リリヰ・トリップ

菖蒲ヶ丘菖蒲

オープニング

「ああ、やんなっちゃうなあ。生きたいなあ死にたいなあ。どうしよう? 困っちゃうなあ」

 私の可愛い子は、明るく空虚にそう言った。


 私は教室に居た。この子も教室に居た。私とこの子が居るのは同じ教室である。机を挟んで向かい合っていた。この教室というのは高等学校のそれである。勿論私達が現在、ほぼ毎日通っている校舎のこと。私は学生である。この子も学生である。私達は所謂女子高生であった。

 この時点で、かなり良いのではないだろうか。何がと言うと、あらゆるもろもろの何かしらが。例えば、想像の余地などが。例えば、未来における可能性の多さなどが。

 二人はクラスメイトだ。幼馴染みとか、そういうものではない。中学校からの知り合い、あるいは友達というものでもない。高校に入学した当初から親交を深めていたというわけでもない。二年生に進級した際に改編された組で、たまたま氏名順の席が近かった為に、なんとなく会話をしたところから始まった縁である。

 私達の仲はなかなかに深い。付き合った期間を考えれば、かなり急速な深まりようだと言っても良いかもしれない。単に馬が合ったのだと説明してしまえばそれまでかもしれないけれど、しかしそれだけではないのは明白であった。

 行われるべき授業が全て終了し、大抵の生徒が用をなくした我らが四組の教室は私達以外誰も居なくて、夕方の空が窓からいっぱいに取り込まれて真っ赤だった。

 真っ赤で、それと真っ黒だった。

 電気を付けていなかった。それは億劫だったから。だから半分は夕陽の朱で、半分は黒の闇だった。この子の顔は半分しか視えなかった。

 多分、私の顔も半分しか見えなかった。

 廊下から何処かの空き教室を練習場所にしている吹奏楽部員の金管楽器とか木管楽器の音色が聞こえてくる。どうやら主旋律ではないらしいので、音楽に明るくない私には何の曲だかさっぱり分からない。さっきまで聞こえていた曲と今流れている曲が同一のものなのかすら曖昧である。

 私は授業中も継続的に使用している自分の席に座っていて、この子はその一つ前の席の椅子を拝借し、私の机に上半身を投げ出していた。自身の脳味噌を守るように、もしくは自身の縄張りを示すように頭上を腕で囲っていて、きっと瞳は何も視ていなかった。そこで先の発言が颯爽と飛び出してきたのだ。

 しかし最早いつもの事なのでいちいち気にしない。一通りのリアクションは既にこなしている。この子も別に驚くだの悲しむだの、何らかの返答を寄越すだの爪先をぴくりと震わせるだのという儀式めいた行為を求めているわけではないのだと思う。ただそういう台詞を言っていないとどうにかなってしまいそうなだけなのだ。夏、自転車のタイヤに空気を入れ過ぎて道路で唐突に破裂音を打ち鳴らしている人が居たりするが、大体そういう事なのだろう。私としても、友人がタイヤでもないのにいきなり破裂などしたらそれなりに困るので、それなりに付き合っておく事にしている。こういうのはきっと耳を持ち合わせて、言葉を理解出来る生物に対して喋る事こそが重要なのだ。私は人間であるので、その条件に於いては高い割合で合格している。

 まんじりともせず数分が過ぎる。大抵はお決まりの台詞の後、ああとかううとか意味の伴わない呻き声を上げ、それに私がほうほうそうか等の相槌を打つというのが最近の常であった。なので、どうやら様子が変だぞということに気付く。単に新しいパターンの周期に入っただけなのか、そうでないのか。イレギュラーな事態なのか、そうでないのか。

 突然、吹奏楽部員の誰かが素っ頓狂な音を出す。それまで流れていた曲が中断し、かすかに笑い声が聞こえる。明瞭でないながらも、女子生徒が大声で何かを言うのが聞こえる。

 その和やかと言っても差し支えないだろう雰囲気に、ああと思う。ああ、の後に何が続くのかは分からない。ただ、なんとなく、ああと思った。楽しそうでいいね、かもしれない。目の前のこの子はこういう有様なのに、同世代の半径数十メートル範囲内に居る人間は友達と笑ったりはしゃいだり出来るのだな、という哀愁染みた何かしらだったのかもしれない。

 音楽の再開はされず、本当に無音になった。

「ねえねえねえ、園原くん! 私と一緒に死んでみちゃったりなんかしませんか⁉︎ あっこれは絶命を前提とした心中の申し込みなんですけれどもね」

「絶ッッ対にやだ」

「え〜」

 むずかるように身体を揺らしてくる。えーではないだろう。ここで喜んで、とか不束者ですが、なんて言って了承するような奴はそう居ない。個人的にはそんな奴は全く信用ならない。土壇場でやっぱりちょっとお腹痛くて……とかなんとか理由を付けて逃げるに違いないのだ。私は激怒した。そもそもお前のような者にこの大役務まる訳がなかろうが! 身の程を知れイ! 刀の錆にしてくれる! 斬り捨て御免!

「バサリ」

「唐突な江戸」

「江戸ではないかもしれない。地理的にも時代的にも」

「慢性的に胃腸が弱いのかもしれないじゃん。決めつけは良くないよ、可哀想だよ」

「いや、絶対嘘だよ。昨日照り焼きチキンとフライドチキン食べてたの知ってるもん。後五本残ってて一日一本ずつ食べようって言ってたの知ってるもん」

「誰なの?」

 誰と言われると、私の頭の中の架空の誰かだ。

「鶏肉大好き山さん」

「誰……」

 鶏肉大好き山さんである。

 何故五本一息に食べてしまわないのかと不審に思われる方も居るかもしれないが、鶏肉大好き山さんはその類稀なる鶏肉大好きさとは裏腹に、鶏肉を食べると胃もたれしやすいという何とも悩ましい性質なのだ。残しておく分は個別に冷凍するので問題は無い。

「やっぱり胃が弱いんじゃんか!」

「今のなし、今のなし」

 うっかり会話の流れに引っ張られてしまった。

 もとい、鶏肉大好き山さんはこの子の心中のお誘いをウィットの効いたジョークか何かだと独り合点し、軽い気持ちで是と答えてしまったのだ。夕食の鶏肉を残したのも明日明後日明々後日その後何十年も自分が生きていることを微塵も疑わないが故の行動であった。好物は少しずつ食べるタイプなのかもしれない。そして次の日意気揚々と準備をしてやって来たこの子に対して、「えっ、本気で言ってたの……」と言い放つのだろう。その目は理解出来ない物を見る目。その出来事を機に鶏肉大好き山さんとこの子の仲は次第に疎遠になっていくのだった……。完。

「鶏肉大好き山さん、ひどい……」

「でしょ? でしょ? やっぱり斬っておいて良かったでしょ」

「そこまでではない……」

「そう……」

 私に出来ることといえば、与太話やら茶番やらで気を紛らわせる位しか無い。本来ならば他にも有るのだろうけれど。例えば、行きつけの精神科医を紹介するだとか。しかし生憎、私にはかかりつけの病院も医師も居ない。

「一緒に死ぬのは嫌だけど、殺すのならいいよ」

「ほんとに⁉︎」

 聞くやいなや勢いよく上半身を持ち上げて、私の目と鼻の先に迫って来た。息が混ざり合う。さっきまでと打って変わって、この子の目は金粉を塗したかの様に輝いていた。

「うん」

 しかしそれも束の間、眉を下げて視線を彷徨かせた後、しおしおと席に引っ込んで行った。忙しなく指で首の辺りを撫でたりしている。

「でも……やっぱり……、それは悪いよ。だってそしたら捕まっちゃうじゃん、園原くん。刑務所に入れられちゃうし……、申し訳ないよ、それは」

 一緒に死のうとか言った舌の根も乾かぬうちに何を言っているのだ。どういう倫理観をお持ちでらっしゃるのか。死ぬのは良くて服役は駄目なのか。

「え〜〜、でも……何年も、もしかしたらずっと出られないかもしれないんだよ? 悪いよ……」

「はあ……、つまり、捕まらなきゃいいわけ?」

「はへ」

「殺して、かつ捕まらなきゃいいんでしょ。それなら出来るけど」

 この子の目がまん丸に見開かれる。

「まじすか」

「まじすね」

 この子は暫くぽかんとした阿保みたいな表情で私を見つめ続けた。外から運動部の掛け声が微かに響いて来る。窓のすぐ側を鳥が飛んで行った。

「なにそれ……、すっげーかっくいい」

「そうだろう」

「まじすか⁉︎」

「まじです」

 私の両手をこの子の両手が包み込み、ぎゅっと握り込まれた。

「ありがとう! 本当にいいの⁉︎ やった!」

「流石に今すぐは無理だけどね」

「大丈夫っす! 何年でも待つっす!」

「そこまででもないな。数週間でいい」

 この子の瞳が羨望できらきらと光る。先程まで蝋のように白かった頬は血色がよくなっていた。現金な奴だなと思う。

「まじっすかー! 兄貴かっこよすぎるっす! 一生ついてくっす!」

「ばっか、オメー、着いて来るのはいいけどよ、ちゃんと歩めよ、自分の人生をよ」

「アニキィ!」

 私に出来ることといえば、茶番と与太話でお茶を濁すことしかない。けして出任せを言っている訳ではないのだが、真摯であるとも言い難い。

 とにかくこの子は可愛い。どんな時も可愛らしいという奇跡のような子なのだが、笑っている顔は一際可愛らしい。その笑顔を見る為に、多少の誇張や背伸びをすることを愚かだと思えど止める力は私にはない。きっと大概の人間にもない。だから、私を笑える人なんて多分ほんの一握りしか居ないのだ。

 一応の話の着地点が見えたので、この子の情緒は小康状態に入った。むしろ、やや躁ぎみである。帰ろうと思うだけの気力が湧いたようで、机の横に掛けていたバッグを手に取り、じゃあそろそろ帰ろうかと機嫌よく言った。それは数十分前に私が提案して棄却されたものだったが、この子は今とても笑顔なので、皮肉を口にすることはとても出来ない。ただ、うんとだけ返した。

 誰の姿もないが、音だけはやたらと騒がしい廊下を進む。明日の授業や課題の愚痴を垂れ流しながら階段を降りた。楽器の音が大きいのでお互いに顔を寄せながら話す。時折メロディが途切れる瞬間、それまでと同じ音量で喋ると廊下中に声が響いてばつが悪い。この子は気分がいいので大して気にならないらしい。目配せをするのだが、てんで応じてくれない。ただ可愛い。可愛いだけである。

 私もこの子も自転車通学なので駐輪場まで歩く。方向は同じではない。だからまだおしゃべりをしていたいと思うと、自然と校門前でたむろすることになる。校門を出て少し奥に進むと、学校の所有物でない小さなアイスの自動販売機がある。夏の間は生徒が休み時間毎に押し寄せて、昼には一つも残っていない場合が大抵だ。ただでさえ暑い中、暑苦しくおしくらまんじゅうをしている生徒││主に男子生徒││を掻き分けてまでアイスを買おうと思うほどのアイス大好き人間ではない。この子も同じである。ただ、一度は食べてみたいなとは考える。大きさは通常流通のものよりやや小さいが、そのぶん値段も安く学生をターゲットにしていることが察される。別に、コンビニに行けばもっと様々な種類が選び放題なのだが……、旅行先でスーベニアを買うのと似たような心理だろうか。

「折角だし、あれ食べてみたいな」

 この子がそう言うので、私は勿論了承する。この子は一番人気と推測されるチョコレート・バー、私はバニラを選んだ。夏場は売り切れでボタンが赤くなっていない時を見たことがない位だが、少しづつ涼しくなって来た今時分は客足がめっきり減ったらしい。

 ひとしきり喜んだ後、ほんの二口位でチョコレート・バーを食べきってしまう。小さいとは言え、ちょっと目を剥く行為だ。しばらくはニコニコしていたが、次第に自らの腕をさすり始める。

「寒い……」

 馬鹿である。

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