九.いさなとり

 番いの何たるかを知っても、茜子と千迅の関係に進展はなかった。そもそも彼はうつせみの人ではなくちはやぶる神(という設定)だから、人の世の三年も一年に満たない感覚なのかもしれない。


 日々並かがなべてまた季節は移ろい、八千種第の姉妹は未婚のままそれぞれ十八と十七を数えた。


「姫。……今宵の吾が妻は、なんだかおかんむりだな」


 妻戸の御簾をくぐり、几帳の陰に坐す茜子を灯台の灯で一目見るなり、千迅は小さく苦笑した。図星をつかれた茜子は扇を広げてふいと顔を背ける。茜子とて貴族の端くれ、澄まし顔は得意なはずなのだが、番いにはお見通しらしい。せっかくの逢瀬なのだし、憂き世の愚痴は持ち込まないよう努めていたのだが、三年も経つと気が緩む。


 律儀に几帳を挟んで腰を下ろし、千迅が訊ねる。


「どうかしたのか?」

「どうということもないわ。大姫様の旅の話に長々と付き合わされただけです」


 つい昨日、父母と姉は、京の辰巳、深草山みくさやまに花見を兼ねた物詣に行っていたらしい。単なる物見遊山ではなく梓子の良縁成就の祈願も込めてのようだが、とにかく帰邸した梓子にまた滔々と話を聞かされた。降りく桜のうららかさ、御稜威みいつみなぎる朱塗りの社。物詣どころか単なる外出すらままならない妹への「土産話」を装いつつ、どう好意的に聞いても口調は「自慢話」である。


「庭に降りるか? 名所ほどではないが、桜がたけなわだ」


 笑い含みの声が不機嫌な番いをあやそうとするが、茜子は桜には苦い思い出があった。


 それは十年前の春のゆうべ、桜がよく見える寝殿の南廂で、姉や乳姉妹たちと貝覆いに興じていたときのこと。ふと羽音に誘われて茜子が首を庭に向けると、満開の花枝に一羽の烏が羽を休めていた。


 烏は乾の鎮護、埴山大社の神使みさきだが、屍肉を喰む凶鳥まがどりでもある。そんな吉兆とも凶兆とも知れない鳥が花降る庭に迷い込み、御簾に隔てられることなく目と目が合った————気がした。


 人の気配を察した烏は、すぐによたよたと暮れなずあまべにの空へ飛び去った。だがやはりそれは神使ではなく疫神だったか、明くるあしたから姉妹は続けざまに病魔に魘され命運を分けたのだ。


 だから、代わりに茜子はこんな我儘を言ってみる。


「……庭の池ではなく、海を見てみたいわ」


 海を模して造られた池ではない、本物の海。連想のように閃いた言葉だったが、口にしてみると、なかなかいい案である気がした。背けていた首を千迅に向き直す。


「ちはや様、わたし、海を見てみたい。山を北に越えたずっと向こうに、椅子はしごのように伸びる浜のある海があるのでしょう?」


 京は盆地に築かれているが、辛うじて国の北端が海に面している。梓子も見たことのない歌枕の浜。ここは夢なのだから、西へ東へ、どこへだって行けるはず。


 しかし、千迅は些か渋い顔をした。


「……邸の外に出るのは待ってくれないか。今結界の外に出ると、安全は保障しきれない」

「あら、守ってはくださらないの」

「勿論、命を懸けて守る。だが……」


 茜子が大仰に嘆くと、大真面目に返される。それでも煮え切らない語尾に、茜子は膝をいざって几帳から身を乗り出し、早蕨重の狩衣の袖端をきゅっと握った。


「だめ……?」

「……!」


 敢えて舌足らずに、甘えた上目遣いで見つめる。


 番いのおねだりに、千迅は瞠目し躊躇いを見せたが、結局折れた。


「――――わかった。今から行けば、十三夜の月に間に合うだろう」


 これが惚れた弱みと言うものか、なんのかんの言いながらも、やはり千迅は茜子に甘い。


 しかし、常ならば片道で三日はかかる道程を一晩のうちに往復できるとは、さすがはちはやぶる神、或いはうばたまの夢の為せる業だ。


 内心で舌を出しながら「ありがとう」と楚々と笑い、茜子はさっそく千迅を一足先に退室させて仕度に取り掛かる。やや不恰好とは言え、女房の手も借りずに袿を壺折りに着込めるのも、ある意味幽閉生活の賜物である。


 妻戸を出て簀子縁から渡殿へと進む。茜子はそろそろと、反対に千迅は悠々とした足取りだが、誰にも気取られず中門廊を出た。門前で寝ずの番をする家人の姿に茜子はぎくりと足を止めたものの、二人に気づいた様子がない。千迅が軽く笑う。


「大丈夫だ。俺たちことは、烏の羽ばたきとしか思われない」


 いわゆる隠形の術というものだろうか。夢なのだから、どんな不可思議も不思議ではない。


 車寄くるまよせには見知らぬ網代車が停まっていたが、付き人の車副くるまぞい牛飼童うしかいわらわどころか牽く牛すらいない。しかし後簾を捲って二人が屋形に乗り込むと、車輪の軋む音と共に車はゆるゆると動き出した。


 その軋みさえ僅かなもので、道を走るというよりも水面を滑るようななめらかさで進んでいく。ずっと幼い頃に乗車した際は、思いのほか揺れが酷くて姉妹揃って酔った記憶があるが、今夜は醜態を晒す心配はなさそうである。


 何故か物見窓が開かないため、どの辺りをどの程度の速さで走っているのかも判らない。


 天井には鬼火、もしくは狐火、天狗火などと呼ぶべき焔が灯り、熱のない光で屋形内を照らしている。


 そんな奇しき灯火の中、御簾も几帳も挟まず千迅と相対していると、非の打ちどころのない貴公子そのものの姿に、今更のように茜子の胸は早鐘を鳴らした。


 たとえ夢でしかなくても、自分は彼に恋をしている。三年越しのこの夜はっきりと、茜子は自覚した。


 簾の帳や闇の帳といった遮るものがないためか、互いに邸よりも寛いだ様子で四方よもの話に花を咲かせながら、三刻(1.5時間)ほども過ぎた頃か。ごとんと大きく揺れて牛車が停まった。


 前簾を上げると、やはり牛の姿はなく、牛飼童たちもいないのにしじが用意されている。お互い履物を履き、茜子は千迅の手を借りて屋形を降りた。


 辿り着いた場所は山中に拓けた一角で、眼下には黒く波打つ大きな湖――――否、しおうみがある。


「わあ……っ」


 笠も垂れ衣もなく、夜風に顔を晒した茜子は、右目に映る光景に素直に感嘆した。


 那由多の星が瞬く空。やや中天を過ぎた十三夜の月が、暗い海に緩い弧を描く砂浜へほろほろと光をこぼしている。浜の先にたたなづく山々と月影揺れる波間、その見果てぬ彼方に、比翼の伝説を生んだ大陸がある。


 京人憧れの歌枕に興奮した茜子は牛車と千迅の傍を離れ、はしたなくも小走りで崖の縁まで向かう。


「おい、危ないぞ」

「大丈夫よ。だってわたしも比翼なのでしょう?」


 危惧する声に、茜子は軽やかに振り返って笑う。翼があるのだから、何より夢なのだから、危ないことも怖いものもない。


 ――――そう油断していた茜子を、崖の下から躍り出た影が羽交い絞めにした。


「!」

「姫!」


 血相を変え駆けつけようとする千迅を遮るように、また別のふたつの影が大きな羽ばたきと共に茜子と千迅の間に降り立つ。


 茜子の目に、それは漆黒の翼を背に持つ、まさしく天狗のように見えた。


 それぞれ、薙刀や太刀など、得物を手にしていることも。


「ん――――!」


 武骨な手に背後から荒々しく口を塞がれ悲鳴を上げることも叶わず、茜子の足は崖を離れて宙空へと攫われた。目を見開いたまま崖から遠ざかり、つい先程まで眼下に望んでいた松並木の白浜に投げ落とされる。


 手をついて顔を上げると、見下ろすようにみっつの影が茜子を囲んでいた。鳥のかしらに人の体、黒い翼……やはり天狗の類いだ。


 帯刀した直垂烏帽子姿の烏天狗たちは、茜子を前に、鳥の嘴で人の言葉を交わし合う。


「これが執心の番いなのか? 人の目ではないか」

「たわけ、それは右目だ」

「左目を抉れ。羽を捥いでもいい」


 捕らえた獲物にとどめを刺すような口調。軽率に千迅の隣を、結界に護られた邸を離れた茜子は、まさしく狩られた鳥なのだ。


「……っ!」


 無遠慮に伸ばされた手が、羽を毟るようにして左目を覆う布を剥ぐ。露出した「化けものの左目」に、三人は一様に息を呑んだ。


「……これはまさに」

「ああ。早くやれ」


 解放されたのに声も出ない茜子の青ざめた顔に、烏天狗の一人が目を眇める。


「いや、それより……」

「!」


 茜子を組み伏せるように天狗は膝をつき、袿を端折り上げていた結紐を乱暴な手つきで解いた。そしてその下から現れた袴の帯にも手がかかる。


「いや……!」


 あまりの悍ましさに、茜子の全身を悪寒が駆け抜けた。左目の奥で火花が爆ぜる。


 容赦なく帯が解かれる、その刹那。


 組み敷き組み敷かれた二人の間に、白い毛並みが割り込むように飛び込んできた。

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