手持無沙汰?それって愛着?執着?
ボルさん
読み切りです
日曜日の昼過ぎに私は、会社の屋上の落下防止用の手すりをずっと握りしめていたまま、下を眺めていてはいつどのように飛び降りるか考えていた。
もうすでに手すりは乗り越え、ビルの端のコンクリートに自分のスカートを押さえて座って、両足をぶらりとビルの外に出している状態。
まさか、2日前の金曜日に長く勤めた会社からリストラを宣告されたにもかかわらず、日曜日まで休日出勤をお願いされるとは……。
断り切れなかった自分も悪いかもしれないが、そんな私の性質を知っていてコントロールしてくる会社はまるでDVな伴侶のようである。
ブラック企業だったからいつでも辞めてやると思っていたけど、自分から辞めるのではなく会社から急に辞めさせられることになると、なんだか自分の今までの苦労や都合をすべて無視されたような気持になって悔しくなる。
別にリストラになったからだけで自殺を考えているわけではない。
同じ週の初めに愛ネコの『とらお』が20歳の長寿を全うして亡くなったのがショックだったというのが大きい。ずっと一緒だったから愛着がひとしおで、彼が亡くなってからは人生がどうでもよくなっていくように感じていた。
悔しさというエネルギーの高まりとともに、ぽっかりと心に穴が空いてしまったような、自分の身体が自分にフィットしていないような違和感があり、それらが今の虚無感につながっているように思う。
その他にも、一人暮らしのアパートの契約を更新する気もなくなり、気になるところにあるシコリを病院で検査する気もなくなり、ちょうど死ぬのによいきっかけが積もり積もったといった感じだった。
「そんなところに座っていたら落ちちゃうから危ないですよ」
いつの間にか初老の男性が手すり越しに立っていて声をかけてきた。きっと気のせいだと思うことにして無視を決め込んだ。
「もしかして飛び降り自殺をしようとしているのですか?」
「だったらどうなのですか?あなたには関係のないことです」
「それじゃ、関係があったら飛び降りないってことですか?」
「いや、そういうことじゃなくて……。いったいあなたは誰なんですか?」
私は身体をひねってその男性のほうに首を向けて見つめた。手すりを握る力が自然と強くなる。
「そんなところではなんですから、手すりのこちら側に戻ってきてくださいますか?」
「あなたがこちら側にきてビルの端で一緒に腰を下ろせばいいじゃない」
風が強く、不安定なこちらに初老の男性は近づかないだろうと思っていたら、身軽に手すりを飛び越えて、まるで猫のように上手に音もなく隣に座った。
「ビックリさせないでよ!私が落っこちたらどうするのよ!」
「良かった、落ちなくて。そして、まだ落ちるつもりはなかったのが良かったです」
懐かしいような笑顔を見せてくるこの男性に不思議と警戒感が薄れていき、思わず愚痴が口から出ていた。
「嫌なことが続いて、今日、今にでも死のうと考えてはいるんだけど、思い切りがつかなくて……」
「よほど嫌なことが重なったのですね。良かったら話を聞かせてください」
「嫌よ。面倒くさいし、あなたに話す義理もない」
「そうですか、それなら話さなくても構いませんが、その今感じているつらいことは、今までの人生において一番つらかった時と比べてどれくらいつらいですか?例えば10段階でいえばどの数値になりますか?」
「10のうち8か、9ってとこかしら。10の時は高校生で受験や失恋、いじめなどの問題が重なった生きづらかった時期かしら」って、どうして真面目に答えているんだろう。
「そのつらさ度合いが10だった高校生時代を生き抜いたにも関わらず、なぜ今回はダメだとあきらめそうなのですか?」
確かに失恋の時のあの突発的に死にたいというような衝動が今回はない。
「強いて言うなら、もう自分の人生がどうでもよくなってしまって、すべてを手放したくなったのよ」
「そうですか、すべてを手放すか……。すべて同時ではなくて、順番に手放していくっていうのはどうですか?」
何を言っているんだろうこの男性は……。私は眉間にしわをよせた。風が強くなってきているのもあるけど。
長い沈黙の間、私は彼が言った言葉に従うかのように手すりを握っている指を順番に一本ずつはがしてみる。
下に落ちるかどうかを心配するというより、ただ指を放していくことに不安を感じる。
汗ばんでいたすべての指を手すりから放した時に感じているこの手持無沙汰はなんだろう。
この感覚、何かに似ている。
そう、それは小さい時、電車で祖父母の家まで一人で行った時のこと。
自分一人で券売機で初めて買った切符を無くさないようにと、持ち続けて1時間は電車に揺られていたあの記憶。
目的の駅に降りて、ずっと握りしめていた切符が改札で回収されてからというもの、急に手に持っていたものがなくなったことに不安を感じた。
大切にしていたものがもう手にないという不安。
このままで大丈夫なんだっけという心配。
汗ばんでいた手が乾いてしばらくしてその感覚は薄れていくのだが、たかが切符ごときに愛着というか執着のようなものが生まれていたことを思い出す。
屋上の手すりから手を放してどれくらいの時間がたったのだろう。
白昼夢を見ていたようだ、いや、これはすでに走馬灯に近いのかもしれない。
となりに座っている初老の男性の存在を忘れそうになるくらい物思いに耽っていた。
「わたしは君に死んでもらいたくない。君が死んだら悲しくなります。命だけはまだ手放さないでください」
「私の命なんだからあなたに関係ないし、どう使ったっていいでしょ?」
「自分の命を大切にする方向ならどう使ったっていいけど、自分の命をあきらめる方向、自分を傷つける方向に使うのだったら見過ごせません」
私は初老の男性をじっと見つめることしかできなかった。
相手もじっと見つめてくる。
どうしてこんなにまでわたしのことを心配してくれるのであろうか。
気まずい沈黙が流れる。
(あ!この目のそらし方、そしてまた首をかしげるように見上げてくるこのしぐさ)
「とらお?」
思わず愛ネコの名前をつぶやいてしまった。
「すごい、どうして僕だってわかったの?」
隣に座っていたはずの初老の男性の姿は、見慣れた老猫のとらおに変わっていた。
「もうこの姿を保っていられないから、お別れする前に伝えたいことだけ繰り返すけど、君はまだ君の身体を手放しちゃだめだよ」
「だって、あなたがいなくなってからなんだか生きる気力がなくなっちゃったんだもの」
「僕に愛着を持ってくれるのはありがたいけど、自分自身をもっと大切にしなきゃ……ああ、時間がない」
私の涙がぼやけさせているのだと思っていたら、どうやらすでにとらおは原形をとどめられずに白い靄みたいになっているようだ。
「自分を大切にしようと思ってもできないんだもん。もう自分さえいなければいいと思ってしまう」
「人間って本当に不思議だよね。いつのまにか自分で自分にルールを課して、その思い込みのようなルールにこだわってしまったり、こじらせてしまったりするんだから……」
あ、まただ。
「不思議なことをいうな~」と思った途端に魔法をかけられたような時間が流れる。
この霊体のとらおには、人に白昼夢を見させることができるのであろうか?
私はふと、一人で帰る小学校からの帰り道を思い出しはじめていた。
下を向いて歩いていると、路傍の石があたかも「蹴ってくださいと」言わんがばかりに光って見え、その一つを蹴り始めるのだった。
なぜか蹴りやすく感じるその石を、蹴っては進み、蹴っては進み、家までの暇つぶしに使っていた。
こんなたわいもない石なのに、蹴り続けていくうちに愛着が湧いてくるから不思議である。
いや、これは「家まで蹴り続けなければ」と無意識にも自分に課してしまった執着なのかもしれない。
また、いざ蹴るのをやめてしまったり、石を蹴った方向を間違えて失くしてしまったりした途端に喪失感を覚えるのは「もっと石蹴りに没頭していたかった」という執着が出てしまったからなのであろうか?
石に愛着が出てきたから蹴り続けていたのか、石蹴りという暇つぶしに没頭したかったという執着から蹴り続けていたのか、どちらかわからない。
ただ、蹴り始めたら最後、蹴る力加減や蹴りながら帰る道順など自分のこだわりやルールが生成されてしまっていたように感じる。
蹴ることが習慣になると、蹴っていた石に自分がコントロールされているかのように感じることさえあるのだ。
白昼夢が終わり、急に私は自分を大切にできていない理由がなんとなくわかってきたような気がしてきた。
自分で自分に厳しくして、手放してもよいものなのに執着してしまい、自分自身で居心地の悪いほうに流されていってしまう私の心の癖を、ほかの人や物事のせいにしていたし、ただ自分自身の人生から逃げようとしていた。
「そろそろお別れだね。僕や僕との思い出に愛着を持ってくれて、ありがとう。でも僕以上に君自身の身体や人生にもっと愛着を持ってくれたらうれしいな」
そう、その通りだ。
自分で選んできたこと、例えば手に持っていた切符も、帰宅まで蹴っていた石も、そして愛猫のとらおとの関係も時間が経てばたつほど愛着が湧いてきたのを思い出した。私には愛着を育める素養があるとも考えられる。
正直言ってまだ私は自分自身に愛着を持てるかは自信はないが、すぐに諦めずに、何を大切にして、何を手放すかを学びながら自分の愛着を育めるようになれれば……。
いや、自分の人生なんだからこそ自分の身体に愛着が持てなくなってどうするんだと、とらおが伝えてくれているように感じたのだ。
自分の身体だけでなく、今までとこれからの思い出、経験、思考、すべては私だけのものであり、私の解釈次第で愛着に代わっていくことだろう。
「ありがとう、とらお」
その返事かのように「プルル……」と猫が喉を鳴らす音が聞こえて、老猫のシルエットだった白い靄は私の鼻に吸い込まれていったように感じた。
私は手すりを握って立ち上がった。
フワッと身体が軽くなったように感じ、立ち上がった勢いのまま手すりを乗り越えることができた。
さらにビルの屋上から軽やかに階段を下りていく際に、ようやく自分の身体が自分にフィットしていくのを感じた。
おしまい
手持無沙汰?それって愛着?執着? ボルさん @borusun
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