ドア


 とか言って冷静を装ってはみたものの、実の所さっぱり意味が分からなかった。おもむろに飛び出してきた未踏の地に困惑を禁じ得ない。仕方もあるまい。ただ、この子の前で無様に狼狽えることは出来るだけしたくない、という見栄もこの年頃にはよくある可愛らしい感情ではないだろうか。そうであるに決まっているのではないか。分からない。とりあえずそういうことにしておこう。

 ちらりと後ろを伺うと、今さっき曲がってきた筈のブロック塀の角は消失し、レンガ塀の行き止まりとしおれた雑草が鎮座しているだけだった。

 どう考えてもおかしい。あの巨大な遊具のようななんか形容し難い鉄の塊だと思われるオブジェも、あれだけ大きければ遠くからでも見えないわけはない。しかし私達はそれを見ていなかった。別に、常に下を向いて歩いていたわけでもない。それがあるというだけで、何か非常にまずい状態に陥ってしまったのだなと察するには充分である。

 とにかく、後ろに戻れないのならば前に進むしかない。さっと通ってさっと当初のルートに戻ればなんということはない。

 この場所に終わりというものが有れば、の話だが。

 出来ればそういう恐ろしいことは考えたくない。

 この子の手を引き、とりあえず数メートル進んでみる。右の店のテラスにいる人類らしき者共も、左の店で珈琲豆に似たものを吟味している人類らしき者共も、私達に何か興味を示す素振りはない。そのままもう数メートル程進むと、大きな通りに出た。

 そこは今し方通った道よりも賑わい、ずっと先まで続いている。冷や汗がつと背中を流れた。

 目が合った途端に襲いかかって来るタイプのエネミーが居ないと分かった途端に、この子はやや堂々と歩き始める。さっきまでの挙動不審さはなんだったのだろう。可愛いのでどうでもいいことだけれど。

 見渡せばちょっとした遊園地の入り口の様で、色とりどりの風船がそこらじゅうでフワフワと浮かんだり建物に引っかかったりしているし、間隔を置いて設置されているスピーカーからは、何とも気持ち悪い音楽の挽肉団子みたいな旋律が爆音で流されている。頭痛がする。何故この雑踏はグロテスクな生肉メロディに酔わないのだろうか。

 街を構成する材質がガチャガチャなのは変わりなく、レストランやカフェテラス、雑貨店、キャンディワゴンなどが立ち並び、後はレンガ壁で厳しい風貌の、軽い気持ちで中に入ることは出来ない建物等がある。分かりやすい看板がないから、何の場所なのかすら分からない。

 デザインも種類も違う街灯や街路樹が思い思いのタイミングで立っていた。私の平衡感覚は失われつつある。

「ねえねえ、あの飴食べたい!」

「いややめとけ」

 順応が早すぎる。

「なんで? お金ならあるよ」

 なんでではない。頭が痛い。黄泉戸喫だとか、ペルセポネと柘榴の逸話だとかを御教授差し上げた方が宜しいかな? それとも、円が通用しない可能性を指摘した方がいいのだろうか。

 もちろん、食べても何の問題もない可能性も大いにある。ただ、問題のある可能性も大いにある以上、危ない橋は渡らないで欲しい。

「あ」

 今度は何だ。

「ドア」

 この子の伸ばした人差し指の先には確かにドアがあった。

 十数枚。

 何の脈絡もなく、道のど真ん中にドアだけがずらりと並んでいる。

 飴色の木製ドア、アルミドア、スチールドア、襖、障子、観音開き、引き戸、自動ドア、その他諸々。

 そのいずれもが本来あるべき後ろに続く建物がなく、空間をただ遮っているだけである。周りの人々は特に気にした風もなく、かといってドアを開けるわけでもなく、さっと避けて進んでいる。ということは私達もそれに倣えば何事もなく進めるということだ。ではそうしよう。

「注文ならぬ、扉の多い料理店ってか。がはは」

 ガラリと引き戸を開く音が響く。

 この子はそういう子だ。ここで躊躇いなくドアを開けられるのがこの子だ。そうでなくっちゃあならない。そんなわけあるか。やめろ。

 思わず睨みつけると、この子の顔からは瞬時に表情が消えた。私が睨んだからではない。その目はドアの奥に釘付けになっている。様子が変だぞと私も中を見ると、そこは病室だった。

 何故なのかは分からないが、そこは病室で、そこは病室だった。仕切りのカーテンが使われておらず、中のベッドとそこに臥している人が良く見えた。窓際のベッドだ。

 サイドテーブルには何かの同意書、ボールペン、飲みかけの水のペットボトルが置いてあった。患者は闖入者には目もくれずに窓の外を眺めている。何しろ出入り口があんな往来のど真ん中にあるのだから、こういうことにはもう慣れっこになってしまったのかもしれない。

「すいませ〜ん……」

 おっかなびっくりといった風にこの子が声を掛けるが、微動だにする様子はない。しばらくすると不審に思ったのか、ゆっくりと患者の方に歩いていく。不審さで言えば圧倒的にこちら側が有利なのだが、私もその患者はもしかしたら人形なのではないか、と思ってしまったので小声で諌めるだけになった。

 脚側を通り、窓際の顔が見える方へと回り込む。結論から言えば、患者は人間だった。瞬きもするし、胸が上下している。

 何十年も未来にタイムスリップしたならまだしも、私達の知る世界にはここまで精巧な人形、あるいはロボットやアンドロイドというものは存在しない。限りなく人形に近い人間、死体に近い人間だった。

 長い黒髪、伽藍堂の瞳。私とこの子が確かに目と鼻の先に居るのに、まるで存在していないかの様に何の反応も寄越さない。視線を辿ると、窓の外に出る。そこには向かいの病棟と、その側に植えられた数本の木があった。そのどれもが冬の風に吹かれて素っ裸になっている。その代わりとばかりに、病棟の壁のかつて木の葉があっただろう辺りにはカラースプレーで極彩色の葉の絵が描かれていた。赤、オレンジ、黄色、ピンク、青、水色、緑、黒。その下には銀色の文字に赤の囲みで「オレ様参上」とあった。患者はそれをじっと見ている。ぼんやりと見ている。食い入る様に見ている。本当は何も見ていないのかもしれない。

 思わずこの子に目配せすると、この子も私と同じ様な顔で頷いた。

 突然院内放送のチャイムが鳴り、反射的に身を竦めてしまう。

「佐藤カズオさん、採血室までお越しください。佐藤カズオさん、採血室までお越しください」

 この患者が佐藤カズオさんである可能性は限りなく低そうである。ベッドの脇のネームプレートには佐藤とは書いていない。

「それでは聴いてください。『愚かさこそが宝』」

「うん?」

 事務員さんだか看護師さんだか医師だかの不思議な宣言の後、やたらピコピコした、電子音いっぱいの音楽が爆音でかかり始める。ボーカルありなのだが、曲調に全く合わないデスボだ。サイドテーブルに乗ったペットボトルの中の水が音楽に合わせて微細に振動している。患者も振動しているが、動こうとする様子は全くない。

 薄気味悪くなり、退出を促す。この子も辟易していたのか、あっさりと首肯が返ってきた。

 病室を後にし、引き戸をしっかりと閉める。途端に音楽はぴたりと止んだ。

「……なんというか」

「うん」

「悪趣味だったね」

「そうね」

 一応、戸の後ろを確認してみるが勿論病室も向かいの病棟なんかもない。

 これはまずいことになったなあ、と改めて思う。

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