第7話 旅

 男女が言い合う声が聞こえてきて、目が覚めた。真っ青な空が目に入る。朝から快晴だ。小屋の入り口の前で二人が鍋を挟んで座り、しかめ面をしている。

「だから、これは『お雑煮』だって。歴史の教員を疑うのか?」

「どう見ても『かれー』でしょ! 『お雑煮』は『ニッポン』の伝統料理だって!」

「『ニッポン』なんてないよ。何の話だよ」

僕は起き上がり、近寄って鍋を覗き込んだ。あのスパイスのいい香りがする。いつだったか、彼が作っていたあのスープ。

「あ、起きた。ねえ、この無知男に教えてやってよ」

彼女が僕を振り向いて言う。

「ああ、昔ここは『ニッポン』とか『ニホン』とか言われてたところだったって話? 今はそんなものないけど、三百年前は世界が『国境』によってたくさんの『国』に別れてて……」

僕は記憶を掘り起こしながら言った。

「あー……。歴史の話か。『教養』でなんか言ってたような」

「偏りすぎだよ。学校で何やってたんだか」

彼女があきれたように彼を見る。

「で、『かれー』って何なんだ」

「その鍋の中のやつだよ。日本の外から入ってきた料理。で、雑煮は冬に飲む汁物。出汁と味噌でスープを作って餅とか野菜とか肉とかを入れる」

「……どこで知ったんだ?」

「本。あの小屋の中」

「じゃあ、歴史の教員は嘘を言ったのか」

「その辺の知識は学校で教えられないから、どっかでぽろっと知ってからぐちゃぐちゃになってるんじゃない? かつての『文化』ってやつ。今は、もう、失われているけど」

「なんか聞いたことあるな。伝統料理は知らなかったけど」

僕もあの『管理棟』の本を読む限りでは、一つも見かけなかった。

「まあ、食べよう」

彼女がすでにどうでもいいという風に言い、鍋に向き合う。

「この鍋とかはどうしたんだ?」

僕がお椀によそったカレーをすすりながら、彼に聞いた。

「全部僕が持ってきた。パソコンも入ってるから、重くてしょうがない」

彼が肩を回しながらちらっと僕を見る。

「まあ、食糧は僕がだいたい持ってるから……」

「で、君らこれからどうする?」

「森を抜けて町まで行く」

「どうやって?」

「そりゃあ…そういえばコンパスがだめだって言ってたな。なんで?」

「理由は二つある」

彼女は食べながら言う。

「一つは、地磁気が弱まっているから。それ、磁気コンパスでしょ? 三百年前、人類が今の二十倍ぐらいいた時には使い物にはなってたらしいけど、今はダメ。すぐ狂う」

「二つ目は?」

「町のせいだと思う。たぶん」

「たぶん?」

「『外』じゃあ森ほど狂わない。町を囲う森ほどは。あの町の中は、なんとなく、磁場が乱れてる気がする」

「君って、地場の乱れが分かるのか」

「気がするっていってるんだけど。ふざけたこと言わないで」

「ごめんなさい」

彼が律儀に頭を下げる。

「なるほど。なら、どうしようか……」

少なくともこの場所が分かれば。いや、分かったとしても森に入ればまた迷う。それに、森を出た後もあてがない……。

僕が腕組みして悩んでいると、彼女が振り向いて言った。

「私がそこまで案内するしかないみたいだね」

「そうしてくれればありがたい」

「よし、それなら旅が終わったら、私が指定する時間に食糧と水を森のすぐ外まで持ってきてもらう。月一で。ずっと」

してやったり、という風に、にんまりと笑う。彼がいかにも嫌そうな顔をしているのが見える。ため息をついて僕は答える。

「分かった。それは僕が全部やる。どうせ暇だし」

鍋は、すでに空になっていた。


 再び森の中を歩く。彼女は登山家のような格好に着替え、彼女の荷物は全部僕が持つことになった。闇に慣らすと、昨日よりは少し目が利くようになった気がする。

「引き受けてくれてありがとう」

「まあ、君らの旅もちょっと面白そうだから。私も隣町までは行ったことはないし」

「それはそうと、なんで外までの道が分かるのか?」

彼が後ろから聞いた。

「何回も通ってるから」

「迷ったりはしなかったのか?」

「……うん、そう。まあ、私は元から方向感覚が良いから」

彼女が少しためらって答えた。

「君はいつも何をしてるんだ?」

彼が後ろから尋ねる。

「だいたい本読むか散歩」

「ずっと?」

「変?」

「いや、君ら二人似てるなと思って……」

少し沈黙が流れる。

「そういえば変な音を聞いたって言ってたよね」

「ああ。衣擦れみたいな」

「それ、幻聴」

彼女が冷たく言い放った。

「幻聴? 僕ら二人とも聞いたのに?」

「君ら二人、この森は初めてだよね? なら、何が見えても、聞こえてもおかしくない。この森は、想像が強まる。恐怖心と相まって」

「うーん、まあ、そういうことにしといてやるか……」

彼が不満げに言う。

「本当に動物もいないんだな。町には鳥も見かけるのに。犬とか猫も」

「ああ。微生物とか、小さい虫はまあまあいるけど。ちなみに『外』もそんな感じ」

「なんで?」

「戦争のせいだと思う」

「三百年前の戦争か?動物が全部巻き込まれたっていうのか?」

「核爆弾だよ。放射能障害で大型動物は絶滅した……らしい」

「大型動物って…ヒトは?」

「さあ。なんとか陰に隠れて生き延びたんじゃない? ちなみに『外』も町ももう放射能はほとんど消えてる。ご心配なく」

彼女は振り返らず、

「というか、そっちの君は『管理棟』の本は読みつくしたって言ってたよね? なんでそんなに知識が無いの?」

と続ける。

「『管理棟』にあるのは小説が大半で、あとは少し社会科学と自然科学の学術書。でもなんというか……人間の日常とか扱ったものが多かった。文章がたまにおかしいのもあるし、なんか、単調で。とにかく、『外』の情報なんてなかった。『教養』で教わった以外はね」

「図書館として機能してないよ、それ」

彼女があきれた風に言った。

 それきり会話は無かった。ただ僕らの衣擦れの音と少し荒い呼吸の音が聞こえる。僕は一人で思考をめぐらし始める。そうだった。今まで町で読んだ本で、心が揺さぶられた、みたいな物語はほんの少しだった。血の通った本、とでもいうのだろうか。他のはまるで、急ごしらえみたいなありふれた書きなぐりだ。だから自分の頭で物語を作った方が面白い話を書ける気がする。でも、たいてい書こうとすれば、その時にはもう何もかも飽きている。また別の話を作る。その繰り返しだ。あの町に何かを書いた人はいるんだろうか。何かを伝え残そうとした人はいるんだろうか。今まで、一人も見たことはない……。

 急に目の前が開け、思わず手をかざす。森の外に出た。朝とは違って、頭上にはどこまでも灰色の雲が続き、眼下には見渡す限り灰色の土が広がっている。人も動物もいない。地平線の向こうに黒い山のようなものがかすかに見える。

「ついた」

彼女が振り向いて言う。

「ちょっと休憩だ」

彼が木の根元に腰を下ろす。

「まだ真昼なのに、暗くないか? あの空」

「この世界は、めったに晴れない。雨が降ることも少ないけど。一説に、宇宙放射線の増加が原因だとされている……。あの町も一緒。まあ、町の中にいれば気付くことは無いんだろうけど」

彼女は遠くを見て、独り言のように答える。

「スベンスマルクかな……。なんか習ったな」

彼も独り言を言う。

「ここからあの場所には歩いて一日と少し。このままいけば、荒野のど真ん中で野宿することになるよ」

「まあ、僕はいいけど。危険なものは無いんだろ?」

「ちょっと待て」

彼が顔を上げて彼女を見る。

「君は隣町まで行ったことが無いって言ったな。どうやって僕らをそこまで連れて行ってくれるんだ?」

「いつも本を漁りに行ってるところに当てがある」

「なるほど、分かった。超強力最強コンパスだ」

彼女が彼を睨み、彼はそっぽを向く。二人、もうずっとこんな調子だ……。

「行けば分かるよ」

座って、水を飲む。僕も荷物を下ろし、座り込んだ。


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