καρδιάーカルディアー

こむらさき

1/2心臓

「なあ、お嬢ちゃん、悪いことは言わねえ。俺みたいな怪しいやつなんて見捨てちまえよ」


 俺を運んでいた馬車が襲われ、誰かが走る馬車から俺の体を放り投げた。

 真夜中、人通りもない街中で転がり落ちた俺を拾ったのは小柄な女だった。


「おい、聞こえてるのか?」


 口がきけないのか、それとも無視をしているのか、わからない。血まみれでボロボロになった俺の体を細い肩で支えている女は前だけ向いて歩き続けている。

 簡単に折れてしまいそうな細い首……ぼろぼろの服。顔はよく見ていないが、若い女だということはわかる。だが、艶のない濃い灰色の髪が老婆を思わせた。


「俺を助けても一銭にもなりゃしないぜ?」


 灰髪の女はしゃべり続ける俺の言葉を無視しながら、真っ暗な路地裏を歩いて行く。道の片隅で蹲っている人間たちは気力がないのか、こちらを見ようともしない。

 埃臭い通りをしばらく歩くと、女はようやく立ち止まり、半壊している小屋の扉を押し開けた。

 ギギギ……と木と木が擦れて軋む音が響いて、湿気と埃の匂いが濃くなる。

 部屋の奥へ着くなり、女な俺を床へ放り投げるように置いた。

 こちらを見下ろしている女の、灰色の瞳には、伸びきった黒い髪の少しやつれている自分が映っている。


「お金に興味は無い」


「へぇ……じゃあ


 目を合わせて魅了チャームの術を使おうとしたが、女は俺の言葉も意思も無視して言葉を続ける。


「赤い瞳と鋭い牙……あなたが吸血鬼だっていうことはわかってる。あなたの血をちょうだい」


 冗談めかした俺の言葉にも、眉一つ動かさずに灰髪の女は倒れて動けない俺の前にしゃがみ込む。それから、どこからか銀のナイフを取りだした。


「……っ……俺の血を飲むなんてやめて、そのナイフを持ち主に返してこいよ」


 はだけさせられた俺の胸元を銀のナイフが俺の肌を焼く。


「銀は魔の影響を跳ね返す……銀のナイフで切った傷から血を飲んでも吸血鬼にはなれねえさ」


 さっきまで黙って俺の胸に顔を近付けて、小さな舌を血で濡らしていた女は、その言葉を聞いて目が見開く。それから、女は口元を袖で拭いながら体を離した。


心臓ここにそのナイフを突き刺して、俺の死体を教会へ持っていけば褒美くらいは貰えるかもしれねえぜ?」


 左胸に視線を向けて笑ってみるが、女は能面のような表情で俺の顔を見つめているだけだ。

 分厚い雲に覆われていた月が顔を出し、半壊した屋根から光が差し込んでくると女の顔がよく見える。


「どうすれば吸血鬼になれるの? 教えて」


 女の言葉に対して、へらへらと笑って見せる。太陽に呪われた存在、忌むべきべき夜のしもべ……いくら永遠の命と若さを得られるとは言っても、進んで吸血鬼になりたいなんてやつは滅多にいない。いるとすれば、権力に溺れた老いぼれくらいなもんだ。

 こんな若い女が、何を求めて吸血鬼になりたいのか興味が湧いた。


「教えてもいいが、タダってワケにはいかねぇなあ。銀の魔女以外には夜のしもべは従わねえんだ。まあ、銀の魔女も死んだらしいが」


 薄汚れていて、伸ばしっぱなしの前髪に隠れているが綺麗な顔をしている。

 女の白く細い喉元が上下して、生唾を飲む音がここまで聞こえてきた。


「それじゃあ、わたしの血を飲ませてあげる。だから、吸血鬼にしてちょうだい」


「あんたみたいに綺麗で若い女の血をもらえるのは魅力的な誘いだが……」


「じゃあ、早くわたしを」


 俺の言葉を最後まで聞かないまま、女は俺に体を近寄せてきた。久し振りに嗅ぐ若い女の血の匂いに涎が垂れそうになるのを耐えながら、俺は口を開く。


「残念だが、俺は他人を同族に変えられねえんだ。今は、な」


「それなら、ここで朽ちていけばいいわ。さようなら」


 銀の杭を手早く俺の四肢に打ち込んだ女は層言って立ち上がった。焼け付くような痛みで叫びそうになるのを噛み殺し、息を長く吐いてから相手の心情を逆なでするように余裕のあるふりをする。


「気が早すぎるぜお嬢ちゃん。って言っただろう?」


 思った通りの反応に笑いながら、俺は更に言葉を続けることにした。吸血鬼になんて滅多に会えるものじゃないはずだ。だから、こいつは俺の提案に乗るしかない。

 女は、思った通り足を止めてもう一度俺の元へと戻ってくる。


「今の俺は本調子じゃねえんだよ」


「……おしゃべりがしたいわけじゃない。何をすればいいのか教えて」


「まずは、杭を抜いてくれよ。平気な顔をしているが痛くてたまらないんだ」


 俺の腕に刺さった銀の杭に女は手を掛ける。

 右手、左手、右太腿、左太腿の順でゆっくりと抜かれた杭は、乾いた音を立てて床へ放り投げられた。

 久し振りの自由だ。俺を死体だと思って馬車から放り投げたあのバカな男に感謝しなきゃな。

 

「俺の本当の心臓がこの街のどこかにある。それを取り戻せばお嬢ちゃんの願いは簡単に叶えてやれる」


 今、この胸で脈打っているのはアイツの……太陽の神殿を祀っている神官のものだ。そこまでのことをこの女に話す義理まではないだろう。心臓がなくても動ける化物だと思ってもらえた方が気が楽だ。


「じゃあ、それを手伝ってあげる」


「はは……お嬢ちゃん、平民の女に、俺の餌になる以外で何が出来るっていうんだ?」


 自信満々な女の物言いに対して、思わず笑い声が漏れてしまったその時だった。刺すように鋭い痛みと焼けた皮膚の臭いが首と胸の辺りに広がった。


「ただの女じゃないの」


 少し遅れて、女の手に握られていた銀のナイフが俺の胸と首を切り裂いたのだと理解した。


「なる……ほど。よぉくわかったよ」


「それと、わたしはお嬢ちゃんじゃない。エマ」


 塞がっていく俺の体の傷を見て眉を寄せながら、エマはそう言って立ち上がった。

 銀の杭と強い日光だけが、俺の傷を再生する力を妨げる。

 いつぶりかわからないくらいに久し振りに自分の足で立ちながら、俺はエマに手を差しだした。


「俺はロトスだ。よろしくな、エマ」


 腕を伸ばして少し離れた位置にいたエマを抱き寄せる。少しだけ体を強ばらせた彼女の華奢な首筋に鼻先を埋めて甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


「先に血をもらうぜ? 腹が減ってるんだ」


 張りのある肌に舌を押し当ててからゆっくりと牙を差し込む。久し振りの食事だが、この女は協力者だ。じわじわと牙で開けた穴から沁みだしてきた血を一舐めだけして、彼女から手を離す。


「そ、それっぽちの血で大丈夫なの?」


 さっきまでほとんど無表情だった女の顔に、わずかだが動揺の色が滲む。年相応の態度も取れるらしいなと笑いそうになりながらも、精一杯かっこつけて口を拭ってから口を開く。


「若い女の血なら、一滴でも十分だ。あんたを殺すわけにはいかないしな」


 俺の唾液が触れた傷は、すぐに塞がって甘い匂いが薄れていく。

 エマの枝のような腕を引きながら、半壊しているぼろ屋から外へ出る。


俺の心臓宝物の在処は大体わかってる。心配するな」


 も効かない上、恐ろしく速く動ける女がいれば、教会にあるらしい心臓大切なものも取り戻せるかもしれない。

 どうして吸血鬼になんてものになりたいのかは知らないが、せいぜい役に立って貰うとしよう。

 汚れた服を着ていて、髪もボサボサでみすぼらしい見た目の女を連れながらそんなことを思った。


「そうだ。その前にすることがある」


 大通りへと出る。野良犬と酔っ払いくらいしかいない中、女連れで外を歩いていても悪目立ちするだけだろう。


「これで顔を隠せ」


 そこら辺で拾った布をマント代わりにしてエマへ被せると目に付いた貴族用の来賓間マナーハウスへ向かう。


「おいお前、何の用だ?」


 警戒心を露わにした門番がこちらへ突っかかって来てくれた。刃物を手にしようとしたエマの気配を察して彼女に「待て」と言う代わりに、大袈裟な身振りで驚いたように体を仰け反らせ、にこやかな笑みを浮かべて相手の目を見つめた。


「何の用もなにも、今夜ここに泊まる予定のものだ。 


 純血の吸血鬼にのみ許された能力に魅了チャームがある。神職についていない大抵の人間なら言うことを聞かせたり、勘違いをさせられる便利な術だ。

 まあ、人間好みの見た目をしているおかげでこんな手法を使うことも少ないのだが。

 屋敷に案内されれば、あとはこちらのものだ。この屋敷の主人のように振る舞えば他の使用人共もなんの疑問も抱かずにそのように振る舞ってくれる。


「トラブルに巻き込まれてしまってな。こいつを風呂に入れて置いてくれ。それと、疲れているようだからいつもより、動きやすそうな服を着せてやれ」


 戸惑っているエマを侍女頭らしき女の方へ突き出して、俺は脱いだ外套を使用人へ手渡した。


「どういうことなのか説明して」


「そんな格好じゃあ、どこへ行くにも悪目立ちするだろう? 少しは身ぎれいにして貰ってこい」


 俺の魅了チャームで操られている使用人たちは、エマの服がボロボロなことにも大した疑問には思わない。

 俺はこの屋敷の本来の主が使っていたであろう部屋へ通される。立派な暖炉が設けられている書斎へ通され、革張りの凝った装飾がほどこされている椅子へ腰を下ろす。

 古い服は処分させ、新しい服を持ってこさせた。都合がいいことに、ここの主人と俺の背格好は大きく変わらないらしい。

 髪を結い上げられながら、執事からこの屋敷が管理されていた間の報告を聞き流し、俺は帳簿へ目を通す。なるほど……それなりに裕福な屋敷へ潜り込めたものだ。


「旦那様、奥様の湯浴みが済んだようですが食事はいかがなさいますか?」


「俺は食事を済ませたから、妻のものだけ用意してくれ」


 執事が食事の用意が出来たことを伝えてきたので、先に眠るように伝えてから食堂へ向かうと、やけに美しくなったエマが気まずそうな表情で椅子に座っていた。


「あなたの妻になったつもりはないわ。どうなってるの?」


 濃い灰色の髪は汚れを落としたからか、綺麗に結い上げられているからか老婆のような髪という印象は消えていた。

 簡単なパンとスープを運んできた使用人が去った後、エマはようやくヒソヒソとした声で俺に話しかけてくる。


「あいつらは俺を屋敷に主人だと思い込んでいる。それなりに若い男である主人の俺が連れている女なのだから、妻だと判断するのが妥当だったんだろう」


 俺の言葉に言い返そうとしたようだったが、エマは小さな溜め息をついただけでこちらから視線を逸らす。それから、皿に置いてあるパンに手を伸ばした。


「なあ、あんたは吸血鬼になって何がしたいんだ?」


 よほど腹が減っていたのだろう。使用人たちを下げていてよかったなと思うガツガツとした食べっぷりを眺めながら、エマに興味本位で聞いてみる。


「復讐」


 ぎらついた灰色の瞳は、俺の顔をまっすぐに見つめていた。さっきまでは年相応の少女のように戸惑っていた美しい女の冷たい殺意を纏った眼差しに、思わず背筋がゾクッとする。

 しかし、復讐というありきたりな言葉だけでは納得が出来ない。


「復讐ったって、あんたのその腕があるなら簡単に」


「わたしの両親を殺したのは、教皇なの」


「……なるほどねぇ」


 深く聞かないのは、教皇がなんなのか知っているからだ。俺の心臓を持っている……紛い物だが吸血鬼だ。

 相手が精霊だとか妖精なら、相手の魂ごと葬れる吸血鬼や悪魔の力が適切ではあるが、紛い物の吸血鬼ならば俺が心臓を取り戻すついでに殺せばいいんじゃないか?


「俺が変わりにそいつを殺してやろうか?」


 どうせ心臓を取り戻せば相手は死ぬのだろうし……。復讐に燃える冷たい瞳がどう揺れるのか気になった俺はそんな質問を投げかけてみた。


「ダメ。あいつはわたしが、この手で殺さなきゃ気が済まない」


「そうかい。じゃあ、あんたにはがんばってもらわないとな」


 冷たい復讐の炎は、俺の気まぐれなんかじゃ消せないらしい。

 食事を終えたエマと共に部屋を出る。静まりかえった屋敷の中で二人きり、寝室へと向かった。

 ふかふかとした寝具に戸惑っていたエマが寝入るのを見届けてから、俺は格子窓を開いて外を見る。

 煌々と焚かれている聖なる樹を焼いている教会の光は、城下町から川を挟んだこの屋敷からでもよく見える。


「馬車が襲われたのは、この女の差し金ってところだろうな」


 まだ太陽教が小さな小さな村の教会で祀られている頃……寝込みを襲われ、あいつに心臓を奪われた。身体中の血を奪われて殺される前になんとか逃げ出して百年ほど眠りについていたが……まさかあいつが俺の心臓を使って吸血鬼になっているとはな。


「夜には戻る」


「いってらっしゃいませ、旦那様、奥様」


「本当にむず痒いわね。昨日出会ったばかりのあなたの妻扱いされるなんて」


 小声でそんなことを耳打ちしてくるエマを宥めながら、朝陽が昇る前に俺たちは屋敷を出た。

 朝になったところで能力が完全に使えなくなるわけじゃないが、効果は弱まる。俺だけならどうとでも丸め込めるが、エマの存在を屋敷のやつらが怪しまれたら面倒だ。妻だと言って誤魔化そうにもエマが乗り気でないなら面倒が増すだけだしな。

 確かめたいことがあったので、俺だけ深くフードを被って教会へと向かった。

 太陽神を敬う信徒たちで溢れている聖堂へ二人で赴き、陽が落ちる夕暮れに行動を起こそうということになった。

 真っ白な石を彫って作られた巨大な門は衛兵が守りを固めている。


「おいそこの男! 止まれ」


 目付きの鋭い衛兵の一人が、真っ黒なフードを被っている俺をめざとく見つけて声をかけてきた。

 俺の答えも聞かずに、衛兵の男がフードを剥ぎ取ると同時にエマが小さく悲鳴をあげた。


「おいおい、愛しいエマどうしたんだ?」


 動きやすいが、それなりに華美なドレスを身に纏っているエマは黙って立っていればどこぞの令嬢に見えるだろう。こいつが我に返って武器を手に取る前に落ち着かせておく方が良い。

 彼女の折れそうなほど細い腰を抱き寄せて、俺は衛兵に関係性を見せつけるために甘い笑みを浮かべて、彼女の耳元でそう囁いた。


「あ……ロトス、その」


「だから言っただろう? 俺がいくら美しいといっても他のご婦人共が見とれるほどじゃあないって」


 衛兵の冷ややかな視線が俺とエマへ注がれている。吸血鬼が太陽の光で焼け死ぬっていう伝承は知られているらしいが、純血の吸血鬼はその限りではないということまでは知られていないらしい。

 まあ、それが知られていれば教皇になったあいつも怪しまれるだろうから、秘密にしておきたいところだろう。


「すまないな衛兵さん。可愛い妻の嫉妬でこんなものを身に付けていたんだ。それは預かっていてくれよ」


 衛兵にフード付きのローブを任せたまま、俺はエマの腰を抱いて教会へと入っていく。


「吸血鬼って太陽の光で死ぬわけじゃないのね。何人か死んだ人を見たことがあるから、教皇あいつが特別なのかと思っていたわ」


 しばらく黙っていたエマは、背伸びをして俺の耳元でそう囁いた。


「純血の吸血鬼は朝陽に当てられても焼け死ぬわけじゃない。傷が治りにくかったり、能力が弱まるだけさ」


 小さな声でよかったと聞こえた気がしたが、それは教皇が出てきた時の民衆の歓声にかき消された。


「太陽の子らよ、信仰の場へ直接足を運んでくださったこと、感謝しております」


 若々しい男の声だった。

 太陽の光で染めたような金色の髪を短く切りそろえた教皇は、赤い瞳を輝かせて笑顔を浮かべている。

 どうやら、エマが例外なだけで真紅の瞳が吸血鬼の証だということは知られていないらしい。でなければ、日光を避ける存在を衛兵が吸血鬼かもしれないと疑うのに、真っ赤な瞳をした教皇が堂々としていられるはずはない。

 荘厳な雰囲気の中、甘い香りが漂ってくる。

 淡い黄色のカソック立襟の祭服を身に纏った少女たちが、骨製のナイフで指先を切った匂いだとすぐにわかった。

 まだ穢れを知らない血をこうして集め、力を保っているのだろう。


 握りしめた拳にそっと冷たいものが触れた。わずかに震えているそれは、エマの手だと気が付く。

 彼女の手を握り返しながら視線を隣に移すと、彼女は血が滲むほど唇を噛みしめながら氷のように冷たい視線で教皇のことを睨み付けていた。

 殺気に気付いたのか、人並みの向こうにいる教皇の視線がこちらへ向いた……気がしたが、やつの視線に入る前に俺たちはそっと柱の影へと場所を移す。


「やつも吸血鬼だ。血の匂いをさせるんじゃない」


 そういって彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。

 一瞬だけエマの目が見開き、体が強ばる。煮詰めた果実のような甘さが喉を焼いていく。口を離す際に、彼女の唇を念入りに舌でなぞってから顔を離すと、わずかに息を荒げた彼女がうらめしそうな視線をこちらへ送ってきている。


「……仕方ないだろう。うまそうな血が目の前にあったんだ」


 エマに小声で「けだもの!」と罵られたが、悪い気はしなかった。 

 説教が終わったあとに出ていく民衆に紛れて一度教会を出て行く。開放されている庭では、寄付を募るために少年少女やシスターたちが手作りの品や貧民向けの炊き出しを行っている。


「日が暮れるまで、どこかで時間を潰そう」


 そう彼女に耳打ちをした時だった。


「その必要はないよ」


 反吐が出るほど柔らかく、優しげな声だった。

 振り向くと、丸みを帯びた真紅の瞳と金色の髪が眼に入る。

 ふんだんに金糸を使った刺繍で飾られている純白の服を着た男が背後に立っていた。他の人間は、こいつのことを気にしていない。唯一エマだけが、教皇に鋭い視線を向けている。

 しかし、教皇の視線は俺にだけ注がれている。痩せこけた女のことなどどうでもいいのだろう。


「そこの娘、君は


 誰しもが無条件に言うことを聞いてしまいそうなうっとりするほど優しい声を聞いて、エマの動きが止まる。


「はい」


 無機質な声で返事をしたエマが、俺に背を向けてどこかへ遠ざかっていく。このクソ野郎の魅了チャームが効いただと……? 手を取って彼女を止めるわけにもいかず、離れていく細く華奢な背中から視線を逸らして俺は教皇と向き合った。


「ロトス、会いに来てくれたんだね。嬉しいよ。二人で話そう。そうすればあの娘はきっと元の家に帰れるはずさ」


「俺が、行きずりの非常食の安否を気にするような優しいやつに見えるのか?」


「ふふ……。君にとって悪い話はしないつもりだよ。二人で話そう」


 張り付けたような笑みが不気味なやつだなと思った。

 ここで揉めても、そこら中に用意されている銀の武器でやられるのがオチだろう。俺の調子は万全ではないのだから。

 大人しく教皇の後をついていくと、やけに豪華な部屋へ連れてこられた。壁際にはうつろな表情を浮かべている少年少女たちが横並びに整列させられている。


「おいで」


 長椅子に腰掛けた教皇がそう声をかけると、赤毛の少女がどこか遠くを見つめたままふらふらと俺の前へ歩いてくる。


「以前は君を殺して、僕が完璧な吸血鬼になろうと思っていたんだけれど」


 自分の膝に金髪の子供を座らせ、その子の髪を優しく撫でながら教皇は勿体ぶるように話し始める。


「この子たちは孤児だ。多少壊しても構わない。毎日新鮮な血を飲めるよ」


「どういう心変わりだ? 吸血鬼なんて滅びてしまえと言っていたじゃないか」


 強烈な甘い香りが目の前から漂ってくる。赤髪の少女は手にしていた骨のナイフを使って自分の指先を切り付けた。血が垂れているままの指をこちらへ差し出してきている。

 飛びそうになる理性を抑えながら、俺は教皇を睨み付けるが、あいつはにこやかに微笑んでいるだけだった。


「百年も生きていれば価値観なんて変わるさ。老いず、傷も病も知らず、人々を正しい道へ導ける……これは神の力に近いってね」


「人間に百年っていう月日は長すぎたみたいだな。大人しく心臓を返せばお前を神の御許ってやつに送ってやれるぜ?」


「ふふ、意地悪を言わないでくれよ。僕と一緒に、この世界を正しく導いていかないか? 一人で永く生きるのは飽きてしまってね。僕と同じ不死の存在である君と改めて友情で結ばれたかったんだ」


「お前と友情を結ぶ? バカなことを言うな。心臓を返してくれる以外の願いなんざお断りだ」


 俺に手を差し出している少女をそっと押しのけて俺は立ち上がった。

 教皇が抵抗するかと思ったが、気味の悪い笑顔を浮かべながら椅子から動こうとしない。

 何を企んでいやがる……。不審に思いながらも俺は立ち上がって部屋の出口へと足を運んだ。


「残念だなあ。じゃあ、悲しいけれどこうするしかないね」


 教皇がそういうと同時に、まだ触れていない扉が開く。

 開いた扉の先には、濃い灰色の小柄な女が虚ろな表情を浮かべながら銀のナイフを手にして立っていた。


「エマ?」


「ふふ……非常食なんて言っていたけれど、名前を呼ぶほど肩入れしてるじゃないか。さあ、君を騙した悪い化物の心臓へ、その銀のナイフを突き刺してあげなさい」


 クソ。あいつを使うなんて。体を捩ろうとしたときにはもう遅かった。突き出されたナイフは、俺の腹に深々と突き刺さる。

 灼ける様な痛みと熱さで呻きながら俺はその場に膝をついた。血が止まらない。思わず腹に突き刺さったナイフに触れてしまって手まで灼ける。


「心臓を貫くように言ったはずだけれど……まあ、昼間だから仕方ないか」


 無表情のままナイフを俺の腹から引き抜いたエマの背後に、教皇は立つと、倒れている俺を見下ろして笑顔でそう言った。

 それから彼女の肩に手を置いて、何かを言おうとしたその時、結われていた灰色の髪が激しく揺れ、真っ白な教皇の服が一瞬で真紅に染まる。


「油断したわね」


 聞こえたのは、いつも通りのエマの声だった。エマは得意げな声でそういうと目を見開いて口だけを開閉している教皇の傷口に腕をツッコんですぐに引き抜く。


「ちゃんと急所は外したでしょう? ほら、あなたの心臓よ」


 小柄で華奢なエマが手にしているのは脈打つ俺の心臓だ。


「っつ……お前……何者だよ」


 痛みよりも、興味が勝る。こんな状況で魅了されたフリをして復讐相手の心臓を腕をツッコんで取り出すなんてまともじゃない。


「わたしは銀の魔女の娘だもの。銀は魔の影響を跳ね返す……でしょう?」


 痛みに呻きながら、自分の手を胸に差し込み、あいつの心臓と交換するように手渡された本来の自分の心臓を体内に押し込んだ。


「母さんは言っていたわ。紛い物の吸血鬼には効かないけれど、本物の吸血鬼になら銀の魔女わたしの命令は効果があるって」


「は? そいつの心臓をそのナイフで突き刺せば殺せるだろう?」


「ダメよ。こいつはわたしのお父さんの心臓も持っているもの。お父さんはケットシー九つの魂を持つ猫の精霊だったから」


 心臓を銀のナイフで突き刺されて、情けない悲鳴をあげた教皇がふらふらと立ち上がる。さっきまでの綺麗な微笑みからは考えられないくらい涙と涎でぐちゃぐちゃになった顔は怒りに満ちていた。


「うわあああ! 殺す! たかが小娘が! 僕を傷付けるなんて」


 まっすぐに走ってきた教皇を思いきり足蹴にして吹き飛ばしながら、エマは俺の額に触れた。

 銀で付けられた傷は、太陽が昇っているにも拘わらず一瞬で癒えていった。


「誇り高き夜のしもべ、闇を駆け、生き血を啜る影の王よ」


 この後、こいつが何を願っているのかわかってしまう。耳を塞ぎたいのに、エマ銀の魔女の命令は俺のそんな些細な願いさえ聞いてくれない。


「今、銀の魔女の名の下に命じます。わたしの心臓をあげるわ! だからこの紛い物を殺す力をわたしに寄越しなさい」


「なあ、エマ……俺がこいつを殺せばいいだろ?」


 爪が鋭く伸びて、手首を勝手に引っ掻く。こちらへ近寄ってきたエマの小さな唇が俺の血で汚れていくのを止められない。


「言ったでしょう? わたしは絶対にこいつを自分の手で殺すって」


 灰色の綺麗だった瞳が、瞳孔の周りからじわじわと紅く染まっていく。

 彼女は明るい銀髪になった髪を揺らしながら楽しそうに壁に叩き付けられて気を失っている教皇の方へ駆け寄っていった。

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