第57話 美少女後輩マネージャーが妹になった?

 おそらく学校に置きっぱなしのものがあるとはいえ、他にも宿題は残っている。

 それらを取りに家に帰った香奈かなは、


「うぁ〜……!」


 玄関先で頭を抱えて転げ回っていた。


(だ、抱きついちゃった! 抱きついちゃったんだけど⁉︎)


 これまでにも抱きついたことはあったが、それらはどちらかといえば泣きついたというべきものだった。

 今回のような、心が弱っていたからという言い訳もできないケースは初めてだ。


 たくみはアキと華子はなこの誘惑に負けなかった——どころか揺らぎもしなかった——理由として、香奈のいわれのない悪口を言っていたから、そして彼女の体調を崩させる原因になったからだと言っていた。

 それがどうしようもなく嬉しくて、自分でも気がつかないうちに背後から抱きしめてしまっていた。


(巧先輩もいつもと少し反応違ったし、さすがにバレかけてはいるのかな)


「うわっ、恥ずかしっ……!」


 香奈の顔は発火するのではないかと思うほど赤くなった。


「ん、でも待てよ……?」


 もし彼女の気持ちに気づいているにも関わらず、巧が宿題を手伝ってもいいと言ってくれているのなら、逆に可能性はあるのではないだろうか。


(だってさ、ナシな相手から抱きつかれたら、普通はもうその後の接触は拒否るよね。も、もしかして巧先輩もちょっとは意識してくれてるのかなっ? 前に不可抗力でお尻押し付けちゃったときは勃起してたし、もしかするとさっきもおっぱい押し当てちゃってたし……って、ダメダメそんなこと考えちゃ!)


 香奈はブンブンと首を振って、邪念じゃねんを追い出そうとした。


「ダメだよ、香奈。今から宿題を手伝ってもらうんだから。そんな妄想してたら巧先輩に失礼だからねっ」


 香奈は鏡の自分にビシッと指を突きつけた。


「……」


 一人でそんなことをしている恥ずかしさも相まって、少しは落ち着いた——はずだった。


「どこがわからないの?」


(ムリムリムリ! 巧先輩の顔がこんな近くに……!)


 ワークを覗き込んでくる巧に対して、香奈は最高潮にテンパっていた。

 ちょうど顔の距離感が先程抱きついたときのそれと似通っていたため、どうしても脳内をよぎってしまうのだ。


(横顔も綺麗だったし、めっちゃいい匂いだった——)


「香奈?」

「は、はひっ! ……あっ」


(はひってなんだ、私のバカ!)


「はひ……? えっと、大丈夫?」

「だ、大丈夫ですっ!」


 ——そんなわけがなかった。

 巧が懇切丁寧に教えてくれても、意識の半分以上が彼の発する内容より、彼自身にいってしまう。


 そんな状態で理解できるはずもなく、さすがに申し訳なくなって自ら中断を申し出ようかとも考えていたが、意外なところに突破口はあった。


「解き方を簡単にまとめると、こんな感じかな」

「はい、ありがとうございます……あの、巧先輩。非常に申し訳ないんですけど……」

「何?」

「これ、なんて書いてあるんですか……?」


 そう。巧は意外に文字が汚かったのだ。

 特に走り書きをした部分はひどく、香奈には解読不可能だった。


 実は、何が書いてあるのか聞くのはこれが初めてではなかった。

 だから香奈もとても申し訳なく感じているのだ。


 そして、そう何度も聞かれれば、直接言われなくとも自分の字が汚いのだということには誰でも気づく。

 もちろん巧も例外ではなかった。


「よしっ、香奈。これからは僕の言ったこと全部メモして。僕もう絶対に字書かないから」

「あっ、でもそんなにめっちゃ汚いわけじゃ——」

「うるさい。もう決めたの」

「……ぷっ、あはははは!」


 すっかり拗ねてしまっている様子の巧を見て、香奈は笑いを堪えられなかった。

 彼は不機嫌そうに、そして恥ずかしそうに目を逸らす。

 それすらも、香奈には笑いの着火剤にしかならなかった。


 一度笑ったのが気分転換になったのか、それ以降、香奈は集中して勉強に取り組むことができた。




◇ ◇ ◇




 翌日、アキと華子が退部したと、二軍監督から通達があった。

 何も知らない部員たちは当然驚いていたが、巧はまあそうだろうな、という程度の感想しか抱かなかった。

 彼女たちのような無駄にプライドの高い者たちが、弱みを握られたまま居残るとは思えなかった。


 その日の部活終わり、例のごとくシャワーを浴びた後に巧の家にやってきた香奈は、いつも以上に疲れている様子だった。


「あ〜……」

「お疲れ。マネージャーが一気に半数になったら、そりゃ大変だよね」

「はい……でも、精神的にはすごい楽になりましたよ」


 香奈が机に突っ伏しつつ、笑みを見せた。


「ありがとうございます、巧先輩」

「あの二人がただ自爆しただけだけどね」

「いえいえ、先輩が録音という機転を効かせたおかげですよ。まさに妙な手口でしたね」

「犯罪者みたいに言わないでもらっていい?」

「はーい……」


 香奈が弱々しく両手を上げた。


「まあそんなわけで、肉体的な疲労はたしかに増しましたけど、今日は今までよりも充実した時間を過ごせました。かえで先輩はいっぱい褒めてくれるし」

「香奈が頑張ってるから褒めてくれるんだよ」

「えっ、私ちゃんと頑張ってるように見えます?」

「見える見える。いつもすごいしありがたいなーって思ってるよ」

「えへへ〜、ありがとうございます!」


 香奈は目元をへにゃりと緩ませて笑った後、巧を手で示して、


「褒めてくれたお礼に、巧先輩にはいい子な私の頭を撫でる権利を贈呈しましょう」

「意訳すると?」

「……ちょ、直接言うのは恥ずかしいです! びしょハラですっ、びしょハラ!」

「おっ、久しぶりのびしょハラだ」

「感動してないで、そのっ、あのっ……」

「わかったよ」


 巧が近づくと、香奈が上体を起こした。


「別にいいよ? 突っ伏してても」

「いえ、さすがにそれは私のズキがムネムネしますから」

「変なところでいい子だよね」

「だって私、おちゃらけているように見せて礼儀正しさも持ち合わせていますから!」


 香奈が親指を立ててニンマリと笑った。


「やめよっか。あのときの僕の言葉を復唱するの」


 あのときとは、香奈が熱を出して弱っていたときのことだ。


「えっ……もしかしてあの言葉、全部嘘だったんですか……?」

「へぇ、僕がああいう場面で嘘つくような男だと思ってたんだ?」

「ぐっ」


 香奈が言葉を詰まらせた。

 彼女はふっと笑った。


「……負けを認めましょう。今の返しはうまかったです」

「素直な子は嫌いじゃないよ」

「巧先輩こそ素直じゃないですね。楓先輩はそういうとき『素直な子は好きですよ』って言ってくれるのに」


 香奈が不満そうに唇を尖らせた。

 巧は苦笑した。


「好きだね、篠塚しのづか先輩」

「だってめっちゃいい人なんですもん。あー、あんな人が姉に欲しい人生でした……先輩もそう思いません?」

「そうだね。相談とかすごく真面目に聞いてくれそう」

「わかります! えっ、先輩は上と下、どっちがいいですか? あっ、エッチな意味じゃありませんよ?」

「考えもしなかったよ。うーん……下かな」

「えっ、下香奈? それはつまり、私みたいな妹がほしいってことですか⁉︎」


 鼻息を荒くする香奈を、巧はじっと見つめた。

 彼女の頬が徐々に赤くなっていく。


「あ、あのっ、せめて何か言ってほしいんですけどっ……」

「いや……そう思うと、僕たちの関係ってちょうど兄妹っぽいんじゃないかなって思ってさ」


 今だって頭を撫でているし、一緒にゲームをしたりサッカーの映像を見たり、くすぐられたり勉強を教えたりと、どちらかといえば先輩後輩よりも兄妹に近い気がした。

 香奈も同感だったらしい。


「い、言われてみればっ……じゃ、じゃあ巧先輩っ、これから私のお兄ちゃんになってください!」

「えっ? うん?」

「なんで疑問系なんですか」


 香奈が吹き出した。


「だって、後輩にお兄ちゃんになってくださいって言われるとか意味わかんないじゃん」

「まあまあまあ細かいことは気にしないでって」


 香奈がyeah、と決めポーズをした。


「それはSnow Manでしょ。今、真夏だけどね」

「いいんですよ——お兄ちゃん」

「……あっ、呼び方も変えるんだ?」

「いえ、可愛い女の子にお兄ちゃん呼びされるのが男のロマンだって聞いたことがあったので。どうでした?」

「うーん、違和感すごいから今まで通りでいいかな」

「わかりました!」


 香奈が突っ込んでこないことに、巧は安堵した。

 正直、一人っ子で兄姉よりは弟妹がほしいタイプの彼としては、香奈からの「お兄ちゃん」呼びは少しだけクるものがあった。

 ただ、それを悟られるわけにはいかない。


(だって多分、香奈は僕に「好きに甘えられる存在」を求めているんだろうから)


 香奈の突然の兄妹提案を、巧はそう解釈していた。

 彼女はずっと、兄のように甘えられる存在を求めていたのだろう。

 そう考えれば、昨日抱きついてきたのも納得がいく。


(よかったー……変な勘違いしなくて)


 巧は気恥ずかしさを覚えつつ、「香奈がもしかしたら自分のことを異性として好きなのかも」という選択肢を脳内から消去した。

 そして新たに「香奈は自分に兄のように甘えられる存在を求めている説」を登録した。


 ——ピコン。

 巧の携帯が鳴った。


「巧先輩、女の人からラインです〜」

「それはわかんないでしょ」


 巧はラインを開いた。女性——玲子れいこからだった。

 明日、一緒に映画を見に行くことについてだ。


「女の人でした?」

「女の人だった」

「えっ、まさかエッチな画像を送らせてたり……⁉︎」

「僕をなんだと思ってるの」

「でも、前に友達が巧先輩のことを『ああいう人が裏では女の子を調教してエッチな自撮りを送らせてるんだ』って言ってましたよ?」

「えっ、嘘でしょ?」


 巧は愕然がくぜんとした。


「嘘です——」

「よかった」

「——半分は」

「えっ」


 巧は口を半開きにして香奈を見た。


「……半分は?」

「はい。ああいう人が女の子を調教して、までは本当に言ってました」


 香奈がクスクス笑った。


「ちゃんと否定しといてね」

「大丈夫ですっ、どもりながら否定しておきましたよ!」

「おい」


 巧がいつもより荒々しくツッコミを入れると、香奈が「やっぱり巧先輩は面白いです」と、くつくつと笑った。

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