十八.招かれた客

 康史郞こうしろうたかしは、洗い場で体の汚れを落としてから混み合った浴槽に浸かった。康史郞が尋ねる。

京極きょうごくさんはどうして姉さんと一緒に来たの」

 隆は頭に乗せた手ぬぐいで眼鏡の曇りを拭きながら答えた。

横澤よこざわさんから君のことは時々聞いてたから、お店で君を探しに行くと聞いて手助けしようと思ったまでさ」

「姉さんが俺のことを」

 康史郞は知らないところで自分の話がされていたのが面映ゆかった。

「君が家のことを色々してくれるから、安心して働けると褒めてたよ。もうちょっと勉強もしてほしいって言ってるけど」

「俺は昔から勉強は苦手なんだ。いつも兄貴たちに宿題を教わってた」

 康史郞は浴槽に肩を沈めた。隆はそのまま話し続ける。

「私にも弟がいた。東京大空襲の夜、両親と一緒に行方不明になったままだ」

 隆は手ぬぐいを目に当てた。手に持った眼鏡が震えている。康史郞には隆が涙をこらえているように見えた。

「もしかして、京極さんはその弟さんを思い出したから」

「横澤さんには、私のようにひとりぼっちになってほしくはなかった。いつも元気を分けてもらってたからね」

 隆は眼鏡をかけると、康史郞を見た。

「お姉さんが待ってるといけないし、そろそろ出ようか」


 三人が横澤家に戻ると、家の前で戸祭とまつりが待っていた。手に鍋を持っている。

「良かった、無事見つかったんだな」

「ご迷惑かけて本当にすみません。ほら、康史郞も」

 かつらは康史郞の背中を押す。そのまま康史郞は頭を下げた。

征一せいいちも心配してたんでな。とりあえず今日は早じまいしたから、店の残りで良かったら食べてくれ」

 戸祭は鍋の蓋を開けた。味噌汁にうどんやネギを入れたおじやが入っている。

「ありがとうございます。夕飯まだだったので助かりましたよ。今お鍋持ってきますね」

 かつらは台所から鍋とお玉を持ってきて戸祭の鍋の中身を移した。

「ラジオによると、とうとう洪水が堤を越したらしい。明日は休みだな。兄さんも気をつけて出勤しなよ」

 戸祭は空になった鍋を持って帰っていった。かつらは改めて声をかける。

「それじゃ、京極さんも一緒に夕ご飯にしましょう」


 横澤家にあがると、隆は木箱に立てかけられた家族写真に一礼した。かつらはそのまま鍋をちゃぶ台に置く。

「支度しますんで少々お待ち下さい」

 かつらが台所に食器を取りに戻った間に、康史郞は家族写真を持ってきた。

「これが姉さんで、一番小さいのが俺。中央が長男の羊太郎ようたろう兄さんで、右に座ってるのが親父の写真を持った母さん。そして俺の隣が次男の勇二郎ゆうじろう兄さん。勇二郎兄さんには双子の弟がいたんだけど、生まれてすぐ亡くなった。それで俺の名前には数字がついてないんだ」

「紹介ありがとう。私の弟の名前はやすしというんだ。空襲の時は中三だから、ちょうど今の君くらいだな」

「そうなんだ」

 そのまま二人は黙り込む。その時、台所からかつらが戻ってきた。味噌汁椀とご飯茶碗をお盆に乗せている。

「お客さんなんて久し振りだから、あり合わせの食器でごめんなさい」


 ちゃぶ台を囲みながら、三人は夕食を食べはじめた。おじやを取り分けながらかつらが説明する。

「このおじや、常連さんの注文で出来た隠し料理で、『まつり』の閉店前にうどんが余ってたら作るんです。お値段は少し高めですけどね」

「なるほど。お金が余ってたら今度お店で頼んでみよう」

「京極さんはいつも何を頼んでるの」

 康史郎の問いに隆はお茶を飲みながら答える。

「日替わり魚料理とかけうどん、たまにお酒だね」

「いつもありがとうございます」

 かつらは頭を下げた。


「そうだ、宿題がまだだった」

 夕食後、自分の肩掛けカバンを見た康史郞はあわてふためく。

「私で良かったら見ようか」

 隆の申し出をかつらは丁寧に断った。

「これ以上京極さんに迷惑はかけられません。わたしが見ますから」

「それでは私はこれで。借りた服は洗ってからお返しします」

 隆はカバンと自分の服を入れたリュックを持って立ち上がった。

「では厩橋うまやばしまで送りますね」

「いつもと逆だね」

 隆は笑顔でかつらに言うと玄関に向かった。


 厩橋へと向かいながら、かつらは隆に話しかけた。

「今日は本当にありがとうございました。正直、弟が京極さんを見て何て言うか心配だったんです。あの子も兄を亡くしてますから」

「康史郞君はお兄さんたちに随分かわいがられていたんだな。私も久し振りに弟に会えたような気がして嬉しかったよ」

「京極さんの弟さん、ですか」

 かつらの足が止まる。

「私の両親も、弟の靖も東京大空襲の時から行方不明なんだ。今でも上野辺りで戦災孤児らしき少年を見かけるとつい顔を見てしまう。靖はもっと大きくなってるはずなのにな」

 隆の言葉に心を動かされたかつらは、重い口を開いた。

「戦争が終わってすぐは、ああいう子がもっとたくさんいました。空襲で焼け出された子どもたちが靴磨きなどをして日銭を稼いでたんです。孤児の施設に入った子もいたようですけど、残った子は寒さと飢えでどんどん地下道で亡くなっていって。康史郞をあんな目には遭わせたくない。そう思って必死で働いてきたんです」

「君は本当に立派な姉さんだ。だからこそもっと自分をいたわってほしいんだ。私が言えた義理じゃないけどな」

 かつらは隆の言葉を胸の奥にしまい込んだ。

「それじゃ、また土曜に」

 隆は厩橋の手前で挨拶すると、手を振って去っていく。

「おやすみなさい」

 かつらは胸が一杯でそれだけ言うのがやっとだった。

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