第96話 彼女がまたがってきた
「
夕食の片付けまで終わった後、
「何?」
「ちょっと来てください」
そう言って、彼女は自身の隣を叩いた。
巧が座ると立ち上がり、正面からまたがるようにして彼の膝の上に座った。
「っ……!」
突如として迫ってきた二つのたわわなお山に、巧はごくりと唾を飲み込んだ。
香奈が彼の頭に手を置き、毛流れに沿って撫で始めた。
体勢的に大人な想像をしてしまっていた巧は、毒気を抜かれた。
「えっと……どうしたの?」
「そういう気分なんです。嫌ですか?」
「嫌じゃないけど……」
「じゃあやらせてください」
香奈が柔らかい笑みを浮かべた。
彼女は少し前屈みになっているため、覗こうと思えば山のふもとを拝めるだろうが、巧は目を閉じて少々刺激の強い視覚情報を遮断する選択をした。
ただでさえ、好きな人が太ももの上でまたがっている状態で、その汗と甘さの混じった匂いに鼻腔をくすぐられているのだ。
これ以上官能的な気分になったら、自分を制御できる自信がなかった。
目を閉じると、より撫でられている感覚に意識が集中する。
まるでいい子いい子とでも言わんばかりの手つきは気持ちよさも覚えるが、それ以上にこそばゆい。
巧が羞恥心と戦っていると、香奈がポツリと言った。
「あんなやつらの言うことなんて、気にしなくていいですからね」
「えっ?」
巧は目を開いた。
香奈は真剣な表情だった。
「すぐに批判したがる外野のミーハーどもですよ。あいつらは巧先輩のことなんて何にもわかってないんですから、そんなやつらの言うことなんて全無視しちゃってくださいね。先輩のすごさも、努力家なところも、格好良さも、私は全部わかってますから」
香奈が内心で相当頭に来ていることは、普段よりも荒い言葉遣いからわかった。
正直なところ、巧はほとんど彼女の言う「ミーハー」の人たちからの批判は真に受けていなかった。いわゆるゾーンの状態に入ってからは聞こえてすらいなかった。
しかし、その気遣いが嬉しかった。
自分のために怒ってくれているという事実に、胸が温かくなった。
「わかってるよ、ありがとう」
巧は香奈をそっと抱き寄せた。彼女は逆らわず、巧の肩に顎を乗せた。
そのルビー色の髪の毛を撫でながら、
「でも、心配しないで。そういう人たちが何人集まろうが、香奈一人の言葉のほうが僕にとってはよっぽど大事だから」
「っ巧先輩……!」
感動したように息を詰まらせた香奈は、次の瞬間には巧の唇を奪いにきた。
「ん……んんっ……」
溢れ出た想いをぶつけるように、何度も何度も唇を押し当ててくる。
突然の猛攻に、巧は対応しきれなかった。
——否、まったく対応できなかった。
「あれれ、巧先輩。お顔が真っ赤ですよ?」
「だ、だってしょうがないじゃんっ、急にそんなにされたら……!」
「ふふ、抑えられませんでした」
お茶目に笑った香奈は、巧の首にかじりついてその耳元に口を寄せ、
「——大好きですよ、巧先輩」
「っ……!」
トドメの一撃だった。
「やめて、僕のライフはもうゼロよ……」
巧は若干オネエの混じった白旗宣言をした。
香奈がブフッと吹き出した。
どうやら変なツボに入ってしまったようで、笑い続けている。
釣られて巧も笑い出した。
二人はしばらく、笑いが収まっては顔を見合わせて吹き出す、というのを繰り返していた。
◇ ◇ ◇
——翌日、金曜日。
土曜日に行われるリーグ戦のメンバーが発表された。巧はベンチ外だった。
巧はそのプレースタイル上、味方との連携の向上は必須だ。というより、連携ができなければ使い物にならない。
そのことは彼自身が一番自覚していたため、そこまで落ち込むことはなかった。
自分でもまだ公式戦で計算できる戦力にはなれていないだろうな、と思っていたからだ。
土曜日。巧は他にもベンチ外になったメンバーとともに試合を観戦していた。
ワクワクを前面に押し出しながら一人食い入るように見つめている巧に、三年生の
「よくそんなに楽しそうにしてられるよな。ベンチ外で悔しくねえのか?」
「悔しいですよ」
巧は試合から目を離さずに答えた。
「でも、シンプルにレベルの高い試合を見ているのは楽しいですし、自分が最大限努力してそれでもダメだったなら、もうそれはそれとして受け止めるしかないじゃないですか」
「……タフだな、お前」
「木村先輩も最初は三軍からスタートしましたよね?」
「ん? おう。全員そうだからな」
「いつごろ二軍に昇格しました?」
「二年生になったくらいだ」
「二年生の夏休み始まるまで三軍のベンチだった男の精神力を舐めちゃいけませんよ」
「ははっ、それもそうか」
巧と木村は笑いあった。
「「「キャーーーー!」」」
黄色い歓声。
彼は迷わずドリブルを開始した。三人を交わしたところでディフェンスに捕まる。
普通ならボールを奪える素晴らしいタイミングの守備だったが、真は普通ではない。
相手選手よりも一瞬早くボールに触れ、その体に当てた。
ボールがコート外に出る。咲麗ボールのスローインとなった。
「あいつ、相変わらず強引だけどあれでマイボールにできちゃうんだもんなぁ」
木村が呆れたように笑った。
他の部員も似たような表情だ。
「すごいですけど、ちょっともったいないですよね」
「まあな。あいつが周りを使うようになれば、夏だって優勝できていたかもしんねえし」
木村が悔しそうに言う。
なんだかんだ言いつつ、彼も仲間には勝ってほしいのだろう。
その通りだと巧も思った。
真は
それでもピッチにいたほうがチームとして強いのだから、能力の高さというのは驚異的だ。
だからこそもったいない、と巧は思った。
しかし、そんな悠長なことは言っていられなくなった。
「——香奈、帰るぞ」
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