五八.葵のピアノ

 蔵前くらかみの奥まった場所に芝原しばはら家の屋敷はある。この周辺は空襲の被害が少なかった地域だが、やはり無傷とはいかなかったようで、屋根や壁には修繕の跡がある。かつらと憲子のりこが門をくぐり、ドアの呼び鈴を鳴らすと、小走りに近寄る足音がしてドアが開いた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 墨田すみだ女学校のセーラー服姿の芝原あおいが頭を下げる。

「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」

 かつらも頭を下げた。隣に立つ憲子が挨拶する。

「初めまして、かしわ憲子と申します。あずささまとは女学校三年生まで同級生でした」

「わたくしはお茶を持って参りますので、それまで客間でお待ちください」

 葵はスリッパを指し示すと、二人を屋敷の玄関そばにある洋間へ案内した。

 しばらくして、お茶の載ったお盆を持つ葵と、着物を着た中年女性がやってきた。かつらは女性の眼差しが自分と憲子に注がれているのに気づき、慌てて立ち上がる。

横澤よこざわかつらです」

「柏憲子です」

 頭を下げる二人に女性は話しかけた。

「葵と梓の母の、芝原杏子きょうこでございます。何もおもてなしできませんが、葵さんがどうしても梓さんの形見分けがしたいと申すもので」

 かつらは肩掛けかばんから紙袋を取り出した。憲子も後に続く。

「みかんです。少しですが梓さまにお供えしてください」

「クッキーです。お参りが遅くなって申し訳ございませんでした」

 杏子はクッキーの入った箱を見て機嫌が良くなったようだ。

「葵さん、形見分けが終わったら、お二人を仏間へご案内してあげて」

「分かりました」

 杏子はみかんとクッキーを持って戻っていった。

「わたくしの母です」

 葵は一言だけ言うと、お茶をテーブルの上に置き、二人の向かいに座った。


「ところで、ハガキに書かれていた成田なりたさんとのご婚約というのは」

 かつらが話をきり出すと、葵の表情がこわばった。

「わたくしが結婚しないと、この家が人手に渡ることになるんです。結婚したら成田さまがこの家を買い取るというお約束なんです」

「まるで『安城あんじょう家の舞踏会』みたい」

 思わずかつらは声を漏らした。

「『安城家』?」

 憲子が不思議そうに尋ねる。

「こないだ京極きょうごくさんと見た映画よ。没落した華族の家を買い取りたいって成金の男が言ってきて」

 映画の話を続けそうになったので、あわててかつらは口を閉じた。憲子が優しく呼びかける。

「確かに家がなくなったら困りますものね。それに梓さんとの思い出もおありでしょうし」

「ええ。ここでお姉様にピアノをご披露して、お姉様が喜ぶのを見るのが好きだったのです」

 葵は洋間に置かれたピアノを見た。

「このピアノは、亡くなった父がわたくしたちのために買ってくれたものです。子どもの頃は将来ピアニストかピアノの先生になりたかったのですけれど、戦時中はピアノも弾くことができませんでした。戦争が終わって、ピアノを思い切り弾くことができるようになったのが一番嬉しかったです。女学校を卒業してからも、ここで毎日ピアノを弾いておりました。ですが、成田さまは音楽に全く興味がなく、母もピアノを売ってわたくしの結納金にすると言い出したんです」

 かつらはうなずくと言った。

「それでわたしにハガキをよこされたんですね」

「ええ。来週の土曜、ピアノを運びに運送屋さんが来るので、その隙にここを抜け出して、『墨田すみだホープ』の大口おおぐちさんのところに行きたいのです。ピアノを売ったお金は母と成田さまへのお詫び代として置いていくつもりです」

「そうだったの。柏憲子さんは今『墨田ホープ』で働いていらっしゃるのよ。来月喫茶店を開店するから、きっと葵さんも店員として働けるわ」

 かつらは憲子を見る。憲子は葵に微笑んだ。

「みんないい人です。私が保証しますわ。それと、もしかしたらピアノも弾けるかもしれませんよ」

「ピアノもですか」

 葵の表情が明るくなった。

「葵さんが売られたピアノを私たちの店で買い取らせてもらうことができれば、お店で葵さんのピアノを弾くことができますわ。もちろん、お金がいる話なので店長に相談しなくてはいけませんけれどね」

「是非、そうさせてください」

 葵の目に光が戻ったようにかつらには見えた。

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