#2:Lost.
眠れなくなったと気付いた時には、もう手遅れだった。
平日は目を閉じて起きたまま朝を迎え、金曜日と土曜日の夜だけは、浴びるほど酒を飲んで意識を飛ばす日々が続いていた。『あの面接』を辞退した翌週の月曜日の朝、初めての異変がボクの体を襲った。
スマートフォンのアラームが鳴る。手探りで画面をタップして、朝を告げるそれを止める。
「はぁ…」また寝れなかった。
ため息を合図に、上半身を持ち上げた。
「えっ…?」
目に映る景色の全てが
目を覆った手は冷えきっていて、親指と人差し指から伝わる額の温度が、異様に熱いことを即座に理解させた。ベッドサイドに置いてある、蔓延した感染症がキッカケで購入した体温計を脇に差し込んで、合図を待つ。
【39.3℃】
「さすがにマズいか…」
業務用のビジネスチャットアプリを立ち上げ、支社長との個別ルームを開く。発熱のため休むこと、できれば感染症の検査を受けてくることを打ち込んで、返事を待って頭を枕に戻した。
午後には何とか起き上がって、感染症の検査を受けに行くことが出来た。
翌日にメールで検査結果が受け取れること、結果が分からないので、引き続き休ませて欲しいことをチャットで連絡した。
【火曜日 8:49 河白クリニック 検査結果のお知らせ:陰性】
ひとまず安心した。でも『発熱の正体が何か』を明らかにする必要があった。体温計は、未だ39℃台を示していた。
検査結果は陰性だったけれど、熱が下がらないので内科を受診することをチャットで連絡する。
簡単に連絡を取り合えるこのやり取りは、常に監視されているようで好きではなかったけど、機内モードに設定した状態から、電話を掛ける為だけに電波を甦らせることは出来なかった。
内科では、感染症検査は陰性であったこと、不眠状態が続いていることを伝えたところ、解熱剤と睡眠導入剤が処方された。
翌日、目を醒ますと不思議なもので、就業開始時刻を過ぎていると確信できた。恐る恐るスマートフォンで時間を確認する。
【水曜日 9:32】
そのことを咎める様な連絡は来ていなかった。
たったいま起床したこと、急いで出社するという意志を機械的にチャットに打ち込み、乗換案内アプリを立ち上げ、到着予定時刻を割り出し、到着するであろう時間より『二十分遅い時刻』を連絡して自宅を出た。
「あの薬は飲んじゃダメだな…」
初めて飲んだ睡眠導入剤の効果に感動したけれど、それ以上の恐怖を覚えてしまった。
「おはようございます…」
申し訳ありません、と言ったかと思う口調を持ってオフィスに入った。
気遣ってくれる言葉に、丁寧に頭を下げながら、鞄を持ったまま支社長のデスクに真っ直ぐ向かう。
「申し訳ありませんでした」
深く頭を下げ、月曜日からの不始末を詫びた。
「お〜、早かったね。大丈夫だよ、体調はどう?」
デスクトップから目を離し、ボクの方に体を向けて笑みを浮かべながら、彼女は優しく声をかけてくれた。その優しい言葉が、ボクには
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」
気にしないでと言われ、会話は終わるかと思ったけれど、彼女からの話は小声で続いた。
「〝ちょっと二人で話そうか〟」
そう促され、着の身着のまま会議室に向かった。
支社長が席につくのを待って、椅子に体を預ける。
何を話されるのか分からなかったけど、鞄から手帳とボールペンを取り出し、今日の日付のページを開いた。
「寝すぎちゃった?」
予想していなかった言葉に意表を突かれまいと、頭を落ち着かせて冷静に、丁寧に言葉を紡ぐ。
「すみませんでした。初めて睡眠導入剤を飲んだので効果が分からず、アラームにも気が付きませんでした」
「わかるよ〜、私も飲んだことがあるから」
仕方ないことだよ、と頷きながら経験談を話してくれたけれど、どこか見透かされているようで気恥しかった。
「すみません…」
それでね、と彼女は話の本題に入った。
「いま何か困っていることはある?」
「いえ、特には…」
「じゃあ嫌いな人が居る?」
「特には…いません」
「どこかに異動したい?」
口調は優しかったけれど、ガードをしていないボクに、マシンガンを撃ち込むように彼女は問い続けた。
「じゃあ、頼りになる人、味方だと思える人は居る?」
(頼りになる人? 味方?)
「そこに書いてみよっか。誰か居るかな?」
促されて、手帳に『頼りになる人』『味方』と書く。書いたとして何になるのだろうか。頭の中を覗かれるような、恥ずかしい気持ちになったけれど、その二つの言葉に当てはまるような存在が『居ない』ことを痛感した。
ものの五分位だったと思う…でも、その時間は永遠のように長く感じた。書くことも、言葉にして発することも出来なかった。
「今すぐに思い付かなくても良い」 そう言われて会議室を後にして自分の席に着いたが、気が付くと就業終了時刻を迎えていた。
「定時だから帰りなさーい」
この支社長は、部下には残業をさせない、残業させてしまう時は『自分も一緒に残る』という考えを持っている人だった。
さすがに帰る訳には行かないと思って、何とかやり過ごそうとしたが、今すぐにやるべき仕事は特に無かった。
「あの…今日は遅れたので残ります」 言うことが精一杯だった。
「定時は定時!帰るよっ!」 そう言われて、従わない理由は無かった。
駅までの道中は会話が一切無く、改札を通り、別路線で通勤している支社長との別れ際、今朝までの不始末を改めて詫びる言葉を発しようとした瞬間、二の腕に優しく手を置かれた。
「明日は休みなさい」
今朝の笑みとは違う、心配そうな顔と温かい手は、ボクの思考を停止させた。
「えっ?」
声と呼吸が噛み合わず、裏返ったような声を出してしまった。
「有休扱いで良いから、明日は休みなさい」
「わかりました…申し訳ありません」
ヨシッ!と『ひらひら』手を振りながら去っていく彼女が見えなくなるまで、ボクは目で追うことは出来なかった。
一刻も早く、彼女の視界から消えたい。
向こうのホームから、ボクの姿を見られているかもしれない。
とにかく早く逃げ出したかった。
冷蔵庫から、クエン酸入りのレモンドリンクを取り出し、胃に流し込む。もう木曜日の昼になっていた。
キリリと胃に染み渡るのは、効いている証拠なのだと都合良く解釈し、瓶の中身を
『明日は休みなさい』と言われてからの記憶は曖昧だった。
帰りにコンビニで酒を買い、潰れるまで飲んだようで、ご丁寧にレモンドリンクまで買っていた。そんな自分が少しおかしかった。
(明日はどんな顔をして会社に行けば良いのかな…)
2日前に処方された睡眠導入剤が視界に入る。
(見えない所に置こう…)
薬袋を裏返して、リビングのローテーブルの下に追いやった。
―金曜日の朝を告げるアラームが鳴る。『目を閉じて起きていた』体を起こして、活動を開始する。
歯を磨き、電動シェーバーで髭を剃ってから顔を洗う。少し濡れた手で髪をかき上げる。整髪料は何も付けない。意味の無いこだわりだ。
通勤電車の中で、昨日休ませてもらった事への謝罪の言葉を組み立てながら、どう振る舞うべきか考えていた。
会社が入るビルを前にした時、ボクの体は完全に停止してしまった。
(…あれ?)
心音が大きくなり、周りの雑音がシャットアウトされる。吐く息は全力疾走した後のように荒くなり、手も足も冷たくなっていることが分かる。本能なのか、体温を上げろと体が震えている。目に映る景色は、端から墨汁が染み込むように滲んでいった。
…お……ます………せんぱ……?
「先輩っ!」
背中を叩かれ、視界が白く弾けた。
隣には、ボクの顔を覗き込む男の姿があった。
「おはようございます、先輩」
後輩が不思議そうな顔をして、ボクの顔を覗き込んでいた。
「あぁ…お、おはよう」
絞り出すように放った口は、カラカラに乾いていた。
「どうしたんすか?遅刻しちゃいますよ?」
頼りになる人、味方、明日は休みなさい…貴方の人柄を知っていて、変わることは無い――『特に意味は無い』。
ボクに向けられたその言葉たちが、濁流のように流れてきて、全てを飲み込んでいく。ハリボテだと思っていた経験は、全て自分に対しての重圧でしかなかった。
期待されることが怖かった。
体は冷えきっているのに、汗は滝のように流れていた。
「……ぁ……こ、こわい……」
消え入りそうな声だったのに、聞き逃されていなかった。
「なに言ってんすか?行きますよ!」
(嫌だ…行きたくない)
いま行ってしまったら、全てが終わる気がした。
オフィスに入ると、すぐに体が拒絶反応を起こしてしまった。トイレに駆け込み、昨日飲んだレモンドリンクも、
吐く物が無くなった後は、支社長が運転する車の後部座席で横たわっていた。高速道路の、一定間隔で襲ってくる段差の振動は、空っぽの胃袋を執拗に刺激した。
自宅マンションのエントランス前まで送り届けてもらったボクは、この晒してしまった醜態を、どう償えば良いのか分からなかった。
「ボクは…どうすれば良いですか?」
バックミラー越しに聞いたボクに、ハンドルを握って前を向いまま、今はとにかく休みなさい、とだけ言う彼女がこちらに顔を向けてくれることは無かった。
自宅に着くと、すぐにインナーと下着だけの姿になって布団に潜り込んだ。
一秒でも早く現実から逃げ出したかった。
あれだけ夜は眠れなかったのに、その時だけは不思議と、アルコールや睡眠導入剤に頼らずに眠ることが出来た。
土曜日の昼前まで、一度も起きることなく眠り続けていた。
昨日起こった出来事を振り返らず『忘却』したくて、家中を丁寧に掃除することにした。キッチン周りや換気扇のフィルターの埃取りまで、この数週間で澱んでしまった空気を晴らすかのように、淡々と、他の思考を自分に与えないように体を動かした。
最後に熱めのシャワーを浴びて、体を覆う穢れを落とした。シャンプーと石鹸の香りを纏う自分は、新品になった気がして清々しかった。
昨日空っぽにした胃袋は、まだ食べ物を求めていないようだけど、冷蔵庫を開いて何か無いか漁ることにした。
好奇心というものは、時にそれを上回るダメージを返してくることがある。
ボクは冷蔵庫を開けてしまったことを、すぐに後悔した。『食べる物が無かったこと』にではなく、『見てはいけない物』を見てしまったことに。異動の挨拶回りの時に、とあるクライアントから戴いた瓶だった。
『蒸溜所貯蔵 焙煎樽仕込梅酒』
選考を辞退した、あの会社の人間から贈られた、ボクが好きだと知っていて贈ってくれた、嬉しいプレゼント
忘却しようとしていた昨日までの記憶が蘇ってしまう…。
冷蔵庫から瓶を排除て、冷凍室から氷カップを取り出した。この贈り物を無かったことにしたかった。
味は殆どしなかったけれど、空腹の体に14度のアルコールをロックで注ぎ込むことは、想像以上に堪えたようで、そのままソファで寝てしまっていた。
また、テレビと部屋の灯りは点いたままだった。
目が覚めた時、テレビ画面には競馬番組が流れていて、グランプリレースの勝利ジョッキーに、花束を渡す女優の姿が映し出されていた。瞬間、猛烈な吐き気が押し寄せてきて、トイレに駆け込んだ。嬉しいプレゼントだったものは、下水道の彼方に流れてしまった。
リビングに戻ると競馬番組は終わっていて、バラエティ番組が始まっていた。いかにも日曜日の夕方らしい『家族みんなで観れる』ような番組だった。
テレビを消して昨日
眠れない夜を過ごし、朝を告げるアラームが鳴った。
手探りでスマートフォンをタップし、不愉快な音を止める。今日からまた新しい日常が始まる。そう思っていたし、そう信じていた。
またボクは、体を起こすことが出来なかった。
外からは、今年も産卵期を迎えてこの街に戻ってきた、ウミネコの鳴き声が響いて聞こえていた。
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