探偵と真夜中の太陽
桐条 京介
第1話 探偵と助手と妖魔
奴はそこにいる。
闇色に包まれた世界。木々の合間を走る抜ける風に揺れる葉が微かな音を立てる中、人が一人、すっぽりと隠れられる大木に背中を預けて息を潜める。
その男――錦鯉新は、日中は人通りも多く、子供たちが笑い声を木霊させる公園で、額を緊張の汗で濡らしていた。さほど長くない前髪の数本が張り付き、吐く息に熱がこもる。
このチャンスを逃せば次はない。
慎重に行動するのはもちろんだが、なりすぎると奴を――標的を見失ってしまう。それだけは、なんとしても避けなければならなかった。
深夜零時を回り、街灯の少ない公園は黒の絵の具をぶちまけたみたいだった。日中あった景色が塗り潰されて消える。そんな錯覚さえ覚えた。
闇に同化するような黒のジャケットとワイシャツ。スラックスや靴下まで好んでいる黒色という徹底ぶりだ。
主に行動するのは夜で、太陽の光を浴びると灰になると言って憚らないが、実際はそんなことなどなく、単純に夜型人間なだけで、日中をサボるための口実にすぎなかったりする。
ボタンを留めてないジャケットが動きに合わせて揺れる。夏でも履き続ける、やはり黒の革靴で土を踏み締め、隠れていた大木から飛び出した。
「観念しろ!」
威嚇するような怒声にも、標的は動じない。金色に輝く瞳でこちらを一瞥し、公園の奥――まるでブラックホールを思わせる闇の中へ身を躍らせる。
頭上では厚い雲がせっかくの満月を覆っており、降り注ぐべき優しい光を遮断していた。従来よりも視界は悪く、夜目がきく方ではない新は、手探り状態で追いかける。
まだ二十歳で本来ならしわの少ない顔が険しさを増す。草木に紛れられたら、再び標的を発見するのにどれくらいの時間と苦労がかかるかわかわらない。
軽く舌打ちをした新のスラックスのポケットが震える。中に入れている携帯電話に着信が入ったのだ。
見もせずに手を突っ込み、取り出して耳に当てる。
「今、忙しい」
端的に状況を説明したにもかかわらず、納得するどころか聞き慣れた女の声が普段より甲高く鼓膜に響いた。
「せっかく追い詰めたのに、逃がしてるからだよ! アタシが先回りするから、新はそのまま追いかけて。挟み込んで捕まえるよ」
「どうしてお前が指示を出すんだよ」
「あの子を逃がしたら、今月の家賃が払えないからだよ! 貧乏な探偵事務所なんて、今時流行らないんだからね!」
新はため息をつき、承諾の返事をして電話を切った。ディスプレイに浮かんでいた、水島祐希子という文字が消える。
家賃が払えないと言われたら仕方がない。少しばかり本気を出すとしよう。
木々の後ろを駆け、逃げた奴を追いかける。視界は頼りにならなくとも、感覚は別だ。風を切り分けて進む気配を、はっきりと新は認識している。
中央にベンチとバスケットゴールしかない公園は、全力で走れば十秒もしないうちに周りを囲んでいる道路に出る。民家が建ち並んでいるが、テレビで見る眠らない街とは大違いで、ひとつ残らず人工の明かりは消えていた。
年寄りが多いので、早寝早起きが徹底されている。健康のためというよりは、習慣になっているだけなのだろうが。
「こっちは駄目だよ。通せんぼ」
お間抜けに感じる台詞とともに、先ほど新に電話をしてきた女性――水島祐希子が、逃げる標的の前にショートカットの茶髪を揺らして立ち塞がる。
初夏なので、夜とはいえ冬よりは温かい。アウトドア派を公言している彼女の服装は、白がベースの袖の長いシャツの上に明るめの灰色で夏用のレディースジレベストをボタンを留めずに羽織っている。シャツの正面に書かれたメーカーのロゴとマークがお気に入りなので隠したくないらしかった。
下半身は膝より上の白のミニスカートで、その下に黒のスパッツを履いている。本人曰く乙女の嗜みで、足元はベストと同じ灰色のソックスと白のスニーカー。一つの靴を愛用するのは新と同じで、結構な使い込まれ感がある。
身長は一メートル七十三センチの新に比べて低いが、その差は頭半分もいかないくらいなので一般的な女性の平均値は上回っている。
公園到着前にも見ていたとはいえ、祐希子を正確に認識できるのは、道路に立つ彼女の背後に街灯が設置されているからだ。薄いぼんやりとした灯りが、アスファルトを頼りなく照らしている。
単体で見ると心許ないが、他に灯りがない場所では頼りになる。浮かび上がるようにして、標的が新の前へその姿を完全に現す。
茶色と黒のまだら模様の猫が。
「いい加減に大人しくしてくれよ。お前を依頼者に引き渡さないと、事務所の家賃も払えないみたいなんでな」
「そうそう。自由を求めたい気持ちはよくわかるけど、恨むならそこの甲斐性なしにしてね」
「黙れ、ボケタワシ。誰のせいで食費がかさんでると思ってやがる。女なら料理のひとつくらい覚えやがれ」
「それって酷い女性差別だよ。そんなに言うなら、新が作ればいいじゃん。今時の男は料理ができないとモテないよ」
「それこそ差別だろうが。いいか、俺はな」
己の信念やさらには男の浪漫について語ろうとしたところで、新の言葉を遮るように祐希子が「あーっ!」と大きな声を上げた。
指差す足元へ視線を向ければ、少し前までいたはずの猫の姿がなかった。
「議論してる場合じゃないって! 猫ちゃんが逃げちゃった!」
「ヤバい! 急いで追いかけろ!」
道路に出た様子はないので、子猫よりも成猫に近い図体の標的は、公園内へ舞い戻った可能性が高い。
新は街灯から離れるように暗いだけが取り柄の小さな公園に戻る。
春過ぎまでは桜が咲いていたのだが、今は散っているので夜桜見物もできない。加えて茂みに隠れてよからぬことをいたしてる連中もいないので、ひたすらシンとしていた。
「あ、いたよ。あそこ! ベンチの上に座ってる。早く捕まえようよ」
「よし――って、ちょっと待て。様子が変だ」
まだら猫が雨は降ってないものの曇っている空を見上げ、大きく鳴いたと思ったら、まだなんとか可愛らしいといえる外見を歪め始めた。
強く舌打ちをして、新は隣にいる祐希子を見る。彼女は猫から目を離さず、驚きで口を開けている最中だった。
単なる迷子猫の捕獲だと思っていたから調査に同行させていたが、ここにきて事情が大きく変わりつつある。
今さら帰れと言って素直に聞く性格ではないし、何より別行動になったところを狙われたりすれば大問題である。
「今日が初体験か。仕方ない。優しく教えてやるから、しっかり覚えろよ」
「え? ……ってことはまさか……妖魔!?」
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