第5話 無慈悲な逃走

「あ、あはは……おはよーございます、千尋さん」


 ――錦鯉千尋。


 それが新の姉であり、県警特務課課長の名前だった。


 鷹揚に頷いた千尋が開けたカーテン前を離れ、祐希子も出てくる。


 祐希子が住み着くようになって、新の就寝スペースだった場所は彼女の私室として占拠されている。立ち退き要求に応じる気配は今もってない。


「千尋さんと新って、血が繋がってないんだね。初めて知ったよ」


 両手で新を押して作ったソファのスペースに、祐希子がちょこんと腰を下ろす。


 居候を決め込んだ時から良く言えば人懐っこい、悪く言えば遠慮のない性格をしていた。だからこそ、短い期間でありながらも新との共同生活を難なくこなせているのだろう。


「言ってなかったか。別に隠していたわけではない。知っている者は知っているからな」


 千尋の言葉を引き取って、続きは新が自分の口で説明する。


「両親の死後、俺は家政婦をしてくれていた栗原京香という女性に引き取られた。それが姉貴の母親だ。俺の父親と幼馴染で、母親とは親友だったらしい。その辺の事情は詳しく聞いてないけどな」


「母は過去の話をあまりしたがらないからな。それに新が所有者と認められた宝石銃で、探偵をしようとするのに大反対もしていた。とても悲しそうに怒っていたのが印象的だった」


「姉貴が警察官になるって言った時は反対なんてしなかったのにな。でも、俺が二十歳になった時、両親の死の真相について教えてくれたのも京香さんだ。育ててくれたのも含めて感謝している。恥ずかしくて母さんと呼んだことはねえけど」


「それは仕方あるまい。実の娘にも京香さんと呼ばせたがるくらいだ」


 苦笑した千尋は、不思議そうにする祐希子に理由を教える。


「お母さんなどと呼ばれるのは年寄りじみてて嫌なのだそうだ。今年で四十八歳になるのだから十分に――おっと。こういう話をしていると、電話がかかってきそうだな。とても勘が鋭い女性なんだ」


「ふうん。でもさ、千尋さんとお母さんの名字は違うよね。それはどうして?」


「単純に名乗ってるだけさ」当人ではなく新が答える。「戸籍上はきちんと栗原千尋になっている」


 共に栗原の実家に移って以降、名字の違う新は虐められる機会があった。


 捨てられた子だと同年代の男の子たちにからかわれ、喧嘩もした。それを聞いた千尋は何を思ったのか、錦鯉を名乗り始めた。


 これで私も一緒だと見せつけられたドヤ顔を、新は大人になった現在でもはっきり思い出せる。


 それ以来、栗原家には錦鯉の表札も出され、名字の下には千尋と新の名前も添えられていた。子供心に嬉しくなったのも良い思い出だ。


 昔から他者に対して威圧的で冷たい態度を取る機会の多い姉だが、根は優しい女性なのである。


 指摘すると恥ずかしがって殴られるので、改めて口にしたりはしないが。


「学校でも錦鯉だと言い張ってな。最終的に教師も根負けして、卒業式でも錦鯉って呼ばれてたぞ。さすがに証書は栗原になってたけどな」


「へえ。千尋さんって優しいんだね。大好きな弟のために私が――ふぎゃ!」


 猫が潰れたような悲鳴を上げ、祐希子は目がバツ印になってもおかしくないくらいに顔をしかめる。


 強制的に下を向かせられた頭には、見舞われた千尋のげんこつがあった。


「ううう、痛いよう。それでなくても、千尋さんは力が強いのに……」


「バカがつくくらいの腕力だからな。人間というよりもはやゴリラだ。署内でセクハラしてきた巨漢の上司を、背負い投げで床に叩きつけて入院もさせたそうだしな」


「凄っ! 千尋さんって確か空手と柔道の有段者なんだよね」


「剣道もだよ。歩く人間凶器だぜ。こんな奴を野放しにして、警察は何をやってんだかな。早く檻に入れろってんだ。中でウホウホ言わせたら、小金も稼げるぜ」


「ぶふっ!」


 両手で口元を押さえるも、笑いを堪えきれなかった祐希子ともども新は襟首を捕まれる。


 片手で一人ずつ持ち上げられそうな腕力は、人間離れしていると言われても仕方ないほどだ。


「愉快な会話をしているではないか。私も仲間に入れてくれないか。ついでに本題にも入ろう。どこぞの愚か者が荒らした公園の修繕費についてだ」


 全身を暴れさせ、かろうじて千尋の手から逃れた新は、やっぱりきたと心に冷たい汗を流す。


 以前にも似たようなケースがあり、損害賠償をさせられそうになった。


 その時はなんとか逃げたのだが、今回もそうできるとは限らない。左手で持ち上げられたまま、諦めたようにぐったりしている祐希子を放置して対策を考える。


「公園の維持は市の仕事じゃないのか。どうして警察が話を持ってくるんだよ」


「何があったのかと余計な詮索をされるのを防ぐ意味もあって県警預かりになり、妖魔が関わっている可能性が高くなった時点で、後始末が特務課の課長である私に回された。これで愚弟に迷惑をかけられるのは何度目か」


「待てよ。俺のおかげで解決した事件もあっただろうが」


「その通りだ。そして私は報酬という形でお前に報いた。ならば今回の不始末は、新が責任を取るべきだな」


「ああっと、いかん。依頼者に報告に行かないと。あとはよろしく」


 怯えるふりをして機会を窺っていた新は脱兎のごとく駆け出し、祐希子を持ち上げている側から千尋の横を通り抜ける。


 外へ出て一目散に走り、コンテナに隠れて事務所の様子を窺う。


 般若の化身かと思われる女がこちらを追おうとしたが、すでに姿が見えなくなっているのもあって諦めてくれたらしかった。


 代わりに片手で持たれたままの自称助手が、事務所で被害にあうはずだ。


 祐希子の尊い犠牲に感謝しつつ、新は身を隠していたコンテナの陰から出て、ワイシャツの胸ポケットから黒い箱が特徴的なメーカーの煙草を取り出して一本咥え、同じ胸ポケットに入っていたマッチで火をつける。ライターはオイルの味が煙草につくので好きではなかった。


 肺一杯に吸い込んだ煙を吐き出すし、上っていく紫煙をなんとなく追いかければ、視線はところどころにしか雲のない青空へ辿り着く。朝から初夏らしい陽気に包まれており、一言で表すなら爽やか以外に見当たらない。


 立っている新の右方向には透き通った――とまではいかないが、吸い込まれそうな青色の海が広がっている。漂う潮の香りと、鳥の鳴き声が港の朝らしさを演出する。


 さほど栄えていない地方にあり、海側に面した人口五万人程度の町は生まれ故郷ではなく、新が勝手に住み着いた居場所だ。


 独特の方言に、よそ者を受け付けないような雰囲気もあるが、一度慣れてしまうと気さくな人間が多い。


 新がこれまでに出会ってきた人物に関しての話だが。

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