免罪符となりうるもの 〜檜山〜

早里 懐

第1話

外の景色が夜から朝へと移り変わる頃、私は目を覚ました。


ディスプレイの眩しさに目を細めながらスマートフォンの画面を確認した。

時刻は午前5時を少し回ったところだった。


妻を起こさぬようにゆっくりと寝室を出た。


私はキッチンに立ち息子のお弁当作りを開始した。


寝ぼけ眼をこすりながら、ベーコンを焼いて、卵焼きを作った。


卵焼きは少し焦げてしまったが味は上々だ。


息子も許してくれるだろう。


最後に彩のためのブロッコリーを添えて完成だ。



思ったよりもお弁当作りが早く終わったため、次に晩御飯の仕込みを行うことにした。


晩御飯は最近私の得意料理に加わったハヤシライスだ。


ルーを溶かす前の状態までレシピを進めた。



その時だ。

階段を降りてくる足音が聞こえた。


おそらく妻だ。


長く一緒に生活していると足音だけで家族の区別がつくようになってくるのだから面白い。


扉が開いた。


やはり妻だった。


おはようと挨拶を交わすと、妻はキッチンの様子を静かにながめていた。


何かを考えている。



妻がゆっくりと口を開いた。

「何を企んでいるの?」と。


…。


…。



私は妻からの「ありがとう」をどこかで期待していた。

しかし、妻は私の浅はかな行動を全て見抜いていたのだ。

世の中はそれほど甘くないことを改めて認識した。




そう。

何を隠そう私は1人で山に行くことを企んでいたのだ。


お弁当作りや夕飯の準備は、そのことに対する免罪符だったのだ。

しかし、私にとっての免罪符は妻からするとただの日常でしかない。


全くと言って良いほど効果がなかった。



そのことを本能的に察知した私は開き直り、妻に直球勝負を仕掛けた。

「今日山に行こうと思っている…。1人で…

」と…。



「ふ〜ん」

妻は打球速度約190km/hの特大ホームランを打って洗面所へと消えていった。





しかし、私は諦めない。


洗濯物をたたみ、食器を片付けるという浅はかな行動を怒涛のように繰り返したことでなんとか妻の許しを得ることができた。


私はルーを溶かす前のハヤシライスを冷蔵庫に入れ、妻の気持ちが変わる前に急いで山登りの準備を整えて出発した。



今日登る山は矢祭町の檜山だ。


矢祭山駅の駐車場に車を停めた。


向い側には土産物屋があった。

ご婦人方が鮎や団子の串焼きを炭火で焼いていた。


私はそそられる食欲を押さえ込みながら線路を渡った。


すぐにあゆのつり橋が目に入った。


赤い欄干が緑の背景に映えていた。


あゆのつり橋を渡り、まずは夢想滝を目指した。


透き通った水が流れる綺麗な沢沿いを歩く。

水のせせらぎが暑さを幾分か和らげてくれた。


夢想滝にはすぐに辿り着いた。


マイナスイオンを存分に浴びた。




その後は山頂を目指して歩いた。


急登は無くとても歩きやすい。


また、恐れていたメマトイやアブもいない。


樹林帯の中を気持ち良く歩いた。



しばらくすると林道に出る。


タイヤ痕があるため車が走るのだろう。

そのような道を少し歩くと檜山山頂の取り付きにたどり着いた。


檜山山頂までの方向を示す看板と一緒にマムシに注意という看板があった。



思い返せばこの時からだ。

嫌な予感がしていたのは…。



ここからは少しばかり斜度が増すが、九十九折りになっているため急登というほどでもない。


尾根に出て少し歩くと男体山のビュースポットがある。


しかし、雲がかかっていたため、残念ながら男体山の山体を拝むことは叶わなかった。


ここまでくれば山頂まではもう少しだ。


尾根を100mほど進むと山頂に辿り着くはずだ。


山頂は眺めが良いという情報は得ている。

はやる気持ちを抑えて山頂へ向けて歩いていた。


その時だ。


私の目の前を一匹のマムシが悠々と横断して行く。


噛まれたら一大事だ。


私は先ほどの取り付きで見たマムシに注意の看板を思い出した。


嫌な予感が的中したのだ。


しかし、私は頂上を目指している。


怯んでいるわけにはいかない。


私は自らを奮い立たせた。

そしてマムシに対して言ってやった。




「人を噛んではいけないよ」と。


看板に書かれていた通り私はマムシに対して注意をしてやったのだ。


マムシはヘソを曲げたのか、そそくさと草陰に消えていった。




山頂は360°までとは言わないが広範囲に景色を楽しむことができる。


条件が揃うと富士山や八ヶ岳も見えるとのことだ。


次は空気の澄んだ冬に来ようかと思いながらベンチで少しばかり休憩した。




しばらくするとスズメバチが私の周りを旋回しだした。


スズメバチに注意という看板は道中になかったため、注意はせずに大人しく下山することにした。


下山時は友情の森方面に向かった。


ロッジの脇を通り、雄大な久慈川沿いを歩き駐車場まで戻ってきた。



帰りの道中、私はあることを思いついた。


それは、1人山行を許可してくれた妻に対して、シュークリームを手土産にするということだ。


帰宅後、私は速やかにシュークリームを妻に献上した。



私は冷蔵庫から作りかけのハヤシライスを取り出して温め直した。


しばらくすると、ふつふつとしてきたためIHの電源を切り、ルーを割り入れた。


焦げ付かないようにおたまでぐるぐるとハヤシライスをかき混ぜた。


ダイニングテーブルでは妻が美味しそうにシュークリームを頬張っている。





そう。

実は私は知っているのだ。

妻に対する最も効果的な免罪符を。




家事よりも菓子だ。

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