第二章:帝国クラウディアの皇太子

6:帝国の悪魔

 クラウディアの帝都は、面積の半分を王宮と軍の要塞が占める。


 五年前の内乱後、ルカは皇太子でありながら、皇帝の勅命を受けて軍の全権を握る帝国元帥を務めている。最近では殿下と呼ばれるより元帥と言われることの方が多い。


「可愛らしい方ですな」


 要塞に作られた専用の執務室で、ルカの補佐官であるガウス・ネルバが左隣に控えたまま、何かを思い出したように口を開いた。彼が誰のことを語っているのかを理解して、ルカはすぐに言葉を返した。


「彼女のような女性は、美しいというのではないか?」


「そうかもしれません。あと数年もたてば、さぞ悩まし気な美女におなりでしょう」


 先日、ルカの私邸に迎え、皇太子妃への一歩を進み始めたサイオンの王女。

 スー・プリンケプラ・サイオン。


 前向きな気性なのか、連日みっしりと詰め込まれた教育に、嬉々として取り組んでいるという報告を、彼女につけた専属教師たちから聞いていた。


「可愛らしいというのは、容姿のことではなく性格の話ですよ」


「まだ性格がわかるほど話もしていないだろう?」


 ルカが椅子にかけたままガウスを振り返ると、シワの目立ってきた精悍な目元が笑っている。若輩で未熟なルカは、元軍総司令である彼の助けがあって、何とか帝国元帥の体裁を保っていた。


 皇帝派の軍閥貴族であり、根っからの軍人であるガウスは、もう五十近いのに、姿勢正しく溌溂としている。


 ルカの二倍はあるのではないかという見事な体格の持ち主で、赤毛と翡翠のような瞳が印象的だった。一部では筋肉紳士と呼ばれている。


 ガウスは送迎のために、たまにルカの私邸に顔を出す。今朝も送迎に訪れたが、これと言って特別なことはなかった。彼は何かを思い起こしているようだが、ガウスがサイオンの王女と話していたような記憶はない。


「殿下とのやりとりを見ていれば、だいたいはわかります」


 ガウスが豪快に笑う。


「そんなに笑うようなことがあったか?」


 ルカには印象に残るようなことはない。毎朝、見送りに姿を現す王女を、律儀な姫君だと感じただけである。


「あれはルカ殿下のことをお慕いしていますと、顔に、いえ、全身で訴えておられますな」


「私を慕う? 血も涙もない帝国の悪魔を? 私の噂を知って、そんな気持ちになれる女がいたらお目にかかりたいな」


「殿下のことを密かに慕っている女性は多いでしょう。その恵まれた容姿にご自覚はないのですかな?」


「見た目、か。傍にいれば破滅するかもしれないのに?」


 ルカが笑うと、ガウスは顔から笑みを消して吐息をついた。


「殿下はご自身の噂を楽しんでおられますな。ご自分でさらに悪評が立つように振舞われたりして」


「おかげ様で、あの一件以来、取り巻きがクモの子を散らしたように消えてくれて助かっているよ」


「まさか、それも狙いでしたか」


「どうだろうな。だが、サイオンの王女への振舞いには、ちゃんと気を遣っている。私におびえて毎日鬱々と過ごすことになるのも可哀想だと思ってね。彼女は、何としても私の元に居てもらわなければ困る」


「……サイオンの王女ですからな」


 ガウスの声に神妙さがあった。ルカはただ頷く。


 サイオンの王女。

 ルカにとってはサイオンとの婚姻は、皇位継承の証となる。

 帝室が守り続ける掟には、サイオンに王女が誕生した場合、必ず皇家の妃として迎えることが決められている。

 王女を娶った者こそが、次代の皇帝となる古からのしきたり。

 ガウスの呟きも、皇位継承の証についてを示唆していた。


(本当はそれだけではすまないが……)


 皇帝が自分にだけ明かした、サイオンの真実。

 ルカの心に、くっきりとした影を落としていた。


 サイオンの王女は、クラウディアの軍事力に関わる、約束の娘。

 圧倒的な軍事力により、帝国が手に入れた盤石な地位。

 もたらされた平和。


 ルカの祖父である現皇帝は賢帝だと言える。

 祖父が築いた治世は穏やかだ。歴代の皇帝が守り貫いてきた、他国の権利を侵害しない統治。

 争いの生まれにくい世界は平和だと言える。


 けれど。

 帝国の力は、扱いをあやまると平和に牙を剥く諸刃の剣。

 もし皇帝が、暴君となれば――。


 ルカは白い手袋をはめた自身の手を見た。

 血も涙もない帝国の悪魔。自ら選んだ道だった。

 自身の手で、父を反逆者に仕立てあげて葬ったのだ。


 血に染まった手。もう後戻りはできない。

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