松永久秀の異世界流離譚

駒井 ウヤマ

序章 逃避逃縁

 天正5年(1577年)、大和国信貴山城。

「負け・・・か」

 その年嵩の老人は、燃え盛る1歩手前の天守でそう呟いた。

 既にほとんどのくるわは敵の手に落ち、戦況は防戦から抗戦、そして時間稼ぎにへと変貌している。煩わしそうな目で格子窓から外を眺めれば、そこには彼をこのような状況に追いやった元凶である、十重二十重に城を包囲する軍勢の山、山、山の連なり。

「木瓜紋、筋違紋、桔梗紋・・・何と大人げない動員じゃ。こんな爺に容赦の無いのう」

 その中でもひと際目立つ、これ見よがしにたなびく黄金の木瓜紋を見ると、あの尊大ぶった細い顔と甲高い声が嫌でも老人の脳裏を過る。

「・・・あの尾張の田舎侍めが」

 忌々し気に吐き捨てたが、ではそんな田舎者にこのような目に遭わされている自分は何なのか。そのことに思い至った男が一層不機嫌そうにくしゃくしゃと顔を顰めると、とっくに老境を迎えている顔に縮緬のように走る皺は増々と深くなった。

 しかし老いたとはいえ、かつては大和の支配者と呼ばれた戦国武将としての意地であろう。背筋はしゃんと伸び、枯れ木のような足腰はふらつきもせず矍鑠としていた。

 そう、男の名は松永弾正少弼久秀。後の世では梟雄の代表と称される男である。

 汚いものから目を逸らすかのように、男は唯一残された―他の調度品は籠城資材として使い潰した―机に目を遣り、そして「ふふ」と自嘲気味の笑みを零した。

「じゃが・・・遅かったのう」

 そこにあったのは、1つの黒光りする茶釜。その這い蹲った蜘蛛のような形から、人口に『平蜘蛛』と称される名物だ。しかし、それは茶を入れるために用意された訳では無く、今その中に入っているのも透明な湯では無く黒々とした玉薬。

 即ち、火薬がギッシリと詰め込まれていた。

「しっかしのう・・・大和の支配者と言われた儂が、これっぽちの玉薬しか用意出来んとは」

 無論、大方の玉薬は籠城戦で粗方使用し尽くしたからである。しかし、権勢を誇っていたかつての自分なら、という自意識が現状を更に惨めに思わせる。矢折れ刀尽き、というのは正にこのことか。

「じゃがの・・・これだけあれば、十分じゃ」

 あの田舎者はこの茶釜を差し出せば許すと嘯いているようだが、伊勢長島を思えば信用できる訳も無い。しかし、だからと言って腹を切った後まで見世物として、京中に首を晒されたり浅井備前らのように薄濃はくだみにされたりするのも御免被る。

 ならばせめて、大和の支配者として恥ずかしく無い最期を見せつけてやろう。それが久秀に1つ残された武士としての矜持だった。

「では・・・やるか」

 そう独り言ちて、久秀は灸に火をつける。火縄も炭も使い果たしたから、火をつけておける物も最早これくらいしか残されていないのだ。

 後は腹を切ったのち、この灸を平蜘蛛に放り込めば大爆発は間違いない。それが己の遺骸を文字通り粉微塵にしてくれるだろう。

「報せを聞いて、あの田舎侍も大層驚くであろうな」

 その場面と、それを前に冷や冷やしつつ首を垂れる誰かを想像するだけで、笑みが零れた。若しそうなるのなら、苛立ち続きの久秀の溜飲も少しは下がろうというものだ。

「おやおや、諦めの早いことで」

「む・・・誰じゃ!」

 しかし、そんな彼に水を差すかのように戦場にはたいへん不釣り合いな、鈴を転がすような声が響いた。それも、部下は退がらせて自分独り、梯子すら取り除かせた天守であるにもかかわらず、である。

「答えよ」

 年老いたとは言え、久秀も数多の戦場を駆けた歴戦の武将である。初めは不意の声に「敵か」と少し驚いたが、直ぐに馬鹿正直に声を掛ける敵なぞいないことを悟る。

 よって周章狼狽すること無く、キッと声のした方を睨み誰何するその声にも大げさな強さは無いが、乗せられた白刃の如き鋭さに些かの衰えも無い。

「どうした?何者ぞ」

 だが、衣擦れの音と共に現れた影を見て、流石の久秀も一瞬驚いた。何故なら、その姿ははるか昔に亡くなった愛しき妻のモノ。

「ほほほ、かくも衰えたるとは。労しきつま様よ」

「な・・・」

 しかし、直ぐに表情を無に戻した。彼の記憶が定かであれば、その姿を現在出来る者で、彼女の仕草まで知りたる存命の者は1人だけだ。

「・・・悪ふざけが過ぎるぞ、果心よ」

「はは、松永殿もお元気そうで何より。仰る通りの果心居士で御座います」

 そう、愛妻は決して見せなかったはにかみ笑いを浮かべ、果心は恭しく唐風に礼をして見せた。成程、人をおちょくる様子は相変わらずだ。

「この状況で、お元気そうとはな・・・こやつめ、ははは」

「ははは・・・ちょっと失礼」

 そう言って果心が指を振ると、久秀の目の前にあった灸の火はたちまちに消え、更にもう一度振ると灸自体がどこかへと消え去った。

「やれやれ、相変わらず訳が分からぬほどの腕の冴えじゃな。で・・・何をしに来た?」

「小生ですか?貴方を笑いに来ました。そう言えば納得できます?」

「何じゃと!?」

 柱にもたれ掛かりつつ、そう小首を傾げる姿。その亡き妻と同じ姿で亡き妻が決して申さぬ台詞を嘯く果心に、流石の久秀も語気が荒くなる。

「貴様、冗談は止せ」

「ええ。冗談ですよ、本気にしないで頂きたい。それに、何を?とは貴方こそ人の悪い。貴方に会いに来た、それしか無いじゃありませんか」

「儂に?この状況でか?」

「ええ。小生にとって、貴方が一番面白い方でしたから・・・しかし」

 そう言ってふらりと柱の陰から姿を現し、机を挟んで自分と向かい合わせに膝をついた果心の右脇腹は、ぐっしょりと朱色の液体で染まっていた。

「流石は名にしおう織田の後継ぎ。包囲にもソツが無くて・・・この通り、無傷とはいきませんでしたよ」

 よく見れば、その顔の色も火の中とは思えないくらいに、青く暗い。

「ふん・・・いつかは涅槃で会えように。わざわざこんな所に来るからじゃ、間抜けめ」

「小生も貴方も、釈尊の元へは行けそうもありませんからね。・・・そして、間抜けは松永殿もでしょう?大人しくしていれば、こんな目に遭わずに済んだ・・・違いますか?」

「確かにの。じゃが、あの田舎侍の品の無い振る舞いには我慢ならぬ。それに・・・よりにもよって、あの筒井の風下になぞ立てるものか」

「なら、良いではないですか。互いに馬鹿同士、という訳です」

「・・・・・・ふん、抜かしおる」

 そうこう話している間にも、無情に時は流れ落ちる。ちろちろと床を這っていた火はいつの間にか壁を舐め上がり、遂には天井にまで達そうとしていた。

「まあ、儂も最期にお主と久方ぶりに話が出来て良かったがのう。お主もその傷では永く無かろうし、そもここからの脱出なぞ、いくら腕っこきの法師とて叶わぬて」

 では、と鞘を引き抜く久秀に、「待った」とばかりに果心は両掌を広げて見せる。

「まあまあ、慌てない慌てない。小生がここに来たのは、貴方を助けにです」

「助けじゃと?どうするんじゃ、こんな状態から?」

「こうするんです!」

 そう言うと果心は、置いてあった平蜘蛛に自身の血をべったりと塗り付けた。流石にそれには度肝を抜かれた久秀は泡を喰って手を伸ばすが、

「まあまあ」

 と、果心が怪我人とは思えぬ素早さで平蜘蛛をひょいと持ち上げ寄せたので、その手は空しく空を切った。

 そんな久秀を無視するかのように、果心はその釜の中にある玉薬へと腰に下げた瓢から液体をじゃぶじゃぶ注ぎ、何やら聞き覚えの無い文句をむにゃむにゃと唱え始めた。

「※※※~※※※※※※※※※※※※※~※※」

 すると、何ということだろうか、釜の中からカッと1条の光が迸る。その光景に呆気にとられた久秀がハッと気づくと、いつの間にか机の上に置かれた平蜘蛛を果心と久秀が一緒に手に取っていた。

「な、果心!?」

「呆けておられましたので、勝手に手をお借りしました」

「それを言うておるのでは無い。何が起こって・・・いや、何が起きるのじゃ!?」

「言ったでしょう、逃げ出すんですよ。ただし、この日ノ本からね」

「言うとらんわ!」

 そうですか?と愉快そうに笑う顔は、忌々しいことに愛しかった妻と同じ顔。

「そもじゃ、誰が助けてなぞと」

「言ってませんよ。ただ、小生が助けたいだけです。ではいきますよ、参、弐、壱」

「ま・・・」

 瞬間、久秀の視界は白で塗り潰された。

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