、客室乗務員が機内食を配り始めた。ほうれん草のキッシュ、ハッシュポテト、ウインナー、果物が3種類とヨーグルト、それとパン。洋風のメニューの内容はありふれていたが、乾燥した唐辛子を砕いた「唐辛子チップス」が小さなプラスチックカップに入っているのが珍しい。色は別として、見た目はインコが好んで食べるミネラルフードのボレー粉によく似ている。

 食べ方が分からなかったので、とりあえずそれ単体でかじってみると、辛さが口の中にじんわりと広がったが、別に驚くほど辛いという訳ではない。旅行中、私はブータン人が何にでも唐辛子を入れて食べることを知ることになる。


 バンコクから2時間半のフライトで経由地のダッカに到着し、乗降客のために後方の扉が開けられると、何人かの乗客が扉から機内に乗り込んできた。この乗客たちも、前方のプレミアムエコノミーと私たちの空間を仕切るカーテンの向こうに国王陛下がいるとは夢にも思うまい。

 停車時間がどれくらいなのかは分からなかったが、私が外の空気を吸おうと思いタラップの上に立つと、客室乗務員の女性が慌てた様子で「あなたは降りられません」と私に言った。日本語でそう言われて私は驚いた。よく見ると、日本人とよく似た顔立ちの美人だ。

 なんでも、ブータンで日本語を勉強した後、半年間ほど日本で働いた経験があるそうだ。話のついでに、国王陛下は公務で移動するのに民間の旅客機を利用するのかと尋ねると、そうですという返事だった。

「私たちの国王様は一般の人と同じ目線で話されますから」

 私のブータン国王に対する好感度が大きく上がった。

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