一〇.芝原葵の事情

 康史郎こうしろうが持ってきたお茶をちゃぶ台に置く。銘仙を縫い合わせるかつらの傍らで、正座したままのあおいが話し出した。

「わたくしの家、芝原しばはら家は上野や銀座に倉庫やビルを持っており、父が管理人をしておりました。東京大空襲では蔵前くらまえにある自宅も被害を受けましたが、父や使用人の方々が火を消してくださり、なんとか全焼は免れました。ですが無理がたたって父が体調を崩してしまい、去年亡くなったのです。その上、進駐軍が焼け残った芝原家のビルを徴用したため、家賃が入らなくなってしまいました。お給金も払えなくなって使用人も辞めていき、残ったのはわたくしと母、使用人の野川のがわゆたかさんだけになりました。わたくしの学費も見込みが立たず今年の春、女学校を四年で卒業したのです」

「進駐軍が相手ではどうにもならない。辛いものだな」

 湯飲みを持った大口おおぐちがしみじみとつぶやく。

「母はわたくしにも姉のように立派な方と結婚して欲しいと言い、野川さんからご紹介された不動産屋の成田なりた豪快ごうかいという方の見合い話を持ってきました。今日その人と会ってきたのですが、三十歳を越えた土地成金のような方で、とても結婚する気にはなれませんでした。しかし母は『我が家の借金返済のために是非とも結婚なさい』と譲りません。絶望したわたくしは見合い場所の料亭を飛び出し、都電に飛び乗ったのです。厩橋うまやばしで都電を降りたとき、このままお姉様やお父様のところに行きたいと思い、とっさに隅田すみだ川に飛び降りようとしました。それを止めてくださったのがこのお二人だったのです。本当にありがとうございました」

 葵は康史郎と大口を見た。

「俺には結婚のことはわかんないけどさ、死に急ぐことはないよ。もう一度お母さんに話してみたらどうかな」

 康史郎が葵に訴えるが、葵は表情を変えず話し続ける。

「母は姉が亡くなってからすっかり人が変わってしまいました。家のやりくりも野川さんに任せっきりで、わたくしが外で働きたいと言っても『お嬢様は玉の輿に乗ればいい』と取り合ってくださいません。わたくしの思い込みかもしれませんが、野川さんは母と結婚してうちを乗っ取るために、邪魔なわたくしを追い出そうとしているような気がしてならないんです」

「そんな恐ろしいこと、本当にあってほしくないわ」

 かつらはそう言いながら、袖を縫い付けた赤い糸を玉留めした。

「わたしが助けてあげられればいいけど、うちも余裕がないんです。去年、軍人だった父の恩給が止められてから貯金がなくなってしまい、亡くなった兄の布団や靴を質入れしてなんとか凌ぎました。今も昼と夜の仕事を掛け持ちして暮らしているんです。ごめんなさい」

 頭を下げるかつらを葵は悲しげに見つめると、手元の巾着を開いた。中から出てきたのは小型の懐中時計だ。

「姉の形見です。すぐお金になりそうなのはこれくらいしか」

「それは本当に困ったときまでとっておいて」

 かつらは葵に言いながら、自分のがま口に入っている翡翠ひすい玉のことを思い浮かべた。


 大口が難しい顔で話しだした。

「みんな大変なんだな。うちも両国りょうごく駅のそばで『墨田すみだホープ』という酒場をしていたが、酒が法律で出せなくなったせいで休業中でね。今日は店を出すとき世話になった浅草の萩谷はぎや政九郎せいくろうさんに、店を喫茶店に改装する相談をしてきたんだ。なんとか金は借りられそうだが、女給たちのためにも何かつなぎの仕事を見つけないと」

「『まつり』のおやじさんに相談してみてはどうでしょう。店の常連さんには浅草橋あさくさばしの問屋さんや闇市の商人の方もいらっしゃいますし、何かお仕事を紹介してくださるかもしれませんよ」

 かつらの申し出を聞いた大口はうなずいた。

「ありがとう、近いうちにまた寄らせてもらうよ。店には身寄りのない女給たちの部屋もあるから、お嬢さんもどうしても行くあてがなかったらうちに来てくれ」

「どうしてそんなに親身にしてくださるのですか」

 大口は警戒しているような葵の問いに答えた。

「俺はシベリア帰りだ。大勢の仲間が故郷に帰りたいと願いながら倒れ、今も極寒の地で眠りについている。もう目の前で命が失われるのはたくさんだ。それだけだよ」

「すみませんでした」

 頭を下げる葵に康史郎が言った。

「大丈夫、おじさんには奥さんも娘さんもいるんだから、結婚なんて考えてないよ」

「康ちゃんったら、そういうことじゃないのよ」

 かつらは康史郎をたしなめると、できあがった銘仙を持って立ち上がった。

「葵さん、お茶を飲んだら向こうで着替えましょうか。大口さん、康史郎とちょっと外の様子を見てきてもらえませんか」

「了解だ」

 大口は康史郎を連れて外に出る。その間に葵とかつらは自分のお茶を飲み干し、目隠しの布の向こうに入った。

 葵はかつらの服を脱ぐと、銘仙に袖を通す。幸い縫い合わせた跡はあまり目立っていない。

「ありがとうございます。本当に助かりました。わたくし、お姉様のような皆に慕われる人になりたいんです。また今度、家でお姉様の話を伺ってもよろしいでしょうか」

「ええ。うちの住所を渡しておくので、いつでもハガキを下さいね」

 かつらは日めくりの裏をメモ用紙代わりにして横澤よこざわ家の住所を書き、葵に渡す。その時、ドアを叩く音がした。

「姉さん、開けて」

 康史郎が小声で呼びかけている。ただならない雰囲気を感じたかつらは玄関に向かった。


 かつらがドアを少し開けると、康史郎が中に滑り込んできた。

「厩橋の辺りで着物のおばさんと、背広のおじさんがうろうろしてるんだ。もしかして葵さんを探してるんじゃないかな。大口さんはうちの前で見張ってるよ」

「それはきっと、母と野川さんですわ」

 声を聞いたかつらは振り返った。銘仙を着て巾着袋を持った葵が立っている。

「これ以上皆様にご迷惑はかけられません。お見合いの件、母ともう一度話し合ってみます」

「葵さん」

 かつらの呼びかけに葵は頭を下げた。肩が少し震えているように見える。

「横澤さん、お茶をごちそうさまでした」

 葵は草履を履くと玄関のドアを開け、外に出ていく。厩橋に向かって歩く葵を見送りながら、かつらはつぶやいた。

「梓さん、妹さんのために何も出来なくて、ごめんなさい」

「いや、銘仙が直ったのは横澤さんのお陰だよ。さて、もう店に帰らないと。ハナエたちが心配しているだろうからね」

 大口は軽く手を上げると、両国駅の方向に向かって歩き出した。

「さようなら」

 康史郎が大口に呼びかけるが、かつらの心は女学校の親友が亡くなっていた事実にまだ揺れ動いていた。

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