第39話 美少女後輩マネージャーに頭を撫でられた

「どうしたの? 忘れ物?」

「まあまあ」


 たくみが探りを入れても、香奈かなは答えを濁すのみだ。


(香奈はおちゃらけているように見せて常識人だし、すでに時刻は九時半を回っている今、ただの暇つぶしで来るとは思えないけど……)


 何かしらの意図があるのだろうと思いつつ、巧は香奈を自宅に招き入れた。


「巧先輩——」


 香奈がソファーに座り、自らの隣をポンポンと叩いた。

 言われるがままに座った巧の頭を撫で始める。


「えっと……香奈? これは?」

「私がしたいので。嫌だったらやめますけど」

「嫌じゃないけど……」


 困惑していた巧は、間もなくして彼女の狙いに気づいた。

 母のことを思い出して涙した巧を慰めてくれているのだ。


「……ありがとね、香奈」

「いつも私がしてもらってますから」


 香奈がふんわりと微笑んだ。

 後輩の女の子に頭を撫でて慰められるというのは、もちろんこそばゆい。

 ただそれ以上に、彼女の気遣いが嬉しかった。


 優しい手つきで撫でられていると、巧は次第に眠気を覚え始めた。まぶたが重い。


(ダメだ。いつも彼女に言っている手前、僕が寝るわけには……)


 必死に抗おうとするが、なぜか巧は香奈に「手を止めて」と言えなかった。

 だんだんと思考も視界もぼやけてくる。


(……まあ、自分の家だしいいか……)


 そう思った瞬間、巧の意識は途切れた。




 香奈が巧が寝入ったことに気づいたのは、少し経ってからだった。


「……あれ、巧先輩?」


(えっ……まさか寝ちゃった?)


 香奈が頭を撫でる手を止めても、彼は何も反応しない。

 薄く開けられた口からは、すぅすぅと寝息が漏れている。

 寝顔はいつもよりずいぶんと幼い。


「か、可愛い……!」


 香奈は悶絶して転げ回りたい衝動を必死に堪えた。

 巧から視線を切って深呼吸をすると、少し冷静さが戻ってくる。


武岡あのゴリラとのいざこざが一段落したとはいえ、日中は遊んで夜は他人の家にいれば、疲れるのは当たり前か……)


 香奈は無理させちゃったかな、と反省した。

 脳裏に、らんの味噌汁を飲んで、亡き母の味だと涙した巧が映し出される。


(そりゃ、一日二日とか一週間じゃなくて、もう永遠に会えないんだからめっちゃ寂しいよね……)


 もしも両親のどちらか片方でも他界しようものなら、香奈は一晩中泣き続ける自信がある。

 実際、少し想像しただけで大泣きしてしまった。


(しかも巧先輩は、毎日一人なわけだし……)


 絶対に夜には両親が帰ってくるとわかっている香奈だって、一人でいるのは寂しい。

 巧の家に入り浸ってしまっているのは、単純に彼に好意を寄せているからというのもあるが、寂しさを紛らわせられるから、というのも大きかった。


(ちょくちょくお父さんと連絡は取り合ってるみたいだけど……巧先輩が私を歓迎してくれてるのも、実は寂しいからなのかも。だったら、私がそれをを埋めてあげたいな)


 これまでは甘えてばかりだったが、これからは自分も巧を支えたい——。

 弱った彼を見て、香奈は強くそう思った。


 そんな彼女の決意などつゆ知らず、巧は相変わらず規則正しい寝息を立てている。

 ソファーに寝かせて布団をかけてあげようかとも考えたが、それでは体の疲労は取れないだろう、と香奈は思い直した。マネージャーとして、選手の体調管理には気を遣わなければ。


「た——」


 声をかけようとして、ふと思いとどまった。


(でも待って。巧先輩がこれだけ無防備なことって、もう一生ないかもだよね……?)


 そう思うと、このまま起こしてしまうのは少しもったいない気がした。

 落書きなどをしようとは思わない。香奈の頭に浮かんだ行動は一つだけだった。


(か、体はさすがにダメでも、頭くらいならいいよね? ま、前に巧先輩が起きてる状態でも嗅いだし!)


 目の前にご馳走がある中、湧き上がった匂いフェチとしての衝動を抑えることは不可能だった。

 香奈は巧が寝ていることを入念に確認してから、その頭に鼻を近づけ、音を立てないようにそっと匂いを嗅いだ。


(やっぱり落ち着く……)


 肺に空気が入っていく、という意味だけではなく、精神的に胸が満たされる。

 もちろんすでに風呂に入っているからというのはあるだろうが、いつどのタイミングでも、香奈は巧を臭いと思ったことはない。


 彼の着ていたユニフォームを預かったときや部活中に近くを通ったときに、バレない程度に鼻をひくつかせてしまうこともあるが、たとえ汗の匂いだったとしても不快にはならないのだ。


(匂いが好きな相手とは体の相性いいとは聞くけど……って、な、何考えてんの私⁉︎)


 香奈は赤くなった顔をブンブン横に振った。

 恋人にもなってないのに、考えが飛躍しすぎだろう。


(……うん、さっさと起こそう)


 これ以上自分を自由にさせておくのは危険だと判断し、香奈は巧を起こしにかかった。


「巧せんぱーい、起きてくださいーい」

「う……ん」


 手をメガホンのようにして声をかけるが、巧は喉を鳴らすのみだ。


「よ、よし……寝ちゃう巧先輩が悪いんですからね」


 そう言い訳じみた言葉を口にして、香奈は巧の脇の下に手を添え、高速で動かした。


「起きてください巧先輩ー」

「っ……⁉︎ ちょ、な、なにっ……!」


 巧が意味のある言葉を発したところで手を止め、にっこりと微笑みかける。


「おはようございます、巧先輩! と言っても夜ですけどね」

「あー……もしかして寝ちゃってた?」

「はい、ぐっすり。なのでくすぐらせていただきましたっ」

「そっか……いつも注意してるのに、僕が寝ちゃってごめん」


 巧は申し訳なさそうに頭を掻いた。

 いつもは香奈が謝ってばかりなので、なんだか新鮮だ。


「いえいえ、このナデナデ検定一級の香奈様が相手なのですから、仕方ないと思いますよ。そもそもここ、巧先輩のお家ですし」

「まあ、そうだけど……ごめんね。起こしてくれてありがとう」

「い、いえ、今回だけは特別に許して差し上げます」


 巧からの純粋なお礼に対し、香奈は若干の居心地の悪さと罪悪感を覚えた。

 実は起こす前に匂いを嗅がせていただきました、なんて、口が裂けても言えなかった。

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