18.気だるげな煙のごとく【Day18・蚊取り線香:南方+水面】
「あ、おはよ」
「おはよ~、これから仕事?」
「昼から。体調どう?」
「まあぼちぼちかな~、ありがとね」
自室から這い出してきたような風体の
「この間のレコーディングなんだけど」
「うん? とみーのやつ?」
そうそう、と南方は頷いてから水面の方を向いて頭を下げる。
「ガイドのとこ、録るの忘れてて本当にごめんなさい……」
「えっ⁉ いやいやいいよ! っていうかぼくも忘れてたし」
「で、みなもんが太一に教えてくれたって聞いたんだけど」
「うんそうだけど、……どうでした? 録り直したところ」
「完璧」
南方がサムズアップをし、水面はほっと胸を撫で下ろす。
二日前のことだ。水面が作詞した楽曲の録り直しをしていたのだが、歌詞を変更した部分のガイドボーカルの訂正ができておらず、急遽水面が教えることになったのだ。そのガイドボーカルを歌っていたのが南方であった。
南方はその翌日、事の顛末を聞いて真っ先に本社の作業室へ赴いて録り直した箇所を確認したのだ。確かにこの楽曲、水面が作詞したということもあり彼の意向やイメージを優先するように指示を出していたが、それでもここまで南方自身が考えていたものと一致するとは思わなかったのだ。
「もうリファイン、俺がいなくても大丈夫かなとか思ったよ」
「死んでもそういうこと言うなよ、殺すぞ」
「怖っ。死んでも言うなって言うわりに言ったら殺すの矛盾が過ぎる」
「ごめ~ん、パッションが勝っちゃった」
殺すは良くなかったね、と反省する水面だがこの言葉の理不尽さにかつての練習生時代の『怖い先輩』を思い出して懐かしくなる南方だ。何だかんだ練習生時代は『怖い先輩』として名を馳せていた水面である。
「ぼくそんな怖くないでしょ~」
「怖いって有名なだけだったかなあ」
「怖いって有名なのもやだな……。っていうか怖いのっていっちゃんじゃないの?」
「いっちゃんは俺、幼なじみだから何が怖いのか分かんないんだよね」
南方の意見に納得しつつ、水面は不貞腐れたようにダイニングテーブルへ突っ伏した。そして突然起き上がる。何かを思い出しかのような挙動だ、南方は大きくびくついて水面の方を見遣った。
「侑太郎、そんな『怖い先輩』からのお願い、聞いてくれる? レコーディングではフォローした訳だし」
「お、おお、いいけど別に……」
「やった! ちょっと待ってて~」
そう言って水面は階段を上り──恐らく自室に戻り、あっという間にダイニングへと帰ってきた。手に持っているのは謎の缶、いやこれは見たことがある。実家では使っていなかったが祖父母の家にはあった、と南方は記憶を巡らせていた。
「蚊取り線香?」
「ざっつらい。なんか大学でさ、ぼくって何かしら渡してもちゃんと使ってくれる男として認識されてて」
「何をどうしたらそういう認識になるの?」
「わかんない。でもそれで貰ったの~、良かったら持ってって」
「ええぇ……」
蚊取り線香なんて電気の通っていないところでしか、もう使い道がないのではないだろうか。南方は初めてその缶を手に取り、まじまじとパッケージデザインを見つめる。古き良き日本の夏イメージ、これはこれでインスピレーションが沸き立てられるがそれだけだ。中身を使えるという訳ではない。
「うちみたいな無人の多い家だと、ちょっと扱いが難しくない?」
「下手すれば火事になるよね~。どうしよう」
「そもそも蚊取り線香の土台? 的なものは貰ってないんですか」
「貰ってないです。本体だけ」
「完全に厄介払いじゃん。むしろあの土台こそ本体じゃん」
そんなことはないよ~、と水面は言うが線香自体なければ蚊避けにならないように、土台がなければ線香に火も灯せない。吊るして使うこともできるそうだが、それもよく分かっていないし──
「そうだ、亜樹に訊こう」
「あきさま? 使うの?」
「使うっていうか、キャンプ行くじゃないあの子。キャンプ友達で欲しい子いないかなと」
「なるほど~!」
グループいちのアウトドア派・
先日行ってきたらしい自然公園も、その筋からの情報だそうだ。
「じゃあ亜樹に連絡しとくとして、……水面くんって今日何かあるの?」
「そろそろ顔洗って大学行こうかなと」
「じゃあ朝ご飯食べなさい。朝ご飯抜くと熱中症のリスクがあがるんだから」
「はぁ~い」
ありがとね、ゆうくん。水面はのんびりとお礼を言ってキッチンの方へ歩いて行った。このお礼は一体どれに対するお礼なのか、蚊取り線香か、心配についてか、その両方か。まあどちらでも良いが、と思って南方は何も言わずに仕事へ出た。
後日談。本日のスケジュールを終えて帰ってきた南方は、部屋を立ち込める独特な匂いに色々と察したそうだ。土台は? と水面に問えば、あきさまが持ってたよ、と水面が返す。海外で暮らしていた時分に使っていたそうだ。まあ夏らしくて良いんじゃないか、今日くらいはと南方は苦笑した。
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