第四章

第86話 幸せの味

 泣き止むと同時に香奈かなが離れたため、たくみも体を起こした。

 二人で並んでソファーに腰かける。


「……正直、まだちょっと信じられません。これまでどんなにアピールしても振り向いてもらえなかったのに」

「それは本当にごめん。でも、僕は本当に香奈のことが好きだから」

「っ……!」


 息を詰める香奈を抱き寄せれば、彼女はさらに顔を赤くさせた。


「その表情、めっちゃ可愛いね」

「なっ、なっ……⁉︎」


 香奈が魚のように口をぱくぱくさせた。

 彼女は両手で顔を覆い、


「い、いきなり供給過多すぎますっ……!」

「あはは。ごめんごめん」


 巧はその頭を撫でた。

 彼女は指の隙間から巧に視線を向けて、


「……でも、なんでこのタイミングだったんですか?」

「いやまあ、お恥ずかしい話なんだけど……これまで、自分の香奈に対する気持ちがわからなかったんだ」

「はい。なんとなく、そんなことだろうなとは思ってました」

「うん……それでさ、自分だけで考えても埒が明かないと思って、さっき誠治せいじに相談してたんだよ」

「あっ、なるほど」

「それで、もしそいつが他の男と付き合うとこ想像して嫌だったら恋なんじゃないかって言われて」

「嫌だって……思ってくれたんですか?」

「すっごくね」

「そうですか……っ」


 香奈が噛みしめるように言った。

 その頬はゆるゆるだった。


「絶対に誰にも取られたくないって思った」


 巧は照れたような笑みを香奈に向けた。


「昨日、香奈は自分が重いんじゃないかって心配してたけど、多分僕も結構重いと思う」

「ふふ、いいじゃないですか。お似合いで」

「そうだね」


 巧は香奈の頭に手を置き、穏やかな表情でうなずいた。


「あ、あの、巧先輩っ……」


 香奈が上目遣いで巧を見る。ねだるような視線だった。


「何?」

「そ、そのっ……も、もう一回ギュッてしてほしいですっ!」

「っ……もちろん。何度でもするよ」


 おいで——。

 そう言って腕を広げた巧の胸に、香奈が嬉々とした表情で飛び込んだ。

 巧は華奢な、しかし触れれば柔らかい体をそっと抱きしめた。


「も、もっとギュッてしてくださいっ」

「仰せのままに」


 巧が腕に込める力を強くすれば、彼の胸に頬を寄せて、香奈が幸せそうに笑った。


「満足していただけましたか?」

「はいっ、大満足です……!」

「それはよかった。でも——」


 巧は香奈の肩をつかんで体を離れさせた。

 香奈は目をしばたいた。


「た、巧先輩?」

「僕は、まだ満足できてないかな」


 巧は彼女のつややかな唇に指を這わせた。


「っ……!」


 香奈の頬が、耳が、首までもが、グラデーションという表現すらも生ぬるいほどの勢いで真っ赤に染まっていく。

 意図は正確に伝わったようだ。

 巧はその震える両肩に手を置いた。


「いい?」

「あ、あのあのっ、えっと……!」


 香奈は逃げ道を探すように視線を彷徨さまよわせた後、一瞬だけ視線を合わせて——、

 こくんと、小さくうなずいた。


 巧は勢いよく、しかし優しく自らの唇を彼女のそれに押し当てた。

 ぷっくらとした見た目に違わず、最初に感じたのは柔らさだった。

 なんとも言えない充足感が胸のうちを満たしていく。


(あぁ、好きだな……)


 触れさせていたのはほんの一瞬だけだった。

 レモンの味はしなかった。それでも確かに幸せの味がした。


「香奈、ありがとう」

「こ、こちらこそですっ……」


 香奈がへにゃりと目元を緩めて笑った。

 感想は、聞くまでもなかった。


「もう一回、いい?」

「は、はいっ……!」


 巧は香奈の後頭部に手を回し、再びその唇を奪った。


「ん……ん……」


 何度か唇を触れさせるだけのキスを繰り返すと、香奈がどんどんふやけていく。

 限界が近そうだと判断して、巧はやめようとした。


 香奈は彼の首に腕を回して、瞳を潤ませながら、


「も、もう一回っ……」

「っ——!」


 彼女にこんな可愛くおねだりされて我慢できる男などいないだろう。

 巧はそれまでよりも少し乱暴に唇を押し付け、そのまま数秒間押し当て続けた。


 唇を離すと、力が抜けてしまったのだろう。

 香奈が巧の胸に倒れ込んできた。


「幸せです……」

「僕もだよ。愛してる、香奈」

「わ、私も愛してますっ、巧先輩」


 二人は固い抱擁ほうようを交わした。

 見つめ合い、どちらからともなく触れるだけの口付けを交わした。




 互いに気恥ずかしさは感じていたが、巧も香奈もお互いのそばから離れようとしなかった。

 むしろ飼い主とくっついていたがる犬のように、体を密着させていた。


 香奈がぴたりと体を寄せるように座れば、巧がその肩を抱き、頭に頬を寄せた。

 そのままの体勢で、二人は話をしていた。


「今後はどうする? もうみんなの前でも名前呼びにして、聞かれたら答えるみたいなスタンスにする?」

「うーん……でも、自分で言うのもアレですけど、絶対に巧先輩にやっかみ飛んできますよね」

「それは間違いないけど、仕方ないよ。これだけ可愛い女の子を彼女にするんだから」

「はぅ……!」


 巧が香奈の頬に触れながらそう言うと、途端に香奈が頬を赤らめた。


「な、なんかチャラくないですか?」

「わりと自然体なんだけどね。控えてほしいならそうするけど?」

「……わかってるくせに」


 香奈はジトっと巧を睨んだ。


「あはは、ごめん。でも、覚悟はできてるからそこは全然気にしなくていいよ」

「はい、ありがとうございます……ただ、それにしても今は隠しておいたほうが良くないですか? お互い、一軍昇格に関して色々あることないこと噂されてる今の状態で付き合ったって知られるのは、ちょっと面倒になりそうな気もするんです」

「あー……まあ、それはあるね」


 巧はうまく取り入っただの、香奈は監督やキャプテンを誘惑しただの、果ては巧は香奈と仲よいから彼女のついでに昇格したなんてものまで、実に多種多様な噂が流れている。


「私もそうですけど、一軍昇格したばっかで巧先輩も色々大変じゃないですか。単純な練習の強度もそうですし、周りの選手は化け物揃いだし……先輩にはサッカーに集中してほしいので、しばらくは隠す方向でいきませんか?」

「うん……そうだね。ありがとう。気を遣ってくれて」

「いえ、マネージャーが選手のメンタルを悪くする原因になっちゃいけませんから。あっ、でも、勘違いしないでくださいね? 決してみんなにバレたくないとか、そういうことじゃありませんから!」


 香奈が慌てたように付け加えた。


「うん。僕のことを考えてくれてるだけなのはわかってるから」

「はい……でも、ちょっと不安です。一軍に昇格したことで巧先輩の注目度も上がってますし、先輩の魅力に気づいちゃう人が出てくるんじゃないかって……」

「大丈夫だよ。僕が香奈以外を見ることはないから」


 巧は香奈を抱きしめた。


「……今まで全然見てくれなかったのに?」

「うっ……そう言われると言い返せないけど、多分、結構前から香奈のこと好きだったと思う。武岡たけおか先輩に退部しろって言われる前から、香奈の笑顔に元気もらってたから。それに——」


 巧は香奈の頭に手を乗せた。


「こんなに可愛い女の子にあれだけなつかれてたら、誰でもとりこになっちゃうよ」

「なっ……⁉︎ や、やっぱりチャラい!」

「だって、香奈が不安になるのは僕のこれまでの曖昧な態度が原因でしょ? だったら僕にはそれを取り除く義務があるからね。少しでも不安になったら、溜め込まないで言ってね? 絶対に安心させるから」

「っ……あぁ、もう〜!」


 香奈がやり場のない感情を発散するかのように叫んだ。

 何度か見てきた光景だ。

 今までは自分が何か気に障るようなことを言ってしまったのかと気を揉んでいたが、今なら彼女の心境が手に取るようにわかる。


「これまでも、そうやって悶えてくれてたんだね」

「そ、そうですよっ、巧先輩は全然振り向いてくれないくせに無自覚に乙女心を乱しまくってたんですから!」

「それは申し訳ない」

「……本当に申し訳ないって思ってます?」

「思ってるよ、これは本気で」


 ジト目で睨んでくる香奈に対して、巧はこくこくうなずいた。


「本当に悪いと思ってるなら——」


 香奈が巧の太ももに手を置き、ニヤリと笑った。


「少しくらいは、やり返してもいいですよね?」

「……お、お手柔らかにお願いしますっ……」


 これまでの自分の曖昧な態度に罪悪感を覚えていた巧には、断るという選択肢は残されていなかった。

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