第166話 本当に好きなら

(……こいつ、マジ?)


 香奈かなまことをまじまじと凝視ぎょうししてしまった。

 あの録音を握られている状況で絡んでくるなど、正気の沙汰とは思えない。まさか、まだ自分にもチャンスがあると思っているのだろうか。


「行くぞ」


 真の手が香奈のカバンに伸びてくる。

 ——その手は横から払われた。


「香奈にちょっかいをかけないでください」

冬美ふゆみ先輩……!」


 魔の手ならぬ真の手から守ってくれたのは冬美だった。

 香奈は泣きそうになってしまった。


「おい、久東くとうっ。てめえ何真の手を払ってんだ? あぁっ?」


 オラついている広川ひろかわを、冬美は冷たく一蹴した。


「後輩を守っただけです」

「っ……!」


 広川は言葉を詰まらせた。一瞥されただけで怯えてしまっていた。

 冬美はもう用はないとばかりに真に視線を戻した。


西宮にしみや先輩。女の子の荷物を持とうとするのは結構ですが、相手の同意を得ていない場合はセクハラになりますよ。頭を撫でたり肩を叩いたりというような身体接触と同様に」

「っ……!」


 真の表情が憎悪に染まった。

 しかし、冬美は動じずに続けた。


「それに、香奈のことは私と誠治せいじで送っていくのでご心配なさらなくて大丈夫です」


 冬美がチラリと隣に立つ誠治に目を向けた。

 彼は大きくうなずいた。


「香奈も同性がいたほうが安心でしょうし、私と誠治は隣同士なので、女子が一人になる心配もありませんから」


 隙のない完璧な論理だった。

 真も反論が思いつかなかったのだろう。無言で立ち去った。


「あっ、おい、真っ」


 広川が慌てた様子で着いて行った。

 冬美はふぅ、と息を吐いた後、


「それじゃあ帰るわよ。誠治、香奈」

「おう」

「えっ、あの——」

「大丈夫よ。元々送るつもりだったもの」

「えっ、そうなんですか?」


 香奈は驚いた。

 同時に納得する。一緒に帰ろうとしてくれていたから、真のちょっかいにもすぐに対応できたのか。


「えぇ。あなたみたいなひ弱な女の子、気持ち悪いおじさんに捕まったらおしまいだもの」

「普通に心配だからって言えばいいのに——ゴフッ!」


 冬美のエルボーが誠治の鳩尾みぞおちに炸裂した。


「何か言ったかしら?」

「い、いえ、何も……」


 誠治は息も絶え絶えになっていた。

 ギリギリ心配が勝つが、彼女ら幼馴染コンビにとってはこれが日常なのだろう、と香奈は自分を納得させた。


 ——心配がギリギリしか勝っていない時点で彼女も人のことは言えないのだが。




「今日は本当にありがとうございました! お二人も気をつけて帰ってくださいね」


 マンションの前で誠治と冬美を見送った後、香奈は簡単に着替えと汗の処理だけを済ませ、マスクをして巧の家に向かった。

 彼はベッドに横になっていたが、顔色は今朝よりもだいぶマシになっていた。


「巧先輩っ、ただいま帰還しました!」

「お帰り。ありがとね、来てくれて」


 巧の目が細められた。

 口元はマスクで隠されているが、嬉しそうに笑っているのがわかる。


「いえいえ。お互い様ですよ。具合はどうですか?」

「ほとんど良くなってるんだけど、まだちょっと微熱が引かないんだよね」

「そういうときこそ休むべしですよ。多分、これからお利口さんで寝ていれば明日の朝には治ってるでしょう」

「お利口さんって、子供扱いしないでよ」

「はぅ……!」


 子供扱いするなと言いつつも、熱の影響か巧の口調はいつもより幼くなっていた。


(か、可愛すぎる……!)


 香奈は胸を押さえて悶絶した。


「香奈、大丈夫?」

「だ、大丈夫でざますよ。ウホホホホ」

「そこオホホホホじゃないんだ。ゴリラみたいになってるよ」

「ドラミングってグーじゃなくてパーでやるんですって」

「なんで知ってるの」


 巧がクスッと笑った。

 香奈も頬を緩める。大好きな人と喋っているのだから、どんな内容でも楽しい。


 しかし、あまり喋りすぎては巧の治りが遅くなる。

 そうなればイチャイチャできない期間も長くなるため、本末転倒だ。


 おしゃべりは適当なところで切り上げ、香奈は洗濯などの雑務を済ませて巧の家を辞去した。

 真のことは言わなかった。


 きっと明日には巧の体調も良くなっているだろうから、そのときに言えばいい。

 わざわざ不調なときに不快にさせる必要もないだろう。




 ——一方、幼馴染コンビの間では真が話題に上っていた。


「真さん、まだ白雪のこと諦めてなかったんだな」

「敗北を知らないからでしょうね。これまで数多の女の子から言い寄られているから、香奈の態度も都合の良いように解釈してしまっているのよ。愚かなことね」


 冬美が吐き捨てるように言った。

 誠治が苦笑した。


「結構言うよな、お前」

「だってそうでしょう。香奈が西宮先輩のことを嫌っているのなんて一目瞭然だわ」

「まあな」

「ただ、これに関しては如月きさらぎ君と香奈も悪いと思うわ」

「えっ、何でだ?」


 誠治が驚いたように足を止めた。


「西宮先輩はあまり関係ないけれど、彼らは付き合っているなら付き合っているとはっきり言うべきだし、付き合っていないならあんなにベタベタすべきではないわ。現状は二人に好意を寄せている人たちにとって非常にやりにくい状況よ。諦めるべきか否かがわからないんだもの……もっとも、最終的には二人の自由なのだけれど」


 冬美は自分を落ち着かせるようにふぅ、と息を吐いた。

 誠治はポツリとつぶやいた。


「二人が付き合ってるかどうかって、そんなに重要か?」

「どういうことかしら?」


 冬美が鋭い視線を向けた。


「本当に好きなら、誰かと付き合ってるってだけで諦められるようなもんでもねーだろ。諦めがつくのって、告白してフラれたときだけじゃね? 相手に恋人がいたから諦めました、なんてのは嘘だろ」

「……誠治にしてはいいことを言うわね、バかがりにしては」

「おい、今言い直す必要あったか?」


 誠治のツッコミに対し、冬美はふっと笑みを見せた。


「っ……!」


 彼女らしくないその反応に、誠治は息を詰まらせた。




 何やら吹っ切れたのか、それからの冬美は明らかにテンションが高かった。

 彼女のテンションが高いとどうなるのか。

 そう。誠治に対してよりスパルタになるのだ。


 縢家で一緒に夕飯を食べた後、誠治は冬美にしごかれていた。

 香奈が巧にするような卑猥ひわいなものではなく、普通に勉強を教えられていただけであるが。


「十月頭のテストがこれまでで一番悪かったわ。これがどういうことを示すのかわかる? 私が強制的にやらせなければあなたは勉強をしないということよ」

「うす……」


 冬美が留学に行っている間に勉強をおろそかにしていたのはその通りなので、誠治は何も反論できなかった。


「はぁ……あなた、私がいなくなったらどうするの? いつまでも私がつきっきりでいられるわけではないのよ?」

「……そのときは何とかする」

「具体的な案はあるのかしら?」

「ある」


 誠治は断言した。

 冬美が興味深そうに口の端を吊り上げた。


「へぇ……何かしら?」

「それは言わねえ」

「生意気ね、バ縢のくせに」


 冬美はそれ以上は追及しなかった。

 小さいころから一緒にいるのだ。誠治が嘘を吐いていないのはわかった。


(どんな策を用意しているのか、楽しみね)


 冬美は子供が巣立つのを見守る母鳥のような心境になっていた。

 ——その策に自分が巻き込まれることになるとは、このときの彼女は想像もしていなかった。

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