第二章 幸せはどこに

八.赤い銘仙の少女

 昭和二十二年の夏も暑く、最高気温が三十度を超す日が続いていた。

 中学校は夏休みに入ったので、康史郎こうしろうは親友の征一せいいちと宿題をしながら留守番をするのが日課になっている。宿題が済んだら征一の借りてきた漫画を読んだり、くず鉄拾いに出かけた後で洗濯や夕食の支度をする。姉のかつらには「怪しい人が来たら相手にしないで」と言われていたが、客も特に来ないので康史郎はのんびり過ごしていた。


 八月十日、日曜日。真夏の日差しが照りつける中、康史郎と征一は厩橋うまやばしの欄干の前で、橋を渡る都電をスケッチしていた。夏休みの自由研究にしようというのだ。さすがに暑いので学生帽の下に日よけの手ぬぐいをかぶせている。

「康ちゃん、そのスケッチブック描きやすそうだね」

「征一も良かったら描いてみるか」

「それは康ちゃんがくず鉄拾いのお金で買ったんだから、僕は遠慮するよ」

 康史郎の申し出を征一は断った。

「残念だな、代わりに描いてもらおうと思ったのに」

 康史郎は軽口を叩きながら征一のスケッチブックをのぞき込む。

「征一は俺より絵がうまいよ。さすが漫画好きだな」

「漫画とスケッチは同じじゃないよ」

 征一はそう言いながら鉛筆でデッサンを続けている。ちょうど都電が電停に停まり、数人の客が降りてきた。その中にひときわ目立つ赤い着物を身にまとい、巾着袋を提げたボブカットの少女がいる。

「あ、きれいな女の子がいる。スケッチしようかな」

 康史郎は少女をよく見ようと欄干から離れ、電停に近づこうとした。しかし、少女は一緒に降りてきた客たちをかき分けるように小走りに橋の上を走ってくる。進路上にいた康史郎は危うくぶつかりそうになった。

「うわっ!」

 康史郎はあわてて身をかわしたが、手に持ったスケッチブックを落としてしまった。拾い上げようとした康史郎の視線の先では、少女が草履を脱ぎ、そのまま欄干から身を乗り出そうとしている。明らかにただ事ではない。

「やめろ!」

 康史郎は欄干に乗ろうとした少女の体を引き戻そうと背後からしがみついた。女学生だろうか、康史郎よりも背が高い。

「離して!」

 少女は身をよじらせ、右手に持っていた巾着袋を振り回す。康史郎は少女を離すまいと着物のたもとを掴んだ。ビリッという音と共に少女の着物の袖が破れ、康史郎はたじろぐ。そこに、紺色の背広を着た男性の腕が少女と康史郎の肩を抱え込んだ。

「お嬢さん、落ち着くんだ」

 さすがに男性の力にはかなわないと見たのか、少女の動きが止まった。

「身投げするくらい困っているのなら、一緒に警察に行こう」

「そ、それは」

 少女は戸惑っている。康史郎は自分が少女の着物の袖を持っていることに気づき、頭を下げた。

「ごめん、破くつもりはなかったんだよ」

銘仙めいせんは直せるが、命はそうはいかん」

「メイセン?」

 男性の言葉に康史郎が問い返す。

「絹の絣だよ。戦前はたいそう流行ってた。とにかく、どこか落ち着ける場所で話を聞こうか」

「それなら俺んちに行こう。姉さんがいるから着物を直してもらうよう頼んでみるよ」

 康史郎の言葉に少女は草履をはき直すと頷いた。

「ありがとうございます。わたくしは芝原しばはらあおいと申します」

「俺は横澤よこざわ康史郎こうしろう、こいつは親友の戸祭とまつり征一せいいち

 康史郎に紹介された征一は、拾いあげていた康史郎のスケッチブックを差し出すと言った。

「僕が来たら家が狭くなるし、今日は帰るよ。助けがいるならすぐ呼んで」

「ああ。ところでおじさんは」

 康史郎が尋ねると、男性は背広を整えながら答えた。

「俺は大口おおぐち徳之介とくのすけ両国りょうごくで酒場をやっていたが休業中だ。家はこの辺なのか」

「ああ。案内するよ」

 康史郎は先に立って厩橋を戻り始めた。


 その頃、かつらは日曜の家事を終えて家の中で休憩していた。窓を開けていても暑いので、外出用のもんぺを洗濯紐に引っかけ、シミーズ一枚で布団に寝転びながらうちわをあおいでいる。

(こんな暑い日は京極さんも家でお昼寝してるのかな)

 ぼんやりと思いながらかつらが寝返りを打ったその時、突然ドアが開け放たれた。康史郎の声がバラックに響き渡る。

「姉さんいる? 大至急頼みがあるんだ」

 目隠し代わりの布を持ち上げたかつらは、康史郎の後ろに誰かいることに気づき、慌てて布を下ろした。

「ちょっと待って!」

 かつらはあわててもんぺを着ると、改めて顔を出した。康史郎の後ろには着物姿の少女と背広を着た男性が立っている。

「横澤かつらです。何のご用ですか」

「俺がこの人の着物を破いちまってさ、直して欲しいんだよ」

 康史郎は着物の袖を差し出した。赤い地に濃い朱色の格子模様がかかっている。その模様に見覚えがあるような気がしたかつらは、着物の柄をよく見ようと玄関に近づいた。かつらに少女が呼びかける。

「芝原葵と申します。どうか弟さんを責めないでください」

 かつらは少女の顔をまじまじと見つめると問いかけた。

「もしかして、芝原あずささんの妹さん?」

「お姉様をご存じなんですか」

 かつらと葵の間に奇妙な沈黙の時間が流れる。それを遮ったのは大口だった。

「まさか、『まつり』の店員さんの家だったとは」

「この間ご家族で来られた方ですね。狭い家ですがひとまずお上がりください」

 かつらは頭を下げた。

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