8:愛らしい珍獣

 商業都市である第三都ガルバの視察は滞りなく終わり、ルカはすこし逡巡してから、王女を迎えた私邸へ戻ることにした。


 王女が来てから、日没前に帰宅するのは初めてかもしれない。律儀な王女は突然の帰宅でも、玄関先まで迎えに駆けつけるのだろうか。


 ルカが屋敷へはいると、整列する使用人に声をかける前に、何かが飛んできた。ふわりとした甘い香りを感じながら、どしんと激しい勢いで衝突してきたものを受けとめる。


「ルカ殿下! おかえりなさいませ!」


 首に抱き着くようにしっかりと腕を回して、自分に縋りついている珍獣。それを王女だと認識するのに、ルカには一呼吸が必要だった。


「――王女?」


 仰天しすぎて、動作が緩慢になってしまう。ルカが抱きとめたスーをゆっくりと床におろすと、嬉しそうに輝く笑顔がこちらを仰いでいる。


「おかえりなさい!」


 屈託のない笑顔。まるで主人の帰宅を喜ぶ犬のようだ。尻尾があるなら忙しなく動いているに違いない。淑女の慎みが感じられないが、これがサイオン流の出迎えなのだろうか。


 困惑するルカを置き去りに、スーは声を高くする。


「殿下がこんなに早くお戻りになるなんて! とても嬉しいです!」


「……ただいま戻りました。王女、これはサイオン流の出迎えですか?」


「いいえ。嬉しいと思う気持ちを表現してみました! 先生に教えていただいたのです。わたしが堅苦しいと、殿下も窮屈な気持ちになるので、このお屋敷内では自然体であられる方が良いと。それに、私的な場では、クラウディアでもこのようにお出迎えすると聞いたので」


「……教師が?」


「はい!」


 いったい、どのような話の流れで、王女にそのような助言を与えることになったのか。ルカには見当もつかないが、スーの気持ちが前向きになれる配慮なのだろうと受け入れる。


 熱烈な出迎えは、恋人同士の再会のようで度をすぎているが、王女の気分に水を差す必要もない。ルカは小動物のように懐いてくるスーに微笑んで見せた。


「そうですね。あなたには、私の前では自然体で過ごしていただきたいです」


 後々このやりとりを死ぬほど後悔することになるが、今の彼が知る由もない。


「では、殿下にお願いがあります!」


「私に?」


「はい。私のことは王女ではなく、スーとお呼びください!」


 ますます尻尾を振って懐く小動物のようだなと思いながら、ルカは「わかりました」と答えた。


「あなたが望むなら、そのようにいたしましょう、スー」


 見ていておかしくなるほど、王女の顔がぱっと華やぐ。美しい顔をしているのに、表情が豊かで愛くるしい。ガウスの言っていたことが、今頃になって腑に落ちる。


 ポーカーフェイスとは程遠い屈託のなさは、ルカにも好ましく感じられた。


「ありがとうございます、殿下!」


 とびきりの笑顔を弾けさせてから、スーが居住まいを正すように一歩後退する。


「では改めて。おかえりなさいませ、殿下」


 学んだ礼儀作法をお披露目するかのように、スーが表情を改める。

 姿勢を正し、作法通りにドレスの裾をさばくと、ほどよく膝を折って優雅に頭を下げた。


 お辞儀の角度、指先の美しさ、背筋、足先、タイミング、非の打ちどころがない。

 見事にクラウディアの作法を体現していた。

 スッと体勢を戻すと、スーが大人っぽい笑みを浮かべる。


「お帰りをお待ちしておりました」


 神秘的で妖艶な美姫。あと数年もすれば異性を悩ませるのだろう美貌が際立つ。

 彼女がクラウディアでの教育に励んでいるのが見て取れた。


「素晴らしい」


 自然に言葉になる。すぐにスーの顔から妖艶な仮面が剥がれ落ちる。


「先生方のおかげです。殿下にも成果を披露させていただきました」


 褒められたことをはにかんでいるのか、スーの白い頰が上気している。

 素直な王女だなと言うのが、ルカの感想だった。


「では、スー。せっかくなので、本日は私と夕食をご一緒していただきましょう」


「え?」


 一瞬で戸惑った顔になり、スーがオロオロと背後に控えている侍女のユエンを振り返る。


「何か問題が?」


「いえ、あの、とても光栄で喜ばしいことなのですが、わたしはまだ食事の作法には自信がありません」


 そんなに難しいことがあっただろうかと、ルカが不思議に思っていると、スーが暴露する。


「殿下に楽しいと思っていただけるひと時を提供できるかどうか、まだ自信が……」


 ルカは彼女が途轍もない上級作法を目指していることを悟る。どうやら作法は食事中の話術にまで及んでいるようだ。いささか目指す理想が高すぎるかもしれない。彼女を導く教師たちに少し釘を刺しておこうと考えながら、戸惑うスーに笑ってみせた。


「ここではあなたらしく。――スーが良く学んでいるのは、私の耳にも入っています。私との食事は他愛なく過ごしてください。そのように気負う必要はありません」


「……殿下」


 薔薇色というのは、こういうことを言うのだろうか。頬を紅潮させて自分を仰ぐスーの顔色を美しいと感じる。この上もなく無防備な王女。同時に、出会った時から感じていた疑問が、再び頭をもたげてきた。


「スー、では、また後ほど」


 さいわい浮かび上がった疑問を解消する機会も時間もある。

 彼女と共にする夕食のひととき。楽しみなのか不安なのかよくわからない心持ちのまま、ルカは上着を使用人に預けながら、夕食について指示を出す。


 自室へ向かうため玄関ホールの階段前へ歩み、ルカはふと背後を振り返った。スーが立ち尽くしたまま、じっとこちらを見ている。ルカの視線に気づくと、遠目にもわかるほど、白い肌が真っ赤に染まった。あたふたとした様子で、小さく会釈する。


「?」


 静かに佇んでいれば神秘的な美姫なのに、仕草でこれほど印象が変化するのかと、ルカはおかしくなる。スーの言動には謎が多そうだ。愛らしい珍獣という印象を抱えたまま、ルカは自室へ向かった。

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