十七.銭湯で見たもの

 濡れ鼠の三人がようやく落ち着きを取り戻した時には、空に星が光りはじめていた。

「あの橋の下にズックらしき物が引っかかってたから、釣り上げようと思って近づいてたんだ」

「康ちゃん、今度から一人で無茶するのは止めてちょうだい」

 かつらは康史郞こうしろうをたしなめた。康史郞はうつむいたまま謝る。

「姉さん、本当にごめん」

 かつらは康史郞の頭をなでると努めて明るく呼びかけた。

「とりあえず、家に戻って着替えてから銭湯に行きましょう。京極きょうごくさんもよかったら」

「だけど、着替えが」

 水滴のついた眼鏡を手で拭いているたかしにかつらが申し出る。

「亡くなった兄の服で良かったら、お貸しします」

 康史郞は驚いたように隆の顔を見た。改めてかつらは紹介する。

「この人は京極隆さん、お店の常連さんよ」

「初めまして。お姉さんにはいつもお世話になってます」

 眼鏡をかけ直すと、隆は頭を下げた。


 隅田すみだ川の脇を厩橋うまやばしに向かって歩きながら、康史郞は横澤よこざわ家の災難について説明した。

「とりあえずトタンは壊れた窓の所に立てかけといたけど、屋根にきちんと戻すにははしごを借りないとダメだと思うよ」

「そういえば、あの屋根は下から兄さんが持ち上げたトタンを康史郞と勇二郎ゆうじろうで架けたのよね。どうやって外したのかしら」

 かつらの疑問に康史郞が答えた。

「たぶん壊した窓から屋根によじ登ったんだろうな」

山本やまもとさんが見たという子どもたちの仕業だとしたら、よほど身軽だったのね。それにしても、どうしてそんなことを」

「何か心当たりは」

 しんがりを歩く隆が尋ねる。

「しばらく前、道路ができるからこの家の土地を買いたいって男の人が来たの。それと関係があるのかも」

「だからって家を壊すことはないじゃないか」

 隆は嘆息する。

「住めなくなったらわたしたちが出ていくと思ったのかもしれません。でも他に頼れるところはないし、家族で苦労して作った家を手放す気にはなれませんから」

 かつらは自分に言い聞かせるように言った。


 三人は横澤家へ到着した。康史郞の言ったとおり、壁にトタンが立てかけてある。

「とりあえずトタンは誰かに取られないよう屋根に乗せて、窓は私が持ってきた油紙でふさいでおこう」

「すみませんがよろしくお願いします。わたしは着替えを用意してきますので」

 かつらは南京錠を外すとドアを開けた。

「俺、あっちで着替えてくるよ」

 康史郞は自分の着替えを取り出すと台所に向かう。かつらは洗濯ひもに掛かったもんぺを大慌てで取り込んだ。


 外に残った隆はトタンを屋根に押し上げると、カバンから油紙と画鋲の入った木箱を取りだした。

(念のため持って来といて良かった)

 油紙を窓枠に当てようとした隆の視界に、壁際の木箱に立てかけられた横澤家の家族写真が飛び込んだ。

(あの女学生が横澤さんだとすると、中央の青年がお兄さんか。四人きょうだいだったんだな)

 実際は五人きょうだいなのだが、写真を見ただけでは分からない。その時、もんぺに着替えたかつらがカーキ色の大きなリュックサックと、入浴用品が入った風呂敷包みを持って外に出てきた。ランニングシャツと羊太郎ようたろうのズボンに着替え、裸足に古いズック靴を履いてきた康史郞に呼びかける。

「康ちゃん、京極さんの着替えと手ぬぐいが入ってるから預かってね」


 壊れた窓枠を油紙で塞いだ後、三人は銭湯へ向かった。リュックを背負った康史郎が尋ねる。

「京極さんはいくつなの」

「二十五になったばかりだよ」

「それじゃ、姉さんとは四つ違いだね」

 かつらは隆に呼びかけた。

「帰ったら夕ご飯にしますので、良かったら京極さんも食べてってください」

「いいのかい」

「油紙と康史郞を助けてもらったお礼です。といってもかぼちゃの煮付けですけど」

 かつらと隆のやりとりを聞いた康史郎が慌てる。

「ごめん、ズックを探しに行ったんで夕飯作ってないんだ」

「しょうがないわね。わたしが代わりに作るわ」

「ありがとう」

 お礼を言う康史郎に続けて隆が申し出た。

「ところで、土曜の午後で良かったら家を直すのを手伝いたいんだけど、どうかな」

「本当ですか」

 今度はかつらが喜びの声を上げる。

「それじゃ、はしごと窓用の板、蝶番用のねじ回しが必要ね。戸祭とまつりさんか工場の人たちに心当たりがないか聞いてみるわ」

「板は明日くず屋に行って探してくるよ」

 康史郞も元気を取り戻したようだ。

「後は洪水がどうなるかだな。もし水が工場に来たら仕事どころじゃないし」

 隆は明日の仕事が気になるらしい。

「京極さんの働く工場って、どこにあるの」

 康史郎の問いに隆は答えた。

総武そうぶ線の小岩こいわ駅近くさ。機械も紙も水浸しになったら大変だから、今日一日土嚢どのうを積んで中に水が入らないようにしてたんだ」

「作業服、濡らしてしまってすみません。土曜までに洗濯しておきますね」

 謝るかつらに隆は答えた。

「大丈夫、私が自分で洗うよ」


 銭湯は洪水で水道が止まるのを恐れた人のせいか、普段より混んでいる。男湯の脱衣場で、康史郞はリュックから羊太郎の国民服と冬用のネルの下着、越中ふんどしを取りだした。

「兄さんは復員してすぐ亡くなったから、俺が兄さんの服を時々着てるんだ。夏用のズボンは俺が使ってるから、冬服を貸すみたい」

 康史郞はそう言いながら脱衣かごを二つ置いた。一つは自分、もう一つは隆の分だ。隆が問いかける。

「私は南方に出征してたけど、君の兄さんはどこの軍隊にいたんだい」

「志願して予科練に入ったんだ。飛行機で出撃する前に終戦になったらしいけど」

 隆は何事か考えていたらしく、ややあって一言答えた。

「そうか」

 隆はそのまま自分の服を脱ぐと、手ぬぐいを持って浴場に向かう。その背中を見た康史郞は驚いた。肩甲骨の辺りに赤く盛り上がった傷跡が見えたのだ。銭湯に来れば傷跡や入れ墨持ちの客が普通に居合わせるので、それ自体は驚きではなかった。

(戦場での傷かな。あの優しそうな人も南方で戦ってたんだ)

 康史郞には、優しい目の隆が戦場にいるところが想像できなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る