イェスター商会
ノルンがネックレスを盗みに入ったその夜。
カナタに解放された彼女は、そのままある場所へ向かっていた。このネックレスは純金製だ。確実に金ルタ20枚分の価値はある。
これで……これでようやく……
ノルンがやってきたのは、イェスター商会の本部だった。
ハレノの町で最大の商会であり、会長のイェスターはこの町の発展に大きく貢献した“英雄”。レンガ造りの大きな三階建ての建物は、ノルンに巨大な影を落としていた。
ノルンは裏手にまわり、普段は使われていない裏口から中へ入る。衛兵が一人いたが、こちらを睨みつけただけで止められることはない。
三階へと上がると、それまで剥き出しだったレンガに高級そうなカーペットが敷かれ、装飾が施されたランプが煌々と光っていた。
見慣れた光景だった。ノルンはその一つひとつを、憎しみを込めて一瞥する。
いちばん奥の部屋まで行き、ノックする。
「プルムです。お品物をお届けに上がりました」
部屋の中から男の声で応答があった。
だが部屋の鍵が開き、顔を出したのは女だった。下着姿で、乱れた髪を撫でつけながらノルンを見る。にたりと口元で微笑む。
「イェスター様、子猫ちゃんよ」
中に招かれて入ると、むせかえるような香水のにおいがした。
もう一人女がおり、ベッドに座っている美形で長身の男にまとわりついている。彼女はなにも身につけておらず、男は腰巻きだけの姿だ。
その男こそイェスター。商会のトップだ。
「お取り込み中に申し訳ありません、イェスター様。ただ急ぎお渡ししたく……」
「どれ、見せてみろ」
イェスターはノルンからネックレスを引ったくった。
ノルンは膝をつき、顔を伏せて彼の査定を待つ。イェスターはネックレスを持ち上げ、裏返してみたり、それを女に見せつけて反応を楽しんだりしている。
いつものことだ。ノルンはじっとこの時間を耐える。
「いいだろう。15枚だ。さっさと消えろ」
15枚? 見立てよりも少ない。
だがノルンは反論しない。なにか訴えたところで、査定額は変わらない。
それに15枚ならじゅうぶんだ。
「イェスター様。私の計算が正しければ、これで金ルタが合計1,000枚に達します」
イェスターは床と同じくらい興味がなさそうにノルンを見る。
「それで?」
「お……覚えておいでかと思います……私が1,000枚稼げば、母と私を解放してくれると。ここに取り交わした契約書もあります。だから――」
「おおそうだ盗っ人。見せたいものがあるんだ」
イェスターの言葉に、ノルンの身体がびくんと跳ねた。
イェスターは女に指示する。女は書斎デスクの中から書類の束を取り出した。イェスターはそれを受け取り、パラパラと簡単に確認した後、ノルンに放り投げた。
散らばった書類の内容を見て、ノルンは愕然とする。
「偽物……?! そっ、そんなはずない! だってあなたがすべてこの場で査定を――」
「査定? なんの話だ? 私はただここで、お前が渡してきた宝石やらなんやらを見ながら、
ノルンはそこで気がついた。
これまで査定の証明書が発行されたことは一度だってない。すべてイェスターが口頭で言い渡したものだ。
私は……私は実際には、盗んだ品の金額を確認できていない……。
「嘘……嘘……」
めまいがする。汗が止まらない。
「これまでお前が仕入れた品物のうち約三割が精巧な贋作だった。気づいた顧客からクレームがついたぞ。どうしてくれる? どう責任をとってくれる?」
ノルンは散らばったクレームの報告書をぐしゃりと握りつぶす。
「お願い……お願いします! どうか母だけは! 私がすべて責任を負います! どうか、どうか……」
「だめだ。契約書の効力は続く。お前と、何も知らないお気楽なお前の母親の二人とも、引き続き我々の監視下だ。さて、偽物だった分の額を差し引いて、あと金ルタ342枚。さっさと稼いでこい」
血の気が引いたノルンの顔を見て、二人の女が下品な笑い声を上げた。イェスターは真剣な顔つきだったが、その整った容姿の裏に極めて邪悪なものを感じた。
「……この悪魔……」
「勘違いするな。お前が私に意見する権利はない。生活に苦しみ、盗みに手を染めたお前を、私は咎めずに雇ってやってるんだ。あの場で犬の餌にしたってよかった」
怒りに任せて動いてはいけない。だが今イェスターはほとんど無防備だ。娼婦らしき女二人も制するにはわけない。
今ここでやっておけば――
ノルンは素早い動きで、腰につけた短剣を抜いた。剣先をイェスターに向け、床を蹴り突進する。
女たちが悲鳴を上げる。
しかし刃は彼の目の前十センチほどのところで、ぴたりと止まる。宙に静止した短剣は、ノルンが押しても引いてもびくともしない。まるで見えない壁に深く突き刺さっているかのようだった。
「くっ……どうして……」
「人間にはいったいどんな価値があるのか、私は最近よく考える。そしていつも同じ結論に辿り着く」
イェスターは素手で短剣を掴み、ノルンからそれを奪った。
「価値などほとんどない。アリのように皆あくせく働き、ゴミのような成果を過大評価し声高に主張する。だが実際には大した付加価値も生み出せていない。娼婦がせいぜいいいところだが――それも飽きる」
イェスターは短剣を放り投げる。
それは下着姿の女のひたいに深々と刺さった。糸の切れた操り人形みたいに彼女は事切れる。
もういっぽうの女は悲鳴を上げ、転がるようにして部屋から逃げ出していった。
「あ……あぁ……」
ノルンは尻餅をつく。イェスターから少しでも離れようと、手足を必死で動かして後ずさりする。
「お前もお前の母親も無価値だ。いつでも殺せる。これが理解できていれば、私に刃向かうなどという愚行、しないと思うが」
勝手に涙が溢れ出てくる。がたがたと歯が震える。
うまく息ができない。
なんだ。なんなんだこの“化け物”は。
「十秒以内に去れ。さもなくば母親を焼き殺す」
「――っ!」
両手と両足をむちゃくちゃに動かして、ノルンは地面に這いつくばる両生類みたいな滑稽な姿で、その部屋から逃げ出した。
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