29.見果てぬ夢に身を焦がし【焦がす】
雑貨商たちに導かれ、路地の奥へと進んでいくと、かすかに鼻をかすめる香りがした。
俺の先を行く三白眼がそれに気づいたかどうかはわからないが、これは沈香の香りのようだった。
この地域では、客をもてなすために焚かれる香りであるが、俺たちのためにそうされている可能性は低い。そして、おそらく香の焚き方が下手なのだろう。焦げた木材のくすぶった煙の香りがした。
焦げた?
そう、エンデル青年の思いもきっとそうだ。香り高く焦がれていたはずが、今はきっとただ煙たいだけの燃えさしになっていっている。
この煙たいだけの不快な香りに、彼は気づいただろうか。
『不相応な望みに、身を焦がすのは辛いことだぞ』
あの雨の日、燃え上がる白檀の薪を前に、そういえば蛇王が言っていたものだ。
あの日。雨が強くて蛇王が雨宿りしていた廃墟から、しばらく帰宅できなかった。
それなもので、俺はまだ何者が絡んでいるのかもしらぬこの事件について、蛇王が掴んだ情報をきいていたところだった。まだもしかしたら子供がこの事件に関わっているかもしれない、という情報だけを掴んだだけのころ。それなのに、蛇王がぽろりといったのだ。
まだエンデル青年のことも知らぬのに。やつの勘がそうさせるのか、まるでこうなることを予想していたかのように、やつは言ったのだ。
「不相応な望みだと?」
「そうだ」
聞き返した俺にやつは頷いた。
「この様子を見ればわかるだろうが。この香料を手に入れた人物は、てんで取り扱いがなっていない」
白檀の甘い香りは、雨の憂鬱さを忘れさせるような優雅なものだが、蛇王の声は逆に珍しく憂いを帯びている。そういう時のやつは、世俗から離れた世捨て人のような気配を漂わせていることがあった。
「不相応なモノを手に入れて、扱いかねている。それにもかかわらず、香料を握った人物は、まだ一攫千金を諦めていない。もう音をあげて放り出してしまった方が楽なのに。そこで足掻くのは本人にとっても幸せではなかろう」
何故、勝ち目もないのに抵抗するのか、と言いたげな蛇王だった。
「不相応か……」
と俺はつぶやいた。
「しかし、俺には、その気持ちもわからんでもない気がする」
蛇王のような世離れして高潔な男には、きっとわかるまい。けれど、手からすり抜けた栄光に、未練がましくすがりつこうとしたことのある俺にはわかるのだ。
「身分不相応な望みに身を焦がす……。それは苦しいことでもあるが、希望の光でもあるのではないか」
目の前で燃える白檀の如く、立ちのぼる香りは、焦がれただけ強く甘く感じられる。
「なぜなら、焦がれて灰にならぬ間は、幸せな夢が見られるではないか。その不相応な成功を収める自分の夢を」
蛇王に俺の答えた言葉の意味が、わかったかどうか。
ただ、俺は、一攫千金の夢に焦がれたエンデル青年の気持ちがやはりわかる。
そして、それが崩れかけて、燃え尽きながら。もはや心地よい香りも立てられず、醜く夢だけを燃え上がらせて、ただの灰になっていくときの気持ちも。
だからこそ、俺は多分彼を憎めないのだろう。
「ここだぜ」
路地を通って、貧しい家の混み合ったところだった。大柄の男に案内されたのは、見かけは粗末な小屋だった。
「ここに、アンタたちの親玉がいるのかい?」
と三白眼が尋ねる。
今日は自分を隠すつもりのない三白眼は、いつも通りの猫背であるが、その態度は普段と違っている。ネズミとはまた違うこの二重人格っぷりは、だらっとした彼も、こうなった時の彼もよく知っているつもりの俺ですら、戸惑わせるものがあるほどだ。
決して強そうには見えない彼であるが、こうなった時のシャー=ルギィズはそうそう簡単に触っていい存在ではなくなる。それゆえに強敵としても魅力的ではあるのだが、失敗できないときの任務では絶対に敵に回したくない人物ではある。そして、その切り替えが、唐突かつわかりづらいのだった。
「カシラがあってくれるっつーんだから、光栄に思えよ」
「そりゃありがたいことだね」
三白眼はにやりとした。
「じゃ、行くよ、ダンナ」
「ま、待て!」
建付けの悪い扉を開けて、三白眼はむしろ俺が気になるほど無警戒な様子で、ずんずん前に進んで行ってしまう。俺は案内役の大男に一度視線をくれてから、彼の後を追った。
短い廊下の向こうで少し開けた部屋があるらしい。三白眼は平然と扉をたたき、「入るよ」と声をかけて扉を開けた。
そして、彼が一歩サンダル履きの足を入れた時、品のない雄たけびとともに男がとびかかってくる気配がした。
「野郎!」
はっと、俺は腰の短剣を抜きにかかる。こんな狭い屋内では、小剣でも振りまわせない。しかし、三白眼とて、素人ではない。
「おっと!」
と冷静に体を半歩ずらしてひょいと避ける。と、勢い余った男が扉にぶつかりそうになったところで、三白眼は相手の腰を蹴倒していた。
ざわっと室内の空気が揺れる。
「悪いねー。こう見えて、オレ、足は長いんで。悪気ないけど、ひっかけたかな?」
三白眼はにやりとした。悪い笑みだ。
「くそおっ!」
起き上がろうとした男の手がきらりと光る。やはり刃物を握っているのだが、三白眼もそんなことはわかっている。男が近づく前にやつは、その手を踏みつけるように蹴り上げると、刃物を俺のいる後ろ側の床に滑らせるように蹴りだした。
はっともう一度男が立ち上がろうとしたときには、三白眼は腰の刀に左手を置きながら、その背中を踏みつけていた。
「ずいぶん手荒な歓迎だな。言っとくけど、オレは仲介者なんだぜ。そういうことはなあ、後ろにいる黒いオッサンにしてくれよ。……ま、後ろの奴は、本気出すとこんなもんじゃなすまないけどな」
と、やつは続けた。
「オレで良かったな。ダンナにこれやったら、首吹っ飛んでたぜ?」
(どの口が……)
と俺が呆れながら見ている前で、やつはそう啖呵を切り、男の背中から足をはなした。
さすがに実力不足を感じたらしく、男が這うようにして後退した。
「つーか、危なく抜くところだったんだぜ。オレに刃物抜かせんなよ? 咄嗟だと、うっかり手加減きかないことがあるからな。なんせ、オレ、まだ未熟なんでね」
部屋の中のものが、再びざわついた気配があった。
奴につづいて中に入ると、そこには十人ほどの男たちが座っている。
末席のものは座ることを許されず立っており、この一人はエンデル青年だった。
彼は蒼白な顔をしていたものの、特に暴力を振るわれた様子はなく、俺は内心安堵している。やはりサリフ少年と約束した手前もあるので、できれば無傷で助けたいところだ。
「なんだ、いきのいいやつだな。取引してえってのは、お前か」
頭目らしき人物は、年のころは三十前だろうか。だらしなく前を開けた服装が気になる、太った男で相当人相が悪い。
(なるほど。これは確かに相当筋が悪いな)
直接のつながりはないまでも、俺とて地下組織の人間とのやり取りを行うことはあるが、大物はそれなりにちゃんとしていることが多く、こういうヤカラは概して末端だった。
ただ、話が通じず、何をしでかすのかわからないのは、概してこういう者たちでもある。
ただ、頭目はさすがに頭目ではあって、三白眼の唐突な手荒な登場にも、動揺した様子はなかった。
「そうだよ。オレは仲介者だ。アンタらがこのダンナともめてる話をきいたんでね。でも、このダンナは、マジで怖いから、オレが話しやすいように間に入ってやることにしたんだよ」
三白眼はそういって、ちらりと俺を見る。
(ずいぶん楽しそうじゃないか)
俺は思わずそう思った。
『アンタのせいで仕方なくやってる。オレは争いごとは嫌いなんだからね』
などといっていたのは、どこのどいつだろう。先ほどから思い切りやりすぎていて、俺の方が見ていてひやひやしているというのに。
「ああ、そこの旦那かあ。昨日のちょっと炙られたんだったか?」
筋の悪い頭目が、俺を挑発的にみた。
「流石に、もう、あきらめたかと思ったんだがな。そういや、燃える小屋からなんか持ちだしたって? そんな役者じみた騎士様みてえな面してる割に、コソ泥は平気なんだなァ?」
頭目は俺の方をみてにやりとした。
と同時にエンデルが緊張した気配がある。もしや、エンデル青年はここに至って、まだそのことを彼等に告げていなかったのかもしれない。
バニラの荷があることを黙っていたことがバレると、制裁をされるかもしれない。それに売買成功の最後の望みも絶たれる。それが彼の顔をこわばらせたのだろうか。
「どうなんだよ? 男前の旦那」
挑発的にそう差し向けられ、俺はムッとしたが、顔には出さなかった。
ただ。
(単純にこの男、腹が立つ!)
俺は一息吸うと、挨拶から始めることにした。
「昨日は、ずいぶん手荒な歓迎をいただいて恐縮だった」
俺も三白眼のことは言えない。やつに当てられたのもあるのか、やる気になっている。
「燃え盛る小屋から盗んだものは何もないが、保護したものは確かにあるな。しかし、その価値を知っているとは初耳だ。……何も知らずに火をかけたのではなかったのかな?」
頭目が明らかに苛立つのがわかった。代わりに言い当てられたエンデルの顔色は、さらに悪くなっている。
「てめえ、何が言いたい?」
「俺は荷が無事返ってくればそれでいい。俺も所詮傭兵。金で雇われているだけだ。それ以外のことは知らんよ」
俺はつづけた。
「だが、詳しくもない商品の盗品売買は、ちと重荷だろう? 俺が買い戻してやるから、それで手を打たんかといっている」
「何だぁ? どういう意味だ?」
頭目がすごんだ。
「どうもこうも。そこな青年が何か隠していることを知っていた割に、小屋ごと燃やしてしまうようほど、何も知らんのだろうが。大方、青年の反応で、そこに何か高価なものがあったのだと今頃知って、俺の行方を探そうとしていたところなのだろう? だが、俺も探されても迷惑だ。先ほども言った通り、俺は雇われているだけで、貴様らの犯罪やら盗品には興味がない。それで乗り込んできたわけだが」
俺はにやりとして、彼らを見下ろした。
そう、居丈高で冷酷なフリは得意なのだ。なにせ、散々、今までやってきていたからな。
「何が望みだ」
「貴様らが預かっている荷物をすべてと、そこの青年の身柄だ」
俺ははっきりそう答えて、
「身分不相応な望みに身を焦がすのは地獄だぞ。……やがて燃え尽きて、そこで焦げ臭い香りを漂わせる香木のようになるだけだ。正しく焚けば天上のように柔らかく神聖に漂う香りも、ほら、このように、手順がなっていなければ、まるで業火で燃やされたただの消炭の香り。……貴様らには、不相応なのだ」
俺ははっきりとそう言い放った。
「分をわきまえ、あきらめた方が身のためだぞ」
そして、エンデル青年の顔を見た。エンデルは俺の方を見なかった。先ほどからずっと青ざめていた顔は、真っ白になっていた。
この言葉は、彼を断罪する言葉でもある。
俺は本当は彼にそれを告げた。
エンデル青年には、きっと自覚はあったのだ。彼は頭のいい男だったから、きっとうまくいかなかったことで、挫折を感じていたはずだ。しかし、それに気づかないふりをして、繕うために無理をしていた。
だからこそ、ここで望みを断ち切ってやる必要があった。エンデル青年が、これ以上、無駄な悪あがきをしないように。
彼自身の身の程と無力さを思い知らせるために、はっきりとそれを彼に伝えて、申し渡す必要があったのだ。
俺も、身分不相応の思いに身を焦がす男であるから。それであればこそ、焦げ付いてただの燃えさしとなっていくだけの未来も知っている。
その行く末はただの身の破滅だ。……たまたま俺は死にきれなかっただけのこと。だが、その結果、俺の味わった気持ちほど、惨めなものはなかった。
だから、俺は、彼にはそのような思いをしてほしくなかった。
ただ、そんな言葉は、まわりの不良どもにはただの挑発。
「なんだコイツ!」
「くそっ、殺しちまえ!」
思った通り、頭目の周りの男たちがざわついて立ち上がる。
「やるなら受けて立つが……」
俺は短刀に手を伸ばしていた。
「俺には血を見せない方が身のためだぞ」
「おっと! マジで血の気が多いな。お互い」
短絡的に頭に血が上っている彼等と、つい応じてしまった俺の前に、三白眼が再び割り込んできて、オレをちらっと睨んだ。
大人しくしておけ、と言いたそうな目だ。
「ダンナもすぐのぼせちまうしさ。だから、アンタらだけで、話をさせられないわけだよな」
そういって、三白眼はにやりとした。
俺は外見や気配で彼らを牽制しているにすぎないが、三白眼は先ほど出入りばなに雑魚を叩きのめしたことで、彼らに明らかな警戒を抱かせていた。そんな彼の介入は、効果がある。
「おいおい、騒ぐなよな。何もただでとは言ってないぜ? こっちのダンナもそこまで無理筋は通さないさ。多少安く買いたたいたことになるかもしれないが、全部召し上げられて痛い目みるよか、手を打った方がいいじゃないか」
三白眼はそういって、懐から例の紫水晶を取り出した。こどもの手のひら目いっぱいの大きさとはいえ、それはこの場ではかなり大きく、室内の灯火にキラキラと光る。
「こいつと交換でどうだい? オレは商人じゃないからわからないけどな、雑貨屋をやってるアンタなら、コイツの価値ぐらいわかるだろ? キラッキラのこいつは、ずいぶんと透明度も高く色も紫色で綺麗だぜ」
装飾品にしか興味がない。そんなことを言っていた三白眼だが、挑発的にそう言い放つやつは、ずいぶんと口が回るものだ。
「扱いづらい香料抱えて、いずれダメにしちまうより、長く保管できるコイツを持ってる方が、よっぽどアンタ達の儲けをになるんじゃないかい? 無駄な争いも避けられるしな!」
そう畳みかける三白眼に、頭目が思わず唸った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます