第65話 覚悟しててください
帰宅してから十分後、インターホンが鳴った。
「こんばんは。夜遅くにすみません」
「全然気にしないで」
アイドル顔負けの
(今日は朝からハイテンションだったし、家族で出かけていたはずだけど、どうしたんだろう?)
巧の中で不安と心配が募った。
並んでソファーに腰掛ける。香奈の表情は強張っていた。
「巧先輩」
「何?」
巧は香奈を見た。二つの紅玉は不安げに揺れていた。
彼女は一度視線を逸らしてから、意を決したように巧を見つめて、
「気になる人ができたなら、正直に言ってください。邪魔者になりたくはないですし、登下校だって全然一人で大丈夫ですから」
「えっと……いきなりどうしたの?」
意図がつかめず、巧は聞き返した。
「見ちゃったんですよ。今日、まるで恋人同士みたいに、
「えっ、もしかして香奈もいたの?」
「はい、家族でそのカフェに行ったんです。帰るときに、車の中からお二人の姿が見えました」
「そっか……」
なるほど。車に乗っていたなら、これほど目立つ赤髪が視界に映らなくても仕方ないだろう。
「で、どうなんですか?」
香奈が巧の顔を覗き込んだ。
「巧先輩も気になってるんじゃないですか? 玲子先輩は綺麗だし、頭もいいし、クールで格好いいし」
「魅力的な女性だとは思うよ。けど、彼女とはそんな関係じゃないから」
断ったときの玲子のショックを受けた表情。悲しそうな笑み。そして、震えていた体と声。
それらを思い出して、巧は視線を落とした。
——その気落ちした様子は、香奈に真実を悟らせるには十分だった。
(玲子先輩のこと、振ったんだ……)
そうでなければ、彼がこんな自分を責めるような、苦しそうな表情を浮かべるはずがない。
(まだ、手遅れじゃなかったんだ)
玲子のことだって大好きなのに、どこか安堵している自分を見つけて、香奈は自己嫌悪に駆られた。
「……じゃあ、私を家に入れてる限り、巧先輩は意中の人もいなければ彼女の一人もいない非リアってことでいいんですか?」
重くなった自分の気持ちとその場の雰囲気を明るくさせるために、香奈はわざと揶揄うように言った。
「そうだね。けどそんなこと言ったら香奈だって、僕の家に来ているってことは、ボーイフレンドの一人もいないぼっちってことになるけど?」
「……やめましょう、傷を舐め合うのは」
「だね。アイスでも舐めよっか」
「んだ」
巧がカップアイスを二つ持ってくる。
それを味わいながら、香奈はこのままじゃダメだぞ、と自分を叱責した。
(これじゃ、まさに甘えん坊の後輩そのものだ。玲子先輩はデートに誘って告白までした。他にも巧先輩の魅力に気づいている人だっているかもしれない。私も攻めないとっ……)
アイスを食べ終わったところで、香奈は意を決して話しかけた。
「そ、そういえば巧先輩」
「ん?」
「別に、先輩の家に来ていることと恋人ができないことは、必ずしもイコールじゃありませんから——お互いに」
香奈は別に、彼氏ができても巧の家にお邪魔する、などという不誠実な宣言をしているわけではない。
——そのことは、さすがに巧にもわかった。
同時に彼は思った。今の香奈の発言は一線を超えていると。
「香奈、それは普通にアウト——」
「巧先輩。やめてくれませんか、それ」
「えっ?」
「アウトとかセーフとか。それって結局、私のことをただの後輩としか見てないってことですよね?」
「っ……」
巧は息を呑んだ。
食べかけのアイスのカップを持ったまま呆然とする彼を残して、香奈は自分のカップとスプーンを流しに持っていった。
それらを洗い終え、リビングの扉を引いたところで、彼女は真っ赤な顔で振り返り、
「——覚悟しててください。ただの後輩だと舐めてると、痛い目見ますから」
ビシッと巧に指を突きつけ、逃げるように玄関を出て行った。
巧はしばし、香奈が出て行った後に鍵をかけるのも忘れて、座ったまま呆然としていた。
「えっ…………そういうこと?」
(香奈が、僕を? えっ、でもあり得なくない? 香奈ほどの女の子なら、僕よりも格好いい人なんていくらでも狙えるだろうし……)
巧が香奈の好意を自覚しきれない要因の一つ。それは、周囲のレベルの高さだった。
劣等感というほど大袈裟なものではないが、特に女子からの恋愛対象という側面で、彼は周りの男子に比べて自分が勝っているとはこれっぽっちも思っていなかった。
巧も自分が不細工で面白みのないやつだとまでは思っていないが、彼らと肩を並べられるとも思っていない。
自分を卑下しているわけではなく、あくまで客観的な視点に基づいた評価だ。
その自己評価は間違っていない。
本命チョコの数も告白された回数も、女子会で名前が上がる頻度も、巧は友人たちに比べて少ない。
というより、告白されたのは玲子が初めてだった。
自分よりも魅力的な男子は多いと考えているからこそ、彼はこれまで香奈からの好意はあくまで後輩から先輩に対するものであり、恋愛的なものではないと信じて疑っていなかった。
しかし、先程の宣言を受けてしまえば、いやでもその可能性は見えてくる。
彼女が巧に好意を寄せていると考えれば、これまでの不可解な行動や機嫌の乱高下にも説明がつく。
「……やばい。わけわかんなくなってきた」
香奈が自分を好きになるはずがないという所感と、その可能性を検討せざるを得ない事象の間で、巧はしばし頭を悩ませた。
——そんな一定の戦果を上げた香奈は、
「痛い目見ますからってなんだ……!」
なぜもっと可愛く言えなかったのかと、自分を責めていた。
そしてそれが終わると、自分の言葉がもはや告白まがいだったことに気づき、悶えて転げ回った。
様々な感情が渦巻き、処理しきれなくなった彼女は、半ば無意識に親友のあかりに電話をした。自分の行動、言動をつぶさに報告した。
もちろん、玲子が彼に告白をしたことなどは伏せたが。
『すごいよ、香奈。やればできるじゃん』
それが、事情を聞き終えたあかりの第一声だった。
「で、でもっ、告白まがいのこと言っちゃったしっ……」
『それの何が悪いの?』
「えっ?」
『
「こっ……⁉︎」
香奈の頬がぽっとピンク色に染まった。
機械越しにそれが見えているかのように、あかりがクスクスと笑った。
『そんなに絶句する選択肢じゃないでしょ。人間って自分を好きな相手を好きになる性質があるっていうし、そもそも自分で言ったように、香奈の宣言の内容もはや告白と同義だし。もし明日からも如月先輩がこれまで通り、一緒に登下校してくれたり家にあげてくれたりしたなら、勝算は十分にあると思う』
「そうかなぁ。いけるかなぁ……?」
『いけるって。さすがにどんな朴念仁でもその宣言を曲解はできないと思うから、これからはどんどん攻めてもっともっと意識させれていけばいいんだよ。というより、これで香奈がまた甘えん坊の後輩ムーブしたら、如月先輩もやっぱり香奈は自分のことを好きじゃないのかもって考え直すと思うよ』
「……たしかに」
香奈はこれまで巧に、マネージャーとして頑張っているだけなのに部員に好意を持っていると勘違いされることについて愚痴ったり、家に一人でいる寂しさを伝えてきた。
だからこそ、巧も香奈のアピールをすべて後輩から先輩への親愛としか受け取ってこなかったのだろう。
「……うん。あかりの言う通りだ。先輩との関係を進めたいなら、やっぱり今攻めるしかないよね」
『そう、その意気だよ。大丈夫。香奈より可愛い女の子なんていないんだから、あとは積極性だけだって』
「そ、そんなことないって! そんなこと言われたらあかりに惚れちゃうよ?」
『いいよ別に。受け止めてあげる』
「無駄に男前!」
『任せて——まあ、それはそれとして』
あかりが口調を改めた。
『香奈も今みたいなことを言っちゃえばいいんじゃない?』
「今みたいなことって?」
『先輩より格好いい男の人なんていませんって』
「なっ……⁉︎」
香奈は実際に自分が彼に言うところを想像して、再び真っ赤になった。
「……つ、付き合えたら言うかも」
『ヘタレ』
「う、うるさい! 見てろよ〜、私がヘタレじゃないってこと、見せつけてやるからっ!」
『うん、次の電話が愚痴じゃなくて吉報であることを祈ってるよ。それじゃあ、そろそろ切っていい? 明日早くってさ』
「あっ、ご、ごめん! あかり忙しいのに、ダラダラ話しちゃって」
香奈は自分勝手な行動を恥じた。
『香奈、私と話して前に進めた?』
「えっ? うん、もちろん!」
『なら許してあげる』
「あかり……!」
『何感動してんの』
あかりが含み笑いをした。
「いや……私の親友カッコ良すぎると思って」
『もし如月先輩がダメだったら私が彼氏になってあげるから、アホなこと言ってないでさっさと攻略法考えな』
「やっぱり男前! 忙しい中ありがとね、今度なんか奢るよ」
『いちごのぎょうさん乗った特大パフェ以外は認めません』
「うっ……わ、わかったよ」
『ふふ、ありがと。それじゃ、またね。おやすみ』
「うん、おやすみ〜」
三秒ほど待ってから電話を切る。
黒くなった携帯に向かって、香奈は言った。
「もし巧先輩と付き合えたら、特大パフェでもなんでも何個でも奢ってあげよ」
あかりに相談していなければどうなっていたかわからないため、それくらいの出費は当然だろう。
「でも、まずは明日。巧先輩がこれまで通り受け入れてくれることが第一関門だよね……いや、大丈夫。大丈夫だよ、香奈」
大丈夫大丈夫、と繰り返し自分に言い聞かせながら、香奈は床に就いた。
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