第4話

 フィリーネは暗闇の中を彷徨っていた。

(ここはどこ? どうして誰もいないの?)

 周りを見渡せど、目印になるようなものは一つもない。

 どこを歩いているのか、右も左も分からない。この世界には自分以外誰もいない。

 ひたすら足を動かしてはいるけれど、進んでいるのかさえ分からなかった。

(もうこれ以上は歩けないわ……)

 どれくらい歩いただろう。足はとうとう限界に達してしまった。

 体力を削られている上、誰にも会えない心細さから胸が押し潰されそうになる。


 フィリーネは胸の上に手を置いて小さく息を吐いた。

(この感覚に似た何かを、私はつい最近体験した……あれは何だったかしら?)

 しかし、その疑問の答えはすぐに見つかった。

 フィリーネはアーネストに婚約破棄された挙げ句、マツの木の精霊のもとに嫁がされたことを思い出したのだ。

「殿下、どうして……」

 恋愛的な関係ではなかったにせよ、アーネストから婚約破棄されたことはやはり悲しかった。そして彼が公衆の面前で言い放ったマツの木の精霊との結婚。

 あれはフィリーネを充分に辱める行為だった。


「侯爵令嬢がマツの木の精霊と結婚ですって」

「あらあら、とんだ御笑い種じゃない」


 いつの間にか暗闇の中からは、フィリーネを嘲り嗤う声が聞こえてくる。

(お願い、やめて……)

 両耳を塞いでいても声はずっとフィリーネのもとに届く。

 逃れたい一心できつく目を閉じていたら、突然誰かに頭を撫でられた。

 

「……やっと見つけた私の花嫁」

「私の運命の番」

「もう決しておまえを離さない」


 この声は誰のものだろう。

 不思議なことに声がした途端、フィリーネを嗤う声はぱたりと止んでいる。

 フィリーネは子守歌のように優しい声音をずっと聞いていたくなった。

 ところがその願いとは裏腹に、声の主はフィリーネの頭からそっと手を離していく。

(嗚呼、待って。いかないで……)

 離れていった手が恋しくて、フィリーネは顔を上げて手を伸ばす。

 そして、手を伸ばした先には眩しい光が輝いていた。



 意識が浮上したフィリーネは、重たい瞼をゆっくりと開けた。

 目の前には梁材が剥き出しになった天井らしきものが見え、視線を走らせれば出窓のようなものがある。長方形をした窓からは外の明るい光が降り注いでいた。どうやら嵐はやみ、太陽が顔を出しているようだ。

 続いて天井から自分へと視線を下ろすと、フィリーネはベッドに横たわっていた。

(私、マツの木ごと崖から落ちてしまったのに助かったの?)

 崖から湖まで建物四階分の高さはあった。あの高さから落ちて無事に生還したなんて信じがたい。

 死んで幽霊にでもなっていないか、自分のほっぺを叩いて抓ってみる。


 痛いしちゃんと感覚はある。身体も透けていないので死んではなさそうだ。

 フィリーネは生きていることに安堵の息を漏らした。改めて周囲を観察してみたら、身体には温かなブランケットが掛けられている。

 誰かがフィリーネを助け、ここまで運んで介抱してくれたのだろう。

 着ている服も純白のドレスからゆったりとしたワンピースに替わっているし、きつく締められていたコルセットも外されている。

(助けてくれた人にお礼を言わないと。あと、いくつか質問もしたいわ)

 どうやって自分は助かったのかや、どれくらい眠っていたのかなどの情報が欲しい。それから眼鏡が無事かどうかも。

(眼鏡がないと、景色がはっきり見えなくて困るわね)

 フィリーネは天井に向かって手を伸ばす。自分の腕の辺りはまだくっきりと見えているのに、先へ行けば行くほどぼやけていく。


 フィリーネに見えている世界は基本的に遠くのものがぼやけている。

 アーネストとの婚約が決まり、王太子妃教育を夜遅くまで頑張っていたせいか、視力は昔と比べてどんどん悪くなっていった。

 今では眼鏡がなければ遠くにいる人の顔の判断はできないし、黒板の文字も読めない。

 フィリーネにとって眼鏡なしの生活は死活問題。しかし、あの高さの崖から落ちたのだ。きっと無事ではなかったのだろう。命が助かっただけでも奇跡と思うしかない。

 そんなことを考えていたら、不意に近くで低い声がした。



「起きたのか。気分はどうだ?」

 ベッド脇には人がいて、背もたれつきの椅子に座っているようだった。声音からして二十代くらいの青年だと思う。

「あの、わた……」

 フィリーネはけほけほと咳き込んだ。喉が渇ききっていて思うように声が出ない。

 すると、青年が側の丸テーブルに置かれている水差しを手に取ってコップに水を注ぎ、差し出してくれた。

 フィリーネは起き上がってコップを受け取ると、一気に飲み干す。マツの木に括りつけられてから一度も何かを口にしていなかった。それもあってか普段と同じ水のはずなのに、たった今飲んだ水は十七年間生きてきた中で最も美味しく、甘露だった。


 もう一杯飲むか訊かれたが、フィリーネは首を横に振って断る。

「ありがとうございます。とても美味しかったです。えっと……」

 彼の名前はなんと言うのだろう。名前を呼びたいのに分からない。

 青年はそんなフィリーネを察し、空になったコップを受け取りながら自己紹介をする。

「私の名はシドリウス。気分はどうだ? 具合の悪いところは?」

 シドリウスはフィリーネの容態を事細かに訊いてくる。もしかしたら大湖近くに住む町医者なのかもしれない。


 フィリーネは意識を自分自身に向けてみる。

 今のところ気分は悪くないし、具合の悪いところもない。

 大丈夫だと口を開きかけると、それよりも先にシドリウスが気遣わしげな声を上げた。

「大変だ。手首に擦り傷がある。すぐに手当しないと」

 シドリウスは椅子から立ち上がると奥の部屋へ消えていく。すぐに戻って来た彼の手には、小さな陶器の壺が握られていた。蓋を開けたら中には塗り薬が入っている。

 シドリウスはそれを指で掬い、フィリーネの手首の傷口に塗り始める。

「痛っ」

 ひんやりとした塗り薬が傷の上に載った瞬間、鋭い痛みを感じてフィリーネの頬が引き攣った。それに反応してシドリウスの動きがピタリと止まる。


 視界がぼやけていても、シドリウスの困っている様子が伝わってくる。

 たかが擦り傷程度で音を上げられたのだから無理もない。

 フィリーネはグッと唇を噛みしめてから弁解する。

「ごめんなさい。痛みに驚いてしまっただけです。どうぞ、続けてください」

「……多少染みるとは思うが治療のためだ。少しの間我慢してくれ」

 シドリウスはそう言うと黙々と手当を再開した。

 それから暫くして。


「これでよし」

 ようやっと傷の手当が終わり、シドリウスが満足そうな声を上げた。

 フィリーネは壺に蓋をするシドリウスにお礼を言う。

「どうもお世話になりました。あの、シドリウス様。差し支えなければその塗り薬をいただけませんか?」

 正直な話をすれば、まだ服の下に隠れている擦り傷りがヒリヒリしている。

 マツの木に括りつけられていた手首以外の部分には、同じ傷があるに違いない。しかし異性の前で服を脱ぐのは抵抗があるし、身体を見られるのは恥ずかしい。


(本当だったら薬をもらうにしてもお金がいる。だけど私には払えるものがないから)

 身一つでマツの木に嫁がされたフィリーネは、豪華な純白のドレスとショートベール、靴が用意されたが、お金になるような装飾品は持たされなかった。

 助けてもらい、さらには薬をくれなどという不躾な要求にシドリウスは気を悪くしたかもしれない。

 不安を覚えたフィリーネは下を向く。


「確かに。痛みがぶり返したら大変だな。好きなだけ使うといい」

 断られても仕方がないと思っていたのに、彼は快く塗り薬を渡してくれた。

「あ、ありがとうございます!」

 親切な町医者に助けてもらえて良かった。受け取った塗り薬の壺を眺めながらをそんなことを思っていたら、不意に目端で何かが動いた気がした。

 好奇心から顔をそちらに向けてみたら、いつの間にか目の前には小さな子供が立っている。


「きゃああっ!」

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