二六.バラックの舞踏会

 時計は午後三時を回っている。厩橋うまやばしの電停に着いたかつらとたかしは都電を降りた。

「今日は本当にありがとうございました」

 かつらは隆に一礼する。

「こちらこそ、気分を悪くさせてすまなかった」

 隆もようやく落ち着いたようで、いつもの穏やかな顔に戻っている。

「いいえ、気にしないでください。またお店に来て下さいね」

「ありがとう。それじゃまた」

 隆は軽く手を挙げると宿へ戻っていく。遠ざかる隆を見送ると、かつらは胸に下げた翡翠ひすいの帯玉を袋にしまった。

京極きょうごくさん、それじゃまた」


 横澤よこざわ家に戻ったかつらは家で待っていた康史郞こうしろうに出迎えられた。

「お帰り姉さん。映画どうだった」

 下駄を脱ぎながらかつらは答える。

「良かったわ。それより康ちゃんにお土産があるの」

 かつらは肩掛けカバンから新聞紙に包まれた物を取りだすと康史郞に渡した。包みを開いた康史郞の手が止まる。

「このズック、どうしたの」

「闇市で安売りしてたのを買ってきたの。流された靴の代わりよ。しばらくこれで我慢してちょうだい」

「……ありがとう」

 康史郞は礼を言ったが、明らかに落胆しているようだ。心配したかつらは康史郞の前に座った。

「何かあったの」

「いや、ズックをなくしたのは俺のせいなのに、お金を使わせちゃったからさ」

 康史郞は言葉を濁した。

「康ちゃんは今日も映画に行くのを断ってたし、わたしに遠慮しているのかな、と思ってね」

「そんなことないよ。それより京極さんとのランデブーはどうだった」

「楽しかったわよ。映画館ではら節子せつこの出てる『安城家あんじょうけの舞踏会』を見て、不忍池しのばずのいけのベンチでお昼を食べてから康ちゃんのズックを買って」

 その後起こった出来事について、あえてかつらは触れなかった。

「どんな映画だったの」

 康史郞が尋ねる。

「元華族の安城家で最後の舞踏会が開かれるの。華族の人たちも生きていくのに大変っていうちょっと切ない映画だったわ。ラストは、誰もいない広間で原節子の演じる娘とお父さんが社交ダンスをするのよ」

 かつらは立ち上がると、康史郞に手を差し出した。

「康ちゃん、踊りましょ」

「俺、ダンスなんてできないよ。京極さんなら踊れるかもしれないけどさ」

「わたしも盆踊りしかしたことないわ。それに今は康ちゃんと踊りたいの」

 そう言いながら、かつらは立ち上がった康史郞の肩に手を回し、見よう見まねでステップを踏み始めた。

「姉さん、むちゃくちゃだよ」

 そう言いながら、康史郞は必死にかつらの動きに合わせて踊っている。かつらは映画館で流れていた音楽をうろ覚えで口ずさむ。

 足がもつれて動けなくなるまで踊った二人は、そのまま床に倒れ込んだ。どちらともなく笑い声が上がる。

「康ちゃん、少し気が晴れた?」

 かつらの問いに、康史郞は「うん」と言うと体を大の字に伸ばした。

「わたしたちも、また明日から頑張りましょう。じゃ夕ご飯を作るわね」


 康史郞は台所に出て行ったかつらを見送りながらつぶやいた。

「姉さんごめん。これ以上心配かけたくないけど、俺は約束を果たさないといけないんだ」


 その夜布団に入ったかつらは、昼間つけていた翡翠の帯玉を取りだし、掌に載せていた。目隠し代わりの布の向こうから康史郞の寝息が聞こえてくる。かつらはこの帯玉を母が見せてくれた時のことを思い返していた。父が満州まんしゅうで戦死した後、母はかつらに帯玉が父からの贈り物であることを話してくれたのだ。

『あなたがお嫁入りするときにはこの帯玉を渡すから一緒に持っていきなさい』

 そう言ってくれた母の表情を思い返しながら、かつらは帯玉に語りかける。

(お母さん、わたし、京極隆さんが好きみたい。あの人となら結婚してもいいかも。でも康史郞を置いてはいけない。どうしたらいいの)

 闇の中でかつらは帯玉を握りしめた。

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