幸福中毒

文字を打つ軟体動物

錠剤

 ぐちゃぐちゃの布団。

 散らばる、錠剤が入っていた包装シート。

 狭苦しい四畳半の中、僕は……


 どうしようもなく渇いている。

 あの感覚を、渇望している。


 毒々しいピンクの光はもう暗い部屋を照らしてくれない。

 それでも、僕はあのネオンサインを求めて這いずり回る。


 ああ、これじゃあまるで……幸福中毒じゃないか。





 セミは騒ぎ、熱風が部屋を包む。

 自分を扇げる羽根でもなければやってられないような暑すぎるこの初夏に、僕は扇風機もつけないまま狭い床に寝転ぶ。

 身寄りも友も、彼女も趣味もない僕にとって、この四畳半だけが居場所なのだ。


 怪しげなバイトで稼いだ金と、返せる見込みもない奨学金で暮らす日々。

 無為に過ごす僕は危機感も持てないままに、ただただスマホの画面をスクロールするばかりだ。


 涼める場所もなく、干からびて死んでしまいそうな僕は蛇口をひねるが、救いは1滴しか出てこない。

 水道、止められてたんだった。

 ついでにガスも。

 まあいい、家賃さえ払えればやっていける。

 僕は水を求めて、嫌々ながらも外へ出ることにした。


 うざったい虫が飛び交う中、公園に辿り着いた僕は弱々しく蛇口をひねる。

 水は溢れるように……少しずつ、少しずつ力を増して、吹き出る。

 僕は貪るように蛇口に張り付く。

 水分が内側から、ゆっくりと染み……やがて末端まで行き渡る。


 思えば、あんな部屋でずっと寝転がっていたら熱中症で死んでしまっていただろう。

 このまま自室に戻るのは、いい考えとは言えないな。


 そういうわけで、僕は近所を散歩してみることにした。

 普段周りを見ずに生きている僕は、知っているはずの景色がこれだけ新鮮に映ることに驚きながら公園の周りをうろつく。


 少し離れてみて、大学の近くに出てみる。

 普段何も考えずに通っている場所の周りには細い路地が張り巡らされており、本当に知らない景色に心を躍らせる。


 そのうちの一本。

 不思議と少し心惹かれた、そんな路地に入ってみる。

 あまり長くは続いておらず、その先にあったのは突き当り。


 しかし、何もなかったわけではない。

 真っ昼間からネオンを光らせる看板に、スカスカのガラスケース、そして窓口。

 毒々しいピンクは『幸福屋』と、薄暗い路地を照らしている。


 さて、僕はこんな危険な香りを放つ店にやすやすと近寄るような人間ではない。

 少し近づいて見てみたあと、すぐに来た道を戻ろうとするが、その時。


「お待ち下さい、お客様」


 妙に高い化粧品や水素水を売りつけてきそうな胡散臭い声に呼び止められる。

 人とはよくバイトで関わるから、声だけでもわかるんだ。

 いや、勝手な偏見に過ぎないのは確かだが、とにかく胡散臭いのに変わりはない。


「僕は大丈夫なので……」


「初めてのお客様のようなので、説明からさせて頂きましょう。ここは幸福を形にして売る店、『幸福屋』様々な濃さの幸福を味わえます」


 振り返って、窓口の方を見てみる。

 店員の顔は隠れており、ここからでは覗こうとしないと見ることはできない。

 表情も見えない相手など当然信用には値せず、そんなやつの売る商品なんて意地でも買ってなるものか。


「遠慮しておきます……」


「そう言わず、試供品だけでも」


 残念なことに、僕ははっきりと断るということができない。

 それは社会生活を送る上で致命的だし、そのせいで今までも割を食ってきたものだ。

 断らずに逃げるには……まぁ、試供品を貰ってすぐに処分すればいいか。


「それ貰ったら帰してくれるんですよね?」


 受け取ったから云々はやめてほしい。

 その手の詐欺はやったしやられたし、もう飽き飽きなんだ。


「帰してくれる……脅してなんかいないのですから、気を楽にしてください。『幸福屋』は安心安全、危ないことなんてありません」


「まぁ、貰えるだけ貰っておきます……」


「では、幸福のⅠを1錠。こちら、処方させて頂きます」


 渡されたのは、頭上で光るネオンと同じ毒々しいピンク……それだけではなく、同じように光っている、そんな不思議な錠剤。

 危なそうだとか、法に触れそうだとか。

 そんな今まで抱いていた感想が嘘のように消え去って、言葉では言い表せないような引き込まれる魅力を感じる。


「誠に申し訳ございません、錠剤の説明を忘れておりました。服用の際には水などで流さず、直接口に含んでください」


「はい……ありがとうございます……?」


 毒気を抜かれたような感覚で、僕は錠剤を片手に返事をする。

 疑念も危機感もどこかに行ってしまって、僕はいつの間にか心の防壁を失っていた。


 さて、錠剤を受け取ってから……僕はいつになく、そわそわしていた。

 非日常に誘われるような感覚に身を任せ、軽い足取りで帰り道を進む。

 浮かれたこの姿は、はたから見れば不審者か何かに思えたことだろう。


 さて、戻ってきたのは四畳半。

 狭苦しいこの部屋に寝転び、錠剤を掲げて眺めてみる。

 なるほど、先刻のは見間違いではなく、本当にピンク色に光っているようだ。

 幻想的とは言い難いネオンサインのような光だが、不思議に思えるのは間違いない。


 幸福なんていらないけれど、いらないのだが……試してみたくなった。

 包装シートから取り出し……口に含んでみる。

 錠剤は最初からなかったもののように崩れ、そして……


 独りだけど孤独なんかじゃない。

 辛くも苦しくもない。

 だから、僕は……幸せになんかならなくていい。

 ずっとずっと、そう強がっていた。


 見えたのは、知りもしない、会ったこともない家族の顔。

 何故か、見えるソレが……家族、大事な家族だと、そう認識できる。

 僕は、家族と鍋を囲んで談笑している。

 会話内容なんてわからなくて、でも、あたたかくって。

 それは知らない感覚で、きっと、きっと。

 幸せなんだろうなぁ、って。


 それが終わる頃には……僕は、幻覚も、架空の家族も、知らなかった感覚も、全て受け入れてしまっていた。

 僕は、この錠剤の虜になったとは言わないまでも……また、この幸福を味わいたいと。


 そう思ってしまったんだ。

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